206.浦添城 その3

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

イントロダクション

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

浦添城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(浦添→首里 尚寧王の道をゆくツアー)

浦添ようどれ見学

それでは、ようどれの入口の方に登っていきましょう。今回は大丈夫そうです。復習ですが、ここは中山王・英祖が築いたと言われる王陵で、沖縄戦で破壊されましたが、2005年に復元されています。琉球王国の尚寧王もここに眠っています。

浦添ようどれ入口
浦添ようどれ現地案内図

暗しん御門(くらしんうじょう)を通って入っていきましょう。ここは、沖縄戦の前まではトンネル状になっていて、あの世に行くかのような雰囲気があったそうです。名前の感じのとおりの場所だったのです。

暗しん御門

ここを抜けると、二番庭(にばんなー)です。ここから石垣に囲まれています。そして、中御門(なーかうじょう)の門をくぐると、墓室前の一番庭(いちばんなー)に到着です。

二番庭
中御門
一番庭

手前側の西室が、英祖王陵、奥側の東質が、尚寧王陵とされます。墓室に入ることはできませんが、その代わりに、浦添グスク·ようどれ館で、英祖王陵の再現墓室を見学できます。

英祖王陵
尚寧王陵
浦添グスク·ようどれ館
再現墓室

ようどれとは反対側の「浦添城の前の碑」に移動しました。尚寧王が、首里・浦添間の道路竣工を記念して建てたものです。振り返ると、首里方面が見えるのですが、前回のズーム画像と比較すると、首里城正殿の本物の屋根が見えて、期待できそうです。石畳道の方に行きます。向こうに海や、近くには発掘されたオリジナルの石垣も見えます。

浦添城の前の碑
首里方面の眺め
ズーム画像(首里城正殿)
ズーム画像(前回)
発掘された石垣

尚寧王の道(浦添)

ここからが尚寧王の道です。石畳の道です。発掘調査に基づき、復元されたものです。石の中にはオリジナルのものもあるそうです。石畳が終わって坂を下り、突き当たったら右に曲がります。

尚寧王の道、スタート地点
坂の途中まで石畳が続きます
突き当たりを右です

そして龍福寺跡があるのですが、薩摩軍の琉球侵攻のとき、焼かれてしまったそうです。やはりこの道を攻め上がったのでしょう。次は郵便局を過ぎたら左です。

龍福寺跡
郵便局を過ぎたら左です

車が多い通りは信号のあるところで渡っていただいて、その先が阿波茶橋(あはちゃばし)です。どんどん下って行って、石畳がまた現れます。小湾側とその支流にかけられた2つの石橋です。風情があります。こちらも沖縄戦で破壊され、その後修復されています。橋の表面の、組み合わせた石の形が面白いです。

阿波茶橋に通じる石畳
阿波茶橋
2つの石橋のうち南橋
南橋を渡ります

普通の道路に戻りますが、歴史の道として、ルートがわかるようになっています。その先には、お経を納めた経塚があって、一旦通りに合流しますが、向こうに郵便局が見えてきたところで脇道に入ります。ここも歩道が石畳風です。

「歴史の道」がわかるようになっています
経塚
ここから右側の脇道に入ります
石畳風の歩道

次の見どころに着きます。浦添御殿(うどぅん)の墓です。琉球国王の親戚、浦添家のことで、代々浦添を領地としてきました。その由緒ある家のお墓です。沖縄のお墓はみんな立派ですが、これはまたひときわすごいです。

浦添御殿の墓

尚寧王の道(那覇)

ここからは道を折り返して、那覇に向かっていきます。一路首里城を目指します。浦添御殿から下って、通りに合流したら、すぐに右折します。その先がフェーヌヒラです。南の坂という意味です。こんな坂があるあとは意外ですが、那覇は「坂の町」と言われているそうです。こういうのは歩いてみないとわかりません。

通りに合流したらすぐ右折します
フェーヌヒラ

また通りに合流したらしばらくまっすぐですが、那覇はより市街地化が進んでいるので、わかりにくいところもあるのです。確かに道なりに左に行ってしまいそうな所もあります。

