71. 福山城 その2

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

福山駅福山城口
二の丸の高石垣

ところで、その石垣の周りに堀は見られません。堀はみんな埋められてしまったのです。この駅前の広場(北口広場)が内堀の名残となっています。

広場では、内張が水辺として再現されています

駅近なので いきなり本丸へ

それでは、内堀を乗り越えるつもりで、二の丸の石垣沿いを歩いてみましょう。石垣の石が変色していますが、これは第二次世界大戦での空襲の火災で焼けた痕なのだそうです。歩いてみると、迫力を感じます。現代のビルにも負けていない感じです。

二の丸石垣

現代に作られた石段を登っていくと、どっしりとした伏見櫓が急に現れます。空襲を生き延びた現存建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。その前は伏見城にあったことを示す刻印(「松ノ丸ノ東やくら」)も発見されています。つまり、言い伝えだけでなく、証明されているわけです。伏見城は3代あって、この櫓は3代目のものだろうと言われていますが、転用材が多く、地震の跡急拵えした2代目のものではないかという意見もあります(愛媛大学社会共創学部紀要「福山城伏見櫓に関する考察」)。

伏見櫓

先に進むと、これも現存している、本丸の正門・筋鉄御門(すじがねごもん、国の重要文化財)が控えています。敵だったら、伏見櫓と挟まれて、攻撃されそうです。こちらも伏見城から移されたと言われていて、名前の通り、その扉は筋金入りなのです。さすが本丸の正門だけのことはあります。

筋鉄御門
筋金入りの扉

本丸に入ると、伏見御殿跡があります。これも伏見城からの移築とされています。天守が向こうに見えます。

伏見御殿跡
外観復元天守

本丸には、もう一つ、現存建物があって、それが鐘櫓(かねやぐら、福山市重要文化財)です。「時の鐘」として城下に時間を知らせていたのですが、今でも自動で鳴っているそうです。

鐘櫓

二の丸を歩いてみよう

今度は、本丸下の二の丸をぐるりと歩いて、天守の裏側と本丸の搦手門(棗門)に回り込んでみます。まずは本丸の、復元された御湯殿を見上げてみましょう。これも元は伏見城からの移築と言われています。蒸し風呂(サウナ)と、せりだした座敷(物見の間)のセットになっています。ただし、時代によって間取りは異なっていたようです。本丸側からでは正直よくわからなかったのですが、二の丸側から見ると目立ちます。こういう造りを「懸け造り」といって、城郭建築では珍しい事例です。

御湯殿(二の丸側)
御湯殿(本丸側)

次に進むと、角のところに櫓が見えます。外観復元された月見櫓で、現在は貸会場や、   「キャッスルステイ」の宿泊場所になっているそうです。城も多角化の時代です。

月見櫓

角を曲がって見えるのが、もう一つの外観復元された「鏡櫓」です。現在は「文書館」として使われています。

鏡櫓

更に進むと、公園の入口がまたあります。「東側階段ルート」で、北側や南側より緩やかになっています。現代になって 作られた通路です。

東側階段ルート

その脇には別の入口もあります。こちらが城のオリジナルの門跡です(東上り楯門跡)。ただし、本丸に直通はしていません。せっかくなので、こちらに進みましょう。

東上り楯門跡

そして、二の丸を回り込むと、外観復元天守の北側が見えるところに至り、黒い鉄板張りの面がよく見えます。この鉄板張りは、北側の防御のためとも、風雨への備えとも言われています。オリジナル天守の資料を参考に、現在の天守リニューアル(2022年)のときに復元されました。

