206.浦添城 その2

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。

特徴、見どころ

Introduction

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。ご紹介する順番は、ゆいレールで行ける浦添城と首里城を続けるのではなく、建国ストーリーに沿って古い方からにします。

那覇空港到着ロビー

それでは最初の浦添城に向けて出発しましょう。空港からゆいレールに乗り込めば、最寄りの浦添前田駅に到着します。

ゆいレール(那覇空港駅)
浦添前田駅

浦添城 遺跡パート

浦添城跡は「浦添大公園」の一部(歴史学習ゾーン)になっていて、南エントランスから入っていきます。

浦添城跡の現地案内板

駐車場の脇の坂を登って行くと、古そうな道になってきます。これが復元整備された、首里城と結ばれた石畳道の一部です。

復元整備された石畳道

登った先に、石垣が見えてきます。埋もれていたオリジナルの城壁の石垣が、発掘により姿を現したのです。

発掘された石垣

更に登って行くとその途中に、尚寧王が建てた、石畳道の完成記念碑(浦添城の前の碑)が復元されています。南側への展望が開けた場所で、遠くに首里城も見えます。

浦添城の前の碑
城跡南側の眺め
再建中の首里城(2024年11月下旬時点)

丘の上は、戦災や採石の影響で、遺跡はほとんど残っていません。正殿跡と思われる場所や、浦添尚家の屋敷跡と言われる石の基礎が残っています。

丘の上
正殿跡と思われる場所
浦添尚家の屋敷跡とされる場所

グスク内の祈りの場所であった「ディーグガマ(デイゴの樹があった御嶽)」の跡が残っています。沖縄戦のときは、住民の避難場所だったそうです。

ディーグガマ

丘の上からの景色を眺めてみましょう。説明パネルがあって「ハクソー・リッジ」とあります。激戦があった場所です。見晴しがいいことで、戦いの場になってしまったのです。景色を楽しむことができる世の中が続いてほしいです。

城跡南側の眺めと「ハクソー・リッジ」の説明パネル

すこし遠くの方(東側)になりますが、この場所を象徴する見どころがあります。大きな岩が立ちはだかっています。ワカリジー、通称「為朝岩」です (米軍の通称「ニードル・ロック」)。その通称は比較的新しいもの(近代)のようですが、この岩も聖地の一つでした。浦添市で一番標高が高いところ(約148m)です。

ワカリジー

遺跡見学の最後に、慰霊碑に行ってみましょう。来た方から反対側(北側)を下った所には、「前田高地平和の碑」があります。ここでの戦いで多くの犠牲者を出した部隊(第24師団32連隊)の慰霊碑です。

前田高地平和の碑

そして、ディーグガマ近くの、沖縄戦戦没者を祀った「浦和の塔」です。ここであったことを忘れないようにして、平和をお祈りしましょう。

浦和の塔

浦添城 復元パート

次は、浦添城の復元されたアイテムを見に行きましょう。西側の方に下っていくと、復元された石垣の城壁が見えてきます。こんな城壁が何百メートルも続いていたのです。その周囲を巡っていた城壁を復元することが計画されています。

復元された城壁

この城壁の下の方に復元された「浦添ようどれ」があります。「ようどれ」とは「夕凪(ゆうなぎ)」を表す言葉で、静かな場所・極楽を意味するとも言われます。ようどれに入ると、「暗しん御門(くらしんうじょう)」「二番庭(なー)」「中御門(なーかうじょう)」「一番庭」と進んで墓室の前までは見学できることになっています。(2024年11月下旬時点では「落書き事件」の影響で一時閉鎖中でした)

浦添ようどれの現地案内板
ようどれの入口付近
ようどれの一番庭(墓室前)(Wikimediaより)

浦添ようどれの全景を眺めてみると、曲線の石垣が組み合わされていて、優雅で雄大に感じます。王城というのにふさわしい場所です

浦添ようどれ全景

「浦添グスク・ようどれ館」では、普段でも入れない墓室(西室・英祖王陵)が再現されています。

浦添グスク・ようどれ館

中には3つの石棺(1号〜3号石棺)がありますが、調査の結果によれば(「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」による)、最初は、洞窟の中に建物があって、木製の棺を使っていたそうです。それが、尚巴志王統(第一尚氏)時代以前に、石棺に置き替えられたとのことです。そして1号石棺の方が古く、あとの2つはデザインが似ているので同じ時期に作られた可能性があります。

