98.今帰仁城 その2

外郭の石垣を眺めながら、大隅(うーしみ)の石垣に迫っていきましょう。一番有名かもしれないスポットです。やっぱり記念撮影場所にもなっています。ほんとうに城壁、という感じがします。グスク全体で見ても、中心部を守る要の位置に当たります。きっと石垣の上から兵士が見張っていたのでしょう。

Introduction

今日は、沖縄県今帰仁村、今帰仁城跡案内板の前にきています。どーんと目立つグスクのディスプレイがかっこいいです。

今帰仁城跡案内板

ここから車などで登っていけば、駐車場があるところに着きます。

グスク跡への登り口
グスク跡駐車場

そこから先にはビジター向けの施設がいくつもあって、例えば今帰仁村歴史文化センターでは、グスクや郷土の歴史のことを勉強できます。券売所では、チケットだけでなく、パンフレットや御城印が手に入ります。

今帰仁村歴史文化センター
券売所

グスク跡の入口にはグスクの模型があって、気分が出ます。

グスク跡入口
グスクの模型

しかし、入口から少し離れたところで、下からオリジナルの登城道があるという情報を発見しました。これはあくまでオプションですが、下の方に戻って、ご案内をやり直すことにします。

登城道「ハンタ道」の説明パネル

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(今帰仁城 景色と歴史ツアー)

登場道「ハンタ道」をゆく

ここが「ハンタ道(みち)」と呼ばれる登城道への入口付近です。脇を川が流れています。親川(エーガー)という泉で、住民の方からは崇拝の対象にもなってきました。自然の恵みを大切にしているのでしょう。

ハンタ道入口付近
親川

ハンタ道に入ります。山道ですが、石が多いです。石が敷き詰められているようです。石垣もあります。かつては松並木もあったそうです。

ハンタ道入口
脇に石垣が残っています

まるでタイルのようになっているところもあります。明治時代の探検家は「城跡に登る山道は、鏡石のような青色の大理石で、滑りやすい」と述べています。その面影が今でも残っています。

タイルのようになっている道

だいぶ登ったところに別の案内があります。「ミームングスク」今帰仁城の出城のようなグスクです。石積みが残っていますが、慎重に登りましょう。海が見えます。そして目を転じると、今帰仁城の曲輪(志慶真門郭)も見えるのです。

ミームングスクの案内
ミームングスク
ミームングスクからの眺め(海の方向)
ミームングスクからの眺め(今帰仁城方向)

もうすぐ今帰仁城に再到着です。その周辺には、祈りの場所がいくつもあるのです。沖縄のグスクの特徴です。ハンタ道は、その参道としても使われたそうです。グスク跡の入口に戻ってきました。

供のかねノロ殿内火の神の祠
今帰仁阿応理屋恵火之神の祠
今帰仁城跡入口付近、左にいくとハンタ道

すばらしい石垣

それでは、外郭の石垣を眺めながら、大隅(うーしみ)の石垣に迫っていきましょう。一番有名かもしれないスポットです。やっぱり記念撮影場所にもなっています。ほんとうに城壁、という感じがします。グスク全体で見ても、中心部を守る要の位置に当たります。きっと石垣の上から兵士が見張っていたのでしょう。

大隅の石垣

城周辺の航空写真

優雅な石垣をもっとよく眺めましょう。高さ7~8メートルくらいで、古期石灰岩の野面積みとのことです。石垣が波打っているところなど、万里の長城を思い起こしてしまいます。中国の技術が導入されているという意見もありますが、はっきりしないそうです。

大隅の石垣を横から見ています
逆方向の平郎門周辺から

グスクの正門、平郎門から中に入っていくことにしましょう。現在の門は1962年に修復されたものですが、厳重さと威厳を感じてしまいます。天井は一枚岩になっているそうです。古期石灰岩は固いので、築城当時は加工が困難だったという事情もありました。門をくぐった後のまっすぐの通路は戦後に整備されたものです(七五三の階段と呼ばれています)。

平郎門
天井の一枚岩
七五三の階段

大隅の中に入ってみましょう。現在は植樹されていますが、当時は兵士の調練の場だったと考えられています。馬の骨がたくさん発掘されたそうです。石垣も内側から見ると、感じが違います。守る方ですので、登りやすくしているのでしょうか。中は結構ゴツゴツとした地形でう。ここには洞窟への入口があって、城外に抜け出れるそうです(現在は閉鎖)。