外観復元天守(北側鉄板張り)
オリジナル天守の北側鉄板張りの古写真、現地説明パネルより

その先の、本丸搦手門(棗門)を通って行けば、天守の表側に到着します。

搦手門付近から見た天守

天守の中は歴史博物館になっていて、外観と一緒にリニューアルされました。水野勝成の放浪時代についての展示もあります(撮影できる範囲は限られています)。

天守内部の展示の一例
水野勝成のコーナー

最上階からは街を展望できます。南側は先ほど見学した本丸です。次は、北側に向かってみます。

天守からの眺め(東側)
天守からの眺め(南側)
天守からの眺め(北側)
天守からの眺め(北側)

城の弱点? 北側を歩く

これから、城の北側が弱点ということで、幕末に長州軍が大砲を放ったという、円照寺がある山に行ってみます。その途中では、長州軍と福山城兵が戦った場所という赤門や、水野勝成が上水道の水を溜めるために作った蓮池を、見学するといいと思います。

赤門、福山市HPより引用
蓮池

円照寺の標柱があるところから登っていきます。

山への登り口

寺の入口がありますが、まだ登り道が続きます。

円照寺入口

上の方は神社になっています(本庄八幡神社)。

本庄八幡神社

境内の奥の方が開けています。

境内の脇に進みます

この辺が頂上のようです。城は見えるでしょうか。

頂上付近

なんとか見えました、ツートンカラーの天守です。

円照寺山から見える天守

福山の歴史スポット巡り(関連史跡)

鞆の浦

最初の関連史跡として、鞆の浦(鞆ノ津)に来てみました。鞆の浦のシンボルとして常夜灯が有名です。また、古い町並みが残っていることでも知られています。

常夜灯
古い町並み

史跡としては、江戸時代に港として使われた、5つのアイテム(常夜灯、雁木、波止、船番所、焚場)が残っていることがとても貴重なのです。常夜灯は、そのうちの一つです。

雁木
波止
船番所
焚場(たでば、ドッグのような施設)

こちらは、鞆城跡です、江戸時代には奉行所が置かれていました。今は、歴史民俗資料館の敷地になっています。やはりここはいい場所で、鞆の浦全体を見渡すことができます。

鞆城跡
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡からの眺め

おすすめは、朝鮮通信使が宿泊した場所の一つ、福禅寺です。境内の対潮楼からの景色は「日本で一番美しい景勝地(日東第一形勝)」として賞賛されました。柱が額縁みたいで、絵になる風景です。

福禅寺
対潮楼からの眺め

草戸千軒

次のスポットは、中世の港町・草戸千軒跡です。ここは、近くにある明王院です。背景の五重塔・本堂は、鎌倉・室町時代に建てられたもので、国宝に指定されています。草戸千軒の町と同じ頃から存在していました。当時は常福寺といって、草戸千軒はその門前町でもあったそうです。

明王院

町は、ここから見える芦田川の中州あたりにありました。当時、川は別の所を流れていて、町は三角州の上にあったようです。環境の変化(自然及び社会)によって町が消滅し、伝説的存在になっていましたが、芦田川の改修作業中に遺跡が見つかり、発掘されたのです。幻の町が発見されたのです。でも、川の中の遺跡には行けません。

草戸千軒町遺跡

そこで、現地で発掘されたものや、研究の成果が、福山城近くの広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で展示されています。

広島県立歴史博物館
発掘・展示されている遺物(貯蔵用の陶器)
発掘・展示されている遺物(建築部材の一つ、壁木舞)
発掘・展示されている遺物(舶来磁器)
発掘・展示されている遺物(信仰に関するもの)

それらを基に、復原された町並みを歩いてみることもできます。草戸千軒は地域の港町だったので、こういう町がいろんな所にあったのでしょう。

復原された町並み

神辺城

最後は、神辺城跡です。福山城の前にあった城です。黄葉山(こうようざん)という山の上に築かれましたが、近くに神辺歴史民俗資料館があって、山頂近くまで車で上がってくることができます。

神辺歴史民俗資料館
資料館の駐車場

さっそく城跡に進みましょう。山道をまっすぐ進むと、鬼門櫓跡に着きます。景色がよくて、周辺一帯を見渡すことができます。このあたりは、備後国分寺が置かれるなど、古代から栄えた場所だったのです。

