50.彦根城 その2

彦根城表門橋の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

彦根城表門橋(おもてもんばし)の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。同じ城の中でも、目的によって全然違う作られ方がされているということです。まずは、山を登っていきなり現れる大堀切を見学しましょう。次は、重要文化財になっている天秤櫓や太鼓門櫓を通ったり、中にも入ってみましょう。そして、国宝天守のきれいな外観や、現存天守ならではの内装を楽しみましょう。最後は、穴場として、西の丸三重櫓や、彦根山の周りを歩いてみます。

表門橋

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表門
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

いきなりの大堀切

内堀にかかる表門橋を渡ると、その内側が主郭(第一郭)になります。渡った所に石垣がありますが、表門の跡です。今でもなにげに厳重に感じます。その脇には、登り石垣もあります。

主郭の範囲を描いた絵図、現地説明パネルより
表門跡
表門脇の登り石垣

入っていくと右側が表御殿(彦根城博物館)で、今回は券売所から左側に向かいます。表門坂です、表御殿ができてからは主要な登城ルートだったのでしょう。わざと石段の長さを変え、登りにくくしていました。急な上に、なんだか余計に疲れるように思います。敵だったら、足元を見ているうちに、攻撃されてしまうでしょう。

表門坂

やっと坂を登ったら、いきなりの大堀切です!圧倒されます。この大堀切の右側(北側)が本丸に通じる太鼓丸、左側(南側)が鐘の丸です。太鼓丸を守っているのが、重要文化財の天秤櫓です。本丸に行くには、鐘の丸に入って、正面に見える廊下橋を渡って、太鼓丸に進む必要があります。廊下橋は、かつては屋根付きだったようです。敵が攻めてきたときは橋は落としてしまうでしょうから、両側から攻められるだけになってしまいます。向こう側(西側)は、大手門に続く坂ですので、ここは最重要の防衛ポイントでした。

大堀切(南側)
大堀切周辺の絵図(現地説明パネル)に進行ルートを追記

鐘の丸に進みましょう。ここに入るにも、石段と枡形の組み合わせになっています。ここで滞留していたら、後ろの天秤櫓から攻撃されてしまうでしょう。橋を渡るどころではありません。鐘の丸の名前は、当初時刻を知らせる鐘楼があった(後に太鼓丸に移転)ことにちなむとのことです。

鐘の丸の入口(石段と枡形)

鐘の丸の中は、今は何もないので目立ちませんが、かつては大広間御殿と御守殿という2つの建物がありました。御守殿は、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)が、後水尾天皇に嫁ぐときに、宿泊所として建てられたそうです(実際には使われず)。それに、ここは山の南端に当たるので、防衛上も重要な場所だったのです。ここからは、城の入口の一つ佐和口などが見渡せます。

鐘の丸の内部
鐘の丸からの眺め

天秤櫓と太鼓門櫓

それでは、廊下橋をわたって、天秤櫓に迫りましょう。名前の通りのユニークな櫓です。完全に左右対称ではないそうですが、両側の登城口から攻めてくる敵に対応するための形でしょう。あと面白いのが、江戸後期にこの櫓を大修理したことで、右側(東側)の古い石垣と、左側(西側)の新しい石垣のコントラストを見られることです。橋の上からも堀切が良く見えます。かつては屋根付きだったとしたら、ここからでも攻撃できそうです。橋を落とすタイミングと方法はどうだったのでしょうか。

天秤櫓
右側の古い方の石垣
左側の新しい方の石垣
廊下橋から見た大堀切

櫓の中も、通常公開されています。この櫓は平面上ではコの字型になっていて、その端っこから入っていきます。この櫓は、長浜城から移築されたと言われていますが、意外と中はシンプルな感じです。実用性重視だからでしょうし、実際には倉庫として使われたそうです。木材を削った跡が荒々しくていいです。作りとしては、敵が攻めてくる外側(南側)の壁を分厚くしてあります。格子窓から外を見ると、廊下橋がばっちり見えます。狭間や石落としがないように見えますが、埋められている隠し狭間がありました。使うときだけ開けられるようになっていたそうです。