ここは道なりに左方向に行ってしまいそうですが、細い道の方をまっすぐ進みます

そうするうちに平良交差点に出て、渡ったところが太平橋(たいへいきょう)です。普通の端に見えますが、かつてはこちらも石橋で、薩摩軍侵攻のときには、ここで攻防戦がありました。しかし薩摩軍鉄砲隊の猛攻撃により、王国軍は撤退しました。

平良交差点
太平橋

橋を越えると道は細く、登りになって、儀保クビリと呼ばれ、切通しのようになっていました。王国軍としてはこの手前で薩摩軍を食い止めたかったのでしょう。

儀保クビリ

階段を下れば、首里城までは一直線のように見えます。案内標識に守礼門とあります。ゆいレールとも交差すします。首里駅は、左手の方になります。

階段を下ります
守礼門への案内標識
ゆいレールと交差します

歩道が石畳風になってきました。ここもまっすぐ行きましょう。なだらかな坂を登っていくと、アダニガー御嶽(うたき)があります。首里城が近いということでしょうか。そして坂を下ると、見覚えがある場所に出ました。

再び石畳風の歩道
アダニガー御嶽

龍潭の畔です!ここから見ても、首里城の再建が着々と進んでいるのがわかります。尚寧王の道のゴールはもうすぐです。首里城公園の入口に向かいます。ここをゴールにしましょう。すごい達成感でした。

龍潭
完成間近の正殿が見えます
前回の同じ場所からの眺め
首里城公園入口

首里城はどうなっている?

それでは、首里城がどうなっているか見に行きましょう。守礼門に来ました。薩摩軍が首里城には攻め込んだとき、そのときの王様も尚寧王で、和議の方針になっていました。ところが、一部の家臣は抵抗の姿勢を見せたため、薩摩兵は、守礼門の柱を楯にしながらグスクに迫ったそうです。

守礼門

次は歓会門ですが、工事中です。その先からが内郭で、正門の瑞泉門になります。そして、漏刻門、広福門を通れば、奉神門の前に到着です。前回は、ここから工事用の素屋根が見えましたが、中はどうなっているのでしょうか。

歓会門
内郭入口の瑞泉門へ
漏刻門
広福門
奉神門
前回の状況

まだ工事中の壁に覆われてはいますが、小窓から正殿の勇姿が見えます。2025年10月に素屋根は撤去されました(取材時点:2025年11月)。2026年秋の完成を目指して工事が進められています。

まだ工事用の壁はありますが・・
小窓から見える正殿

それから、工事用の壁での展示にも注目です。例えば、正殿の建物ができてくるプロセスを展示しています。これもグスクの歴史の一コマたちなのです。

壁面の展示(正殿建設開始時)
壁面の展示(正殿屋根完成)

裏側に行ってみましょう。こしらの方が正殿が良く見えます。これは、ますます正殿完成が楽しみです!

裏側から見る正殿

最後は恒例で、東(あがり)のアザナからの景色を楽しみましょう。ところで、尚寧王はその後どうなってしまったというと、薩摩軍との和議は成立しましたが、降伏同然だったので、尚寧王は本土に連行され、大御所・徳川家康、将軍・徳川秀忠に謁見させられたのです。徳川や島津の権力を高めるために使われてしまったのです。尚寧王が、島津の従属下になった王国の首里城に戻ったのは、二年ぶりのことでした。その後は王国の復興に努め、9年後に亡くなったのです。

尚寧王の御後絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

東のアザナに着きました。相変わらずすばらしい景色です。正殿もよく見えます。浦添城はどの辺りでしょうか。尚寧王は浦添ようどれで眠っています。きっと生まれた浦添が、安らぎの場所だったのでしょう。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(正殿方面)
東のアザナからの眺め(浦添方面)

リンク・参考情報

尚寧王の道を訪ねる、浦添市(ルートマップ)
尚寧王の道をたどる歴史の道ぶらりルート、うらそえナビ
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

