86.大野城 その2

これから、大野城土塁一周ツアーということで、大野城の二重土塁の内、内周の土塁を歩きます。そのほとんどがハイキングコースになっているからです。距離としては、6、7kmでしょうか。それに、ここからまず城跡にたどり着かなければなりません。あと、この辺が標高約60mで、四王寺山は410mなので、350mくらいの登りになります。支度もそれなりに、一日かけるつもりで行かれるのがいいと思います。

特徴、見どころ

Introduction

今回はスタート地点として、太宰府駅前に来ています。駅舎は天満宮の本殿に似ているそうですが、その本殿は現在改修中です。お参りをするのは仮殿になりますが、その仮殿がなかなかユニークです。これから、大野城土塁一周ツアーということで、大野城の二重土塁の内、内周の土塁を歩きます。そのほとんどがハイキングコースになっているからです。距離としては、6、7kmでしょうか。それに、ここからまず城跡にたどり着かなければなりません(2kmちょっとか、トータル往復では10km超になるでしょう)。あと、この辺が標高約60mで、四王寺山は410mなので、350mくらいの登りになります。支度もそれなりに、一日かけるつもりで行かれるのがいいと思います。

太宰府駅
太宰府天満宮仮殿

MarkerMarkerMarker
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

まず太宰府口城門跡へ

まず、四王寺林道などを通って、太宰府口城門跡に行きましょう。駅から少し歩くと、四王寺林道の入口です。林道といっても、ちゃんと舗装されています。昭和40年代にできた道で、車で山の上まで上がっていくことができます。カーブがたくさんあるのは、それだけ山の斜面が急ということなのでしょう。お城としては、自然の要害ということになります。

四王寺林道

そのまま林道を進めばよいのですが、途中で山道に入ります。この道は、林道ができる前に「太宰府町道」として使われていて、山の上にあった四王寺村の子どもたちも、山麓の小学校までこの道を通学していたそうです。ここも歴史のある道なのです。それに、太宰府口城門跡までまっすぐ通じているので、雰囲気が出ます。もしかしたら、元は登城道だったかもしれません。

旧太宰府町道

前方が開けてきたところが城門跡です。もちろん今は建物はありませんが、立派だっただろうと想像できます。太宰府口城門は、大野城の城門のなかでも最大規模のもので、
残っていた木材(648年以降伐採)から、最初の門は、日本書紀に記録された城の築造年(665年)に近い時期に建てられたと考えられます。そしてその後、2回建て直されました。ということは、最初から長い期間使われたわけです。脇には、石垣も残っています。門を囲む土塁に登ってみましょう。このルートも太宰府町道の一部だったようです。鳥居がありますが、昭和初期に、四王寺村の人たちが建てたそうです。門跡を上から眺めると、改めてその大きさがわかります。

太宰府口城門跡
門跡を上から見ています

土塁と石垣を渡り歩く

ここからは、どんどん土塁の上を歩いていきましょう。いきなり素晴らしい景色が広がります。スタート地点の太宰府駅もはるかに見えます。この近くには、尾花礎石群という倉庫跡もあります。炭化した米が多く見つかるので「焼米ヶ原」とも呼ばれています。焼米ということは、お米の倉庫があったことになります。この先にも景色が良い所があります。これもすばらしいです。

現地では大野城市発行の城跡マップを使わせていただきました
土塁の上からの景色
山上から見える太宰府駅
尾花礎石群
尾花礎石群近くの展望所からの眺め

この調子で進んでいくと、石仏(四王寺山三十三石仏の一つ)と、なにかの山の頂上の表示が並んでいます。実は四王寺山は、いくつかの山の集合体で、ここはそのうちの一つ「大原山(おおばるやま)」の頂上なのです。四天王像のうち、持国天像にちなんだ場所でもあります(ここにあったかは不明)。普通の山の頂上と違って、土塁で囲まれるだけあって特徴があります。

土塁上のハイキングコース
大原山山頂と石仏(十五番)

その後は、石仏はありますが、ひたすら道が続きます。迷子になっていないか心配です。そうするうちに案内があり、そちらに行けば石垣があるそうです。まず小石垣(こいしがき)があるはずです。ダムみたいなところを渡っている感じの場所があって、その下が小石垣です、下に降りてみましょう。案内によれば、かつてはもっと大きな石垣だったそうです。しかし小さくても、しっかり谷間の道を支えています。

十六番石仏
小石垣

次は、北石垣です。土塁というより、本当に山道です。山の地形を生かしているのでしょう。右側に「北石垣城門跡」の表示があります(立ち入りはできませんでした)。北石垣の案内がありました。その方向に少し下っていきます。ロープが張ってある向こうに見えるのが石垣だと思いますが、草に覆われてしまっています。山の中の史跡を維持するのも大変なのでしょう。

山道のような北側の土塁
北石垣と思われる場所

雄大!百間石垣!