大隅の内部
内部から見た石垣

次は、通路に戻りますが、途中からかつての旧道を通ってみます。ちょうど、カーザフを見下ろす場所です。カーザフとは「川の谷間」といった意味だそうです。谷間の崖の岩盤にも石垣が積まれています。

カーザフ

旧道を歩きましょう。発掘によって確認された道で、少し登りにくいですが、防御を重視するグスクらしいとも言えます。さっきハンタ道を歩いたので平気です。そして、城の中心部の一つ、大庭(うーみやー)に到着します。

旧道

すばらしい景色

大庭の中は、今は主に歌碑があるだけですが、かつては北殿・南殿があって、首里城でいえば御庭(うなー)のような場所と考えられます。儀式などが行われたのでしょう。

大庭
志慶真乙樽の歌碑と北殿跡

次は景色がいい場所に行きましょう。グスク内で最も標高が高く、御嶽(うたき)がある重要な場所、御内原(うーちばる)です。入口には御嶽の一つ、ソイツギがあります。

ソイツギ

御内原は、かつては女官部屋があった場所だったと言われます。大奥のような場所だったのでしょうか。

御内原

そこからは、すばらしい景色です。大隅の石垣に、青い海に青い空・・・沖縄らしい景色です。

御内原からの眺め

反対側に行ってみましょう。すごく深い谷になっています。谷底を志慶真(しげま)川が流れています。さらに進むと奥の曲輪(志慶真門郭、しじまじょうかく)も見えます。

反対側は深い谷になっています
背後を守る志慶真門郭(しじまじょうかく)

これから主郭に向かいますが、途中にまた重要な御嶽があります。グスク内で最も神聖な聖地、テンチジアマチジです。実は、ここは尚巴志軍との戦いのときに、北山王・攀安知(はんあんち)が切り刻んだ霊石があったところと言われているのです。それから宝剣を向こうの川に投げ込んだという訳です。

テンチジアマチジ(城内上の御嶽)
川に投げ込んだとされる宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

いよいよ、主郭です。発掘調査により、時代区分ごとの遺構が見つかっています。

主郭

まず、初期の時代に版築や石積みにより土台を固めた跡(第1期)があります。

版築の層を説明したパネル

そして北山王国が発展したときの正殿跡です(第2期)。発掘で基壇が発見されましたが、柱を支える礎石は失われていました。それでもひとかたならぬ建物があったと感じます。

第2期正殿の基壇

北山監守時代の遺構がその先にあります(第4期)。北山王国全盛期の正殿跡(第3期)は、その下に埋もれているようです。正殿の後に建てるくらいですから、監守が住んでいたのでしょう。

監守時代の建物礎石

現在あるのは、グスクが廃城になったあとに建てられた火神(ひのかん)の祠です。現在の祠は20世紀の建築で、発掘調査時に元の位置(中心部)から現在地に移されました

火神の祠

グスクの裏手も圧巻

一番奥の曲輪、志慶真門郭(しじまじょうかく)に向かいます。主郭の奥の門から出て、階段を下っていきます。ずいぶんと高低差があります。下っていくときの景色も見ものです。今度は草木の緑も加わったすばらしい眺めです。

主郭から見た志慶真門郭
ここから出ます
主郭から階段を下ります
下る途中の眺め

建物の跡が見えます。発掘調査により、4つの掘立柱建物の跡が見つかり、家臣の住居だったと考えられています。石垣もよく残っています。その上を兵士が行き来していた感じがわかります。この曲輪は、グスクの全盛期に築かれたと考えられています。グスクの裏手を守る重要な曲輪だったのです。主郭の石垣がそびえ立っているのもグッドポイントです。

曲輪内の建物跡と石垣
そびえ立つ主郭の石垣

振り返ると、グスクの裏門・志慶真門(しじまじょう)跡があります。この門は南側を向いていますので、定説の方ではありませんが、尚巴志軍が放火するためにグスクの南西側から忍び寄った場所かもしれません(定説では本部平原が裏切って敵をここから引き入れたとか)。