鬼門櫓跡
備後国分寺の模型、神辺歴史民俗資料館にて展示

それでは、本丸に向かいましょう。今は曲輪の敷地が残っているだけです。しかし福島正則の領地だったときには、石垣の上に神辺一番櫓(天守)がありました。福山城築城時に石垣と一緒に移されたのです。福山城にその跡があります。神辺城本丸の回りには、わずかながら石垣が残っています。

本丸
福山城に移された神辺一番櫓の古写真、福山城現地説明パネルより
福山城の神辺一番櫓跡
神辺城本丸周りに残る石垣

本丸下には段状に曲輪が続いています。それぞれに「二番櫓」「三番櫓」「四番櫓」があって、これらも福山城に移されました。山の上にこんなに櫓が並んでいたのです。

本丸下に続く曲輪群
神辺城の二番櫓跡
福山城の神辺二番櫓跡
神辺城想像図、現地説明パネルより

こちら側の景色もいいです。この城は、この辺りでは最適の拠点だったことがわかります。

三番櫓跡からの眺め

私の感想

神辺城を見てから再認識したのですが、福山城は、ただ新しいお城として作られたのではなく、新しい町と土地を開発するために築かれたのではないでしょうか。現地に行って感じることがとても大事だと、改めて思いました。

ライトアップされた伏見櫓
ライトアップされた御湯殿
ライトアップされた天守

リンク、参考情報

福山城博物館
広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
福山の郷土史、大和建設株式会社
御湯殿の変遷について、備後歴史訪訪倶楽部
・「放浪武者 水野勝成/森本繁著」洋泉社
・「初代刈谷藩主 水野勝成展」刈谷市歴史博物館
・「中世瀬戸内の港町 草戸千軒町遺跡 改訂版/鈴木康之著」新泉社
・「新版 福山城」福山市文化財協会
・「シリーズ藩物語 福山藩/八幡浩二著」現代書館
・「阿部正弘/後藤敦史著」戎光祥選書ソレイユ
・「青年宰相 阿部正方」福山城博物館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「史跡福山城跡整備基本計画」2020年10月28日 福山市教育委員会
・「福山城伏見櫓に関する考察/佐藤大規氏論文」愛媛大学社会共創学部紀要第7巻第2号

「福山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

27.上田城 その2

今回は、上田駅からスタートします。ここは新幹線駅でもあるので、賑わっています。上田城には、現在「上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)」になっている中心部分以外にも見どころがありますので、駅から公園に向かう間に見学したいと思います。公園に着いたら、櫓が残る本丸を見てから、自然の要害だった「尼ヶ淵」なども回ってみましょう。最後の方では、上田合戦のときに出てきた「砥石城」「神川」にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、上田駅からスタートします。ここは新幹線駅でもあるので、賑わっています。上田城には、現在「上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)」になっている中心部分以外にも見どころがありますので、駅から公園に向かう間に見学したいと思います。公園に着いたら、櫓が残る本丸を見てから、自然の要害だった「尼ヶ淵」なども回ってみましょう。最後の方では、上田合戦のときに出てきた「砥石城」「神川」にも行ってみましょう。

上田駅

街なかの見どころ

まず、上田駅から駅前通りを歩いていきましょう。

駅前通り

「中央2丁目」交差点を左に曲がると「大手通り」です。

中央2丁目交差点
大手通り

道がくねっているところがありますが、ここが大手門の跡です。上田合戦での激戦地とされているのと、江戸時代には石垣と堀があって、枡形が形成されていました。仙石忠政による復興が中断されたためか、城門の建物は作られなかったと言われています。

大手門跡
大手門があった「三の丸」のディスプレイ

この近くに、真田信之以来の藩主屋敷跡があります。現在は高校の敷地として使われています。江戸時代に建てられ、現存している屋敷門です。土塁と堀も残っていますが、隅の部分がちょっと欠けています。これについては、後でご説明します。