天秤櫓内部
荒々しい木材の削り跡
外側の壁は厚く作られています
格子窓から見た廊下橋
隠し狭間

天秤櫓があるところが太鼓丸で、次が本丸への最後の関門、これも重要文化財の太鼓門櫓です。左側に時の鐘(時報鐘)を見ながら進みましょう。門の前に枡形がありますが、一部は山の岩盤がそのまま使われています。この門をくぐるときも、攻撃されそうな感じで一杯です。

太鼓丸を進みます
太鼓門櫓

太鼓門櫓はかつて、この山にあったお寺の山門を利用したと言われましたが、調査の結果、やはりどこかのお城から移されたとわかりました。この櫓にも入ることができます。外側に対しては厳重に監視できるようになっていますが、内側に対しては開けっ広げです。これは、かつてここに登城の合図を知らせる太鼓が置かれ、よく聞こえるようにこうなったと言われています。

太鼓門櫓の入口
太鼓門櫓内部
格子窓から外側を見ています
内側に向かって開放されています

本丸に入ったら、いよいよ天守ですが、その前に、ちょっと景色を楽しみましょう。着見櫓跡です。違う字で「月見櫓」とも書くそうですが、やはり見張りをする場所だったのでしょう。ここからは、城の周辺が一望できます。佐和山城跡の山もよく見えます。そちらに行った時には、彦根城を眺めました。両方行ってお互いを見てみると、すごく達成感があります。

着見櫓跡
櫓跡から見た佐和山城跡
佐和山城跡から見た彦根城

国宝天守を満喫

さて、現存12天守、国宝5天守の一つの彦根城天守です。他の城の天守と比べて大きくはないけれど、すごく気品を感じます。3重3階で、建物の高さは15.5メートルですが、多くの装飾がバランスよく配置されています。こちらの面だけでも、破風と呼ばれる屋根の装飾が5つも付いています。窓も、格式の高い「華頭窓」を2階と3階に使っていますし、3階の廻縁と高欄は、外に出ることができない飾りなのです。

彦根城天守
唐破風
入母屋破風
切妻破風

それから、この天守は大津城天守を移築したと言われますが、調査の結果、5階の建物を3階に改装したことが分かっています。わざわざ3階にした理由の一つとして、彦根城天守の平面は長方形になっているので、それに合わせてサイズを変更したことが考えられます。

天守内部では、移築を示すホゾ穴痕が見られるそうです
前身建物推定図、天守内部にて展示
着見櫓跡から見た天守、平面が長方形なのがわかります

それでは天守に入りましょう。ビジターの順路は、まず地下室から一階に上がります。ものものしい鉄の扉があります。

地下室と一階の間の鉄扉

天守の各階は「入側(武者走り)」という廊下のような通路に囲まれています。さすが本物だけあって「鉄砲狭間」「矢狭間」だらけです。ここも天秤櫓と一緒で、隠し狭間になっています。入側をずっと回りこんで、真ん中の身舎(もや、内室)に入って行きます。

天守一階の入側
矢狭間と鉄砲狭間
入側を回り込んで身舎に入っていきます
こちらは二階の身舎

二階、三階に上がるときには、ものすごく急な階段を昇ります。江戸時代のオリジナルですから、頑張りましょう。

二階から三階への階段

三階は最上階なので、屋根の木組みを見ることができます。巧の技という感じがします。下の方を見ると、破風の内側に「隠し部屋」があります。それから、最上階までしっかり狭間があるのもわかります。廻縁は飾りなので外には出られませんが、窓から外の景色を楽しめます。

天守三階(最上階)
屋根裏の木組み
隠し部屋に入るための引き戸
回縁には出られません
窓からの景色(琵琶湖方面)

穴場?西の丸三重櫓など

最後のセクションは「穴場」としていますが、見どころ満載です。まずは西の丸です。これまでご紹介したところに比べ、人気はありません。また櫓が見えてきました。重要文化財の西の丸三重櫓です。こんなところにも重要文化財があるのです。城の北側を守る要の櫓でした。