いよいよ、百間石垣です。聞くだけで、わくわくします。道は随分な下りになって、一旦土塁から降りている感じです。舗装道路に出て、渡ったところが百間石垣です。

道が舗装道路に向けて下っていきます
百間石垣

百間石垣は、今も道路に沿っている四王子川が流れる谷をカバーするために築かれました。谷側の低いところから見学していきましょう。内部まで石を詰めた、総石垣の構造になっています。高さ最大8メートルの石垣が、長さ約180メートルにわたっているとされています。大きな岩も組み込まれている感じです。岩盤の上に築かれたそうで、石や岩の隙間から水が流れ、水門の役割も果たしていたと考えられます。

四王寺川が流れる谷
谷部分の百間石垣
大きな岩が組み込まれ、下から排水できるようになっています

坂の上にある石垣へは、見学路があって、近くまで登っていくことができます。しかし、ものすごい急坂です。滑りやすいですので、気を付けましょう。上まで来てみると、こんなすごい石垣が、1300年以上前に作られて、ずっと残っているなんて、信じられないと感じます。もう山と一体化しています。

見学路を上がっていきます
間近に見る百間石垣

見学路から、ハイキングコースに戻りましょう。さっきの道路がはるか下に見えます。石垣と山の地形で、すごい城壁を築いていたのです。まさに、守護神の要でした。

急坂の上にある百間石垣
舗装道路ははるか下です

果たして一周できるのか?

百間石垣で、まだ一周の半分くらいです。北の方は、結構アップダウンがあります。時間に余裕をもった計画が大事です。北側から西側にかけての見どころとしては、まずはクロガネ岩城門跡でしょう。9つ見つかった城門の一つです。この城門跡は、江戸時代から知られていました。

クロガネ岩城門跡

それから、屯水(とんすい)です。水門の一つで、元は石垣に囲まれていたと考えられています。

屯水水門の案内、ロープが張られてすぐ近くには行けません
水門の石組の一部でしょうか

そして、毘沙門堂です。ここは、四王寺山の最高地点(大城山・411m)の近くで、毘沙門は、四天王のうち、多聞天の別名ですので、四王寺がこの辺にあったのではないかと言われています。

毘沙門堂

南の方に進んで、広目天礎石群を過ぎると、水城口城門跡に至ります。行先案内がたくさんありますが、「センター」の方に行きましょう。

広目天礎石群
水城口城門跡

まだすごい見どころが残っています。大石垣です。ただ、外周の土塁のところにあるので、内周の土塁を通るハイキングコースから下っていきます。大石垣は、百間石垣に次ぐ規模があり、高さは約6メートル、かつては長さが100メートル以上あったようです。こちらも谷をまたいで築かれ、自然配水する仕組みとなっています。2003年(平成15年)の集中豪雨による土砂災害で崩れてしまい、3年かけて積み直されたそうです。

大石垣

最後の見どころとして、増長天礎石群を選びました。築城から半世紀くらい経ってから、大きな倉庫が4棟建てられた場所です。柱が立っていた石が並んでいて、大きな建物だったと想像できます。

増長天礎石群
倉庫の想像図、現地説明パネルより

いよいよラストスパートです。最初の城門の近くの土塁に向かっていきます。これで大野城一周達成です!達成した後の景色はひとしおです!

