50.彦根城 その2

彦根城表門橋の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

彦根城表門橋(おもてもんばし)の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。同じ城の中でも、目的によって全然違う作られ方がされているということです。まずは、山を登っていきなり現れる大堀切を見学しましょう。次は、重要文化財になっている天秤櫓や太鼓門櫓を通ったり、中にも入ってみましょう。そして、国宝天守のきれいな外観や、現存天守ならではの内装を楽しみましょう。最後は、穴場として、西の丸三重櫓や、彦根山の周りを歩いてみます。

表門橋

城周辺の航空写真

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

いきなりの大堀切

内堀にかかる表門橋を渡ると、その内側が主郭(第一郭)になります。渡った所に石垣がありますが、表門の跡です。今でもなにげに厳重に感じます。その脇には、登り石垣もあります。

主郭の範囲を描いた絵図、現地説明パネルより
表門跡
表門脇の登り石垣

入っていくと右側が表御殿(彦根城博物館)で、今回は券売所から左側に向かいます。表門坂です、表御殿ができてからは主要な登城ルートだったのでしょう。わざと石段の長さを変え、登りにくくしていました。急な上に、なんだか余計に疲れるように思います。敵だったら、足元を見ているうちに、攻撃されてしまうでしょう。

表門坂

やっと坂を登ったら、いきなりの大堀切です!圧倒されます。この大堀切の右側(北側)が本丸に通じる太鼓丸、左側(南側)が鐘の丸です。太鼓丸を守っているのが、重要文化財の天秤櫓です。本丸に行くには、鐘の丸に入って、正面に見える廊下橋を渡って、太鼓丸に進む必要があります。廊下橋は、かつては屋根付きだったようです。敵が攻めてきたときは橋は落としてしまうでしょうから、両側から攻められるだけになってしまいます。向こう側(西側)は、大手門に続く坂ですので、ここは最重要の防衛ポイントでした。

大堀切(南側)
大堀切周辺の絵図(現地説明パネル)に進行ルートを追記

鐘の丸に進みましょう。ここに入るにも、石段と枡形の組み合わせになっています。ここで滞留していたら、後ろの天秤櫓から攻撃されてしまうでしょう。橋を渡るどころではありません。鐘の丸の名前は、当初時刻を知らせる鐘楼があった(後に太鼓丸に移転)ことにちなむとのことです。

鐘の丸の入口(石段と枡形)

鐘の丸の中は、今は何もないので目立ちませんが、かつては大広間御殿と御守殿という2つの建物がありました。御守殿は、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)が、後水尾天皇に嫁ぐときに、宿泊所として建てられたそうです(実際には使われず)。それに、ここは山の南端に当たるので、防衛上も重要な場所だったのです。ここからは、城の入口の一つ佐和口などが見渡せます。

鐘の丸の内部
鐘の丸からの眺め

天秤櫓と太鼓門櫓

それでは、廊下橋をわたって、天秤櫓に迫りましょう。名前の通りのユニークな櫓です。完全に左右対称ではないそうですが、両側の登城口から攻めてくる敵に対応するための形でしょう。あと面白いのが、江戸後期にこの櫓を大修理したことで、右側(東側)の古い石垣と、左側(西側)の新しい石垣のコントラストを見られることです。橋の上からも堀切が良く見えます。かつては屋根付きだったとしたら、ここからでも攻撃できそうです。橋を落とすタイミングと方法はどうだったのでしょうか。

天秤櫓
右側の古い方の石垣
左側の新しい方の石垣
廊下橋から見た大堀切

櫓の中も、通常公開されています。この櫓は平面上ではコの字型になっていて、その端っこから入っていきます。この櫓は、長浜城から移築されたと言われていますが、意外と中はシンプルな感じです。実用性重視だからでしょうし、実際には倉庫として使われたそうです。木材を削った跡が荒々しくていいです。作りとしては、敵が攻めてくる外側(南側)の壁を分厚くしてあります。格子窓から外を見ると、廊下橋がばっちり見えます。狭間や石落としがないように見えますが、埋められている隠し狭間がありました。使うときだけ開けられるようになっていたそうです。

天秤櫓内部
荒々しい木材の削り跡
外側の壁は厚く作られています
格子窓から見た廊下橋
隠し狭間

天秤櫓があるところが太鼓丸で、次が本丸への最後の関門、これも重要文化財の太鼓門櫓です。左側に時の鐘(時報鐘)を見ながら進みましょう。門の前に枡形がありますが、一部は山の岩盤がそのまま使われています。この門をくぐるときも、攻撃されそうな感じで一杯です。

