172.三原城 その2

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ(海城・三原城めぐり)

Introduction

前回の新高山城跡見学に引き続いて、三原駅に着いたところです。駅には、三原城の素晴らしい絵が飾られていて、気分が盛り上がります。すぐ近くには三原観光協会があって、情報収集もできます。

三原駅前に飾られている「絹本著色登覧画図」(複製)

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

城周辺の航空写真

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

かつてのフロントラインを歩く

すっかり市街地になったといっても、意外と海城の形は残っているのです。昔の絵図を見ると、本丸と二の丸が堀に囲まれていますが、そのラインを、街の中に追ってみようと思います。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

駅前広場から通りを渡って、右側にある通りが、大体そのラインに沿っています。ということはこの通りはお堀だったのです。と思っていたら、堀が残っています。実際は、通りを含めてもっと幅が広かったのでしょう。お堀沿いには石垣も残っています。

駅前の通りを渡って右に進みます
最初に入れる通りへ左折します
通りには堀と石垣が残ります(一部復元)

説明パネルがあって、本丸中門跡ということです(「二の丸中門」ではないかという意見もあるようですが)。ここは、西側に張り出した二の丸の一部から渡れるようになっていたのです。限られた出入口の一つでした。今も施設の出入口として使われているところがいいです。

本丸中門跡

お堀を追って行きましょう。堀が切れた角のところに、石碑があります。「三原城 臨海一番櫓跡」とあります。ネーミングのおかげで、ここが曲輪の端で、この先が海だったことがわかります。ということは、ここを曲がった通りは、海に面した曲輪のラインなのです。この歩いている道の右側がみんな海でした。そして、左側には、二番櫓、三番櫓が続いていました。このまま行くと、別の隅っこに着きます。そこが、次のご案内場所です。石垣が見えてきました。

臨海一番櫓跡
この通りが海岸のラインだったことになります
街なかに石垣が現れます

城町(しろまち)公園のところに、船入櫓跡の石垣が残っているのです。こちら方が先にできたのですが、街中に突然現れる感じがします。石垣自体は、福島時代以降に築かれたとされています。石垣のラインが折れ曲がっていいますが、ここは船入なので、敵船がきたときに、いろんな方向から反撃できるようにしたのです(横矢)。

船入櫓跡の石垣
石垣の折れ曲がっている部分

そして、なによりも面白いところが、曲輪の南東の隅に当たる場所にあります。石垣の石ではなさそうな岩があります。これは、元からあった岩礁なのです。ここは元あった島の一つ(小島)で、残っているこの岩礁がその証拠なのです。その周りも少しお堀として残しています。

曲輪の南東隅に向かいます
かつての「小島」時代から残る岩礁

明治時代に撮られた古写真と比べると、今は全然違う様子ですが、この岩だけは、島だったとき、城だったとき、周りが市街地になってからも生き残ったのです。

明治時代の周辺の古写真、現地説寧パネルより

まだ残っていた船入

船入櫓の傍らには、船が入れる「船入」があったのですが、今は、岩礁の廻りのこの細い堀を残して、埋められてしまっています。でも実は、この奥の方に船入の一部が残っているのです。行ってみましょう。

船入櫓跡周辺の現況

通りを少し歩きます。かつては、大体この左側が船入でした。左に曲がって、ずっとまっすぐ行くと、突き当りのところに水辺があります。錦鯉が泳いでいます。ここがわずかに残っている船入なのです。一部とはいえ、船が入ったところだとわかります。向こう側の岸は、二の丸への入口から、曲輪の東側のラインが残ったものです。

石垣の前が船入でした
この先を左折します
わずかに残る船入

そのラインの先は船入櫓跡になっていて、石垣の上も公園になっています。そこにも行ってみましょう。今いるところは行き止まりになっているので、少し戻る必要があります。一旦三原駅の方に向かいます。案内があるので、斜めの道に入っていきましょう。