最初に通った土塁に向かいます
土塁からの眺め

関連史跡

帰りは、林道をずっと下って、岩屋城跡に立ち寄ってみました。戦国時代の城跡です。ここからの眺めもすばらしいです。南側の視界が開けています。大宰府政庁跡や水城跡が見えます。左側(南東)の方に目を転じると、基肄城跡がある山も見えます。

岩屋城跡
岩屋城跡からの眺め
大宰府政庁跡
水城跡
基肄城跡

リンク、参考情報

特別史跡 大野城跡、大野城市ウェブサイト
大野城跡(国指定特別史跡)、宇美町観光情報
・「よみがえる古代山城/向井一雄著」吉川弘文館
・「大宰府四王院」九州国立博物館
・かつてあった道「四王寺山の太宰府町道」四王寺山勉強会

「大野城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

92.熊本城 その3

今回は、ここ熊本城発祥の地から出発します。コースは時代順とはいかないので、西南戦争の関連スポットに続きます。次は、清正の跡取り・加藤忠広やその後の細川氏が整備した二の丸を歩きます。そして、前々回の記事では通らなかった「特別公開北ルート」から天守に行ってみます。天守は、清正ゆかりの建物です。最後は、城の北側を回って「古城地区」よりも古いと言われる「千葉城地区」まで回ってみます。

特徴、見どころ(熊本城歴史めぐり)

Introduction

熊本市内の洗馬橋に来ています。天守がここからでも見えます。ここは熊本城の南の端なのです。熊本城はこんなに広かったのです。橋の下を流れる坪井川に沿って石垣も見えます。この辺りは城が築かれた台地の端で「古城地区」と呼ばれています。名前の通り、熊本城が最初に築かれた場所です。そのころは字が違う「隈本城」でした。今回は、ここ熊本城発祥の地から出発します。コースは時代順とはいかないので、西南戦争の関連スポットに続きます。次は、清正の跡取り・加藤忠広やその後の細川氏が整備した二の丸を歩きます。そして、前々回の記事では通らなかった「特別公開北ルート」から天守に行ってみます。天守は、清正ゆかりの建物です。最後は、城の北側を回って「古城地区」よりも古いと言われる「千葉城地区」まで回ってみます。

洗馬橋
洗馬橋から見える天守

城発祥の地→西南戦争の痕跡

洗馬橋から少し移動して「古城」の入口だったところにやってきました。今は高校の入口になっています。高校生がうらやましいです。築城当時は「おもての門」と呼ばれていたようです。残っている石垣に沿って歩いていきましょう。この石垣は、清正がこの「古城」に入ったばかりの時に築かれました。、熊本城では一番古い石垣だそうです。この石垣がある曲輪は「小座敷之丸」と呼ばれた場所と考えられています。周りは「古城堀端公園」になっていて、かつてはお堀がありました。進んで行くと、一段上がった所がありますが、そこが当初の「本丸」でした。「てんしゅ」もあったそうです。きっと清正が最初にいたところなのでしょう。

「おもての門」跡
熊本城最古の石垣
隈本城時代の本丸


公園を出て、城の外側と思われる道を歩くと、登り坂のふもとに出ます。坂は「法華坂」で、ふもとが「札の辻」と呼ばれていて、豊前・豊後街道の起点になっていました。城にとっても重要なルートで、二の丸に通じていました。西南戦争でも激戦地になっています。この街道は後でまた出てきますので、もう少し先まで行きます。西南戦争での最大の激戦地だった「段山(だにやま)」の辺りです。残念ながら、段山は開発によって削られ、今は「激戦地跡の碑」が残るのみです。しかし、ここで何があったのか知るのも大事なことなのだと思います。

法華坂
激戦地跡の碑


もう一か所、西南戦争関係のところに行ってみましょう。西郷軍に対して、熊本鎮台が激しい砲撃戦を行った場所が、藤崎台です。今は球場になっています。その場所に、古くから藤崎八幡宮がありましたが、西南戦争中に焼けてしまったのです。城の区分では「三の丸地区」に当たります。駐車場に入っていくと、唯一残っている見どころがあります。藤崎台のクスノキ群です。素晴らしい景色です。古いもので、推定樹齢は約1000年だそうです。ということは、西南戦争どころか、城の歴史も全部見ていたのです。無事に残ってくれて良かったです。

藤崎台
藤崎台のクスノキ群

清正のフォロワーたちが整備した二の丸

球場の入口辺りまで登ってくると、高いところまで来た感じがします。ここから二の丸に向かいましょう。橋を渡って行きますが、その下は、「新坂(しんざか)」といって、明治時代に開かれた道だそうです。橋を渡ると、立派な門跡があります。二の丸の入口「住江門(すみのえもん)」跡です。そして、右側(南側)から道が合流しています。:これが豊前・豊後街道です。さっき出発点を見た街道です。その街道がこの門を通っていたのです。つまり、誰でも通れるということになっていたのです。せっかく、こんなすごい枡形になっているのにと思ってしまいます。仮想敵の島津の殿様も参勤交代のとき、ここを通ったということです。

