73.広島城 その1

2026年3月22日に広島城天守が閉城になってしまうということです。最初、「城が閉城」かと勘違いしてどういうことかと思いましたが、天守建物の耐久性の問題で、その日以降、入館ができなくなるという意味でした。その閉城前に是非行ってみたいと思い、まず城の歴史を調べてみることにします。今の天守の建物がどうなってしまうのかも併せてチェックしました。

立地と歴史

Introduction

2026年3月22日に広島城天守が閉城になってしまうということです。最初、「城が閉城」かと勘違いしてどういうことかと思いましたが、天守建物の耐久性の問題で、その日以降、入館ができなくなるという意味でした。その閉城前に是非行ってみたいと思い、まず城の歴史を調べてみることにしました。今の天守の建物がどうなってしまうのかも併せてチェックしました。

広島城天守

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

毛利輝元による築城

戦国時代、有名な毛利元就によって、中国地方の覇者となった毛利氏は、天下人・豊臣秀吉の傘下に入り、大大名の地位を維持していました。その本拠地は、元就の孫・輝元の時代になっても、山城の吉田郡山城のままで、輝元もその改修を続けていました。

「郡山全図」、山口県文書館蔵、現地説明板より


1588年(天正16年)、その方針が覆される出来事が起こりました。輝元自身が初めて上洛し、秀吉に臣下の礼をとることになったのです。これは毛利家にとって一大決心で、その是非について異論もあったそうです。輝元本人も相当緊張し、秀吉を知る小早川隆景・吉川広家に伴われた旅でした。一行は、船200艘・総勢3千人に及びました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


ところが、畿内に入ると、秀吉配下の黒田官兵衛、弟の豊臣秀長などから、予想外の丁重なもてなしを受け、京都の聚楽第で秀吉に謁見後は、いきなり参議に任じられ、貴族身分になったのです(下記補足1)。一方、同じ時期に関東の北条氏も上洛しましたが、当主の氏政ではなく、弟の氏規でした。氏規は、自分だけ無位無官の姿で秀吉に謁見し、嘲りを受ける結果になりました。輝元の上洛は大成功に終わったのです。その中でも、秀吉の名代という立場の、後の小早川秀秋、豊臣秀俊(金吾)と対面する場面もあり、後の毛利氏の運命をも暗示するものでした。輝元は名所旧跡も訪ね、帰りには秀吉の案内で大坂城も見学しました(下記補足2)。これらの経験が、新たな城・新たな城下町建設の直接の動機になったと考えられます。

(補足1)上卿 勧修寺大納言
天正十六年七月二十五日 宣旨
 従四位下豊臣輝元
  宜しく参議に任ずべし
   蔵人頭左近衛権中将藤原慶親奉ず(「毛利家文書」)

(補足2)此の時天守を見せ参らせられ候。関白様が御案内なされ候。小女房達三人召連れられ候。此の内一人は御腰物を御持たせ候。(略)金の間、銀の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重なり。御供の衆にまで、悉く見せ候。(「輝元公上洛日記」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その新たな地として選ばれたのが、太田川下流域のデルタ地帯で、当時は「五ヶ村」と呼ばれていました。元就時代から干拓が進められていました。翌年(1589年)、輝元は現地に赴き、築城を開始したとされますが、帰国直後から指示を出していました(下記補足3)。その頃に「広島」の地名も初めて現れますが、輝元が名付けたとも言われています(下記補足4)。

(補足3)
「佐東御普請、改候ハゝ定而可被仰付候」
(天正16年12月18日 井原元尚宛二宮就辰書状、井原家文書145)

(補足4)
「佐東広嶋之堀普請申付候条、頓上国候て一廉馳走肝要候、不可有緩候、元清普請奉行ニ申付候条、可申談候也」(毛利輝元が井原元尚に、「佐東広島」の「堀普請」のため速やかに安芸に移動し、普請奉行の毛利(穂井田)元清と相談して工事を進めるよう命じている)
(天正17年7月17日 井原元尚宛毛利輝元書状、井原家文書85)

築城当時の推定海岸線(赤線)、OpenStreetMapに加筆

広島の地名の由来にはいくつか説があります。
・人名説:毛利氏の祖・大江広元の「広」+在地の領主・福島元長の「島」
・地形説:デルタ地帯で最も広い島に築城したため
・元来説:元々そういう地名があった
はっきりと確定することはできないかもしれませんが、築城時から当主がそう呼んでいたということです。