「浦添城その1」に戻ります。
「浦添城その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました

98.今帰仁城 その2

外郭の石垣を眺めながら、大隅(うーしみ)の石垣に迫っていきましょう。一番有名かもしれないスポットです。やっぱり記念撮影場所にもなっています。ほんとうに城壁、という感じがします。グスク全体で見ても、中心部を守る要の位置に当たります。きっと石垣の上から兵士が見張っていたのでしょう。

Introduction

今日は、沖縄県今帰仁村、今帰仁城跡案内板の前にきています。どーんと目立つグスクのディスプレイがかっこいいです。

今帰仁城跡案内板

ここから車などで登っていけば、駐車場があるところに着きます。

グスク跡への登り口
グスク跡駐車場

そこから先にはビジター向けの施設がいくつもあって、例えば今帰仁村歴史文化センターでは、グスクや郷土の歴史のことを勉強できます。券売所では、チケットだけでなく、パンフレットや御城印が手に入ります。

今帰仁村歴史文化センター
券売所

グスク跡の入口にはグスクの模型があって、気分が出ます。

グスク跡入口
グスクの模型

しかし、入口から少し離れたところで、下からオリジナルの登城道があるという情報を発見しました。これはあくまでオプションですが、下の方に戻って、ご案内をやり直すことにします。

登城道「ハンタ道」の説明パネル

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(今帰仁城 景色と歴史ツアー)

登場道「ハンタ道」をゆく

ここが「ハンタ道(みち)」と呼ばれる登城道への入口付近です。脇を川が流れています。親川(エーガー)という泉で、住民の方からは崇拝の対象にもなってきました。自然の恵みを大切にしているのでしょう。

ハンタ道入口付近
親川

ハンタ道に入ります。山道ですが、石が多いです。石が敷き詰められているようです。石垣もあります。かつては松並木もあったそうです。

ハンタ道入口
脇に石垣が残っています

まるでタイルのようになっているところもあります。明治時代の探検家は「城跡に登る山道は、鏡石のような青色の大理石で、滑りやすい」と述べています。その面影が今でも残っています。

タイルのようになっている道

だいぶ登ったところに別の案内があります。「ミームングスク」今帰仁城の出城のようなグスクです。石積みが残っていますが、慎重に登りましょう。海が見えます。そして目を転じると、今帰仁城の曲輪(志慶真門郭)も見えるのです。

ミームングスクの案内
ミームングスク
ミームングスクからの眺め(海の方向)
ミームングスクからの眺め(今帰仁城方向)

もうすぐ今帰仁城に再到着です。その周辺には、祈りの場所がいくつもあるのです。沖縄のグスクの特徴です。ハンタ道は、その参道としても使われたそうです。グスク跡の入口に戻ってきました。

供のかねノロ殿内火の神の祠
今帰仁阿応理屋恵火之神の祠
今帰仁城跡入口付近、左にいくとハンタ道

すばらしい石垣

それでは、外郭の石垣を眺めながら、大隅(うーしみ)の石垣に迫っていきましょう。一番有名かもしれないスポットです。やっぱり記念撮影場所にもなっています。ほんとうに城壁、という感じがします。グスク全体で見ても、中心部を守る要の位置に当たります。きっと石垣の上から兵士が見張っていたのでしょう。

大隅の石垣

城周辺の航空写真

優雅な石垣をもっとよく眺めましょう。高さ7~8メートルくらいで、古期石灰岩の野面積みとのことです。石垣が波打っているところなど、万里の長城を思い起こしてしまいます。中国の技術が導入されているという意見もありますが、はっきりしないそうです。

大隅の石垣を横から見ています
逆方向の平郎門周辺から

グスクの正門、平郎門から中に入っていくことにしましょう。現在の門は1962年に修復されたものですが、厳重さと威厳を感じてしまいます。天井は一枚岩になっているそうです。古期石灰岩は固いので、築城当時は加工が困難だったという事情もありました。門をくぐった後のまっすぐの通路は戦後に整備されたものです(七五三の階段と呼ばれています)。