太鼓丸を進みます
太鼓門櫓

太鼓門櫓はかつて、この山にあったお寺の山門を利用したと言われましたが、調査の結果、やはりどこかのお城から移されたとわかりました。この櫓にも入ることができます。外側に対しては厳重に監視できるようになっていますが、内側に対しては開けっ広げです。これは、かつてここに登城の合図を知らせる太鼓が置かれ、よく聞こえるようにこうなったと言われています。

太鼓門櫓の入口
太鼓門櫓内部
格子窓から外側を見ています
内側に向かって開放されています

本丸に入ったら、いよいよ天守ですが、その前に、ちょっと景色を楽しみましょう。着見櫓跡です。違う字で「月見櫓」とも書くそうですが、やはり見張りをする場所だったのでしょう。ここからは、城の周辺が一望できます。佐和山城跡の山もよく見えます。そちらに行った時には、彦根城を眺めました。両方行ってお互いを見てみると、すごく達成感があります。

着見櫓跡
櫓跡から見た佐和山城跡
佐和山城跡から見た彦根城

国宝天守を満喫

さて、現存12天守、国宝5天守の一つの彦根城天守です。他の城の天守と比べて大きくはないけれど、すごく気品を感じます。3重3階で、建物の高さは15.5メートルですが、多くの装飾がバランスよく配置されています。こちらの面だけでも、破風と呼ばれる屋根の装飾が5つも付いています。窓も、格式の高い「華頭窓」を2階と3階に使っていますし、3階の廻縁と高欄は、外に出ることができない飾りなのです。

彦根城天守
唐破風
入母屋破風
切妻破風

それから、この天守は大津城天守を移築したと言われますが、調査の結果、5階の建物を3階に改装したことが分かっています。わざわざ3階にした理由の一つとして、彦根城天守の平面は長方形になっているので、それに合わせてサイズを変更したことが考えられます。

天守内部では、移築を示すホゾ穴痕が見られるそうです
前身建物推定図、天守内部にて展示
着見櫓跡から見た天守、平面が長方形なのがわかります

それでは天守に入りましょう。ビジターの順路は、まず地下室から一階に上がります。ものものしい鉄の扉があります。

地下室と一階の間の鉄扉

天守の各階は「入側(武者走り)」という廊下のような通路に囲まれています。さすが本物だけあって「鉄砲狭間」「矢狭間」だらけです。ここも天秤櫓と一緒で、隠し狭間になっています。入側をずっと回りこんで、真ん中の身舎(もや、内室)に入って行きます。

天守一階の入側
矢狭間と鉄砲狭間
入側を回り込んで身舎に入っていきます
こちらは二階の身舎

二階、三階に上がるときには、ものすごく急な階段を昇ります。江戸時代のオリジナルですから、頑張りましょう。

二階から三階への階段

三階は最上階なので、屋根の木組みを見ることができます。巧の技という感じがします。下の方を見ると、破風の内側に「隠し部屋」があります。それから、最上階までしっかり狭間があるのもわかります。廻縁は飾りなので外には出られませんが、窓から外の景色を楽しめます。

天守三階(最上階)
屋根裏の木組み
隠し部屋に入るための引き戸
回縁には出られません
窓からの景色(琵琶湖方面)

穴場?西の丸三重櫓など

最後のセクションは「穴場」としていますが、見どころ満載です。まずは西の丸です。これまでご紹介したところに比べ、人気はありません。また櫓が見えてきました。重要文化財の西の丸三重櫓です。こんなところにも重要文化財があるのです。城の北側を守る要の櫓でした。

閑散としている西の丸
西の丸三重櫓

この櫓の中にも入ることができます。この櫓も小谷城から移されたという伝承があるのですが、調査では、移築の痕跡は見られなかったそうです。幕末に大修理されているので、それ以前は移築された建物があったかもしれません。他の現存建物よりは新しめなのです。格子窓から琵琶湖が見えます。それに、ここの狭間は塞がれていません。かつては琵琶湖の水辺がもっと入り込んでいたそうで、そこから攻めてくる敵にすぐ対応できるよう、このようにしたそうです。この櫓の前面(北側)にも大堀切があるのですが、残念ながら、そこの通路は通行止めになっています。