再現墓室、右側から2号石棺、3号石棺、1号石棺

それでは中に入ってみましょう。例えば、1号石棺の側面には仏像の彫刻があります。

1号石棺の仏像彫刻

2号石棺には、中世本土人の特徴(出っ歯)がある頭蓋骨が入っていました。こんなお墓に入れる本土人がやって来たのかもしれません。

2号石棺

3号石棺にはお骨まで再現されています。埋葬当初は、きれいな布にくるまれていたそうです。

3号石棺

尚巴志ゆかりの地へ

尚巴志の故郷、佐敷城(佐敷上グスク)跡に行ってみましょう。グスク一帯が神社になっています。尚巴志一族を祀るために「月代宮(つきしろのみや)」として建てられたものです。

佐敷城跡入口

中腹のグスクの遺構があるところ(二の郭)まで登ると、神社への参道があります。遺構の説明は所々にはありますが、普通の神社と言われたら、そう思ってしまうかもしれません。

二の郭
内原の殿
上グスクのカマド跡
上グスクの嶽
親井

グスクとしては土造りで、他に見られる本格的な石垣は発見されていないそうです(土留めの石組は発見された)。この辺りでは石材が採れない事情もあったようです。お宮があるところがグスクの中心部で、尚巴志が住んでいたのでしょう。

月代宮(一の郭)

木々の向こうには海が見えます。尚巴志が刀を鉄と交換したエピソードもあるので、交易をやっていたのでしょう。このグスクは、英雄の出身地としては地味かもしれませんが、尚巴志は、お金やパワーを、グスク以外のところに使っていたのではないでしょうか。

二の郭からの眺め

続いて、尚巴志の統一事業の足掛かりになった島添大里城の跡に行きましょう。高台にあって、広々としています。南山王国の本拠地だったとも言われています。

島添大里城跡(二の郭)

グスクの中心部に向かってみると、崩れた石垣が散らばっています。現在は公園になっていますが、戦中戦後に採石されてしまったとも、首里城建設のために持ち去られたとも言われています。

残存している石垣

中心部の一の郭には、かつて正殿がありました。近くの一番高い所に拝所跡(ウティンチヂ)があります。物見台にもなっていたと思われます。

一の郭
拝所跡(ウティンチヂ)からの眺め

他にグスクらしい見どころとしては、「カニマン御嶽(うたき)」があります。

カニマン御嶽

あと、おもしろいのは、グスクの外に設けられた「チチンガー」です。地下8メートルのところにある井戸です。現在も農業用で使われているそうです。井戸であっても、神聖な感じがします。

チチンガー(入口)
チチンガー(通路)
チチンガー(底にある井戸)

首里城の今

いよいよ今回最後の目的地、首里城です。龍潭の畔から眺めると、着々と再建が進んでいることがわかります。

龍潭から見た首里城

さすが沖縄屈指の観光地、再建中でも賑わっています。有名な守礼門から入っていきましょう。

守礼門

外郭の正門「歓会門」の前に来ました。首里城がこのような姿になったのは、15世紀後半の尚真王の時代です。尚巴志の頃はこの門はなかったのですが、琉球国最古の現存絵図(1453年「琉球国図」)によると、王城(首里城)には、石垣で囲まれた内郭と、柵や土塁で囲まれた外郭と思われる部分が描かれています。これは、石垣と土塁を併用した浦添城のスタイルを引き継いだとする意見があります。

歓会門
「琉球国図」の首里城部分(沖縄県立博物館・美術館にて展示)

次は、内郭の正門「瑞泉門」です。ここからが、先に整備された範囲ということになります。漏刻門、広福門と進んで、グスクの中心部に入ります。ここから先は工事中で、大きな素屋根(すやね)は、風雨を防ぐために設置されています。