藩主屋敷跡
藩主屋敷の土塁と堀

城跡公園に向けて進んでいくと、また屋敷跡があります。ここも学校になっていますが、そう言われてみないとわからない感じです。この屋敷は当初は「中屋敷」、時代が下ると「作事場」または「古屋敷」と呼ばれたそうです。築城時には真田昌幸の屋敷だった可能性も指摘されています(「信濃上田城」)。

中屋敷・作事場跡

公園に近づくと、藩校「明倫堂」跡もあります。

明倫堂跡

二の丸・本丸を攻略!

では、堀にかかった橋を渡って、二の丸東虎口から公園に入っていきましょう。

橋(二の丸橋)渡っていきます

虎口にから見ると、左の方に本丸の櫓が見えて、まっすぐ行けるようになっているのですが、実は城の現役時代にはここも枡形になっていて、まっすぐ進めなかったのです。武者溜り、三十間堀というのがあって、右側に回り込む必要がありました。現在は、武者溜りの復元に向けた調査を行っています。

二の丸東虎口
武者溜りの調査現場
武者溜りなどの復元についてのディスプレイ

本丸の入口である東虎口櫓門は、現存する南櫓・北櫓に挟まれて、上田城のビュースポットと言えるでしょう。

左から南櫓、本丸東虎口櫓門、北櫓

門の右脇にあるのが有名な「真田石」です。真田信之が松代に移るとき、巨大すぎて持っていけなかったという言い伝えありますが、歴史家によると、仙石忠政が築いたようです。

真田石

門に入ると、正面に見えるのが真田神社です。仙石氏も松平氏も祀られています。

真田神社

奥の方に行くと、西櫓を見学できます。廃城になっても最後まで残っていた櫓です。今でも崖の上でがんばっている感じです。ここに来ると景色が急に開けて、どんな所にお城を作ったのかがわかります。

西櫓
西櫓からの眺め

今度は、本丸の中心部に行ってみましょう。本丸の中には、もともと建物はありませんでした。

本丸中心部(上段)
上田城は桜の名所ですが、紅葉もきれいです

過去に櫓があった場所に行ってみましょう。実は、本丸の北東隅には櫓が2つ並んでいました。こんなに近くに櫓が並んでいると、防衛上の効果はなかっただろうとのことです。ちなみに、この2つの櫓の当時の名前はわからないそうです。

北東隅の一つ目の櫓があった場所
北東隅の二つ目の櫓があった場所

次は、北西隅櫓跡に行ってみます。ここの櫓は一つでした。こちらについては、西側の本丸堀から金箔瓦が見つかっています。つまり、真田時代にはこの辺に天守があったかもしれないのです。

北西隅櫓跡
この辺りの堀から金箔瓦が見つかりました

それでは、さっきの北東隅の謎解きに、本丸の周りを歩きましょう。本丸西虎口から外に出ます。ここも枡形になっていました。堀の周りを歩くと、本丸が一番高い所にあることがよくわかります。

本丸西虎口
本丸堀、向こうが本丸(北西隅)

堀の北東隅に着きました。本丸の北東隅が欠けているのがわかります。これは「隅欠(すみおとし)」といって、鬼門である北東からの災厄を除けるための仕組みとされています。上田城の特徴の一つです。先ほどの藩主屋敷もそうでした。江戸時代の絵図では、二の丸や中屋敷(絵図では「古屋敷」)も同じようになっています。