三原駅前の方に行きます
案内があるので、脇の道に入ります

また船入が見えてきて、この辺からまた曲輪のラインに沿っています。登って行く感じが、島っぽくていいです。門がお出迎えで、入ってみると、垣根に囲まれた何気ない空間です。

船入沿いに進みます
門がお出迎え
船入櫓跡

しかし周りと比べると随分高くなっています。しかも昔は周りは海だったのです。櫓があったらしい場所もあります。角地の下が例の岩礁です。ここも島時代から、現代に生き残っているのです。

櫓跡から石垣を見下ろしています
櫓の建物跡か
この下に先ほど見た岩礁があります
下に見えるのは別の岩礁のようです

最大級の天主台を見学

後半は、天主台を中心にご案内します。また駅前に戻っています。ここが本丸だったので、スタート地点にはちょうどいいです。今度は駅の反対側にいきます。また石垣が見えます。駅をくぐっている間にあるのが本丸の石垣で、出たところに現れるのが、小早川隆景が築いた天主台です。この隅の石垣の積み方がなんともかっこいいです。

駅前から左側に見える通路を進みます
天主台は駅の北側にあります
手前が本丸の、奥が天主台の石垣

こちら西側の石垣は、その特徴から、隆景の時代に積まれたと考えられています。「あぶり積み」という方法で積まれています。通常は石の広い面を寝かせて積むのですが、この方法では広い面を表に出して積んでいるそうです。安定的ではないので危険な積み方とも言われるのですが、今でも健在です。当時としては最高レベルの職人技だったのでしょう。高さは約13メートルで、堀から直接積み上げる石垣としては最古級とのことです。

天主台西側の石垣、背景は桜山
天主台石垣の北西側


北側正面から見た天主台です。駅と一体化している姿も、定番になってきたように思います。その近くに、一部復元された後藤門石垣というのがあります。城の南側が海だったので、北側に西国街道が通り、その途中に後藤門があったのです。

天主台石垣の北側
後藤門石垣(一部復元)

石垣を越えから見える天主台東側は、福島時代の改修または増築なのだそうです。隅の算木積みの積み方を比較すると、新しい福島時代方が整っているとのことです。

天主台石垣の北東側

これぞ「城の駅」

最後のセクションでは、駅から天主台の上に登ってみましょう。「城の駅」を堪能します。先ほど通った駅前から天主台への通路の途中から、駅構内に入っていきます。右側が改札ですが、私たちは左に曲がって、階段を登ります。天主台の案内があります。向こう側に見える絵は、海に面した城の姿でしょう。

天主台に向かう途中を右折して駅構内に入ります
左側が天主台方面、右側が改札方面
天主台入口案内

ここが入口のドアです。ドアを開け閉めして階段をまた上がります。天主台上に到着です。ゴツゴツした感じがして、ここも島だったという雰囲気があります。実際、新幹線の工事のときに、島を削って造成したことがわかったそうです。

天主台へのドア
天主台の上に到着
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示

周りを歩いてみましょう。天主台というより、曲輪という感じもします。実際に隅には櫓が3基ありました。駅に一番近いところに一基、そこから離れていって、北西隅のところに一基、元々城があった桜山を見ながら、進んだ先の北東隅にも一基あったのです。

天主台の中心部
駅に一番近い櫓跡
北西隅の櫓跡
北東隅の櫓跡、桜山も見えます

「城の駅」らしさをもっと体感してみたければ、新幹線が通り過ぎたり、発着するのを眺めましょう。

登りの「のぞみ」が三原駅を通過するところ

関連史跡

他の見どころも少しご紹介します。まず「水刎(みずはね)」です。昔の絵図で見ると、堀と一緒に外側の川(和久原川)が曲げられているところで、水の流れを緩やかにするために築かれた石垣です。

水刎

それから城の西の方、西国街道沿いのかつての城下町には、今も古い町並みが残っています。

西国街道沿いに残る旧家

その周辺には、三原城から移されたと伝わる門(順勝寺山門)や、新高山城から移されたと言われる門(宗光寺山門)があります。宗光寺山門については、建物の形式からは、福島時代に建てられたとも考えられるそうです。