閑散としている西の丸
西の丸三重櫓

この櫓の中にも入ることができます。この櫓も小谷城から移されたという伝承があるのですが、調査では、移築の痕跡は見られなかったそうです。幕末に大修理されているので、それ以前は移築された建物があったかもしれません。他の現存建物よりは新しめなのです。格子窓から琵琶湖が見えます。それに、ここの狭間は塞がれていません。かつては琵琶湖の水辺がもっと入り込んでいたそうで、そこから攻めてくる敵にすぐ対応できるよう、このようにしたそうです。この櫓の前面(北側)にも大堀切があるのですが、残念ながら、そこの通路は通行止めになっています。

西の丸三重櫓内部
格子窓からの眺め
この櫓の狭間は最初から開けられています
櫓前の大堀切(以前の撮影)

天守の方に戻って、裏側の西の丸水手御門跡を通って山を下ります。天守に附櫓と多聞櫓が付いています。こちら側を守るために加えられたのでしょう。裏側っぽいところなのに、斜面の石垣がすごいです。下る途中に井戸曲輪がありますので、こちらも重要な場所だったのです。

天守と附櫓
天守の多聞櫓に続く石垣(右側)と井戸曲輪(左側)

山を下ると黒門口なのですが、山裾を進みます。かなり飛ばして、一番北の山崎曲輪まで来ました。初期の頃、重臣の木俣守勝がここに住んで、さっきの西の丸三重櫓に通っていました。ここにも幕末まで三重櫓があったそうです。現在は山崎門跡が残っています。

黒門跡
この付近にも登り石垣があります
内堀と石垣沿いを進みます
山崎曲輪
山崎門跡

ここから折り返していきましょう。自然の山っぽくなっています。タヌキもいました。また、登り石垣が見えてきました。ここが一番分かりやすい気がします。上の方に建物が見えます。西の丸三重櫓です。この石垣と連携してお城を守っていたのがよくわかります。

彦根山のタヌキ
西の丸三重櫓下の登り石垣

どんどん進んでいきましょう。今は梅林になっているところは、初期の頃は重臣屋敷、その後は米蔵として使われていました。

梅林

大手門坂に着きました。ここを登っていくと、最初に見た大堀切です。大手門跡も近くにあります。やはりここにも登り石垣があります。建物はないけれど、すごい枡形で、さすが大手門らしい場所です。

大手門坂
大手門跡上の登り石垣
大手門跡

大手門橋を渡って、内堀の外に出ましょう。堀の内側の石垣が変わっています。鉢巻石垣と腰巻石垣で、土塁を挟んでいます。石材を節約しながら土塁を強化するやり方です。他では江戸城などで見られるそうです。江戸城は幕府のお膝元だから、彦根城はやはり幕府の肝いりなのです。スタート地点の表門橋に戻ってきました。山の上に登ったと思ったら、最後は一周してしまいました。

鉢巻石垣と腰巻石垣
表門橋が見えてきました

関連史跡、名物

今日は、内堀の中の見どころを、駆け足でご紹介しましたが、彦根城は中堀までしっかり残っていますので、お時間があれば、その周りを歩いてみるのもいいと思います。天守や三重櫓を眺めながら歩けるのもいいです。

京橋口門跡
旧西郷屋敷長屋門
中堀から見える天守
中堀から見える西の丸三重櫓

最後は、ひこにゃんの登場です。

表御殿(復元)に現れたひこにゃん

リンク、参考情報

国宝 彦根城、公式ウェブサイト
・「歴史群像名城シリーズ6 彦根城」学研
・「中世武士選書39 井伊直政/野田浩子著」戒光祥出版
・「幕末維新の個性6 井伊直弼/母利美和著」吉川弘文館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「彦根城を極める/中井均著」サンライズ出版
・「城の科学/萩原さちこ著」ブルーバックス