瑞泉門
漏刻門
広福門
グスク中心部

正面の奉神門は火災で損傷を受けましたが、修復されました。本来その先が御庭(うなー)なのですが、現在(2024年11月下旬時点)は復元工事の見学コースが設定されています。

奉神門
素屋根の建物に描かれた御庭と正殿
復元工事の見学コース通路

見学コースでは、被災した建物の残骸、木材倉庫・加工場見学エリア、素屋根見学エリアなどを見て回ることができます。復元工事は、2026年秋の正殿完成を目指して進んでいます。

被災した龍頭棟飾
被災前の龍頭棟飾
木材倉庫・加工場見学エリア
素屋根見学エリア
正殿の屋根
素屋根建物の裏側

見学コースから出たら、首里城最高地点の 「東(あがり)のアザナ」に行ってみましょう。標高約140メートルあって、物見台だったところです。昔は見張りのための場だったのでしょうが、今は景色を楽しむ場になっています。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(浦添城方面)
東のアザナからの眺め(正殿及び那覇市街方面)

リンク・参考情報

うらそえナビ
沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)
那覇市歴史博物館
らしいね南城市
首里城公園
・「県史シリーズ47 沖縄県の歴史/安里進著」山川出版社
・「日本人として知っておきたい琉球・沖縄史/原口泉著」PHP新書
・「琉球王国 -東アジアのコーナーストーン/赤嶺守著」講談社
・「琉球史を問い直す: 古琉球時代論/吉成直樹著」森話社
・「琉球王国の形成―三山統一とその前後/和田久徳著」榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編、 諸見友重訳」榕樹書林
・「尚氏と首里城(人をあるく)/上里隆史著」吉川弘文館
・「歴史群像144号 戦国の城 浦添グスク/上里隆史著」学研
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」吉川弘文館
・「史跡浦添城跡整備基本計画書(平成 30 年度改定)」浦添市教育委員会
・「浦添ようどれⅠ 石積遺構編 史跡浦添城跡復元整備事業に伴う発掘調査報告」浦添市教育委員会
・「浦添市平和ガイドブック」平成27年4月版 浦添市
・「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」高屋麻里子氏論文
・「石材と人間の民族的・歴史的関わり」神谷厚昭氏(沖縄県立博物館)論文

「浦添城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

70.岡山城 その2

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

岡山駅前の桃太郎像

岡山駅からの正面コース

岡山駅から岡山城までは、2キロくらいあるので、路面電車やレンタルサイクルを利用するのもいいでしょう。

路面電車
岡山市コミュニティサイクル 「ももちゃり」

駅前の「桃太郎大通り」をまっすぐ進むと、道の途中は、すっかり市街地になっていますが、外堀や中堀だった場所がわかるようにパネルが設置されています。

外堀跡
中堀跡

交差点に突き当たった場所は、内堀の中でした。右の方に向かうと、数少ない現存する城の建物の一つ、西の丸西手櫓が姿を現します(国の重要文化財に指定)。かつては、堀に向かってそびえていました。

突き当たりの交差点
西の丸西手櫓

次は、西の丸を回り込んでみましょう。西の丸の石垣が続きます。歩いている道も、堀だったのでしょう。やがて、石山門跡に着きます。建物は残念ながら戦災で燃えてしまいました。入口へは橋が堀を渡っていました。

西の丸石垣
石山門跡

更に進むと、今度は岡山城創建の地が見えてきます。石山の城(旧本丸)です。石垣は、池田氏の時代のもののようです。東側の入口から見ると、今は駐車場になっています。ちなみに、この辺から見える天守の姿は、スマートに見えて面白いです。

石山の城
石山の城への入口
西側から見た天守

いよいよ本丸です。本丸へは、内堀にかかる橋(目安橋)を渡っていきます。渡った先の本丸入口は枡形(四角い防御空間)になっています。内下馬門(うちげばもん)跡です。

目安橋
内下馬門跡

本丸は、三段構成になっていて、高い方から順に、本段、中の段(表向)、下の段と呼ばれています。特に中の段は、小早川・池田時代に拡張されました。門跡から進んでいくと、中の段の隅にある大納戸櫓跡の石垣が見えます。小早川氏の時代に築かれたと言われています。最初に歩いている低い場所が下の段です。