宗光寺山門

私の感想

最期は、三原港に来てみました。意外と駅から近いところにあります。残っている史跡をめぐってみて、海城・三原城を想像することができました。それに昔、島だったところが、天主台や櫓跡として市街地の中で残っているのを見て、先祖返りしたようにも思えました。自然の地形が、ずっと今の町の姿にも影響しているのです。

三原港

リンク、参考情報

三原城跡、三原観光navi(三原観光協会)
中井教授インタビュー、三原市
戦国ジジイ りりのブログ
まっつんのブログ 明るく楽しく元気よく!
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「三原城本丸大広間についての考察 /佐藤大氏論文」 広島大学学術情報リポジトリ

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「新高山城 その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

92.熊本城 その1

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。

特徴、見どころ(復興状況見学)

Introduction

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。スタート地点は、復旧が完了した長塀にしますが、まだまだ復旧が完了した建物は少ないのです(重要文化財の建造物は13棟のうち2棟(長塀と監物櫓)、復元または再建建物は20棟のうち1棟(天守のみ))。それから、城の中心部では、見学者が復旧状況を間近に見学できる「特別見学通路」が設けられています。本記事では、まず長塀を見学しながら、南側から入城して、復旧の様子を見てみましょう。それから「特別見学通路」に入っていきます。その通路に沿って、天守や、有名な二連の石垣を眺めてみましょう。:通路を降りたら、本丸御殿を通って、天守に到着です。

現地に掲示されている熊本城復旧基本計画
復旧された監物櫓

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

長塀を見ながら入城

長塀は、手前の坪井川とともに、城の東南側を防衛するために築かれました。全長が242メートルもあり、現存する城の塀では最長です。当初は、石落としも所々に備えられていたそうです。名所といっていい風格を感じます。この長塀も、熊本地震で被災しましたが、13ある熊本城の重要文化財の建物の中で、最初に復旧しました(2021年)。それでも5年かかったのです。

長塀
復旧工事中の長塀(2017年)

進んでいくと、加藤清正の像があります。熊本城の正面は、南とも西とも言われていますが、南の島津氏に備えて築城したこの清正は南を向いています。それでは、南側から行幸橋、行幸坂を通って入城しましょう。

加藤清正公像

右側には唯一の水堀「備前堀」が見えますが、その向こうに石垣があります。その上には何があったでしょうか。その場所は「飯田丸」といって、熊本地震の際「奇跡の一本石垣」として、隅の石垣一本でがんばった飯田丸五階櫓(復元建物)があった所なのです。見たところ、石垣は復旧しています(2023年完了)。一旦解体した櫓の再建も、これから始まるそうです。櫓も復旧したら、復活のシンボルになりそうです。

備前堀と飯田丸五階櫓の石垣
飯田丸五階櫓と奇跡の一本石垣、現地説明パネルより

坂を登って行くと「特別見学通路」の入口に着きますが、近くにある奉行丸の未申櫓(2003年復元)を見て行きましょう。この櫓は健在そうに見えますが、裏の石垣や塀が崩れているそうです。けなげに修理の順番を待っているのです。

奉行丸未申櫓

まるで空中回廊「特別見学通路」

それでは、特別見学通路に入っていきましょう。特別見学通路は、現在「特別公開」として設定されている南ルートの一部です。アミューズメント施設のような入口から入り、階段を登っていくと、まるで空中回廊のような通路のアーチが見えます。2020年に設置され、長さ約350メートル、高さは6メートル前後あります。復旧工事に影響を与えずに、ビジターが安全に復旧状況を見学することができます。それ以上の価値があるようにも感じます。あくまで仮設の扱いで、いずれは撤去される予定ですが、残してほしいとの声も上がっているそうです。