これで終わります、ありがとうございました。

「彦根城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

86.大野城 その2

これから、大野城土塁一周ツアーということで、大野城の二重土塁の内、内周の土塁を歩きます。そのほとんどがハイキングコースになっているからです。距離としては、6、7kmでしょうか。それに、ここからまず城跡にたどり着かなければなりません。あと、この辺が標高約60mで、四王寺山は410mなので、350mくらいの登りになります。支度もそれなりに、一日かけるつもりで行かれるのがいいと思います。

特徴、見どころ

Introduction

今回はスタート地点として、太宰府駅前に来ています。駅舎は天満宮の本殿に似ているそうですが、その本殿は現在改修中です。お参りをするのは仮殿になりますが、その仮殿がなかなかユニークです。これから、大野城土塁一周ツアーということで、大野城の二重土塁の内、内周の土塁を歩きます。そのほとんどがハイキングコースになっているからです。距離としては、6、7kmでしょうか。それに、ここからまず城跡にたどり着かなければなりません(2kmちょっとか、トータル往復では10km超になるでしょう)。あと、この辺が標高約60mで、四王寺山は410mなので、350mくらいの登りになります。支度もそれなりに、一日かけるつもりで行かれるのがいいと思います。

太宰府駅
太宰府天満宮仮殿

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Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

まず太宰府口城門跡へ

まず、四王寺林道などを通って、太宰府口城門跡に行きましょう。駅から少し歩くと、四王寺林道の入口です。林道といっても、ちゃんと舗装されています。昭和40年代にできた道で、車で山の上まで上がっていくことができます。カーブがたくさんあるのは、それだけ山の斜面が急ということなのでしょう。お城としては、自然の要害ということになります。

四王寺林道

そのまま林道を進めばよいのですが、途中で山道に入ります。この道は、林道ができる前に「太宰府町道」として使われていて、山の上にあった四王寺村の子どもたちも、山麓の小学校までこの道を通学していたそうです。ここも歴史のある道なのです。それに、太宰府口城門跡までまっすぐ通じているので、雰囲気が出ます。もしかしたら、元は登城道だったかもしれません。

旧太宰府町道

前方が開けてきたところが城門跡です。もちろん今は建物はありませんが、立派だっただろうと想像できます。太宰府口城門は、大野城の城門のなかでも最大規模のもので、
残っていた木材(648年以降伐採)から、最初の門は、日本書紀に記録された城の築造年(665年)に近い時期に建てられたと考えられます。そしてその後、2回建て直されました。ということは、最初から長い期間使われたわけです。脇には、石垣も残っています。門を囲む土塁に登ってみましょう。このルートも太宰府町道の一部だったようです。鳥居がありますが、昭和初期に、四王寺村の人たちが建てたそうです。門跡を上から眺めると、改めてその大きさがわかります。

太宰府口城門跡
門跡を上から見ています

土塁と石垣を渡り歩く

ここからは、どんどん土塁の上を歩いていきましょう。いきなり素晴らしい景色が広がります。スタート地点の太宰府駅もはるかに見えます。この近くには、尾花礎石群という倉庫跡もあります。炭化した米が多く見つかるので「焼米ヶ原」とも呼ばれています。焼米ということは、お米の倉庫があったことになります。この先にも景色が良い所があります。これもすばらしいです。

現地では大野城市発行の城跡マップを使わせていただきました
土塁の上からの景色
山上から見える太宰府駅
尾花礎石群
尾花礎石群近くの展望所からの眺め

この調子で進んでいくと、石仏(四王寺山三十三石仏の一つ)と、なにかの山の頂上の表示が並んでいます。実は四王寺山は、いくつかの山の集合体で、ここはそのうちの一つ「大原山(おおばるやま)」の頂上なのです。四天王像のうち、持国天像にちなんだ場所でもあります(ここにあったかは不明)。普通の山の頂上と違って、土塁で囲まれるだけあって特徴があります。

土塁上のハイキングコース
大原山山頂と石仏(十五番)