大納戸櫓跡
下の段、中の段の石垣が見えます

本段の石垣も、中の段の入口にかけて改修されています。宇喜多時代の石垣を、小早川・池田時代にかけて継ぎ足したり、修理したりしました。中の段の入口、鉄門(くろかねもん)跡を登っていくと、本段への入口、不明門(あかずのもん、再建)前に着きます。

本段(右)から中の段の入口(左)にかけての石垣
鉄門跡
不明門

旭川沿いの搦手?コース

次のコースは、京橋から旭川沿いに城にアクセスします。京橋は、宇喜多秀家の時代に最初に架けられたそうです。

現在の京橋
川沿いに展示されている江戸時代の京橋の橋脚

川沿いに東門跡、素軒屋敷櫓(そけんやしきやぐら)跡が現れます。こんなところにも門や櫓があったのです。続いて、二の丸伊木長門屋敷内櫓跡もあります。二の丸の重臣の屋敷内にも櫓があったようです。天守も見えてきました。

東門跡
素軒屋敷櫓跡
二の丸伊木長門屋敷内櫓跡
南側から見た天守

本丸に着いたら、石垣を見学しましょう(本段南東部の高石垣)。すごい迫力です。宇喜多秀家時代に築かれたもので、自然石を積み上げた野面積みの手法によります。高さが約15メートルあって、当時は屈指の高石垣でした。見ているうちに、安土城の石垣を思い出しました。やはり、安土城のやり方を引き継いでいるものがあるのでしょう。

本段南東部の高石垣
安土城二の丸の石垣

川沿いに戻って、天守の方に進むと、宇喜多時代と小早川時代の石垣の継ぎ目を見ることができます。後の小早川時代の方が、小さい石を使って積まれています。急いで作ったからなのでしょうか?池田氏の時代に作られた門(六十一雁木下門跡)の跡を見て進むと、天守台石垣に至ります。

2つの時代の石垣の継ぎ目、左側が宇喜多時代、右側が小早川時代
六十一雁木下門跡

オリジナルの天守が焼けたとき、外側の石垣の方に崩れてきたそうです。そのため、石垣も焼けてしまっています。まさに歴史の証人です。

天守台石垣
天守を見上げています

天守の近くにある、本丸裏手の廊下門(再建)から入ると、このコースも本丸・中の段に到着です。

天守のビュースポット
廊下門

天守登閣→御殿めぐり

それでは、不明門から本段の中に入っていきましょう。本段はお殿様の住居なので、普段はこの門が閉ざされていて、こういう名前になったと言われています。本段の中には、オリジナルの天守の礎石が並んでいます。天守焼失後に現在地に移されました。

不明門
オリジナル天守の礎石

現在の外観復元天守の中は歴史博物館になっていますが、最近リニューアルされました。例えば、「城主の間」が再現されていたり、3大名家の「それぞれの関ヶ原」の展示があったりします。

現在の天守(外観復元)
天守地階
城主の間(天守2階)
それぞれの関ヶ原・宇喜多パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・小早川パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・池田パート(天守3階)

天守5階には、金鯱が展示されています。実際に屋根に乗っているものも、同じ階から間近に見ることができます。最上階(6階)では、屋内からではありますが、周りの景色を楽しむことができます。天守1階には休憩コーナがあって、城の解説ビデオを視聴することができます。

展示されている金鯱(天守5階)
屋根の上の金鯱(天守5階から)
最上階からの景色(後楽園)
天守1階

その解説ビデオで殿様の一日を再現していたので、少しトレースしてみましょう。帰りは、天守の脇から廊下門の方に出てみます。お殿様が、本段の御殿から、政務を行った表書院に通ったルートだったからです。お殿様は、門の上の渡り廊下を渡ったのです。

天守から廊下門のところに出ました。

廊下門から、表書院に向かい、中の招雲閣で政務を行い、南座敷で書画に親しみました。現在では、地面の上に間取りが表現されています。そして家老と相談があるときには、茶室で行ってました。