工事は段階的に進み、1591年(天正19年)輝元が入城し、本拠地として機能し始めました。ただ、毛利時代にどこまて城ができたかは、はっきりしていません。完成したのは、現在も残る、本丸と二の丸の範囲くらいだろうとも言われています。特に馬出しの形をした、特徴的な二の丸がこの当時からあったかどうかが議論になっています。(発掘の結果からは当時からあった可能性あり、当時の情報を使ったとされる絵図にはなし)あったとすれば、このレイアウトは聚楽第をお手本にしたとも考えられます。ただし、聚楽第自体、伝えられる絵図の通りか確証がないので、まとめて謎になっています。

城周辺の航空写真

『聚楽古城之図』に描かれた聚楽第(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

広島城のシンボル、五重の天守は毛利時代に建てられたことが確実です。但し、これも細かいことを言うと、初期(1592年頃)に建てられたか、それとも後期(1598年頃)なのか議論があります。初期説の根拠は、佐竹氏の部将(平塚瀧俊)が、この頃広島を通り「石垣や天守が見事である」と書き残していることです(下記補足5)。秀吉もほぼ同じ頃に広島城を訪れ、「御殿」に上がって「内外」を全て見て感心したそうです(下記補足6)。輝元に似合いであるとも評しています(下記補足7)。一方、天守の様式から、それより遅い時期の建築との意見もあります。その天守は、大坂城天守を模したとも言われ、金箔瓦・千鳥破風などの装飾がなされました。

(補足5)
ひろ嶋と申所にも城御座候、森(毛利)殿の御在城にて候、これも五・三年の新地に候由申し候えども、更に更に見事なる地にて候、城中の普請等は聚楽にも劣らさる由申し候、石垣・天守等見事なる事申すに及ばず候、町中はいまた半途にて候、
(「名護屋陣ヨリ書翰」)

(補足6)
御堀きハより一御門を御入候て、甲丸両所 御覧候て、城取之様躰、思召候より 御仰天候、左候て、御殿へ御あがり、内外共にことごとく御覧候て、御感斜ならず候、
(「安国寺恵瓊外二名起請文」毛利家文書1041号)
(補足7)
殊更広島普請作事様子被御覧候、見事ニ出来、輝元ニ似相たる模様、被感思召候
(毛利家文書875)

広島城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


大坂城と対照的なのは内装で、古写真によると非常に質素で、普段は倉庫として使われました。戦いになった場合は、最期の場になると考えられていたようで、厳重に守られていました。天守そのものに石落とし・狭間などがある他、天守の両側には小天守が2つ連結していて、そこからしか入れないようになっていました。

天守3階の古写真、広島城広報誌「しろうや!広島城 No.70」より引用
「安芸国広島城所絵図」に描かれた天守・南小天守(下)・東小天守(右)、出展:国立公文書館

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった輝元は、減封となり、広島城を去ることになりました。その後に安芸・備後の領主となった福島正則が広島城に入城しました。

実は重要、福島正則時代

正則は秀吉の縁者で、若年より奉公したと言われています。なんといっても、賤ケ岳の七本槍の中で、一番の恩賞をもらっているのが目立ちます(下記補足8)。その後は、ひたすら武の道で、秀吉の天下統一に貢献しました。

(補足8)今度三七殿御謀反に依って、濃州大柿居陣せしむるの処、柴田修理亮は柳瀬表に罷り出で候条、一戦に及ぶべきため、一騎懸け馳せ向い候の処に、心掛深きに付て、早懸着候て秀吉眼前において一番鑓を合せ、其の働き比類なく候条、褒美として五千石宛行い畢んぬ。弥々向後奉公の忠勤に依って、領知を遣わすべきもの也、仍て件の如し、
天正十一 八月四日 秀吉御居判
                福島市松殿
(「福島文書」、京都大学国史研究所蔵)

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

荒くれ者のイメージがありますが、粗暴な面があったことは確かなようです。一方で、素朴で信心深く、キリスト教の宣教師の話に聞き入ったというエピソードもあります(下記補足9、正則の清州城主時代)。

(補足9)尾張の国では、信徒の仇敵であった関白殿の甥(豊臣秀次)が、神の正義の裁きで追放されてから、太閤の縁者で福島殿と呼ばれる大名がその後任になった。この人は日本中で最も残酷な一人という評判である。しかし彼はいつか大坂で、修道士ヴィセンテの説教を聞いたことがある。そのときヴィセンテが、正しい理由もなく人間を責苦して殺す行為の、如何に非難されるべきことであり、道理に反することであるかを述べたところ、彼は突然、ヴィセンテの言は全く正しいといった。それから彼は自分の残酷さを抑えるばかりでなく、キリシタンに対して非常に親切な態度をとるようになった。(「日本年報(1595年)」)