その後は、石仏はありますが、ひたすら道が続きます。迷子になっていないか心配です。そうするうちに案内があり、そちらに行けば石垣があるそうです。まず小石垣(こいしがき)があるはずです。ダムみたいなところを渡っている感じの場所があって、その下が小石垣です、下に降りてみましょう。案内によれば、かつてはもっと大きな石垣だったそうです。しかし小さくても、しっかり谷間の道を支えています。

十六番石仏
小石垣

次は、北石垣です。土塁というより、本当に山道です。山の地形を生かしているのでしょう。右側に「北石垣城門跡」の表示があります(立ち入りはできませんでした)。北石垣の案内がありました。その方向に少し下っていきます。ロープが張ってある向こうに見えるのが石垣だと思いますが、草に覆われてしまっています。山の中の史跡を維持するのも大変なのでしょう。

山道のような北側の土塁
北石垣と思われる場所

雄大!百間石垣!

いよいよ、百間石垣です。聞くだけで、わくわくします。道は随分な下りになって、一旦土塁から降りている感じです。舗装道路に出て、渡ったところが百間石垣です。

道が舗装道路に向けて下っていきます
百間石垣

百間石垣は、今も道路に沿っている四王子川が流れる谷をカバーするために築かれました。谷側の低いところから見学していきましょう。内部まで石を詰めた、総石垣の構造になっています。高さ最大8メートルの石垣が、長さ約180メートルにわたっているとされています。大きな岩も組み込まれている感じです。岩盤の上に築かれたそうで、石や岩の隙間から水が流れ、水門の役割も果たしていたと考えられます。

四王寺川が流れる谷
谷部分の百間石垣
大きな岩が組み込まれ、下から排水できるようになっています

坂の上にある石垣へは、見学路があって、近くまで登っていくことができます。しかし、ものすごい急坂です。滑りやすいですので、気を付けましょう。上まで来てみると、こんなすごい石垣が、1300年以上前に作られて、ずっと残っているなんて、信じられないと感じます。もう山と一体化しています。

見学路を上がっていきます
間近に見る百間石垣

見学路から、ハイキングコースに戻りましょう。さっきの道路がはるか下に見えます。石垣と山の地形で、すごい城壁を築いていたのです。まさに、守護神の要でした。

急坂の上にある百間石垣
舗装道路ははるか下です

果たして一周できるのか?

百間石垣で、まだ一周の半分くらいです。北の方は、結構アップダウンがあります。時間に余裕をもった計画が大事です。北側から西側にかけての見どころとしては、まずはクロガネ岩城門跡でしょう。9つ見つかった城門の一つです。この城門跡は、江戸時代から知られていました。

クロガネ岩城門跡

それから、屯水(とんすい)です。水門の一つで、元は石垣に囲まれていたと考えられています。

屯水水門の案内、ロープが張られてすぐ近くには行けません
水門の石組の一部でしょうか

そして、毘沙門堂です。ここは、四王寺山の最高地点(大城山・411m)の近くで、毘沙門は、四天王のうち、多聞天の別名ですので、四王寺がこの辺にあったのではないかと言われています。

毘沙門堂

南の方に進んで、広目天礎石群を過ぎると、水城口城門跡に至ります。行先案内がたくさんありますが、「センター」の方に行きましょう。

広目天礎石群
水城口城門跡

まだすごい見どころが残っています。大石垣です。ただ、外周の土塁のところにあるので、内周の土塁を通るハイキングコースから下っていきます。大石垣は、百間石垣に次ぐ規模があり、高さは約6メートル、かつては長さが100メートル以上あったようです。こちらも谷をまたいで築かれ、自然配水する仕組みとなっています。2003年(平成15年)の集中豪雨による土砂災害で崩れてしまい、3年かけて積み直されたそうです。

大石垣

最後の見どころとして、増長天礎石群を選びました。築城から半世紀くらい経ってから、大きな倉庫が4棟建てられた場所です。柱が立っていた石が並んでいて、大きな建物だったと想像できます。

増長天礎石群
倉庫の想像図、現地説明パネルより

いよいよラストスパートです。最初の城門の近くの土塁に向かっていきます。これで大野城一周達成です!達成した後の景色はひとしおです!