西の丸三重櫓内部
格子窓からの眺め
この櫓の狭間は最初から開けられています
櫓前の大堀切(以前の撮影)

天守の方に戻って、裏側の西の丸水手御門跡を通って山を下ります。天守に附櫓と多聞櫓が付いています。こちら側を守るために加えられたのでしょう。裏側っぽいところなのに、斜面の石垣がすごいです。下る途中に井戸曲輪がありますので、こちらも重要な場所だったのです。

天守と附櫓
天守の多聞櫓に続く石垣(右側)と井戸曲輪(左側)

山を下ると黒門口なのですが、山裾を進みます。かなり飛ばして、一番北の山崎曲輪まで来ました。初期の頃、重臣の木俣守勝がここに住んで、さっきの西の丸三重櫓に通っていました。ここにも幕末まで三重櫓があったそうです。現在は山崎門跡が残っています。

黒門跡
この付近にも登り石垣があります
内堀と石垣沿いを進みます
山崎曲輪
山崎門跡

ここから折り返していきましょう。自然の山っぽくなっています。タヌキもいました。また、登り石垣が見えてきました。ここが一番分かりやすい気がします。上の方に建物が見えます。西の丸三重櫓です。この石垣と連携して城を守っていたのがよくわかります。

彦根山のタヌキ
西の丸三重櫓下の登り石垣

どんどん進んでいきましょう。今は梅林になっているところは、初期の頃は重臣屋敷、その後は米蔵として使われていました。

梅林

大手門坂に着きました。ここを登っていくと、最初に見た大堀切です。大手門跡も近くにあります。やはりここにも登り石垣があります。建物はないけれど、すごい枡形で、さすが大手門らしい場所です。

大手門坂
大手門跡上の登り石垣
大手門跡

大手門橋を渡って、内堀の外に出ましょう。堀の内側の石垣が変わっています。鉢巻石垣と腰巻石垣で、土塁を挟んでいます。石材を節約しながら土塁を強化するやり方です。他では江戸城などで見られるそうです。江戸城は幕府のお膝元だから、彦根城はやはり幕府の肝いりなのです。スタート地点の表門橋に戻ってきました。山の上に登ったと思ったら、最後は一周してしまいました。

鉢巻石垣と腰巻石垣
表門橋が見えてきました

関連史跡、名物

今日は、内堀の中の見どころを、駆け足でご紹介しましたが、彦根城は中堀までしっかり残っていますので、お時間があれば、その周りを歩いてみるのもいいと思います。天守や三重櫓を眺めながら歩けるのもいいです。

京橋口門跡
旧西郷屋敷長屋門
中堀から見える天守
中堀から見える西の丸三重櫓

最後は、ひこにゃんの登場です。

表御殿(復元)に現れたひこにゃん

リンク、参考情報

国宝 彦根城、公式ウェブサイト
・「歴史群像名城シリーズ6 彦根城」学研
・「中世武士選書39 井伊直政/野田浩子著」戒光祥出版
・「幕末維新の個性6 井伊直弼/母利美和著」吉川弘文館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「彦根城を極める/中井均著」サンライズ出版
・「城の科学/萩原さちこ著」ブルーバックス

これで終わります、ありがとうございました。

「彦根城その1」に戻ります。

85.福岡城 その3

今、福岡地下鉄・大濠公園駅の出口前にいます。なんでも、ここからすぐお城見学ができるということです。ここから少し歩くと、このたび復元整備された福岡城・潮見櫓を見学できるのです。さっそく行ってみましょう。堀の向こうに櫓が建っています。それも、まるで新築されたように見えます。

特徴、見どころ(大濠公園コース)

Introduction

今、福岡地下鉄・大濠公園駅の出口前にいます。なんでも、ここからすぐお城見学ができるということです。ここから少し歩くと、このたび復元整備された福岡城・潮見櫓を見学できるのです。さっそく行ってみましょう。堀の向こうに櫓が建っています。それも、まるで新築されたように見えます。

大濠公園駅出入口前
堀の向こうに見える潮見櫓

今回はまず、その潮見櫓を中まで見学します。そして、福岡城の入口の一つ、下之橋御門を通って入城しましょう。城を築いた一人、黒田如水の屋敷跡も見学します。そこは三の丸になります。それから、二の丸の松木坂御門跡を通って、再び本丸の天守台にアクセスしましょう。そして最後は、前回あまりご紹介できなかった中・小天守台や武具櫓の石垣などをご紹介したいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