平郎門
天井の一枚岩
七五三の階段

大隅の中に入ってみましょう。現在は植樹されていますが、当時は兵士の調練の場だったと考えられています。馬の骨がたくさん発掘されたそうです。石垣も内側から見ると、感じが違います。守る方ですので、登りやすくしているのでしょうか。中は結構ゴツゴツとした地形でう。ここには洞窟への入口があって、城外に抜け出れるそうです(現在は閉鎖)。

大隅の内部
内部から見た石垣

次は、通路に戻りますが、途中からかつての旧道を通ってみます。ちょうど、カーザフを見下ろす場所です。カーザフとは「川の谷間」といった意味だそうです。谷間の崖の岩盤にも石垣が積まれています。

カーザフ

旧道を歩きましょう。発掘によって確認された道で、少し登りにくいですが、防御を重視するグスクらしいとも言えます。さっきハンタ道を歩いたので平気です。そして、城の中心部の一つ、大庭(うーみやー)に到着します。

旧道

すばらしい景色

大庭の中は、今は主に歌碑があるだけですが、かつては北殿・南殿があって、首里城でいえば御庭(うなー)のような場所と考えられます。儀式などが行われたのでしょう。

大庭
志慶真乙樽の歌碑と北殿跡

次は景色がいい場所に行きましょう。グスク内で最も標高が高く、御嶽(うたき)がある重要な場所、御内原(うーちばる)です。入口には御嶽の一つ、ソイツギがあります。

ソイツギ

御内原は、かつては女官部屋があった場所だったと言われます。大奥のような場所だったのでしょうか。

御内原

そこからは、すばらしい景色です。大隅の石垣に、青い海に青い空・・・沖縄らしい景色です。

御内原からの眺め

反対側に行ってみましょう。すごく深い谷になっています。谷底を志慶真(しげま)川が流れています。さらに進むと奥の曲輪(志慶真門郭、しじまじょうかく)も見えます。

反対側は深い谷になっています
背後を守る志慶真門郭(しじまじょうかく)

これから主郭に向かいますが、途中にまた重要な御嶽があります。グスク内で最も神聖な聖地、テンチジアマチジです。実は、ここは尚巴志軍との戦いのときに、北山王・攀安知(はんあんち)が切り刻んだ霊石があったところと言われているのです。それから宝剣を向こうの川に投げ込んだという訳です。

テンチジアマチジ(城内上の御嶽)
川に投げ込んだとされる宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

いよいよ、主郭です。発掘調査により、時代区分ごとの遺構が見つかっています。

主郭

まず、初期の時代に版築や石積みにより土台を固めた跡(第1期)があります。

版築の層を説明したパネル

そして北山王国が発展したときの正殿跡です(第2期)。発掘で基壇が発見されましたが、柱を支える礎石は失われていました。それでもひとかたならぬ建物があったと感じます。

第2期正殿の基壇

北山監守時代の遺構がその先にあります(第4期)。北山王国全盛期の正殿跡(第3期)は、その下に埋もれているようです。正殿の後に建てるくらいですから、監守が住んでいたのでしょう。

監守時代の建物礎石

現在あるのは、グスクが廃城になったあとに建てられた火神(ひのかん)の祠です。現在の祠は20世紀の建築で、発掘調査時に元の位置(中心部)から現在地に移されました

火神の祠

グスクの裏手も圧巻

一番奥の曲輪、志慶真門郭(しじまじょうかく)に向かいます。主郭の奥の門から出て、階段を下っていきます。ずいぶんと高低差があります。下っていくときの景色も見ものです。今度は草木の緑も加わったすばらしい眺めです。

主郭から見た志慶真門郭
ここから出ます
主郭から階段を下ります
下る途中の眺め

建物の跡が見えます。発掘調査により、4つの掘立柱建物の跡が見つかり、家臣の住居だったと考えられています。石垣もよく残っています。その上を兵士が行き来していた感じがわかります。この曲輪は、グスクの全盛期に築かれたと考えられています。グスクの裏手を守る重要な曲輪だったのです。主郭の石垣がそびえ立っているのもグッドポイントです。