藤崎台球場
二の丸へ渡る橋(宮内橋)
橋の下の新坂
住江門の手前、右側から豊前・豊後街道が合流しています
住江門の枡形

門を入った所が「二の丸広場」です。天守と工事中の宇土櫓(工事の素屋根に櫓の絵が描かれている)が見えてきます。城の中心部とちがって、広々としています。かつては重臣の屋敷地で、清正の後の加藤忠広や、更に後の細川氏の時代に整備されました。か大軍が集まったりするような場所にも感じます。西側から敵の大軍に攻められた場合を考えたのでしょう。

二の丸広場
二の丸から見える天守と工事中の宇土櫓

城の中心部の方に進んで行きましょう。二の丸の先には、すごい堀にがあります。その向こうは本丸の西出丸です。その隅のところに復元された戌亥櫓があって、熊本地震のときには、こちらも倒壊寸前だったのです。こちらも一本石垣のようになっていました。現在は、建物を解体し、崩れた石垣を回収した段階です。

西出丸手前の堀
熊本地震後(2017年)の戌亥櫓

清正ゆかりの天守・宇土櫓

現在ビジターが、お城の中心部を見学できる「熊本城特別公開」のうち、今回は北ルートを進んで行きます(西大手門〜天守間は土日祝のみ、2025年5月時点)。二の丸から入っていき、堀の間の土橋を通って、西出丸(本丸地区)に行きます。途中では、右側(南側)の石垣がかなり崩れているが見えます。これは、奉行丸の石垣で、塀も倒壊しました。向こうにある未申櫓は前々回の記事に出てきました。

堀の間の土橋
奉行丸の石垣
未申櫓


西出丸には、城の正門の西大手門があって、これも復元されていましたが、近くの元太鼓櫓や南大手門(復元)とともに被災し、復元を待っています。せめて枡形を歩くことでその姿を想像しましょう。その先に北ルートの入口がありますが、工事現場の雰囲気があります。ブリッジになっているのは、南ルートと一緒です。ブリッジの下にも空堀があって、関門になっています。同じく下にある頬当御門を越えると「平左衛門丸」です。

現状の西大手門跡
被災前の西大手門、現地説明パネルより
北ルートの入口
北ルートのブリッジ

ここは宇土櫓があるところで、現在行われている復旧工事の素屋根で大きさがわかります。月に1回、内部の特別公開を行っていますが、今日はそうでないので残念です。宇土櫓は、現存している3重5階の櫓で、高さが約19メートルあって、熊本城・第3の天守と呼ばれています。現存天守と比べても、これより高いものは4つ(姫路・松本・松江・松山)しかありません。かつては宇土城天守を移したものと言われましたが、最近では、古城の隈本城天守が、宇土櫓になったという説があります(御裏五階櫓になったという説もあり)。大天守と比較すると、建物や瓦の様式は古いのに、石垣は新しいというのがその根拠です。その石垣は例の「武者返し」で、そのおかげで熊本地震を耐えたとも言われます。ただ、続櫓が倒壊したり、本体に破損、石垣にも膨らみが生じたため、解体修理となりました。その過程で、1927年(昭和2年)の解体修理のときに設置された鉄骨の筋交いも、効果があったことがわかりました。宇土櫓は、本体も改装されていて(2重2階?→3重5階)結構謎があるのです。元通りになる頃には、謎が解けているかもしれません。

宇土櫓復旧工事の素屋根
熊本地震後(2017年)の宇土櫓

いよいよ、また天守に行きます。西側から見ると、天守台石垣が目立ちます。大天守の石垣は、本丸の中でも一番古い方で、あの二様の石垣の古い方と同じ時期に築かれたそうです。小天守の石垣は、それよりずっと新しい様式なので、小天守は、次の忠広の時代に付け加えられたと考えられます。それが、元の宇土城天守ではないかという説があります。宇土城は清正が隠居予定の城だったので、その遺徳をしのんだというのです。歴史ロマンを掻き立てられます。