潮見櫓を見学

潮見櫓は、三の丸の北西角の部分に築かれました。当時はそこから博多湾が見渡せたので、海を監視するということで「潮見」櫓と名付けられたと言われています。明治になって、花見櫓とともに、崇福寺に移され、仏殿として使われていましたが、そのときは別の櫓(月見櫓)と伝えられていました。ところが、福岡市が買い取り、内部を調査したところ(1991年)、潮見櫓を移したことが記された棟札が見つかり、真実が判明したのです。1つの櫓だけをとっても、数奇な運命をたどったのいるのです。そして、2025年3月、元の位置に復元、公開されました。

崇福寺時代の潮見櫓(右)、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より
櫓に近づいていきます

買い取ってからでも、長い時間がかかったのです。仏殿として使われ、だいぶ改造されていたので、元通りにするのが大変だったのでしょう。それでも、4割は元の部材を活用しているそうです。例えば、南側(内側)の瓦の多くはオリジナルとのことです。その中で面白いのが、三つ葉葵の軒瓦、徳川の家紋です。藤巴(黒田家の家紋)と三つ巴(火除けの意味)と一緒に使われていますが、理由はよくわからないそうです。こんなところにも謎があるのです。

葵の御紋の軒瓦
一つだけ違っています

内側から見ると、角地にある櫓だとよくわかります。隅に二階建ての櫓があって、東と南に付櫓が付いています。中に入ってみましょう。最新の復元櫓だけあって、入口スロープがしっかり作られています。

内側から見た潮見櫓

中も真新しく見えます。付櫓がある分、一階は広くなっています。見上げると、古い木材があって、色がちがうのではっきりそれとわかります。仏殿のときには吹き抜けの構造だったので、一階部分はオリジナルの部材の割合が少ないのでしょう。

一階の内部
オリジナルの部材は色で分かります

訪問した時は特別公開の時期だったので、二階まで上がることができました(直近では2025年5月11日まででした)。昔の櫓なので階段が急です。二階部分は狭くなっていますが、オリジナルの部材がたくさんあります。屋根裏には、新旧の棟札も見えます。古い方が「潮見櫓」の証拠になっているはずです。

二階の内部
二階はオリジナルの部材が多いです
こちらが古い棟札のようです

二階から、かつて海だった方(北側)を眺めてみましょう。スタート地点の駅の方向です。それから、こちら側の屋根瓦は新しいのですが、内側(南側)の瓦はオリジナルのものが間近に見えます。なにか文字が刻んであるものがあります。「今宿又市」という刻印だそうです。瓦師の名前で、城の他の場所(多聞櫓など)でも同様の瓦があります。、職人の誇りと心意気をこうやって残しているのです。

二階からの眺め(北側)
北側の新しい瓦
南側のオリジナルの瓦
「今宿又市」がある瓦

下之橋御門から入城

それでは、堀の前に戻って、下之橋御門から改めて入城しましょう。この門も、上之橋御門と同様に、堀を橋で渡って行きます。下之橋御門の方が、普段の通用口としてよく使われたそうです。建物がちゃんと残っていて、唯一同じ場所に残っている門になります。門の向こうに櫓もありますが、実はあれも「潮見櫓」なのです。

堀の向こうに見える下之橋御門
下之橋御門

門の方から順番に説明しますと、元は二階建てだったのが明治以降に一階建てに改装されていました。2008年に不審火による火事があったのですが、その復旧の際に二階建てに再改装されました。

現在の下之橋御門
一階建てに改装されていた頃の下之橋御門、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

次に櫓の方ですが、黒田家別邸に移され、潮見櫓と伝えられていました。1956年に元の位置に戻そうとしましたが、米軍の施設があったため、現在の位置に移築されたそうです。しかし、先ほど訪問し建物が本物の潮見櫓と判明したため、現在では(伝)潮見櫓と呼ばれています。元の太鼓櫓ではないかという説もありますが、確定していません。

(伝)潮見櫓

三の丸(西側)には、城の創業者の一人・黒田如水の隠居屋敷跡(御鷹屋敷)がぼたん・しゃくやく園になっていますので見学しましょう。丘に登って行く感じです。元は小山だったのを、二の丸と同じくらいにならして使ったそうです。高すぎると占領されたとき危ないということでしょうか。訪問したときは、ちょうどしゃくやくが咲き始めている時期でした(取材時期:4月末)。

屋敷跡の入口
屋敷跡の内部
しゃくやくだと思いますが咲き始めていました

三の丸には、他の場所から移築された建物もあります。まず、旧母里太兵衛邸長屋門です。母里太兵衛は重臣で、現在の市街地(天神2丁目)に屋敷地がありました。そこから移築されたのです。それから名島門です。福岡城の前身、名島城にあった門の一つが、別の重臣(林氏)の屋敷門として使われていましたが、同じような事情で今ここにあるのです。生き残った建物たちの集合場所になっているのです。

旧母里太兵衛邸長屋門
名島門

再び天守台へ!