本丸北東部の隅欠
「信州上田城絵図」、真ん中の本丸だけでなく、周りの二の丸、その右側の古屋敷も北東隅(右上)が欠けています、出展:国立公文書館

今も残る自然の要害

今度は、上田城が自然の要害に築かれたことがわかるスポットに行ってみましょう。最初に入った公園入口の橋(二の丸橋)の脇から、堀の底に下りましょう。堀の底とは言っても、気持ちのいい歩道になっていて、昭和時代には電車の軌道(上田温泉電軌北東線)だったのです。堀の端を曲がると、城の南側の要害だった尼ヶ淵です。崖地帯になってきます。尼ヶ淵に面する崖は、高さが約12メートルあって、火山活動や川の流れに由来する3つの層によって構成されています。異なる性質の層が重なっているので崩れやすいとのことです。

二の丸橋下のトンネル
二の丸堀底の歩道
城の南側の崖

広場になっているところに出ると、全体をよく見渡すことができます。この場所を千曲川の支流(尼ヶ淵)が流れていたのです。しかも1732年(享保17年)の洪水に伴い「大川」が流れるようになり、それは千曲川の本流だったとも言われています。洪水で崩れた崖への対処と、川の護岸のために、今見られる石垣が築かれました(流れが来なくなったのは大正時代以後)。

尼ヶ淵の全景

例えば、本丸南櫓下を見てみると、石垣が3段に積まれています。上段が櫓台の石垣で一番早く築かれ、下段が洪水の後に築かれた護岸用です。中段はその後、崩落を防ぐために何回も石垣が築かれ、修繕された部分だそうです。崖のままになっているところは、突出していて石垣が築けなかったようです(一部現代にモルタル補修)。

本丸南櫓下の石垣

西櫓の方に向かって歩きましょう。崖下から見ても、西櫓のがんばりがよくわかります。

西櫓の方に続く石垣
西櫓

城跡の周りをたどることになりますが、大きな堀の跡を紹介したいと思います。まずは西側で、二の丸西虎口(現在は跡のみ)を出たところが「広堀」でした。今は野球場になっています。

広堀跡

それから北側、二の丸北虎口の外にもあります。この虎口は、残っている石垣を使って復元整備されています。

二の丸北虎口

その外にあるのが百間堀(ひゃっけんぼり)跡です。この大きなグラウンドが、丸々お堀でした。元は自然の川だったのを利用して、こんなに大きなお堀を作ったのです。

百間堀跡

上田合戦ゆかりの地

ここからは、少しですが上田合戦ゆかりの地をご紹介します。一つ目は、砥石城です。上田城からは約7kmの道のりなので、行かれる場合は車を使った方がいいかもしれません。上田合戦では真田信之も(第一次・二次)、信繁(第二次)もこの城を使いました。それにそれ以前からこの城は重要な拠点で、武田信玄と村上義清がこの城を巡って争い、信玄が敗れたことでも有名です(砥石崩れ)。真田昌幸の父、幸隆がこの城を乗っ取り、出世のきっかけにもなりました。

砥石城跡遠景

この城の規模も大きく、実は山の上にある4つの城(拠点)の集合体なのです。今日は4つのうち、標高が高くて上田城が見えそうな「砥石城」に行ってみましょう。

4つの城、現地説明パネルより

櫓門から山道に入ります。

櫓門(現代のアトラクションか)

登っていくと分岐点があります。今回は右に行きます。

砥石城と米山城の分岐点

急な坂が続きます。重要だった城だけのことはあります。

砥石城に続く急坂

山道の途中が入口みたいになっています。山城の虎口でしょうか。

虎口か?

もう少しです。

砥石城の頂近く

砥石城跡に着きました。

砥石城跡

さて、上田城は見えるのでしょうか?