西側から見た大天守・小天守
大天守の武者返しの石垣

熊本城より古い?千葉城へ

最後のセクションを始めるのに、再び二の丸にやってきました。街道が中を通っていた場所です。これから城の北側を歩くので、二の丸の北側から外に出ます。そこは二の丸御門跡で、街道はここも通っていました。ここも立派な門だったと想像できますが、地震の被害もかなりのものです。門跡を出たら右(東)に曲がります。ここからがまた見どころで、すごい石垣が続いています。百間石垣です。あの飯田丸を守備していた飯田覚兵衛が築いたと言われています。ここも被災していて、復旧はいつになるのでしょう。

二の丸御門跡
門の内側
門を出たら右に曲がります
百間石垣

一階建ての櫓が見えてきました。監物櫓で、重要文化財の建物のうち、2番目に復旧されました(2023年)。いつ建てられたかは不明ですが、その名前はこの辺りに屋敷があった細川氏の家老・長岡監物に由来しています。道路は橋を渡ります。現在は橋の下は県道ですが、かつては「新堀」という空堀だったのです。北の守りを固めるため、細川時代に掘られました。先ほどからの街道分だけ、土橋として残されていたそうです。街道とはここでお別れで、私たちはUターンして、またお城の外側を歩きます。

監物櫓
かつて新堀だった県道
かつては新堀を土橋で渡っていました
城の外側を進むのUターンします


また天守が見えてきます。この辺りは棒庵坂で、この上に加藤神社があります。すごい石垣が続きますが、やっぱりここも崩れています。その上には、現存している門は櫓群がありますが(不開門・五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓)、全て被災し、復旧する日を待っています。

棒庵坂付近
北十八間櫓復旧工事現場


ついに、本日の最終目的地、千葉城跡に到着しました。上の方は施設跡になっていては入れませんが、丘のような場所です。大元は小さな城があって、熊本城にとっては、出丸のような場所だったのでしょう。西南戦争のときも、西郷軍が橋頭保にしようと攻めたてましたが、鎮台兵が守り抜きました。こんな何気ない場所にも歴史が積み重なっているのです。

千葉城跡
小さな丘のような場所です
川にも囲まれ、出丸のようになっています

関連史跡

細川時代の史跡を余りご紹介できなかったので、関連史跡として、水前寺成趣園(水前寺公園)に来てみました。

水前寺成趣園

富士の築山が有名です。実は、この築山も熊本城の歴史と関係あるのです。西南戦争のときに政府軍の砲台として使われたそうです。更に熊本地震のときにも、頂上が陥没しました。まるで城とつながっているようです。

富士の築山

古今伝授の間から見る景色もすばらしいです。水が豊かで、これも阿蘇の伏流水です。、熊本に入った細川初代・忠利が湧水の地にお茶屋を作ったのが始まりだそうです。でも、熊本地震のとき、一時この池もかなり干上がってしまいました。ところが、なぜか徐々に元に戻ったそうです。自然とは計り知れないものです。これにあやかって、熊本城も復旧復興が進むよう願います。

古今伝授の間からの眺め

リンク、参考情報

熊本城 公式ウェブサイト
加藤清正の実像【市政だより連載】、熊本市
熊本城調査研究センター定期講座「熊本城学」配布資料
「熊本城~復興に向けて~」熊本城調査研究センターパンフレット
「熊本城解体新書」熊本城調査研究センターパンフレット
・「歴史群像 名城シリーズ2 熊本城」学研
・「シリーズ・織豊大名の研究2 加藤清正/山田貴司編著」戒光祥出版
・「歴史群像 111、138、179、180号」学研他
・「熊本城復旧基本計画 令和5年(2023年)改訂版」熊本市
・「熊本城みどり保存管理計画」
・NHK BS1スペシャル「よみがえれ 熊本城 サムライの“英知”を未来へ」2017年放送
・NHK「ブラタモリ 熊本城」2016年放送

「熊本城その1」に戻ります。
「熊本城その2」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

92.熊本城 その1

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。

特徴、見どころ(復興状況見学)

Introduction

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。スタート地点は、復旧が完了した長塀にしますが、まだまだ復旧が完了した建物は少ないのです(重要文化財の建造物は13棟のうち2棟(長塀と監物櫓)、復元または再建建物は20棟のうち1棟(天守のみ))。それから、城の中心部では、見学者が復旧状況を間近に見学できる「特別見学通路」が設けられています。本記事では、まず長塀を見学しながら、南側から入城して、復旧の様子を見てみましょう。それから「特別見学通路」に入っていきます。その通路に沿って、天守や、有名な二連の石垣を眺めてみましょう。:通路を降りたら、本丸御殿を通って、天守に到着です。