志慶真門跡

それでは主郭の方に戻りましょう。今度は迫りくる主郭の石垣が目立ちます。行き帰りで違った見方で景色を楽しむことができます。

帰りはちがった景色を楽しめます
主郭石垣

お時間があれば、外郭の石垣もご覧になってはいかがでしょう。南側はカーザフの向かい側から始まっています。石が新しいので、復元されたものでしょうか。

外郭南側の石垣

こちらは、北側です。古そうな感じです。ここまで歩いていただければ、総延長1.5kmと言われる石垣の長さを感じられると思います。

外郭石垣(北側)

リンク、参考情報

世界遺産 今帰仁城跡(公式サイト)
今帰仁グスクをガイドと歩く
・「世界遺産今帰仁城跡・今帰仁村文化財ガイドブックvol.1」沖縄県今帰仁村教育委員会
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」
・「琉球王国の形成/和田久德著」 榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編著 諸見友重訳注」 榕樹書林
・「訳注 蔡鐸本中山世譜/首里王府編著 原田兎雄訳注」 榕樹書林
・「広報 なきじん」
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林
・「沖縄県立博物館所蔵「琉球國圖」/深瀬公一郎。渡辺 美季著」琉球大学学術リポジトリ
世界遺産『今帰仁城跡』取材:東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター(Yutubeビデオ)

「今帰仁城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

73.広島城 その2

今日は、広島復興の象徴、平和大通りに来ています。ここは城と関係あるのかと思いますが、実はこの平和大通りの辺りが、城が築かれた時の海岸線だったのです。この通り沿いにある白神社のところに、その証拠があります。脇の方から入っていくと、自然の岩が並んでいます。これは、当時海岸線にあった岩礁なのです。広島城と町の開発の記念碑のようなものと言えるでしょう。

Introduction

今日は、広島復興の象徴、平和大通りに来ています。ここは城と関係あるのかと思いますが、実はこの平和大通りの辺りが、城が築かれた時の海岸線だったのです。この通り沿いにある白神社のところに、その証拠があります。脇の方から入っていくと、自然の岩が並んでいます。これは、当時海岸線にあった岩礁なのです。広島城と町の開発の記念碑のようなものと言えるでしょう。

平和大通り
白神社
白神社の岩礁

今回は、ここを出発点にして、平和記念公園や原爆ドームを経由して、広島城に向かいましょう。そこを過ぎたら、城の痕跡がいくつもあるのです。今残っている城の範囲は、二の丸と本丸ですので、復元された二の丸の建物を見学してから、本丸と天守に向かいましょう。最後には、縮景園にも行ってみたいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

関連史跡(平和記念公園を経由して城の痕跡を探そう)

実は平和記念公園は、ここからすぐ近くなのです。平和大通りを西に進んで、平和大橋を渡れば、もう平和記念公園です。わたしたちも平和を祈りましょう。

平和大橋を渡っています
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)

原爆ドームに向かって、川沿いを歩きます。この公園は中州にあるのです。その一部はかつては材木町といって、江戸時代は材木の集積場だったようです。ということは、きっとこの川を舟が行き来していたのでしょう。原爆ドームが見えてきました。

中州の川沿いを歩きます

こちらも世界的な平和のモニュメントです。形で残すって大事なことだと思います。実は、原爆ドームに面した通りは、広島城の外堀だったのです。

原爆ドーム(広島平和記念碑)

原爆ドームから北に歩いているところが、かつては外堀でした。ずっと水に満たされていたということです。門があったと思われる辺りに来ましたが、案内などは見当たらないので、太田川の方に出てみましょう。

外堀だったところを歩いています
この辺りに小姓町口御門がありました

川沿いに出て、北の方に歩いていくと、なにかありました。「広島城、外郭櫓跡」とあります。こんなところにまで櫓が並んでいたのです。

太田川の川沿い
広島城外郭櫓跡の説明パネル

通りに突き当たったら、右に曲がります。今度は「中堀跡」ときました。通りの地下道に入って、出たところが三の丸です。三の丸は、商業・文化施設が集まる場として開発が進められています。そこを抜けると、二の丸です。

中堀跡
通りの地下道に入ります
三の丸
二の丸に着きました

特徴、見どころ

二の丸を見学

二の丸は、本丸を守るための馬出し状の曲輪です。広島城の特徴の一つです。正面を、表御門や平櫓が守り、周りも多聞櫓や太鼓櫓が固めます。中は、兵士の集合場所になっていました。本丸の入口も枡形になっています。