正則は、関ヶ原の戦い(1600年)において、豊臣恩顧の大名でありがなら、黒田長政などとともに徳川の東軍に味方しました。そしてその勝利の勲功第一として、毛利の後釜として、広島城に入ったのです。当然、長門・周防(現在の山口県)のみに減封となった毛利氏への押さえも期待されたでしょう。しかし、彼の統治は、1619年の「改易」までの20年足らずでした。

正則は、領国の防衛体制を固めるため、本城・広島城を中心として、6つの強力な支城を整備しました。(亀居城・三原城・鞆城・神辺城・尾関山城・五品嶽城)例えば三原城では、海岸に10基もの櫓を建設し、養子の正之を城主としました。山城の神辺城にも多くの櫓を築き、家老の福島正澄を入れています。

三原譲模型、三原市歴史民俗資料館にて展示
神辺城想像図、現地説明パネルより

そして、広島城についても、後の絵図に見られる姿は、正則の時代に完成されたと考えられます。城は、内堀に加え、中堀・外堀によって三重に囲まれました。更に、西側の太田川などを城の外郭としました。城内には88基もの櫓が建てられていたと言います。絵図の太田川の部分を見ても、櫓がずらりと並んでいるのがわかります。

「安芸国広島城所絵図」、出展:国立公文書館
「安芸国広島城所絵図」の太田川周辺

従来のイメージとは異なり、正則は内政にも力を注ぎました。毛利時代は、伝統的な地元領主層の力が強く実施できなかった、本格的な検地を行い(一部例外あり)、大名が領民や収穫高を直接把握し、家臣に給米を支給するスタイルに改めました。領地の村々が再編成され、それが現在の行政区分にもつながっていきます。これだと年貢が重くなるのではと思いますが、他の大名との比較では逆に年貢率は低かったとのことです。(領地が拡大したため、余裕があった模様)また、正則の性格もあって、寺社も保護されました。正則は、広島城と広島藩の基盤を立派に整備したのです。

そんな正則がなぜ改易になったのかというと、個人的には、徳川秀忠など幕府トップとの意思疎通に齟齬が生じたからだと思うのです。1611年(慶長16年)加藤清正などとともに徳川家康・豊臣秀頼の会見を実現させた正則は、将軍・秀忠から帰国を許されますが、感激のあまり辞退したというのです。そして、その後豊臣氏滅亡まで、帰国が許されることはありませんでした。後に幕閣の重鎮・本多正純も秀忠によって改易されますが、その理由の一つが「(一旦)宇都宮藩拝領を断った」ことだとされます。正則も、このときから「意に沿わない者」と認識されたのではないでしょうか。(もちろん幕府側の豊臣恩顧大名に対する警戒心もあったでしょう。)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正則の広島藩は、毎年のように天下普請に動員されるようになります。名古屋城で正則が不平を言ったところ、加藤清正にたしなめられたエピソードはこの頃のことです。正則は江戸に留め置かれ、豊臣氏滅亡に際して、ほとんど何もできませんでした。

名古屋城

そして、1617年(元和3年)大洪水により広島城が損傷します。久々に帰国していた正則は、翌年から城の修繕を始めますが、かなり大規模なものだったようです(新規の普請も含む可能性)。豊臣氏滅亡後に出された武家諸法度により、その場合は幕府の許可が必要になっていましたが、その届け出が事後か、または手続きが滞留していました。(本多正純がわざと遅らせたという説は事実でないようです。)それが1619年(元和5年)になって秀忠の知るところとなり、一時は正純の取り成しによって、城の相当部分を破却することでゆるされることになりました(元和5年4月)。(本丸以外は全て破却、または新規普請分を破却という条件だった模様)しかし破却されたのは本丸の一部であり(人手不足という面もあり)、ついに元和5年6月、秀忠は正則を「改易」したのです。正則は一部破却でゆるされると思ったのか、もしくは開き直ったのでしょうか。

正則が崩したとされる本丸石垣

正則は、粛々とその決定を受け(そのときも江戸にいた)家臣は一糸乱れぬ行動で城を引き渡したそうです。そのため、「改易」後の行先が、遠方の津軽から、信濃川中島(4万5千石)に変更になりました(下記補足10)。ついでながら、後に宇都宮を改易された本多正純は、大幅に減らされた所領(由利本荘)も断ったため、流罪(横手にて幽閉)になってしまいました。

(補足10)「挙動厳正なりと世もって称嘆しければ、かの家人どもは、みな諸家より旧禄を加倍して召抱られしに、(福島)丹波一人はかたく辞して任をもとめず。入道して世を終りしとぞ(「徳川実紀」)