奥が天守、左側が廊下門、手前が表書院のあった中の段
表書院の招雲閣(奥)、南座敷(手前)跡
茶室跡

それから中の段で面白いのが、掘り出された宇喜多時代の石垣が見学できることです。中の段を広げるときに埋められたものです。元は、門の一部だったのでしょうか。

宇喜多時代の石垣

殿様気分で後楽園へ

後楽園に行く前に、現存する月見櫓もチェックしていきましょう。この櫓は池田時代に立てられているので、天守台の石垣や、天守の建物とは雰囲気が違います。石落としが、ばっちりこちらを狙っていて、となりの石垣には銃眼が並んでいます。内側から見たときの優雅な姿とは全然違います。守りのために漆喰で塗り固めたので、戦災を生き残れたという話もあります。現在は、国の重要文化財に指定されています。

現存する月見櫓(外側)
石垣に並ぶ銃眼
内側から見た月見櫓

それでは、後楽園に向かいましょう。

城と後楽園を結ぶ月見橋
後楽園入口(正門)

ここでは、園外の景色も一体として考えているそうです。岡山城もその一つです。

後楽園と借景(操山)
後楽園と借景(岡山城)

かつては、タンチョウが放し飼いにされていました。現在は、秋冬にタンチョウの園内散策が披露されています。

現在の鶴舎

これが、藩主の居間だった延養亭(えんようてい)で、戦災で焼失しましたが復元されています。

延養亭

となりに、鶴鳴館(かくめいかん)という接待用の建物があったのですが、これも戦災で焼失し、戦後に岩国の吉川家のお屋敷(明治時代建築)を移築して、同名の建物として継続しています。

鶴鳴館(移築)

築山(唯心山)は、創建者・池田綱政の子、継政が作りました。ここからだと、芝生や池がよりきれいに見えますが、その中には田んぼ(井田、せいでん)もあります。それは後楽園(御後園)の当初の姿の名残りと言われています。

唯心山
唯心山からの景色(井田)

現存する建物の一つ、流店で休憩するのもいいでしょう。最後は、これも現存する廉池軒(れんちけん)の前にきました。池田綱政のお気に入りの場所だったそうです。貢献した家臣をここに招いたりもしていたそうです。

流店
廉池軒

リンク、参考情報

岡山城公式ウェブサイト
川面に映える金烏城 岡山城、岡山市
岡山後楽園
宇喜多直家公の足跡を巡る、岡山市・瀬戸内市観光連携事業実行委員会
・「現代語訳 備前軍記/土肥経平原著 柴田一編著」山陽新聞社
・「宇喜多直家・秀家/渡邊大門著」ミネルヴァ書房
・「「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家/大西泰正著」角川新書
・「宇喜多秀家: 秀吉が認めた可能性/大西泰正著」平凡社
・「シリーズ・実像に迫る13 宇喜多秀家/大西泰正著」戎光祥出版
・「歴史群像名城シリーズ12 岡山城/学研」
・「よみがえる日本の城5」学研
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「百間川小史」国土交通省岡山河川事務所
・「池田家文庫絵図展(図録) 岡山藩の教育」岡山大学付属図書館、岡山市デジタルミュージアム

「岡山城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

77.高松城 その2

前回ご説明した城跡開発の経緯から、高松駅は城跡のすぐ近くにあります。ビジターにとっては便利です。期せずして、高松城とってのアピールポイントになっていると思います。

特徴、見どころ

駅近のお城に行ってみよう

前回ご説明した城跡開発の経緯から、高松駅は城跡のすぐ近くにあります。ビジターにとっては便利です。期せずして、高松城とってのアピールポイントになっていると思います。

高松駅

それでは高松駅から「玉藻公園」になっている城跡に向かいましょう。最初に歩いているのは、昔の中堀・西の丸辺りでしょうか。

駅から公園まで240mという表示があります

公園の入口を示す石碑があるところは、かつては内堀と海岸の境目辺りでした。駅に近い公園西門は「刎橋口」と呼ばれました。

「玉藻公園」の石碑

中に入ったところが二の丸で、先に進むと三の丸です。三の丸の北側には石垣が続いていて、かつては多門櫓が建っていました。石段を登ると海が見えて、海が近いことがわかります。かつては石垣の下が海岸でした。