二の丸全体図、二の丸建物内にて展示

御門橋を渡って、表御門に入っていきましょう。そして復元された建物群の中に入っていきます。

手前が御門橋、向こうが表御門
建物への入口

まずは、平櫓です。真ん中に畳スペースがあります。周りは、格子窓と狭間だらけです。正面の方に行ってみと、さっき歩いた三の丸が見えます。

平櫓内部
格子窓と狭間
格子窓から見える三の丸
平櫓の外観

表御門の櫓部分に入ってみましょう。結構広い感じがします。中からはさっき渡った御門橋が見えます。

表御門櫓部分内部

次は、多聞櫓の中を歩きましょう。ずいぶんと長くて、建物の長さは、約68メートルもあります。いろんな展示もあります。例えば、戦後に再建された天守の初代鯱瓦があります。台風によって尻尾が折れてしまったため、取り換えられたそうです。確かに尻尾がありません。

多聞櫓内部
再建天守の初代鯱瓦

端の太鼓櫓に着きました。角地を守る櫓でした。二階には上がれませんが、そこにあったという太鼓が一階の方にあります。門の開閉や、登城のときを告げていました。説明パネルには、たまに時刻を間違えたなんて書いてあります。

太鼓櫓内部
太鼓櫓外観
一階に太鼓が置いてあります

いよいよ、本丸に向かいます。中御門の枡形が残っています。建物は戦前まで残っていましたが、原爆により焼失し、そのときの熱で石垣が変色しています。

中御門跡
変色した石垣

「閉城」前の天守へ

本丸は、上段と下段に分かれていて、江戸時代には上段に御殿が、下段には馬場や米蔵があったそうです。

城周辺の航空写真

中御門跡から本丸下段に入っていきますが、現在奥の方には、護国神社があります。でもわたしたちは、その手前の場所に行きます。

広島護国神社

動員された女学生たちががんばっていたところで、原爆被災時、かろうじて生き残った彼女たちが、被災第一報を連絡したと言われています。

中国軍管区指令部 防空作戦室跡

それでは、上段に向かいます。現在は広場になっているのですが、史跡としてはこちらが目立っています。日清戦争のときの大本営跡です。広島が臨時首都みたいになったときのことです。

広島大本営跡

大本営跡を通り過ぎていくと、天守が見えてきました。階段を登ったところが、ちょうど南小天守があったところです。小天守自体は明治になって取り壊されてしまいました。ここから見る天守は、コンクリート造りの建物とは思えません。外観復元天守の中でも、本物に近いと評価されています。すごい人気です。外国の人も閉城って知っているのでしょうか?わたしたちもチケットを買って並びましょう。

天守が見えてきました
南小天守跡
外観復元天守
外国の方も含めすごい人気です

中は歴史博物館で、外観と同じ5層構成になっています。第1層は「広島城の成立と役割」の展示で、お城ファンの方は必見です。出土した毛利時代の金箔瓦があります。本丸御殿の内部模型あって、さっきの広場を埋め尽くしていました。

天守第1層の展示
毛利時代の金鯱瓦
本丸御殿内部模型

第2層は「城下町広島のくらしと文化、第3層は甲冑や刀剣、第4層はときどきの企画展示と来て、第5層はやっぱり展望室です。さすがいい景色です。お殿様でもめったに天守に登らなかったというから、現在のビジターは恵まれています。しかし閉城になったら、しばらくはお預けです。

天守第2層の展示
天守第3層の展示
天守第5層、北側の眺め
天守第5層、東側の眺め
天守第5層、南側の眺め


最後にお気に入りの展示をご紹介します。第1層にある広島城下の模型です。今日歩いたルートがばっちりわかります。

広島城下の模型

せっかくなので、東小天守跡も見て行きましょう。こちらは随分ひっそりしています。傍らに、オリジナル天守の礎石も展示されています。この石の上に柱が立てられていたのです。東子天守跡も南と同じようになっています。小天守も、復元が検討されています。でも史料が少ないので苦労しているようです。もし復元されたら、天守と一緒にどんな風に見えるのでしょうか。