砥石城跡からの眺め

清掃工場の煙突の手前の、木が茂っている辺りが上田城だと思います。

砥石城跡から見える上田城

最後になりますが、第一次上田合戦の激戦地だった神川周辺に行きましょう。近くには信濃国分寺があって、第二次合戦のときに、東軍の信之と西軍の昌幸が会見した場所だと言われています。

信濃国分寺
「真田徳川会見之地」の石碑

もう遅くなってきましたが、神川に着きました。砥石城の方から流れてきて、千曲川に合流しています。何気ない川に見えますが、当時はここが重要な防衛ラインでした。

神川

リンク、参考情報

上田市 上田城総合サイト
上田市立博物館
「真田氏時代の上田城考」コイワイド
長野県立歴史館/信濃史料
・「シリーズ・城郭研究の新展開5 信濃上田城/利根崎剛編」戒光祥出版
・「真田氏三代/笹本正治著」ミネルヴァ書房
・「歴史群像41号 戦国の堅城 上田城」学研
・「歴史群像136号 戦略分析 第一次上田合戦/三島正之著」学研
・「歴史群像137号 第一次上田合戦の歩き方」学研
・「歴史群像139号 戦国の城 第二次上田合戦/樋口隆晴著」学研
・「シリーズ藩物語 上田藩/青木蔵幸著」現代書館
・「日本を開国させた男、松平忠固/関良基著」作品社
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著、小林賢章訳」ちくま学芸文庫
・「信州上田軍紀/堀内泰訳」ほおずき書籍
・「史跡上田城跡保存活用計画(案)」上田市・上田市教育委員会
・「国史跡上田城跡石垣解体修復工事報告書」2009年3月 上田市・上田市教育委員会

「上田城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

206.浦添城 その2

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。

特徴、見どころ

Introduction

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。ご紹介する順番は、ゆいレールで行ける浦添城と首里城を続けるのではなく、建国ストーリーに沿って古い方からにします。

那覇空港到着ロビー

それでは最初の浦添城に向けて出発しましょう。空港からゆいレールに乗り込めば、最寄りの浦添前田駅に到着します。

ゆいレール(那覇空港駅)
浦添前田駅

浦添城 遺跡パート

浦添城跡は「浦添大公園」の一部(歴史学習ゾーン)になっていて、南エントランスから入っていきます。

浦添城跡の現地案内板

駐車場の脇の坂を登って行くと、古そうな道になってきます。これが復元整備された、首里城と結ばれた石畳道の一部です。

復元整備された石畳道

登った先に、石垣が見えてきます。埋もれていたオリジナルの城壁の石垣が、発掘により姿を現したのです。

発掘された石垣

更に登って行くとその途中に、尚寧王が建てた、石畳道の完成記念碑(浦添城の前の碑)が復元されています。南側への展望が開けた場所で、遠くに首里城も見えます。

浦添城の前の碑
城跡南側の眺め
再建中の首里城(2024年11月下旬時点)

丘の上は、戦災や採石の影響で、遺跡はほとんど残っていません。正殿跡と思われる場所や、浦添尚家の屋敷跡と言われる石の基礎が残っています。

丘の上
正殿跡と思われる場所
浦添尚家の屋敷跡とされる場所

グスク内の祈りの場所であった「ディーグガマ(デイゴの樹があった御嶽)」の跡が残っています。沖縄戦のときは、住民の避難場所だったそうです。

ディーグガマ

丘の上からの景色を眺めてみましょう。説明パネルがあって「ハクソー・リッジ」とあります。激戦があった場所です。見晴しがいいことで、戦いの場になってしまったのです。景色を楽しむことができる世の中が続いてほしいです。

城跡南側の眺めと「ハクソー・リッジ」の説明パネル

すこし遠くの方(東側)になりますが、この場所を象徴する見どころがあります。大きな岩が立ちはだかっています。ワカリジー、通称「為朝岩」です (米軍の通称「ニードル・ロック」)。その通称は比較的新しいもの(近代)のようですが、この岩も聖地の一つでした。浦添市で一番標高が高いところ(約148m)です。

ワカリジー

遺跡見学の最後に、慰霊碑に行ってみましょう。来た方から反対側(北側)を下った所には、「前田高地平和の碑」があります。ここでの戦いで多くの犠牲者を出した部隊(第24師団32連隊)の慰霊碑です。

