30.高遠城 その3

絵島が後半生を過ごした土地

その後

明治維新後、高遠城の全ての建物は撤去されるか売られていきました。1875年に城跡は高遠公園となり、元武士たちは公園に桜を植え始めました。それ以来、この地は桜の名所として発展していったのです。城跡はまた、1973年に国の史跡に指定されました。

桜のシーズンの桜雲橋周辺 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高遠の街並み

私の感想

高遠城は自然の地形をうまく利用して築かれたこと、そして地元の人々が将来の世代に渡って城跡を維持し続けるために大変な努力をしてきたということがよくわかりました。

二の丸の土塁(左側)と中堀(右側)
搦手門跡

更には、もしお時間が許せば、高遠町歴史博物館にある「絵島囲み屋敷」を訪れてみてはいかがでしょう。絵島は、江戸時代に徳川幕府の本拠地であった江戸城の大奥の大年寄でした。彼女は歌舞伎を観た後、門限に遅れた罪で追放されました。これは大奥内の内部抗争により起こされた事件とも言われています。彼女は亡くなるまでの27年間、隔離された部屋に幽閉されました。筆記用具は一切与えられず、ひたすら読経をする日々だったと言います。高遠の人々はやがて彼女を尊敬するようになり、その晩年には、高遠藩の藩主が高遠城に彼女を招き、城の女中に躾の指導をさせたりしました。

絵島囲屋敷の入口
絵島の部屋
屋敷は厳重に塀により囲まれていました
絵島を描いた浮世絵、歌舞伎役者と遊んでいて門限に遅れたと当時は思われていました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の伊那ICから約30分かかります。
公園周辺と高遠町歴史博物館に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR伊那市駅からJRバス(高遠線)に乗り、高遠バス停で降りてください。そこから歩いて約15分です。
東京から伊那市駅まで:
新宿駅で特急あずさ号かかいじ号に乗り、岡谷駅で飯田線に乗り換えてください。

公園内の駐車場
博物館の駐車場

リンク、参考情報

高遠城の魅力をご紹介、伊那市
・「日本の城改訂版第63号」デアゴスティーニジャパン
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

これで終わります。ありがとうございました。
「高遠城その1」に戻ります。
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127.Shinpu Castle Part3

Was it the mixture of a castle and a hall?

Features

Another mysterious Degamae system

You should finally check out the Degamae system on the northern side of the castle. It consists of two banks sticking out of the mountain, which are very unique to the castle. Historians often wondered if they were used as the strongholds for guns or for adjustment of the water in the moats. It is still uncertain because no other example like that were found in other castles.

The map of the northern part of the castle

The West Degamae
On the West Degamae
There was a water moat around the Degamae system
The East Degamae

Later History

The ruins of Shinpu Castle was developed after they were designated as a National Historic Site in 1973. Nirasaki City has been changing them to public land since 1988 and 98% of them are now publicly owned. The city also started the excavation of the site in 1998 and the development as a historical site in 2005. That’s why we can visit and see the castle ruins at anytime.

The ruins of the Umadashi system
The Main Enclosure
The Degamae system

My Impression

I think that Shinpu Castle was the mixture of a castle and a hall like the combination of Takeda Clan Hall and Yogaisan Castle before. Yogaisan was a mountain castle used for emergencies when a battle happened around Takeda Clan Hall. Shimpu Castle was a hybrid of the two previous castles. That’s why someone can easily see it as a hall. However, Shimpu Castle was too large to be protected by a few soldiers. When Nobunaga Oda’s troops were heading for the castle, most of Katsuyori Takeda’s retainers surrendered or escaped from him. He must have realized that it would be impossible to protect the castle all by themselves. Shimpu Castle couldn’t show full potential.

The imaginary drawing of Takeda Clan Hall (from the signboard at the site)
Yogaisan Mountain (licensed by さかおり (talk via Wikimedia Commons)
The miniature model of the ruins of Shinpu Castle (Nirasaki Folk Museum)

How to get There

If you want to visit there by car:
It is about 10 minutes away from Nirasaki IC on the Chuo Expressway.
There is a parking lot alongside Yamanashi Prefectural Road 17 on the east of the ruins.
By train, it takes about 10 minutes on foot from Shinpu Station on the JR Chuo Line.
To get to Shinpu Station from Tokyo: Take the limited express Azusa or Kaiji at Shinjuku Station, and transfer at Kofu Station to the Chuo Line.

Yamanashi Prefectural Road 17
The ruins of Shinpu Castle that can be seen from the parking lot

Links and References

Shimpu Castle Ruins, Nirasaki City Official Site
Shinpu Castle Ruins, Nirasaki City Tourism Association

That’s all. Thank you.
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127.新府城 その3

城と館の複合体だったのでしょうか。

特徴

これもまた謎の出構

最後に、城の北側部分でに残る出構をご覧になってはいかがでしょう。山側から2つの土手が突き出す構造になっていて、この城独特のものです。歴史家は、これが鉄砲の陣地として使われたのか、堀の中の水量を調整するために使われたのか思案しています。このようなものは他の城には見られないので、答えは見つかっていません。

城北側の地図

西出構
西出構の上
出構の周りは水堀でした
東出構

その後

新府城跡は、1973年に国の史跡に指定された後に整備されました。韮崎市は、城跡の公有地化を進め、現在では98%が公有地となっています。また、韮崎市は1988年に城跡の発掘を、2005年には史跡としての整備を始めました。そのため、現在いつでもこの城跡を訪れ、見学できるようになっているわけです。

馬出し跡
本丸
出構

私の感想

私は、新府城は、その以前に武田氏館と要害山城が組み合わされたように、城と館の複合体であったと思うのです。要害山は、武田氏館の周辺で戦いが起こったとき、緊急のために使われる山城でした。新府城は、先の2つの城が混合されたものだったのです。そのため、ある人にとっては、館として映ってしまうのではないでしょうか。しかし、新府城は少ない兵士によって守るには大きすぎました。織田信長の軍勢がこの城に向かっていったとき、武田勝頼のほとんどの家臣は降伏するか、勝頼の下から去っていきました。勝頼は、彼らだけでこの城を守るのは不可能だと認識したのでしょう。新府城はその潜在能力を発揮することはなかったのです。

武田氏館の想像図(現地説明板より)
要害山 (licensed by さかおり (talk via Wikimedia Commons)
新府城跡の模型(韮崎市民俗資料館)

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の韮崎ICから約10分のところにあります。
城跡の東側を通る山梨県道17号線沿いに駐車場があります。
電車で行く場合は、JR中央線の新府駅から歩いて10分程のところにあります。
東京から新府駅まで:新宿駅から特急あずさ号かかいじ号に乗り、甲府駅で中央線に乗り換えてください。

山梨県道17号線
駐車場から見た新府城跡

リンク、参考情報

新府城跡、韮崎市
新府城跡、韮崎市観光協会
・「歴史群像135号、戦国の城 甲斐新府城」学研
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書
・「新府城と武田勝頼」新人物往来社

これで終わります。ありがとうございました。
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