オリジナル天守の礎石
東小天守跡
東小天守から見た天主

平和の庭園・縮景園

これから縮景園に向かいすけど、その途中の見どころもご紹介します。東小天守の跡から石垣の上を歩いていくと、石垣が切れるところに着きます。これが、福島正則が本丸の石垣を壊したところと考えられています。ということは、元はこの石垣が続いていたのでしょうか。

崩された石垣

そこから近い、裏御門跡から出ることにしましょう。こちらも戦前まで建物が残っていました。今は車の出入口になっています。

裏御門跡
車の通り道になっています

お時間があれば、内堀の周りを歩いてみることもおすすめです。先ほど中に入った南東側の太鼓櫓や、北西側から天守を眺めるのがいいと思います。結果的に、内堀を一周してしまうかもしれません。

内堀の外、北西側から見た天守

縮景園に着きました。城と離れているように思いますが、江戸時代は、外堀が隣接していたのです。

縮景園入口

最初は浅野初代藩主・長晟(ながあきら)の別邸庭園として、上田宗箇が作庭しました。しかし大火があって、7代藩主・重晟のときに復興されました。そのときに作られたのが、現在でも一番人気の「跨虹橋(ここうきょう)」です。

跨虹橋

見どころはたくさんありますが、それぞれのお気に入りを見つけてはいかがでしょうか。例えば、石庭が好きな方には、「積翠厳(せきすいがん)」という石組や、滝に通じる流れが、白い竜のような曲水として表現されている「白龍泉(はくりゅうせん)」がいいかもしれません。

積翠厳
白龍泉

池泉庭園が好きな方は、島伝いの石橋が押しかもしれません、お殿様が参勤交代のときに眺めた瀬戸内海を表現したものとされています。

橋梁・島嶼

最高地点の「迎暉峰(げいきほう)」に登ります。お殿様もわたしたちも高い所が好きなのです。すばらしい眺めです。この庭園も原爆のときに壊滅状態になって、約30年かけて復旧されたそうです。ずっと平和のシンボルであってほしいです。

迎暉峰
迎暉峰からの眺め

リンク、参考情報

広島城公式ホームページ
縮景園公式ホームページ
・「秀吉の接待-毛利輝元上洛日記を読み解く/二木謙一著」学研新書
・「福島正則/福尾猛市郎・藤本篤著」中公新書
・「シリーズ藩物語 広島藩/久下実著」現代書館
・「歴史群像名城シリーズ9 広島城」学研
・「広島城四百年/中國新聞社編」第一法規
・「広島城天守に関する基本的な情報について」令和5年度第1回広島城天守の復元等に関する検討会議資料
・「徳川幕府の大名改易政策を巡る一考察/笠谷和比古氏論文」国際日本文化研究センター学術リポジトリ
・「しろうや!広島城」広島城広報紙

「広島城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

208.屋嶋城

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。

Introduction

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。以前九州の大野城の勉強をしたときにも、名前が出てきました。この記事では、最初に古代山城、および屋嶋城の歴史に関するご説明をして、それから現地をご案内したいと思います。

高松駅

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(古代山城と屋嶋城)

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図l (incensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです。

水城跡
大野城跡
基肄城跡

その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。その中に屋嶋城があります。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

主要な古代山城の位置

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

屋島の地形図を見ると「メサ」と呼ばれる特徴的な地形になっています。テーブル状の台地で、山上が平らで、周囲は急な崖に囲まれています。山を丸ごと囲い込む古代山城にはうってつけの地形だとわかります。結局唐などの侵攻はなかったので、城はすぐ廃城になったと思われ、長い間「幻の城」と呼ばれてきました。1998年になって本格的に発掘調査が始められました。その結果などから、全長約7kmの城壁のうち、人工的なものは約1割と考えられています。屋島の自然の地形を最大限生かしたのでしょう。その人工的なものの中で、最大の発見が、これからご案内する城門です。これにより、屋嶋城の実在が証明され、古代山城の中でも最大級の門とのことです。しかし、この城の全貌はまだまだベールに包まれているのです。それでは現地に向けて出発しましょう。

屋島周辺の起伏地図

復元された城門

ここに行くには(自然と歴史の地・屋島へ)

今回のご案内は、電車とバスを使って、お気軽に行けるコースをご紹介します。高松から、電車で屋島駅に向かいます。屋島が見えてくるのですが、特徴的な地形だとわかります。古代山城にはもってこいです。