前田高地平和の碑

そして、ディーグガマ近くの、沖縄戦戦没者を祀った「浦和の塔」です。ここであったことを忘れないようにして、平和をお祈りしましょう。

浦和の塔

浦添城 復元パート

次は、浦添城の復元されたアイテムを見に行きましょう。西側の方に下っていくと、復元された石垣の城壁が見えてきます。こんな城壁が何百メートルも続いていたのです。その周囲を巡っていた城壁を復元することが計画されています。

復元された城壁

この城壁の下の方に復元された「浦添ようどれ」があります。「ようどれ」とは「夕凪(ゆうなぎ)」を表す言葉で、静かな場所・極楽を意味するとも言われます。ようどれに入ると、「暗しん御門(くらしんうじょう)」「二番庭(なー)」「中御門(なーかうじょう)」「一番庭」と進んで墓室の前までは見学できることになっています。(2024年11月下旬時点では「落書き事件」の影響で一時閉鎖中でした)

浦添ようどれの現地案内板
ようどれの入口付近
ようどれの一番庭(墓室前)(Wikimediaより)

浦添ようどれの全景を眺めてみると、曲線の石垣が組み合わされていて、優雅で雄大に感じます。王城というのにふさわしい場所です

浦添ようどれ全景

「浦添グスク・ようどれ館」では、普段でも入れない墓室(西室・英祖王陵)が再現されています。

浦添グスク・ようどれ館

中には3つの石棺(1号〜3号石棺)がありますが、調査の結果によれば(「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」による)、最初は、洞窟の中に建物があって、木製の棺を使っていたそうです。それが、尚巴志王統(第一尚氏)時代以前に、石棺に置き替えられたとのことです。そして1号石棺の方が古く、あとの2つはデザインが似ているので同じ時期に作られた可能性があります。

再現墓室、右側から2号石棺、3号石棺、1号石棺

それでは中に入ってみましょう。例えば、1号石棺の側面には仏像の彫刻があります。

1号石棺の仏像彫刻

2号石棺には、中世本土人の特徴(出っ歯)がある頭蓋骨が入っていました。こんなお墓に入れる本土人がやって来たのかもしれません。

2号石棺

3号石棺にはお骨まで再現されています。埋葬当初は、きれいな布にくるまれていたそうです。

3号石棺

尚巴志ゆかりの地へ

尚巴志の故郷、佐敷城(佐敷上グスク)跡に行ってみましょう。グスク一帯が神社になっています。尚巴志一族を祀るために「月代宮(つきしろのみや)」として建てられたものです。

佐敷城跡入口

中腹のグスクの遺構があるところ(二の郭)まで登ると、神社への参道があります。遺構の説明は所々にはありますが、普通の神社と言われたら、そう思ってしまうかもしれません。

二の郭
内原の殿
上グスクのカマド跡
上グスクの嶽
親井

グスクとしては土造りで、他に見られる本格的な石垣は発見されていないそうです(土留めの石組は発見された)。この辺りでは石材が採れない事情もあったようです。お宮があるところがグスクの中心部で、尚巴志が住んでいたのでしょう。

月代宮(一の郭)

木々の向こうには海が見えます。尚巴志が刀を鉄と交換したエピソードもあるので、交易をやっていたのでしょう。このグスクは、英雄の出身地としては地味かもしれませんが、尚巴志は、お金やパワーを、グスク以外のところに使っていたのではないでしょうか。

二の郭からの眺め

続いて、尚巴志の統一事業の足掛かりになった島添大里城の跡に行きましょう。高台にあって、広々としています。南山王国の本拠地だったとも言われています。

島添大里城跡(二の郭)

グスクの中心部に向かってみると、崩れた石垣が散らばっています。現在は公園になっていますが、戦中戦後に採石されてしまったとも、首里城建設のために持ち去られたとも言われています。