三の丸の石垣、向こうに見えるのは月見櫓
石垣からは海が見えます

更に進むと、次は北の丸です。ここはなんといっても月見櫓でしょう。通常、日曜日は中に入れるのですが、当方が訪問したときはそうでなくて残念でした。ちなみに当初は「月を見る」ではなく「着くのを見る」という名前だっだそうです。平和な時代になって、名前も風流になったのかもしれません。

月見櫓(着見櫓)

月見櫓のとなりの水手御門は閉まっています。表側はどうなっているか後で見に行きましょう。

水手御門(裏側)

三の丸の中に戻ってみると、松平家が大正時代に建てた「被雲閣」があります。これも重要文化財に指定されました(2012年)。その庭園も国の名勝(2013年)になっています。もうお城のオリジナルと言っていいくらい年季が入っています。

被雲閣と庭園

天守への道

今度は、公園東門から入って、天守台まで行ってみましょう。こちら側がお城の大手口になります。ここでの見どころは艮櫓(うしとらやぐら)です。特に石落としが目立ちます。北東隅にあったものを、南東隅に移したので、90度回転させて移築したそうです。しかし櫓台の形状がちがうので、石落としの一部がお城の中に向いてしまっています。だいぶ苦労したのでしょう。

艮櫓
城の内側からみた艮櫓

大手門(旭門、公園の東門)の前の橋(旭橋)は斜めにかかっています。これは、敵に斜めに走らせて、城から側面攻撃できるようにするためだそうです。門の建物(高麗門)も現存しているものの一つです。

旭橋と現存する高麗門(奥)

門は石垣に囲まれて、枡形を形成しています。石垣をくり抜いて作った「埋門(うずみもん)」があり、敵をここから奇襲するためと言われています。

大手門の枡形
奥に見えるのが埋門

桜の馬場を通って、お堀をまた渡ると、2022年に復元された桜御門があります(高さ約9m、幅約12m)。オリジナルの図面はなかったのですが、写真・現地の痕跡・発掘調査・聞き取り調査などから復元したそうです。

桜御門

門を入って左折すると、天守台が見えます。天守台だけでも際立っているように感じますが、もし高松城の天守が復元されたとしたら、現存または再建された天守の中では、8番目の高さになります(石垣除く)。

天守台

ここ(三の丸)から天守台にたどり着くには思ったより長い道のりです。内堀端を歩いて、二の丸の関門、鉄門(くろがねもん)跡を通ります。

鉄門(くろがねもん)跡

天守があった本丸に行くには、鞘橋(さやばし)で内堀を渡ります。途中から屋根がついてこの名前になったそうです(それまでは「らんかん橋」)。かつての本丸は内堀に完全に囲まれていたので、唯一の通路でした。

鞘橋
天守台から見た鞘橋

本丸に入ります、ここも櫓群(地久櫓、中川櫓など)に囲まれていました。

本丸の中
地久櫓跡

いよいよ天守台石垣です、整備されているので、登ってみることができます。明治4年に城内見学会が開催されたときの、天守からの眺めの記録が残っています(「年々日記」)。現在の天守台からの眺めと比べてみましょう。

天守台石垣

南の方は阿波讃岐の境なる山々たたなわりたるも(重なっているが)いと近く見え・・  (年々日記)

天守台南側の眺め

東の方屋島は元よりわが志度の浦なども見ゆ。(年々日記)

天守台東側の眺め

北の方女木男木の二島は真下に、吉備の児島のよきほどに見ゆるもいわんかたなし。(年々日記)