正則の同僚というべき黒田長政は、正則の改易後、大坂城普請を命じられ、その工事の遅れに関して、
・本拠の福岡城の天守・石垣を崩してでも間に合わせる
・(遅れているのに)追加の工事を承りたい
と将軍・秀忠に言上しています。「大名もつらいよ」といったところでしょう。(もちろん秀忠及び幕閣の側にも、家康なき後も絶対権力を確立するという事情があったでしょう。)

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最も長かった浅野時代

正則が改易となった後は、和歌山から、浅野長晟(ながあきら)が、安芸と備後の一部42万石の領主として、広島城に入城しました。浅野氏はこの後、ほとんどが直系の藩主によって、江戸時代末まで比較的安定的な統治を行いました。浅野といえば、赤穂の内匠頭を連想してしまいますが、赤穂藩は長晟の弟の家系で、広島藩は本家だったのです。

浅野長晟肖像画、広島市立中央図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長晟は、家老を要所に配置し、境目を守らせる体制を取りました。その中には、浅野の縁者でもあった桃山時代の大名茶人、上田宗箇がいました。彼は、和歌山時代の浅野家に来る前には徳島藩にいて、徳島城表御殿の庭園を造っています。広島藩では、浅野家の別邸・縮景園を作庭しました。

旧徳島城表御殿庭園
縮景園

城の方ですが、長晟が入城早々に洪水が起こり、二の丸太鼓櫓が崩れて、再建されました。もちろん、改易事件のことがあったので、手続きは慎重に、建物も以前のままということでした。この後も、このようなことが繰り返しありました。デルタ地帯のお城の宿命でしょうか。

二の丸太鼓櫓(復元)

一方で、城の中心は、本丸御殿に移り、天守や櫓は普段は鍵がかけられていたそうで、藩主が天守に登りたいと言うと、大騒ぎになりました。本丸御殿は、儀式を行う表御殿、藩主公邸の中奥、私邸の奥などに分かれていました。5代藩主・浅野吉長は、世襲の家老が私邸で政務を執っていたのを改め、人材本位で抜擢した年寄が、御殿の役所で政務を行うようにしました。今でいう県庁のような場所になったのです。

本丸御殿の内部模型、広島城天守内で展示

広島城下は、ずっと整備が続けられていて、西国街道沿いに、城下町が発展しました。一方、農地を増やすための干拓も進んで、江戸時代のうちにかなり陸地が広がりました。

時は過ぎ、幕末になると広島藩は動乱の時を迎えました。幕府に反抗した長州藩に対して、幕府は征討を命じ、広島が最前線になりました。家康の想定が現実になったのです。広島には各藩の将兵が集まっていました。広島藩の実権は、改革派年寄の辻将曹が握っていましたが、戦いを避けることに努め、第二次征討ではなんと、幕府に対して出兵を断ったのです。こちらは、家康の時代とは様変わりです。

幕府は長州に敗れ、政局は京都に移っていき、広島藩は、薩長や土佐と盟約を結びました。新政権では広島藩から辻などが参与に登用されたのですが、なぜか明治維新後には、彼らの名前は外されてしまいました。改革が遅れ、十分な財政・軍備がなかったからとも言われます。なお、彼らに関する人事評定の記録も残っています(下記補足11)。

(補足11)重職中遊冶(ゆうや)二溺レ失役不少(明治2年1月人事稟議書記録より、「大久保利通文書」)

そして近現代、天守はどうなる?

明治維新後、広島城には日本陸軍の広島鎮台が置かれました。度重なる洪水対策の結果、城の辺りは安全とみなされたようです。そのため、天守など一部の建物以外は取り壊されていきました。全国の城が試練を迎えたときです。そして、南部に宇品港、中心部に広島駅が開業すると、城と広島に新たな役割が与えられました。大陸侵攻への前線基地です。日清戦争が起こると、兵士は鉄道で広島まで来て、港から船で輸送されたのです。なんと大本営まで、東京から広島城内に移されて、明治天皇が御座所に入りました。広島が臨時首都のようになったのです。以降、広島は軍都として栄えていきます。

後に大本営になった広島鎮台司令部(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太平洋戦争当時の広島城周辺は、軍関係の建物でぎっしりでした。この戦争では動員数も増えたので、一時天守も兵舎として使われたそうです。

1945年7月の城周辺の航空写真、現地説明パネルより

戦争末期、城内には防空作戦室というのがあって、女学生が動員されていました。そのうちの一人が、8月6日、午前8時13分に空襲警戒警報が出たという情報を受け取り、すぐ連絡をしようとした午前8時15分・・・

中国軍管区指令部 防空作戦室跡

原子爆弾がさく裂し、何十万人もの人とともに、城も被災、天守は爆風で倒壊しました。火災のためではなかったのです。散乱した部材は、人々の生活再建の資材として使われたそうです。城の再建に使うどころではなかったのです、どんなに大変な状況だったのか、わかるような気がします。