(前回に続き)再び天守台に行くのに、松木坂御門跡を通って、二の丸に入りましょう。門の脇には2つの櫓(大組櫓・向櫓)もありました。石垣はあるけれど、門の跡という感じはあまりしません。ただ、福岡市によれば、櫓とともに「復元の可能性がある」建物に分類されています。門の古写真も残っています。

松木坂御門跡に向かいます
松木坂御門跡
松木坂御門の古写真、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

本丸には、裏御門跡から入っていきます。左側が、太鼓櫓跡になります。さっきの伝・潮見櫓があったかもしれない場所です。裏御門跡に入って折り返すと、天守台が見えてきます。近づいていくと、天守台の大きさを感じます。

裏御門跡
裏御門跡の古写真、左側が太鼓櫓、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
天守台に近づきます

鉄御門跡から入っていきましょう。その先に進むと、大天守台です。果たして、ここに天守はあったのでしょうか。ここで初の本格的発掘調査が2025年6月30日から始まりました(取材時期:その前の4月末)。どんなことがわかるのか、楽しみです。展望台からの景色を見ておきましょう。展望台の景色をよく見ておきましょう。今日は天気がいいので、期待できます。市街地から、城跡・公園まで一望でき、すばらしいです。反対側の景色も見ておきましょう。武具櫓曲輪です。天守を守る位置にあったことがわかります。

鉄御門跡
大天守台
大天守台からの眺め(東側、市街地)
大天守台からの眺め(西側、大濠公園)
大天守台からの眺め(南側、武具櫓曲輪)

隠れた見どころも見学

今度は、中・小天守台にも登ってみましょう。ここは、江戸時代の絵図に「矢蔵跡」とあるため、櫓があったことは確実です。問題は、それが天守に相当する建物だったかどうかです。先ほどの大天守台での調査でわかるのでしょうか。説明パネルには、結構かっこいい想像図が載っています。小天守台からの景色もいいし、案外ここが城の顔だったかもしれません。

中・小天守台に向かいます
中天守台
小天守台
中・小天守台の想像図、現地説明パネルより

続いて、中・小天守台からも見える、武具櫓曲輪の石垣に行きましょう。この石垣は、福岡城では最も高い石垣で、高さが約13メートルあります。その上にあった武具櫓は、二階建ての多聞櫓が、両端の三階櫓に挟まれていて、長さが約63メートルもありました。そして、三階櫓の高さが12メートル以上あったので、石垣と合わせると、約25メートルになります。まさに本丸の守護神だったのです。

武具櫓曲輪の石垣
石垣がずっと続いています
武具櫓曲輪の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

最後は、追廻御門だった辺りに来てみました。福岡城の3つの入口の一つでした。現在は、花菖蒲園になっています。多聞櫓が上の方に見えます。まるで、この場所を上から守っているようです。実際、そういう役割もあったのでしょう。

追廻御門跡

道を渡って、反対側を見てみましょう。この辺りに、花見櫓があったようです。潮見櫓と一緒にお寺に行っていたのが、福岡市が買い取って、部材が保管されています。そのため「復元の可能性が高い」建物に分類されています(復元予定は未定のようですが)。福岡城には天守以外にも、いろんな可能性があるのです。

花見櫓跡
崇福寺時代の花見櫓(左)、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

関連史跡

前のセクションで、大濠公園コースと銘打っていますので、大濠公園をご紹介します。すばらしい公園です。元は海の入り江だったのが、城の堀に使われたのです。大きな池の真ん中に島が3つあって、橋を渡って行けるそうです。もう一回りしていくのもいいと思います。