現地に掲示されている熊本城復旧基本計画
復旧された監物櫓

長塀を見ながら入城

長塀は、手前の坪井川とともに、城の東南側を防衛するために築かれました。全長が242メートルもあり、現存する城の塀では最長です。当初は、石落としも所々に備えられていたそうです。名所といっていい風格を感じます。この長塀も、熊本地震で被災しましたが、13ある熊本城の重要文化財の建物の中で、最初に復旧しました(2021年)。それでも5年かかったのです。

長塀
復旧工事中の長塀(2017年)

進んでいくと、加藤清正の像があります。熊本城の正面は、南とも西とも言われていますが、南の島津氏に備えて築城したこの清正は南を向いています。それでは、南側から行幸橋、行幸坂を通って入城しましょう。

加藤清正公像

右側には唯一の水堀「備前堀」が見えますが、その向こうに石垣があります。その上には何があったでしょうか。その場所は「飯田丸」といって、熊本地震の際「奇跡の一本石垣」として、隅の石垣一本でがんばった飯田丸五階櫓(復元建物)があった所なのです。見たところ、石垣は復旧しています(2023年完了)。一旦解体した櫓の再建も、これから始まるそうです。櫓も復旧したら、復活のシンボルになりそうです。

備前堀と飯田丸五階櫓の石垣
飯田丸五階櫓と奇跡の一本石垣、現地説明パネルより

坂を登って行くと「特別見学通路」の入口に着きますが、近くにある奉行丸の未申櫓(2003年復元)を見て行きましょう。この櫓は健在そうに見えますが、裏の石垣や塀が崩れているそうです。けなげに修理の順番を待っているのです。

奉行丸未申櫓

まるで空中回廊「特別見学通路」

それでは、特別見学通路に入っていきましょう。特別見学通路は、現在「特別公開」として設定されている南ルートの一部です。アミューズメント施設のような入口から入り、階段を登っていくと、まるで空中回廊のような通路のアーチが見えます。2020年に設置され、長さ約350メートル、高さは6メートル前後あります。復旧工事に影響を与えずに、ビジターが安全に復旧状況を見学することができます。それ以上の価値があるようにも感じます。あくまで仮設の扱いで、いずれは撤去される予定ですが、残してほしいとの声も上がっているそうです。

特別見学通路の入口
特別見学通路のアーチ

通路に上がると、今は痛々しい感じですが、確かに石垣が間近に見えます。被災した数寄屋丸の石垣です。かつては隅のところに、数寄屋丸五階櫓がありました。そのとなりには、被災した建物もあります。復元された数寄屋丸二階御広間です。かつては、主に茶会など接客用に使われていたそうです。この建物も石垣も、修理が必要に見えますが、順番待ちになっています。それまで何とか持ちこたえてほしいです。

被災した数寄屋丸石垣
数寄屋丸二階御広間

ところでこの特別見学通路のおかげで、新たに注目されたものがあります。建物の下の石垣をよく見ていただくと・・・ハートマークの石が見えます。しかも色もそれっぽいです。当時は、縁起のよい葉っぱをイメージしたものかもしれないとのことですが、現代になって、新たな価値が付きました。これもこの通路を作った効果かもしれません。

二階御広間の石垣
ハートマークの石

反対側を見ると、復旧工事の状況がわかる景色があります。そこは、西櫓御門の跡なのですが、石垣が崩れてしまっています。崩れた石を見ると、番号が付けられています。これは、被災前の写真などから場所が特定され、元通りに復旧されるのを待っている石たちなのです。石積みができる業者や職人も限られるので、長い時間がかかるのです。

西櫓御門跡
番号が付けられた石たち

特別見学通路を進んでいくと、天守が見えてきます。

天守が見えてきました

城を違った視点から眺めよう

やはり、天守はかっこいいです。南側から見る天守は、石垣に囲まれ、高さも感じられて、強そうに見えます。手前の方に目を向けていくと、本丸御殿、そして有名な二様の石垣も見渡せます。なかなか壮観です。