倒壊した天守、広島城天守内展示より
天守のものとされる木材、広島城天守内で展示

戦後、広島は平和記念都市として生まれ変わりますが、被災して6年後には、城跡で行われた博覧会のシンボルとして、臨時に天守が建てられました。これがきっかけで、天守復元の運動が盛り上がり、被災後13年目に、現在私たちが見る天守が建てられました。火災に強いということでコンクリート造りになりましたが、当時は長く持つとも考えられていたそうです。今度は広島復興のシンボルになったのです。

現在の外観復元天守

1994年には、二の丸の建物も復元されました。こちらは、江戸時代以前の形の復元を目指し、木造で建てられています。

二の丸の復元建物群

こうやって見てくると、この城に天守がなかった期間はほとんどなかったのです。ところで、これからもこの天守を眺めることができるのかというと、できるのです。現在広島市は、有識者会議を開いて、天守、小天守を含めた天守群の木造復元の検討を進めています。ただ、具体的な方針はまだ決まっていません。少なくともそれまでは今の天守を外から見学することになります。ただ、小天守も一緒に復元されることになれば、これはすごいと思います。

内堀から見た天主

「広島城 その2」に続きます。

208.屋嶋城

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。

Introduction

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。以前九州の大野城の勉強をしたときにも、名前が出てきました。この記事では、最初に古代山城、および屋嶋城の歴史に関するご説明をして、それから現地をご案内したいと思います。

高松駅

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(古代山城と屋嶋城)

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図l (incensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです。

水城跡
大野城跡
基肄城跡

その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。その中に屋嶋城があります。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

主要な古代山城の位置

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

屋島の地形図を見ると「メサ」と呼ばれる特徴的な地形になっています。テーブル状の台地で、山上が平らで、周囲は急な崖に囲まれています。山を丸ごと囲い込む古代山城にはうってつけの地形だとわかります。結局唐などの侵攻はなかったので、城はすぐ廃城になったと思われ、長い間「幻の城」と呼ばれてきました。1998年になって本格的に発掘調査が始められました。その結果などから、全長約7kmの城壁のうち、人工的なものは約1割と考えられています。屋島の自然の地形を最大限生かしたのでしょう。その人工的なものの中で、最大の発見が、これからご案内する城門です。これにより、屋嶋城の実在が証明され、古代山城の中でも最大級の門とのことです。しかし、この城の全貌はまだまだベールに包まれているのです。それでは現地に向けて出発しましょう。

屋島周辺の起伏地図

復元された城門

ここに行くには(自然と歴史の地・屋島へ)

今回のご案内は、電車とバスを使って、お気軽に行けるコースをご紹介します。高松から、電車で屋島駅に向かいます。屋島が見えてくるのですが、特徴的な地形だとわかります。古代山城にはもってこいです。

車窓から見える屋島

駅に着いたら、バスに乗り替えます。結構混んでいます。人気の観光地でなのでしょう。

屋島駅
屋島山上行きバス


急な坂を登っていたはわかりましたが、思ったより、すぐに着いてしまいました。ほんとうに上は、まっ平です。

バスで登っています
山上の駐車場に到着

これから、駐車場から近い範囲を、歩いて屋島山上を回りながら、復元された城門を見学することにします。

屋島山上(南嶺)案内図

駐車場からは、第八十四番札所の屋島寺に向かう人が多いのですが、違う方向に行きます。ずっとまっすぐの道で、本当に平らだと感じます。もうすぐ東側の崖に着きます。説明パネルがあります。「源平屋島合戦史跡 案内図」というタイトルです。

屋島寺(東大門)
まっすぐの道を進みます
東側の崖に到着
「源平屋島合戦史跡 案内図」


この眼下に見える一帯が、古戦場なのです。那須与一が海辺で扇の的を射たところだから、山の上ではないと思っていましたが、あの場所での出来事だったと初めて知りました。

古戦場の眺め

特徴、見どころ

城門に到着、見学!