大濠公園
橋を通って島に渡ります

「福岡城その1」に戻ります。
「福岡城その2」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

86.大野城 その2

これから、大野城土塁一周ツアーということで、大野城の二重土塁の内、内周の土塁を歩きます。そのほとんどがハイキングコースになっているからです。距離としては、6、7kmでしょうか。それに、ここからまず城跡にたどり着かなければなりません。あと、この辺が標高約60mで、四王寺山は410mなので、350mくらいの登りになります。支度もそれなりに、一日かけるつもりで行かれるのがいいと思います。

特徴、見どころ

Introduction

今回はスタート地点として、太宰府駅前に来ています。駅舎は天満宮の本殿に似ているそうですが、その本殿は現在改修中です。お参りをするのは仮殿になりますが、その仮殿がなかなかユニークです。これから、大野城土塁一周ツアーということで、大野城の二重土塁の内、内周の土塁を歩きます。そのほとんどがハイキングコースになっているからです。距離としては、6、7kmでしょうか。それに、ここからまず城跡にたどり着かなければなりません(2kmちょっとか、トータル往復では10km超になるでしょう)。あと、この辺が標高約60mで、四王寺山は410mなので、350mくらいの登りになります。支度もそれなりに、一日かけるつもりで行かれるのがいいと思います。

太宰府駅
太宰府天満宮仮殿

城周辺の地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

まず太宰府口城門跡へ

まず、四王寺林道などを通って、太宰府口城門跡に行きましょう。駅から少し歩くと、四王寺林道の入口です。林道といっても、ちゃんと舗装されています。昭和40年代にできた道で、車で山の上まで上がっていくことができます。カーブがたくさんあるのは、それだけ山の斜面が急ということなのでしょう。お城としては、自然の要害ということになります。

四王寺林道

そのまま林道を進めばよいのですが、途中で山道に入ります。この道は、林道ができる前に「太宰府町道」として使われていて、山の上にあった四王寺村の子どもたちも、山麓の小学校までこの道を通学していたそうです。ここも歴史のある道なのです。それに、太宰府口城門跡までまっすぐ通じているので、雰囲気が出ます。もしかしたら、元は登城道だったかもしれません。

旧太宰府町道

前方が開けてきたところが城門跡です。もちろん今は建物はありませんが、立派だっただろうと想像できます。太宰府口城門は、大野城の城門のなかでも最大規模のもので、
残っていた木材(648年以降伐採)から、最初の門は、日本書紀に記録された城の築造年(665年)に近い時期に建てられたと考えられます。そしてその後、2回建て直されました。ということは、最初から長い期間使われたわけです。脇には、石垣も残っています。門を囲む土塁に登ってみましょう。このルートも太宰府町道の一部だったようです。鳥居がありますが、昭和初期に、四王寺村の人たちが建てたそうです。門跡を上から眺めると、改めてその大きさがわかります。

太宰府口城門跡
門跡を上から見ています

土塁と石垣を渡り歩く

ここからは、どんどん土塁の上を歩いていきましょう。いきなり素晴らしい景色が広がります。スタート地点の太宰府駅もはるかに見えます。この近くには、尾花礎石群という倉庫跡もあります。炭化した米が多く見つかるので「焼米ヶ原」とも呼ばれています。焼米ということは、お米の倉庫があったことになります。この先にも景色が良い所があります。これもすばらしいです。

現地では大野城市発行の城跡マップを使わせていただきました
土塁の上からの景色
山上から見える太宰府駅
尾花礎石群
尾花礎石群近くの展望所からの眺め

この調子で進んでいくと、石仏(四王寺山三十三石仏の一つ)と、なにかの山の頂上の表示が並んでいます。実は四王寺山は、いくつかの山の集合体で、ここはそのうちの一つ「大原山(おおばるやま)」の頂上なのです。四天王像のうち、持国天像にちなんだ場所でもあります(ここにあったかは不明)。普通の山の頂上と違って、土塁で囲まれるだけあって特徴があります。

土塁上のハイキングコース
大原山山頂と石仏(十五番)

その後は、石仏はありますが、ひたすら道が続きます。迷子になっていないか心配です。そうするうちに案内があり、そちらに行けば石垣があるそうです。まず小石垣(こいしがき)があるはずです。ダムみたいなところを渡っている感じの場所があって、その下が小石垣です、下に降りてみましょう。案内によれば、かつてはもっと大きな石垣だったそうです。しかし小さくても、しっかり谷間の道を支えています。

十六番石仏
小石垣

次は、北石垣です。土塁というより、本当に山道です。山の地形を生かしているのでしょう。右側に「北石垣城門跡」の表示があります(立ち入りはできませんでした)。北石垣の案内がありました。その方向に少し下っていきます。ロープが張ってある向こうに見えるのが石垣だと思いますが、草に覆われてしまっています。山の中の史跡を維持するのも大変なのでしょう。

山道のような北側の土塁
北石垣と思われる場所

雄大!百間石垣!