最初に通った土塁に向かいます
土塁からの眺め

関連史跡

帰りは、林道をずっと下って、岩屋城跡に立ち寄ってみました。戦国時代の城跡です。ここからの眺めもすばらしいです。南側の視界が開けています。大宰府政庁跡や水城跡が見えます。左側(南東)の方に目を転じると、基肄城跡がある山も見えます。

岩屋城跡
岩屋城跡からの眺め
大宰府政庁跡
水城跡
基肄城跡

リンク、参考情報

特別史跡 大野城跡、大野城市ウェブサイト
大野城跡(国指定特別史跡)、宇美町観光情報
・「よみがえる古代山城/向井一雄著」吉川弘文館
・「大宰府四王院」九州国立博物館
・かつてあった道「四王寺山の太宰府町道」四王寺山勉強会

「大野城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

125.小机城 その2

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

ここに行くには

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

小机駅

振り返ると「小机駅前」交差点がありますので、右に曲がっていきます。商店街の通りを進みます。

小机駅前交差点
商店街

「小机辻」という交差点のところで、右に曲がりましょう。途中に金剛寺というお寺がありますが、奥の高台が「古城」と呼ばれた場所だったようです。

小机辻交差点
金剛寺

その先の横浜線の踏切を渡りましょう。渡った後に「小机城址」の案内があります、次の交差点を左です。閑静な住宅地ですが、線路の方を見ると、向こう側も結構な台地になっています。もしかすると城がそこまで続いていたかもしれません。

横浜線の踏切
左に曲がります
線路の向こう側が台地になっています

城跡への入口はどこでしょう。また案内があります。まだ住宅地が続きますが、急に竹林が現れます。突然、別世界に入った感じです。そうするうちに小机城址市民の森の入口「根古谷広場」に着きました。

電柱に案内があります(赤丸内)
竹林が現れます
根古谷広場

特徴、見どころ

巨大な土塁と空堀

「根古谷」とは、山城の麓の屋敷地という意味だそうなので、城主か城代、家臣たちの屋敷があったかもしれません。それでは、城跡へ登っていきましょう。麓からの高さは、20メートルちょっとです。竹林と城跡が一体化していて、すばらしいです。

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根古谷
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

城跡へ登っていきます

登ったところが、城を囲む土塁の上です。内側に、ものすごい空堀が見えます。土塁と空堀のセットで、城を守っていたのでしょう。土塁の上を歩いていきましょう。空堀の向こう側に、土塁が高くなった場所があります。その場所は櫓跡で、監視をしたり、土塁や空堀に侵入した敵を攻撃するためでしょう。

土塁から空堀を見下ろしています
土塁の上を歩いていきます
空堀の向こうに櫓跡が見えます

遊歩道が下ったところから、空堀の中を歩くことができます。この空堀は、今でも幅約20メートル、深さは12メートルありますが、かつては深さが約20メートルもあったという記録があります。他の堀(北空堀)を約2メートル掘っても底には到達しなかったそうです。堀の形もまっすぐではなく、曲げられています。北条氏の堀の特徴である「畝堀」は見つかっていませんが、簡単に登ったり進めたりできないようになっているのでしょう。それから、空堀の両側に土塁を巡らせた「二重土塁」になっています。

空堀入口
空堀の底

城跡中心部とすばらしい竹林

今度は、城跡の中心部にやってきました。市民の森の案内図の向かい側には「井楼跡(せいろうあと)」があります。これも櫓のことです。近くの土塁の上にも「櫓台」がありますので、こちらはお城の中心的な櫓だったのかもしれません。それでは「二の丸広場」の方に入っていきましょう。名前に「二の丸」と付いていますが、城跡としては「東郭」と呼ばれています。ここを本丸とする説もあるのです。発掘調査をしたときには、建物の柱の穴が見つかっています。倉庫など、城の施設があったと考えられます。領民が集められてここで訓練していたのかもしれません。