いよいよ城門に向かいますが、今歩いている道はお遍路道にもなっています。85番目の札所に向かう分岐点があります。

八十五番札所への分岐点


目指す城門は、西側の崖にあるのですが、この辺は屋島の南嶺の山上部分が細くなっているので、そんなに遠くはありません。逆に、そういうところだからこそ、門を作ったのかもしれません。もう案内が見えてきました。

道はまだ崖の東側を進んでいます
程なく崖の西側に着きました、門の案内があります

ここから少し下っていきます。なんだか、風の音がして、風雲急を告げているようです。視界が急に開けてきました、すごい景色です!山の西側が一望できます。ちょうど夕方になってきているので、神秘的にも感じます。

門に向かって下ります
城門に到着です
城門からの眺め

修復された城門石垣をよく見るためには、さらに階段を下ります。さすが、よく整備されています。下ってから石垣を見上げると、崖と一緒に立ちはだかっているように見えます。城壁は約6メートルの高さで、崖の前に築かれています。

階段を下ります
城門石垣

右手前の登山道から改めて近づいてみましょう。門の建物もあったはずですが、残念ながらその痕跡はほとんど残っていなかったそうです。それでも、戦国時代の城のような石垣が、1300年以上も前に築かれていたことはすごいと思います。しかし短期間で廃城になって、石垣の技術も城とともに幻になって、一旦忘れられてしまったのでしょう。

右手前の登山道を上がったところです

門の作り方として注目なのは、懸門です。入口に、高い段差を設けて入りにくいようにしています。当時は梯子がかけられていたと考えられます。

懸門

もう一つは門の中に入ったところで、甕城(おうじょう)といいます。岩盤が敵の行く手を阻み、左側に進ませるようになっています。敵がその通り進んだら、周りから兵士が側面攻撃するのです。近世の城の枡形みたいなものです。

甕城

実は全部が屋嶋城?

帰り道は、屋島寺に寄ってみましょう。参道が見えてきました。お遍路の人は、左側から登ってきます。右側にあるのが仁王門です。そのルートに合流しましょう。

屋島寺の参道に突き当たります
こちらからお遍路の人が登ってきます
仁王門

四天門、重要文化財の本堂、と進みます。このお寺自体、屋嶋城が廃城になった後、北嶺から南嶺に移されたとも言われます。狸伝説のお寺でもあります。

四天門
本堂
狸石像

せっかくなので、北側の眺めを見に行きましょう。駐車場から、北西側に回り込んでいきます。北嶺が見えます。

駐車場から北側の眺め、右側が北嶺

今度は、海が一望できます。高松の海岸が良く見えます、ここにも「屋島城跡」と表示があります。唐突感はありますが、屋島中が城だったということでしょう。今後、屋嶋城の謎がだんだん明らかになるかもしれません。

南嶺北西側からの眺め
ここにも「屋島城跡」とあります

リンク、参考情報

屋嶋城詳細へ、高松市公式ホームページ もっと高松

これで終わります、ありがとうございました。

76.徳島城 その2

今日は、徳島駅前に来ています。さすが阿波踊りの本場だけあって、街なかではフィギアがお出迎えです。ところで、徳島城はどこにあるのでしょうか。ここ、徳島駅は城があった「ひょうたん島」のど真ん中にあるのです。徳島城へもここから出発します。

ここに行くには

今日は、徳島駅前に来ています。さすが阿波踊りの本場だけあって、街なかではフィギアがお出迎えです。ところで、徳島城はどこにあるのでしょうか。ここ、徳島駅は城があった「ひょうたん島」のど真ん中にあるのです。徳島城へもここから出発します。

徳島駅
阿波踊りのフィギア

城周辺の航空写真

徳島という名前も、島状の地形から来ているのかと思ってしまいます。かつてこの辺りは「渭津(いのつ}」と呼ばれていましたが、藩祖の蜂須賀家政が「徳島」に改めました。恐らく縁起を担いだのだろうと言われますが、はっきりしないそうです。しかも、定着するのに100年くらいかかりました。地名にも謎と歴史があるのです。

今、線路際を歩いていますが、ここはかつて島を貫く寺島川でした。線路の向こうに山が見えますが、最初に城が築かれた城山(当初は「猪山」)です。城はすぐ近くです。城跡がある徳島中央公園へは、歩道橋を渡ります。

かつて寺島川だった線路
歩道橋を渡ります
歩道橋からかつての寺島川を見ています

歩道橋を下るところに最初の見どころがあります。川を攻めてくる敵を迎え撃つために屏風折れ塀がありましたが、それを支える「舌石(したいし)」が残っているのです。

「舌石」についての説明パネル
舌石

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

山麓の御殿跡を巡る

復元された城の正門、鷲の門の前にやってきました。すぐそばには、城跡の石碑もあります。鷲の門に入っていきましょう。

鷲の門
城跡の石碑

城周辺の航空写真

次は、御殿の入口にあたる「下乗橋」です。ここからは、駕籠などの乗り物から降りて渡ったことに由来しています。橋を渡った先は、大手門にあたる黒門がありました。建物はありませんが、すごい石垣の枡形が残っています。「阿波の青石」を使った素晴らしい石垣です。