曲輪内の建物跡と石垣
そびえ立つ主郭の石垣

振り返ると、グスクの裏門・志慶真門(しじまじょう)跡があります。この門は南側を向いていますので、定説の方ではありませんが、尚巴志軍が放火するためにグスクの南西側から忍び寄った場所かもしれません(定説では本部平原が裏切って敵をここから引き入れたとか)。

志慶真門跡

それでは主郭の方に戻りましょう。今度は迫りくる主郭の石垣が目立ちます。行き帰りで違った見方で景色を楽しむことができます。

帰りはちがった景色を楽しめます
主郭石垣

お時間があれば、外郭の石垣もご覧になってはいかがでしょう。南側はカーザフの向かい側から始まっています。石が新しいので、復元されたものでしょうか。

外郭南側の石垣

こちらは、北側です。古そうな感じです。ここまで歩いていただければ、総延長1.5kmと言われる石垣の長さを感じられると思います。

外郭石垣(北側)

リンク、参考情報

世界遺産 今帰仁城跡(公式サイト)
今帰仁グスクをガイドと歩く
・「世界遺産今帰仁城跡・今帰仁村文化財ガイドブックvol.1」沖縄県今帰仁村教育委員会
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」
・「琉球王国の形成/和田久德著」 榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編著 諸見友重訳注」 榕樹書林
・「訳注 蔡鐸本中山世譜/首里王府編著 原田兎雄訳注」 榕樹書林
・「広報 なきじん」
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林
・「沖縄県立博物館所蔵「琉球國圖」/深瀬公一郎。渡辺 美季著」琉球大学学術リポジトリ
世界遺産『今帰仁城跡』取材:東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター(Yutubeビデオ)

「今帰仁城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

73.広島城 その2

今日は、広島復興の象徴、平和大通りに来ています。ここは城と関係あるのかと思いますが、実はこの平和大通りの辺りが、城が築かれた時の海岸線だったのです。この通り沿いにある白神社のところに、その証拠があります。脇の方から入っていくと、自然の岩が並んでいます。これは、当時海岸線にあった岩礁なのです。広島城と町の開発の記念碑のようなものと言えるでしょう。

Introduction

今日は、広島復興の象徴、平和大通りに来ています。ここは城と関係あるのかと思いますが、実はこの平和大通りの辺りが、城が築かれた時の海岸線だったのです。この通り沿いにある白神社のところに、その証拠があります。脇の方から入っていくと、自然の岩が並んでいます。これは、当時海岸線にあった岩礁なのです。広島城と町の開発の記念碑のようなものと言えるでしょう。

平和大通り
白神社
白神社の岩礁

今回は、ここを出発点にして、平和記念公園や原爆ドームを経由して、広島城に向かいましょう。そこを過ぎたら、城の痕跡がいくつもあるのです。今残っている城の範囲は、二の丸と本丸ですので、復元された二の丸の建物を見学してから、本丸と天守に向かいましょう。最後には、縮景園にも行ってみたいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

関連史跡(平和記念公園を経由して城の痕跡を探そう)

実は平和記念公園は、ここからすぐ近くなのです。平和大通りを西に進んで、平和大橋を渡れば、もう平和記念公園です。わたしたちも平和を祈りましょう。

平和大橋を渡っています
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)

原爆ドームに向かって、川沿いを歩きます。この公園は中州にあるのです。その一部はかつては材木町といって、江戸時代は材木の集積場だったようです。ということは、きっとこの川を舟が行き来していたのでしょう。原爆ドームが見えてきました。

中州の川沿いを歩きます

こちらも世界的な平和のモニュメントです。形で残すって大事なことだと思います。実は、原爆ドームに面した通りは、広島城の外堀だったのです。

原爆ドーム(広島平和記念碑)