中心部にある案内図
井楼跡
櫓台
二の丸広場(東郭)
以前は発掘調査が行われていました

二の丸広場の裏手を下ると、また見どころがあります。郭の周りを囲む空堀が、遊歩道になっているのです。城跡と自然がミックスされた道を、リラックスして歩けるのです。歴史派も自然派も、楽しめます。

空堀の遊歩道
すばらしい竹林

次は「本丸広場」に行ってみますが、その間にあるのが「つなぎの曲輪」です。ここにある「櫓跡」に行ってみましょう。ここからは、空堀が見渡すことができます。先ほど、空堀の向こうの土塁からみた櫓跡なのです。「つなぎ」といいつつ重要な曲輪だったのです。

つなぎの曲輪を通ります
櫓跡から空堀を見下ろしています

本丸広場に向かいます、城跡としては「西郭」と呼ばれています。中は、スポーツができる場所になっています。名前は「本丸」となっていますが、先ほどの「二の丸」と一緒で、確定されてはいません。「本丸」と名付けた事情はわかりませんが、よく防御された場所にあるとは言えるでしょう。例えば、もう一つの入口の前には、馬出しがあって、簡単に中に入れないようになっていました。それでその奥に、門を再建してみたのかもしれません。

本丸広場(西郭)
馬出し跡から本丸広場へ
本丸広場の門

出城をまわって帰還

周遊コースの最後は、第三京浜道路を越えて、出城があったかもしれない場所に行きます。現地の城の想定図でも、その辺りを「出城」と表示しています。第三京浜の下のトンネルを通るので、一旦台地から降ります。トンネルを出たら、今度は上りです。登りきると、向こう側の城の丘が見えます。周りが開けていたら、見張り台がありそうなところです。

現地にある城の想定図
第三京浜下のトンネル
出城跡への登りの階段
道路向こう側の城の丘

残念ながら、明確なお城の遺構は見つかっていないそうですが、とにかく、天辺まで行ってみましょう。その天辺は小山のようになっていて、石碑があります。「富士仙元大菩薩」と書かれていて、江戸時代のものだそうです。頂上の小山も、その時代に、富士塚として築かれたのでしょう。もしかしたらこの下に、出城の遺構があるかもしれませんが、このミニ富士山も切にしてほしいです。

頂上は富士塚になっています
富士仙元

ここから戻りますが、来た時と違う方向に行きます。すると、また世界が急に変わった感じがします。そこが市民の森と、市街地の境界なのでしょう。大都会の自然や史跡を守るのは大変なのです。駅に戻るには、出たところにある駐車場を抜けて、道を下っていきます。しばらく歩くと、幹線道路にぶつかりますので、左に曲がります。その道路をまっすぐ行くと、城跡に向けて曲がった「小机辻」交差点に至ります。駅はもうすぐです。

市民の森と市街地の境界辺り
突き当たりを左です

私の感想

きれいな竹林に飾られた城跡を満喫し、住宅地から急に別世界に入ったような感覚も面白かったです。もしかしたら城の範囲だったかもしれないところも、周遊して回れたので、かつての城の姿を想像してみるのもありだと思いました。

竹林に囲まれた空堀の遊歩道

また、小机駅のすぐ近くには、横浜市城郷小机地区センターがあって、城の模型や、パンフレット、歴史の展示や書籍などがあります。城跡に行く前か行った後に立ち寄ってはいかがでしょうか。

横浜市城郷小机地区センター

リンク、参考情報

大倉精神文化研究所 横浜市港北区地域の研究(シリーズわがまち港北)
広島市立中央図書館/広島市立図書館貴重資料アーカイブ
・「横浜の戦国武士たち/下山治久著」有隣新書
・「歴史群像149号 戦国の城 武蔵小机城/西股総生著」学研
・「太田道灌と長尾景春/黒田基樹著」戒光祥出版
・「「太田道灌状」を読み解く/尾崎孝著」ミヤオビパブリッシング
・「小机城を明らかに―小机城跡埋蔵文化財試掘調査について―」横浜市教育委員会
・「小机城を明らかに―小机城跡発掘調査成果報告会―」横浜市教育委員会

「小机城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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