下乗門と黒門跡
黒門の枡形
阿波の青石を使った石垣

枡形を出るところの石垣も注目です。真ん中にある大きな石の色がちがいます。紅簾片岩(こうれんへんがん)と呼ばれる赤い石が、ところどころに使われています。青い石と、赤い石の組み合わせ、これは見ものです。

枡形出口にある阿波の赤石

隅のところにあった太鼓櫓跡に登ってみましょう。黒門跡を上から見てみます。旧海軍の駆逐艦(「追風」)のマストが展示されています。さっき渡った下乗橋、黒門の枡形もお見通しです。

太鼓櫓跡
駆逐艦「追風」のマスト
上から見た下乗橋
上から見た黒門枡形

枡形に戻って、ここから御殿跡に進みます。大体、右側が表御殿、左側が奥御殿だったとのことです。御殿跡の奥の方には、徳島城博物館があります。

御殿跡
徳島市立徳島城博物館

御殿の建物はなくても、その庭園が残っています(旧徳島城表御殿庭園)。国の名勝に指定されていて、手前側が枯山水の庭園になっています。すごく長い石橋があります。10メートル以上あるそうです。奥側は築山泉水という水を取り入れた庭園になっていて、2つの異なる様式が組み合わされています。桃山時代の武将茶人、上田宗箇が作庭したとされています。

庭園入口
枯山水部分
築山泉水部分

それでは、御殿跡から、石垣の合間を歩いて、城山に向かいましょう。

城山に向かいます

本丸のある城山を登る

城山の端にやってきました。なんとここには縄文時代の貝塚の遺跡があるのです。そんなに前から人がここで活動していたのです。

城山の貝塚遺跡

ここが、山上への入口です。なにか別のお城に行くみたいです。

山上への登り口

では、登っていきましょう。階段はよく整備されています。途中には、山の岩と石垣が混ざっている感じの場所があります。本格的な石垣もあります。

石垣と岩が混在しています
本格的な石垣も見えます

ここが東二の丸です。天守があった場所です。向こうに天守跡があります。当初本丸にあった天守が、中腹に移されたという珍しいケースです。その理由として、老朽化とも、幕府への遠慮とも言われましたが、拡大した城下を見下ろす位置に移動したという意見もあります。そこからは、街並みと海も見えます。

東二の丸
天守跡からの眺め
街並みと海も見えます

もう次は本丸です。古そうな石垣が続きます。

本丸の石垣

本丸に着きました。天守や御殿が移動した後の本丸は、番所・櫓などが残りました。今は広場になっています、

本丸
かつての本丸の様子、現地説明パネルより

最初の天守はどこにあったかというと、弓櫓跡にあったと考えられています。でも、ここにいるだけだと、ピンときません。では、逆側から本丸に登ってみましょう。

弓櫓跡

西三の丸に入るところから再スタートします。枡形になっています。続いて、西二の丸に入ります。石垣が立派になって、しかもここも枡形です。更に脇には、帳(とばり)櫓が控えていました。

西三の丸への入口(虎口)
帳櫓跡から見た西二の丸入口

そして、再度の本丸突入です。当初の天守台と考えられている弓櫓跡の石垣が来ました。これは大迫力です。本丸入口も、大きな石が散りばめられています。「鏡石」ということなのでしょう。今歩いたルートが、当初の大手道だろうとも考えられています。

当初の天守台と考えられる弓櫓石垣
本丸入口の石垣
大手道だったと思われる本丸入口(西側)

後回しになりましたが、本丸からの眺めをチェックしましょう。ここからは、山が見えます。徳島のシンボル、眉山(びざん)です。次は、この山を登ります。

本丸からの景色(眉山)

眉山に登って海を感じる

眉山を登るのに、今回は奮発して、片道だけロープウェイを使うことにしました。

山麓駅は阿波踊り会館のところにあります
ロープウェイ乗り場

どんどん登っていくと、景色がよくなってきます。

ロープウェイ中からの眺め

山頂駅に到着しました。さっそく景色を楽しみましょう。素晴らしい景色です。徳島平野や、吉野川まで一望できます。そんな中でも城山は目立っています。

ロープウェイ山頂駅
山頂駅からの眺め
城山

それより少し上の展望台からだと、また一味ちがいます。今度は、平野や川の向こうの海が良く見えます。徳島が、海に開かれているということが、わかっていただけると思います。

展望台周辺
展望台からの眺め

ところで、帰りはどうするのかというと、山頂部の眉山公園の案内図で見ると、山頂駅の反対側に、家祖・蜂須賀小六正勝の墓があります。そこを下ると、歴代藩主の万年山墓地というのがあり、そこに行こうと思います。お殿様の墓は、寺にあるのが普通ですが、十代藩主・蜂須賀重喜が儒教式に改めたのです(仏教式も併存)。