原爆ドームから北に歩いているところが、かつては外堀でした。ずっと水に満たされていたということです。門があったと思われる辺りに来ましたが、案内などは見当たらないので、太田川の方に出てみましょう。

外堀だったところを歩いています
この辺りに小姓町口御門がありました

川沿いに出て、北の方に歩いていくと、なにかありました。「広島城、外郭櫓跡」とあります。こんなところにまで櫓が並んでいたのです。

太田川の川沿い
広島城外郭櫓跡の説明パネル

通りに突き当たったら、右に曲がります。今度は「中堀跡」ときました。通りの地下道に入って、出たところが三の丸です。三の丸は、商業・文化施設が集まる場として開発が進められています。そこを抜けると、二の丸です。

中堀跡
通りの地下道に入ります
三の丸
二の丸に着きました

特徴、見どころ

二の丸を見学

二の丸は、本丸を守るための馬出し状の曲輪です。広島城の特徴の一つです。正面を、表御門や平櫓が守り、周りも多聞櫓や太鼓櫓が固めます。中は、兵士の集合場所になっていました。本丸の入口も枡形になっています。

二の丸全体図、二の丸建物内にて展示

御門橋を渡って、表御門に入っていきましょう。そして復元された建物群の中に入っていきます。

手前が御門橋、向こうが表御門
建物への入口

まずは、平櫓です。真ん中に畳スペースがあります。周りは、格子窓と狭間だらけです。正面の方に行ってみと、さっき歩いた三の丸が見えます。

平櫓内部
格子窓と狭間
格子窓から見える三の丸
平櫓の外観

表御門の櫓部分に入ってみましょう。結構広い感じがします。中からはさっき渡った御門橋が見えます。

表御門櫓部分内部

次は、多聞櫓の中を歩きましょう。ずいぶんと長くて、建物の長さは、約68メートルもあります。いろんな展示もあります。例えば、戦後に再建された天守の初代鯱瓦があります。台風によって尻尾が折れてしまったため、取り換えられたそうです。確かに尻尾がありません。

多聞櫓内部
再建天守の初代鯱瓦

端の太鼓櫓に着きました。角地を守る櫓でした。二階には上がれませんが、そこにあったという太鼓が一階の方にあります。門の開閉や、登城のときを告げていました。説明パネルには、たまに時刻を間違えたなんて書いてあります。

太鼓櫓内部
太鼓櫓外観
一階に太鼓が置いてあります

いよいよ、本丸に向かいます。中御門の枡形が残っています。建物は戦前まで残っていましたが、原爆により焼失し、そのときの熱で石垣が変色しています。

中御門跡
変色した石垣

「閉城」前の天守へ

本丸は、上段と下段に分かれていて、江戸時代には上段に御殿が、下段には馬場や米蔵があったそうです。

城周辺の航空写真

中御門跡から本丸下段に入っていきますが、現在奥の方には、護国神社があります。でもわたしたちは、その手前の場所に行きます。

広島護国神社

動員された女学生たちががんばっていたところで、原爆被災時、かろうじて生き残った彼女たちが、被災第一報を連絡したと言われています。

中国軍管区指令部 防空作戦室跡

それでは、上段に向かいます。現在は広場になっているのですが、史跡としてはこちらが目立っています。日清戦争のときの大本営跡です。広島が臨時首都みたいになったときのことです。

広島大本営跡

大本営跡を通り過ぎていくと、天守が見えてきました。階段を登ったところが、ちょうど南小天守があったところです。小天守自体は明治になって取り壊されてしまいました。ここから見る天守は、コンクリート造りの建物とは思えません。外観復元天守の中でも、本物に近いと評価されています。すごい人気です。外国の人も閉城って知っているのでしょうか?わたしたちもチケットを買って並びましょう。

天守が見えてきました
南小天守跡
外観復元天守
外国の方も含めすごい人気です

中は歴史博物館で、外観と同じ5層構成になっています。第1層は「広島城の成立と役割」の展示で、お城ファンの方は必見です。出土した毛利時代の金箔瓦があります。本丸御殿の内部模型あって、さっきの広場を埋め尽くしていました。