車窓から見える屋島

駅に着いたら、バスに乗り替えます。結構混んでいます。人気の観光地でなのでしょう。

屋島駅
屋島山上行きバス


急な坂を登っていたはわかりましたが、思ったより、すぐに着いてしまいました。ほんとうに上は、まっ平です。

バスで登っています
山上の駐車場に到着

これから、駐車場から近い範囲を、歩いて屋島山上を回りながら、復元された城門を見学することにします。

屋島山上(南嶺)案内図

駐車場からは、第八十四番札所の屋島寺に向かう人が多いのですが、違う方向に行きます。ずっとまっすぐの道で、本当に平らだと感じます。もうすぐ東側の崖に着きます。説明パネルがあります。「源平屋島合戦史跡 案内図」というタイトルです。

屋島寺(東大門)
まっすぐの道を進みます
東側の崖に到着
「源平屋島合戦史跡 案内図」


この眼下に見える一帯が、古戦場なのです。那須与一が海辺で扇の的を射たところだから、山の上ではないと思っていましたが、あの場所での出来事だったと初めて知りました。

古戦場の眺め

特徴、見どころ

城門に到着、見学!

いよいよ城門に向かいますが、今歩いている道はお遍路道にもなっています。85番目の札所に向かう分岐点があります。

八十五番札所への分岐点


目指す城門は、西側の崖にあるのですが、この辺は屋島の南嶺の山上部分が細くなっているので、そんなに遠くはありません。逆に、そういうところだからこそ、門を作ったのかもしれません。もう案内が見えてきました。

道はまだ崖の東側を進んでいます
程なく崖の西側に着きました、門の案内があります

ここから少し下っていきます。なんだか、風の音がして、風雲急を告げているようです。視界が急に開けてきました、すごい景色です!山の西側が一望できます。ちょうど夕方になってきているので、神秘的にも感じます。

門に向かって下ります
城門に到着です
城門からの眺め

修復された城門石垣をよく見るためには、さらに階段を下ります。さすが、よく整備されています。下ってから石垣を見上げると、崖と一緒に立ちはだかっているように見えます。城壁は約6メートルの高さで、崖の前に築かれています。

階段を下ります
城門石垣

右手前の登山道から改めて近づいてみましょう。門の建物もあったはずですが、残念ながらその痕跡はほとんど残っていなかったそうです。それでも、戦国時代の城のような石垣が、1300年以上も前に築かれていたことはすごいと思います。しかし短期間で廃城になって、石垣の技術も城とともに幻になって、一旦忘れられてしまったのでしょう。

右手前の登山道を上がったところです

門の作り方として注目なのは、懸門です。入口に、高い段差を設けて入りにくいようにしています。当時は梯子がかけられていたと考えられます。

懸門

もう一つは門の中に入ったところで、甕城(おうじょう)といいます。岩盤が敵の行く手を阻み、左側に進ませるようになっています。敵がその通り進んだら、周りから兵士が側面攻撃するのです。近世の城の枡形みたいなものです。

甕城

実は全部が屋嶋城?

帰り道は、屋島寺に寄ってみましょう。参道が見えてきました。お遍路の人は、左側から登ってきます。右側にあるのが仁王門です。そのルートに合流しましょう。

屋島寺の参道に突き当たります
こちらからお遍路の人が登ってきます
仁王門

四天門、重要文化財の本堂、と進みます。このお寺自体、屋嶋城が廃城になった後、北嶺から南嶺に移されたとも言われます。狸伝説のお寺でもあります。

四天門
本堂
狸石像

せっかくなので、北側の眺めを見に行きましょう。駐車場から、北西側に回り込んでいきます。北嶺が見えます。

駐車場から北側の眺め、右側が北嶺

今度は、海が一望できます。高松の海岸が良く見えます、ここにも「屋島城跡」と表示があります。唐突感はありますが、屋島中が城だったということでしょう。今後、屋嶋城の謎がだんだん明らかになるかもしれません。

南嶺北西側からの眺め
ここにも「屋島城跡」とあります

リンク、参考情報

屋嶋城詳細へ、高松市公式ホームページ もっと高松

これで終わります、ありがとうございました。

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