眉山公園の案内図、山頂駅は右側、蜂須賀小六正勝の墓は左側
蜂須賀重喜肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

公園の駐車場や、お花見広場を越えていきます。

眉山公園駐車場
お花見広場

墓の入口から、入っていきます。亡くなった大坂の地から、移されたとあります。お参りを済ませたら、裏手から下っていきます。

蜂須賀小六正勝の墓への入口
蜂須賀小六正勝の墓

ところで、墓所を作った蜂須賀重善はどんな人だったのかというと、秋田の佐竹氏から養子に来て、当時大借金を抱えていた徳島藩で改革を始めた藩主です。この墓所も、その改革の一環で作ったのです。下っていくとすごい岩があって、文字が刻まれています。重喜が建てた「万年山墓域碑」です。

万年山墓域碑

その下に、重喜の子・治昭の墓所があって、その向こうの見晴らしのいい場所に、重喜自身の墓所があるのです。

十一代藩主・蜂須賀治昭の墓

ところで、重喜改革はうまくいったのかというと、人材登用など改革が急すぎて、幕府から強制隠居させられたのです。改革の成果が出たのは、さっきの子の代になってからだったそうです。悲劇のヒーローだったのです。

蜂須賀重喜の墓

彼の墓の周りにもお墓がいくつもあります。側室たちや、夭折した子どもたちのお墓も、一緒に設けられているのです。これらは、歴史に埋れがちな人たちの歴史史料にも       なっています。今でも家族と一緒に、徳島を見守っているということです。

重喜側室・三浦民崎の墓
重喜五男・義功の墓
墓所からの眺め

ひょうたん島を巡る

最後のセクションでは、ひょうたん島を囲む川の一つ、助任川にかかる福島橋にやってきました。お殿様が参勤交代のときは、鷲の門からここまで来て、川に乗り出したそうです。川の街道だったのです。

福島橋

それから、上流の徳住橋辺りから、当時の松並木が残っています。橋のたもとは「雁木広場」と呼ばれていますので、ここからも舟が出たのでしょう。川沿いには石垣も築かれ、城の外郭という位置づけでした。ひょうたん島が防衛ラインだったのです。

雁木広場
藩政時代の松並木

河口の方に進みましょう。参勤交代のお殿様は、沖合で小舟から御座船に乗り替えたそうです。今度は海の道を進んだのです。そういえば、高松城のお殿様も同じようにしました。飛行機も連絡橋もない時代だったのです。

助任川の河口近く
徳島藩の御座船、現地説明パネルの右側

河口を折り返して、新町川に入ります。船がたくさんあって、海を感じることができます。眉山も正面に見えて、そろい踏みです。かつて新町川沿いには、藍商人の蔵が並んでいて、川側にも出入り口が開いていて、雁木と呼ばれる石造りの船着場から、大坂に向けて、舟で藍玉(染料)を出荷したそうです。水面の下に見える、石垣みたいのがそれなのかもしれません。

新町川河口部に並ぶ船と、背後には眉山
新町川沿い
新町橋周辺

万年山のところで出てきた、蜂須賀重喜は、藍玉が大坂商人に買いたたかれないよう、徳島に大市を開こうとしましたが、やはり実現するまで時間がかかりました。しかしそれが実現し、お客と取引が成立したとき、藍商人たちは、祝杯を上げ、そこで、踊りを踊ったそうです。これも、阿波踊りにつながったのでしょう。新町橋を渡って、駅の方に向かいます。なんとそこでは、阿波踊りをやっていました!イベントでのお披露目に、たまたま当ったのです。城めぐりの、最高の締めくくりでした。

新町橋
「徳島学生合同連」の阿波踊り

リンク、参考情報

徳島城博物館、徳島市
とくしまヒストリー、徳島市公式ウェブサイト
・「史伝 蜂須賀小六正勝/牛田義文著」清文堂出版
・「歴史群像132号記事、戦国の城 阿波徳島城/福永素久著」学研
・「徳島から探求する日本の歴史/地方史研究協議会編」文学通信
・「よみがえる日本の城13」学研
・「徳島藩駅路寺制に関する一考察/衣川仁著」徳島大学機関リポジトリ
「「徳島の文化を学ぶ」徳島大学オンライン講演会 第3回 徳島の歴史と文化」Youtubeテレビトクシマ公式チャンネル
「マジすか?蜂須賀!2時間スペシャル」YoutubeJRT四国放送公式チャンネル
「徳島城博物館・旧徳島城表御殿庭園」Youtubeディスカバー徳島

「徳島城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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