いよいよ、百間石垣です。聞くだけで、わくわくします。道は随分な下りになって、一旦土塁から降りている感じです。舗装道路に出て、渡ったところが百間石垣です。

道が舗装道路に向けて下っていきます
百間石垣

百間石垣は、今も道路に沿っている四王子川が流れる谷をカバーするために築かれました。谷側の低いところから見学していきましょう。内部まで石を詰めた、総石垣の構造になっています。高さ最大8メートルの石垣が、長さ約180メートルにわたっているとされています。大きな岩も組み込まれている感じです。岩盤の上に築かれたそうで、石や岩の隙間から水が流れ、水門の役割も果たしていたと考えられます。

四王寺川が流れる谷
谷部分の百間石垣
大きな岩が組み込まれ、下から排水できるようになっています

坂の上にある石垣へは、見学路があって、近くまで登っていくことができます。しかし、ものすごい急坂です。滑りやすいですので、気を付けましょう。上まで来てみると、こんなすごい石垣が、1300年以上前に作られて、ずっと残っているなんて、信じられないと感じます。もう山と一体化しています。

見学路を上がっていきます
間近に見る百間石垣

見学路から、ハイキングコースに戻りましょう。さっきの道路がはるか下に見えます。石垣と山の地形で、すごい城壁を築いていたのです。まさに、守護神の要でした。

急坂の上にある百間石垣
舗装道路ははるか下です

果たして一周できるのか?

百間石垣で、まだ一周の半分くらいです。北の方は、結構アップダウンがあります。時間に余裕をもった計画が大事です。北側から西側にかけての見どころとしては、まずはクロガネ岩城門跡でしょう。9つ見つかった城門の一つです。この城門跡は、江戸時代から知られていました。

クロガネ岩城門跡

それから、屯水(とんすい)です。水門の一つで、元は石垣に囲まれていたと考えられています。

屯水水門の案内、ロープが張られてすぐ近くには行けません
水門の石組の一部でしょうか

そして、毘沙門堂です。ここは、四王寺山の最高地点(大城山・411m)の近くで、毘沙門は、四天王のうち、多聞天の別名ですので、四王寺がこの辺にあったのではないかと言われています。

毘沙門堂

南の方に進んで、広目天礎石群を過ぎると、水城口城門跡に至ります。行先案内がたくさんありますが、「センター」の方に行きましょう。

広目天礎石群
水城口城門跡

まだすごい見どころが残っています。大石垣です。ただ、外周の土塁のところにあるので、内周の土塁を通るハイキングコースから下っていきます。大石垣は、百間石垣に次ぐ規模があり、高さは約6メートル、かつては長さが100メートル以上あったようです。こちらも谷をまたいで築かれ、自然配水する仕組みとなっています。2003年(平成15年)の集中豪雨による土砂災害で崩れてしまい、3年かけて積み直されたそうです。

大石垣

最後の見どころとして、増長天礎石群を選びました。築城から半世紀くらい経ってから、大きな倉庫が4棟建てられた場所です。柱が立っていた石が並んでいて、大きな建物だったと想像できます。

増長天礎石群
倉庫の想像図、現地説明パネルより

いよいよラストスパートです。最初の城門の近くの土塁に向かっていきます。これで大野城一周達成です!達成した後の景色はひとしおです!

最初に通った土塁に向かいます
土塁からの眺め

関連史跡

帰りは、林道をずっと下って、岩屋城跡に立ち寄ってみました。戦国時代の城跡です。ここからの眺めもすばらしいです。南側の視界が開けています。大宰府政庁跡や水城跡が見えます。左側(南東)の方に目を転じると、基肄城跡がある山も見えます。

岩屋城跡
岩屋城跡からの眺め
大宰府政庁跡
水城跡
基肄城跡

リンク、参考情報

特別史跡 大野城跡、大野城市ウェブサイト
大野城跡(国指定特別史跡)、宇美町観光情報
・「よみがえる古代山城/向井一雄著」吉川弘文館
・「大宰府四王院」九州国立博物館
・かつてあった道「四王寺山の太宰府町道」四王寺山勉強会

「大野城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

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