天守台北側の眺め

天守が復元されたら、どんな景色が見えるのでしょうか。

海城らしさを求めて

今度は、公園西門から出て、海城らしさを追い求めましょう。

公園西門

海に面した二の丸北側の石垣の上には、櫓(廉櫓(れんやぐら)・武櫓(ぶやぐら))がありました。この辺は昔の海岸ですが、人工的に水辺を作って、雰囲気を残しています。

武櫓跡

水手御門の前も水辺になっています。これは海に乗り出すための門を再現しているのでしょう。海に開く門としては、唯一の現存例だそうです。

水手御門

ここでも月見櫓を間近に見ることができますが、海を正面にして作られた櫓なので、こちら側に施された装飾が美しく見えます。

月見櫓
月見櫓は、海側から眺めるのがおすすめです

月見櫓の向こうにも、石垣が続いています。昔の海岸に沿っていたはずなので、追ってみましょう。

鹿櫓(しかやぐら)跡

石垣は、現代のビルの合間に入っていきます。かつての東の丸の外側石垣で、この細い部分が史跡に指定されています。

東丸の石垣

そして、艮櫓跡に到達します。周りの様子はすっかり変わってしまいましたが、今でも存在感があります。土地の記憶にもなるのですから、大事にしてほしいと思います。

艮櫓跡
かつての艮櫓周辺の古写真(高松市資料より引用)

石垣はまだ続いています。香川県立ミュージアム辺りまででしょうか。

艮櫓跡から続く石垣
香川県立ミュージアム

実はこのミュージアムにも、海城らしい展示があります。水手御殿からお殿様が出かけて、参勤交代で乗った「飛龍丸」の「御座の間」です。原寸大で復元されているのです。

復元された「御座の間」

また、高松市歴史資料館では、飛龍丸の5分の1スケールモデルが展示されています。船の部屋は、2階構成になっていて、上記の「御座の間」は一階部分にありました。しかし二階部分にももう一つの「御座の間」があって、天気や波がいいときには、お殿様はそちらに移って景色を楽しんだそうです。

飛龍丸の模型
横から見ています

城下の一部?栗林公園

栗林公園は国の特別名勝で、三名園にも勝ると言われているのですが、今回のご説明は、高松と城の歴史に関係するものに絞らせていただきます。

栗林公園東門

まず、公園の東門前に石橋がありますが、かつて外堀にかかっていた「常磐橋」です。随分短い橋に見えますが、外堀がだんだん埋め立てられて、最後のか細くなったときに使われていたものだそうです。

常磐橋

次には公園の中、商工奨励館の中庭にある「大禹謨(だいうぼ)」も見逃さないようにしましょう。それは、「讃岐のため池の父」西嶋八兵衛が、香東川改修記念に作った石碑で、かつての分岐点に置かれていました。その後、洪水で流されてしまったのが奇跡的に見つかり、今の場所に置かれているのです。

商工奨励館(香川県観光協会ホームページから引用)
「大禹謨」石碑(香川県ホームページから引用)

公園には、見事に手入れをされた松がたくさんあります。

鶴亀松

しかし個人的には、公園の豊かな水が気になってしまいます。この辺りはかつて暴れ川が流れているような場所だったのですが、治水事業によって、こんなに風流で役に立つ場所に変えられたという経緯があるからです。

南湖
水源とされる「吹上」

リンク、参考情報

史跡高松城跡、玉藻公園 公式ウェブサイト
香川県立ミュージアム
高松市歴史資料館
特別名勝 栗林公園、香川県観光協会公式ウェブサイト
ビジネス香川コラム シリーズ中世の讃岐武士
高松経済新聞特集 かもねのたかまつ歴史小話
南正邦の覚え書き
・「史跡 高松城跡/高松市」
・「高松 海城の物語/西成典久著」
・「史跡高松城跡保存活用計画/高松市(令和4年3月)」
・「よみがえる日本の城13」学研
・「人物叢書 徳川光圀/鈴木暎一著」吉川弘文館
・「高松城天守 天守復元の取組」2018年7月高松市パンフレット
・「桜御門復元 歴史的建造物の復元」2022年7月高松市パンフレット
・「高松城天守の復元案について」高松市埋蔵文化財センター
・「むかしの高松 第21号 特集 高松城を発掘する!その3」高松市教育委員会
・「栗林公園の歴史」香川県観光協会
・「高松水道の研究」神吉和夫氏論文
・「”讃岐の禹王”西嶋八兵衛」黒下年保氏論文
・「大禹謨発見のドラマ 高松・栗林公園と西嶋八兵衛」ミツカン機関誌「水の文化」40号

「高松城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。