特別見学通路から見た天守
手前の本丸御殿

二様の石垣の方に近づいていきましょう。下からの眺めの写真を見たことがあありますが、今回は空中から見ているようです。二様の石垣は、勾配が緩やかな方が加藤清正時代に築かれました。急な方は、細川時代とされていましたが、最近では清正の次の忠広の時代と言われています。本丸御殿を増築するために、継ぎ足されたのです。時代の違いによる、石の加工のされ方や、積み方の違いを見ることができます。弓のように立ち上がるこの石垣は「武者返し」と呼ばれます。実はこの「武者返し」は、地震対策だったという見解があるのです。熊本地震で、熊本城の石垣は約50ヶ所で崩れましたが、その多くは明治以降に修復した部分で(約3割が崩落)、築城当初の石垣は、ほとんどが地震に耐え抜いたのです(崩落は1割)。なんと、清正は敵だけなく、地震にも耐えられる城を作っていたのです。しかし、二様の石垣の天辺を見ると、両者に少しズレが生じてしまっています。こんな頑丈な石垣でも、維持していくのはとても大変なのです。

天守と二様の石垣
下から見た二様の石垣と天守, taken by ichico from photoAC
手前が清正時代、奥が恐らく忠広時代
両者に生じているズレ

ここでも、通路の反対側を見てみましょう。迷路のようになっている場所があります。南側から本丸に向かう途中に設けられた連続枡形です。この枡形を越えるには、6回も曲がる必要があります。しかも、石垣の上には「竹の丸五階櫓」などの櫓群が築かれていました。

連続枡形


更に通路を進んで行くと、復旧工事の様子が見えてきます。本丸の東にある、東竹の丸にある重要文化財の5棟の櫓群です。源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓です。倒壊はしませんでしたが、状況に応じて解体修理などがされています。工事現場の前には、瓦が並んでいるね、新しいもののようです。復旧予定は、比較的早い時期になっています。しっかりと復旧してほしいです。

東竹の丸の櫓群の復旧工事現場
新しい瓦が並んでいるようです

違う視点から景色を眺めることができた特別見学通路もそろそろ終点です。階段をまた登っていきます。今度は本丸御殿に行きます。被害を受けて建物内部には入れませんが、関門になっていて、行ってみればよくわかります。

終点が近い特別見学通路
本丸御殿に向かいます

本丸御殿~天守に到着

通路から降りたところが本丸御殿の「大御台所(おおおんだいどころ)」、つまりキッチンです。その向かいには大きな井戸があります。朝鮮で過酷な籠城戦を経験した清正は、熊本城内に120もの井戸を作ったと言われています。この井戸は残っているものの一つで、水源は阿蘇の伏流水だそうです。

本丸御殿の大御台所の出入口が見えます
本丸御殿の井戸

さて、ここからが関門です。すごい梁が横たわっていて、この下を行きます。闇り通路(くらがりつうろ)です。これが本丸御殿への入口で、天守への最後の関門にもなっています。すごい梁が続いて、圧倒されます。多くは熊本県産のアカマツだそうです。

闇り通路への入口
ものすごい梁が続きます

この通路は、東西南北に通じていて、今は、南北のみ通れるようになっています。交差点がありますが、東西の方がメインの通路だったようで、ここでクランクして、まっすぐ通れないようになっています。西側に階段のようなものが見えます。かつては、その場所が御殿の玄関でした。現在は、その階段が一部復元されているようです。御殿内部の復旧はまだちょっと先です。復旧したら、御殿の中にも入ってみたいです。

闇り通路
東側の通路
西側にある復元された玄関か

ついに、天守の前に到着しました。大天守と小天守が並んで、見栄えがします。すっかり元通りになっているように見えます。熊本地震では、天守のほとんどの瓦が落ちたり、天守台の石垣が崩れたりしました。しかし鉄筋コンクリート造りの本体は、基礎の鉄柱を、深い所から立てていたので、大きなダメージはなかったそうです。今回、耐震補強もされましたし、内部の博物館展示も、リニューアルされました。

復旧した大天守と小天守
復旧工事中の天守(2017年)

私の感想

まるで「空中回廊」のような特別見学通路にびっくりしました。旧状況を見るだけじゃなくて、いろんな視点でお城を見れて良かったです。復旧が完了した長塀や、天守を見ることで、希望も感じました。復旧が進んだら、また来てみたいと思いました。

天守入口
天守からの眺め、東の方に阿蘇の山容がうっすら見えます

「熊本城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

error: Content is protected !!