天守第1層の展示
毛利時代の金鯱瓦
本丸御殿内部模型

第2層は「城下町広島のくらしと文化、第3層は甲冑や刀剣、第4層はときどきの企画展示と来て、第5層はやっぱり展望室です。さすがいい景色です。お殿様でもめったに天守に登らなかったというから、現在のビジターは恵まれています。しかし閉城になったら、しばらくはお預けです。

天守第2層の展示
天守第3層の展示
天守第5層、北側の眺め
天守第5層、東側の眺め
天守第5層、南側の眺め


最後にお気に入りの展示をご紹介します。第1層にある広島城下の模型です。今日歩いたルートがばっちりわかります。

広島城下の模型

せっかくなので、東小天守跡も見て行きましょう。こちらは随分ひっそりしています。傍らに、オリジナル天守の礎石も展示されています。この石の上に柱が立てられていたのです。東子天守跡も南と同じようになっています。小天守も、復元が検討されています。でも史料が少ないので苦労しているようです。もし復元されたら、天守と一緒にどんな風に見えるのでしょうか。

オリジナル天守の礎石
東小天守跡
東小天守から見た天主

平和の庭園・縮景園

これから縮景園に向かいすけど、その途中の見どころもご紹介します。東小天守の跡から石垣の上を歩いていくと、石垣が切れるところに着きます。これが、福島正則が本丸の石垣を壊したところと考えられています。ということは、元はこの石垣が続いていたのでしょうか。

崩された石垣

そこから近い、裏御門跡から出ることにしましょう。こちらも戦前まで建物が残っていました。今は車の出入口になっています。

裏御門跡
車の通り道になっています

お時間があれば、内堀の周りを歩いてみることもおすすめです。先ほど中に入った南東側の太鼓櫓や、北西側から天守を眺めるのがいいと思います。結果的に、内堀を一周してしまうかもしれません。

内堀の外、北西側から見た天守

縮景園に着きました。城と離れているように思いますが、江戸時代は、外堀が隣接していたのです。

縮景園入口

最初は浅野初代藩主・長晟(ながあきら)の別邸庭園として、上田宗箇が作庭しました。しかし大火があって、7代藩主・重晟のときに復興されました。そのときに作られたのが、現在でも一番人気の「跨虹橋(ここうきょう)」です。

跨虹橋

見どころはたくさんありますが、それぞれのお気に入りを見つけてはいかがでしょうか。例えば、石庭が好きな方には、「積翠厳(せきすいがん)」という石組や、滝に通じる流れが、白い竜のような曲水として表現されている「白龍泉(はくりゅうせん)」がいいかもしれません。

積翠厳
白龍泉

池泉庭園が好きな方は、島伝いの石橋が押しかもしれません、お殿様が参勤交代のときに眺めた瀬戸内海を表現したものとされています。

橋梁・島嶼

最高地点の「迎暉峰(げいきほう)」に登ります。お殿様もわたしたちも高い所が好きなのです。すばらしい眺めです。この庭園も原爆のときに壊滅状態になって、約30年かけて復旧されたそうです。ずっと平和のシンボルであってほしいです。

迎暉峰
迎暉峰からの眺め

リンク、参考情報

広島城公式ホームページ
縮景園公式ホームページ
・「秀吉の接待-毛利輝元上洛日記を読み解く/二木謙一著」学研新書
・「福島正則/福尾猛市郎・藤本篤著」中公新書
・「シリーズ藩物語 広島藩/久下実著」現代書館
・「歴史群像名城シリーズ9 広島城」学研
・「広島城四百年/中國新聞社編」第一法規
・「広島城天守に関する基本的な情報について」令和5年度第1回広島城天守の復元等に関する検討会議資料
・「徳川幕府の大名改易政策を巡る一考察/笠谷和比古氏論文」国際日本文化研究センター学術リポジトリ
・「しろうや!広島城」広島城広報紙

「広島城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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