残存している石垣

中心部の一の郭には、かつて正殿がありました。近くの一番高い所に拝所跡(ウティンチヂ)があります。物見台にもなっていたと思われます。

一の郭
拝所跡(ウティンチヂ)からの眺め

他にグスクらしい見どころとしては、「カニマン御嶽(うたき)」があります。

カニマン御嶽

あと、おもしろいのは、グスクの外に設けられた「チチンガー」です。地下8メートルのところにある井戸です。現在も農業用で使われているそうです。井戸であっても、神聖な感じがします。

チチンガー(入口)
チチンガー(通路)
チチンガー(底にある井戸)

首里城の今

いよいよ今回最後の目的地、首里城です。龍潭の畔から眺めると、着々と再建が進んでいることがわかります。

龍潭から見た首里城

さすが沖縄屈指の観光地、再建中でも賑わっています。有名な守礼門から入っていきましょう。

守礼門

外郭の正門「歓会門」の前に来ました。首里城がこのような姿になったのは、15世紀後半の尚真王の時代です。尚巴志の頃はこの門はなかったのですが、琉球国最古の現存絵図(1453年「琉球国図」)によると、王城(首里城)には、石垣で囲まれた内郭と、柵や土塁で囲まれた外郭と思われる部分が描かれています。これは、石垣と土塁を併用した浦添城のスタイルを引き継いだとする意見があります。

歓会門
「琉球国図」の首里城部分(沖縄県立博物館・美術館にて展示)

次は、内郭の正門「瑞泉門」です。ここからが、先に整備された範囲ということになります。漏刻門、広福門と進んで、グスクの中心部に入ります。ここから先は工事中で、大きな素屋根(すやね)は、風雨を防ぐために設置されています。

瑞泉門
漏刻門
広福門
グスク中心部

正面の奉神門は火災で損傷を受けましたが、修復されました。本来その先が御庭(うなー)なのですが、現在(2024年11月下旬時点)は復元工事の見学コースが設定されています。

奉神門
素屋根の建物に描かれた御庭と正殿
復元工事の見学コース通路

見学コースでは、被災した建物の残骸、木材倉庫・加工場見学エリア、素屋根見学エリアなどを見て回ることができます。復元工事は、2026年秋の正殿完成を目指して進んでいます。

被災した龍頭棟飾
被災前の龍頭棟飾
木材倉庫・加工場見学エリア
素屋根見学エリア
正殿の屋根
素屋根建物の裏側

見学コースから出たら、首里城最高地点の 「東(あがり)のアザナ」に行ってみましょう。標高約140メートルあって、物見台だったところです。昔は見張りのための場だったのでしょうが、今は景色を楽しむ場になっています。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(浦添城方面)
東のアザナからの眺め(正殿及び那覇市街方面)

リンク・参考情報

うらそえナビ
沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)
那覇市歴史博物館
らしいね南城市
首里城公園
・「県史シリーズ47 沖縄県の歴史/安里進著」山川出版社
・「日本人として知っておきたい琉球・沖縄史/原口泉著」PHP新書
・「琉球王国 -東アジアのコーナーストーン/赤嶺守著」講談社
・「琉球史を問い直す: 古琉球時代論/吉成直樹著」森話社
・「琉球王国の形成―三山統一とその前後/和田久徳著」榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編、 諸見友重訳」榕樹書林
・「尚氏と首里城(人をあるく)/上里隆史著」吉川弘文館
・「歴史群像144号 戦国の城 浦添グスク/上里隆史著」学研
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」吉川弘文館
・「史跡浦添城跡整備基本計画書(平成 30 年度改定)」浦添市教育委員会
・「浦添ようどれⅠ 石積遺構編 史跡浦添城跡復元整備事業に伴う発掘調査報告」浦添市教育委員会
・「浦添市平和ガイドブック」平成27年4月版 浦添市
・「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」高屋麻里子氏論文
・「石材と人間の民族的・歴史的関わり」神谷厚昭氏(沖縄県立博物館)論文

「浦添城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。