特別見学通路の入口
特別見学通路のアーチ

通路に上がると、今は痛々しい感じですが、確かに石垣が間近に見えます。被災した数寄屋丸の石垣です。かつては隅のところに、数寄屋丸五階櫓がありました。そのとなりには、被災した建物もあります。復元された数寄屋丸二階御広間です。かつては、主に茶会など接客用に使われていたそうです。この建物も石垣も、修理が必要に見えますが、順番待ちになっています。それまで何とか持ちこたえてほしいです。

被災した数寄屋丸石垣
数寄屋丸二階御広間

ところでこの特別見学通路のおかげで、新たに注目されたものがあります。建物の下の石垣をよく見ていただくと・・・ハートマークの石が見えます。しかも色もそれっぽいです。当時は、縁起のよい葉っぱをイメージしたものかもしれないとのことですが、現代になって、新たな価値が付きました。これもこの通路を作った効果かもしれません。

二階御広間の石垣
ハートマークの石

反対側を見ると、復旧工事の状況がわかる景色があります。そこは、西櫓御門の跡なのですが、石垣が崩れてしまっています。崩れた石を見ると、番号が付けられています。これは、被災前の写真などから場所が特定され、元通りに復旧されるのを待っている石たちなのです。石積みができる業者や職人も限られるので、長い時間がかかるのです。

西櫓御門跡
番号が付けられた石たち

特別見学通路を進んでいくと、天守が見えてきます。

天守が見えてきました

城を違った視点から眺めよう

やはり、天守はかっこいいです。南側から見る天守は、石垣に囲まれ、高さも感じられて、強そうに見えます。手前の方に目を向けていくと、本丸御殿、そして有名な二様の石垣も見渡せます。なかなか壮観です。

特別見学通路から見た天守
手前の本丸御殿

二様の石垣の方に近づいていきましょう。下からの眺めの写真を見たことがあありますが、今回は空中から見ているようです。二様の石垣は、勾配が緩やかな方が加藤清正時代に築かれました。急な方は、細川時代とされていましたが、最近では清正の次の忠広の時代と言われています。本丸御殿を増築するために、継ぎ足されたのです。時代の違いによる、石の加工のされ方や、積み方の違いを見ることができます。弓のように立ち上がるこの石垣は「武者返し」と呼ばれます。実はこの「武者返し」は、地震対策だったという見解があるのです。熊本地震で、熊本城の石垣は約50ヶ所で崩れましたが、その多くは明治以降に修復した部分で(約3割が崩落)、築城当初の石垣は、ほとんどが地震に耐え抜いたのです(崩落は1割)。なんと、清正は敵だけなく、地震にも耐えられる城を作っていたのです。しかし、二様の石垣の天辺を見ると、両者に少しズレが生じてしまっています。こんな頑丈な石垣でも、維持していくのはとても大変なのです。

天守と二様の石垣
下から見た二様の石垣と天守, taken by ichico from photoAC
手前が清正時代、奥が恐らく忠広時代
両者に生じているズレ

ここでも、通路の反対側を見てみましょう。迷路のようになっている場所があります。南側から本丸に向かう途中に設けられた連続枡形です。この枡形を越えるには、6回も曲がる必要があります。しかも、石垣の上には「竹の丸五階櫓」などの櫓群が築かれていました。

連続枡形


更に通路を進んで行くと、復旧工事の様子が見えてきます。本丸の東にある、東竹の丸にある重要文化財の5棟の櫓群です。源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓です。倒壊はしませんでしたが、状況に応じて解体修理などがされています。工事現場の前には、瓦が並んでいるね、新しいもののようです。復旧予定は、比較的早い時期になっています。しっかりと復旧してほしいです。

東竹の丸の櫓群の復旧工事現場
新しい瓦が並んでいるようです

違う視点から景色を眺めることができた特別見学通路もそろそろ終点です。階段をまた登っていきます。今度は本丸御殿に行きます。被害を受けて建物内部には入れませんが、関門になっていて、行ってみればよくわかります。

終点が近い特別見学通路
本丸御殿に向かいます

本丸御殿~天守に到着

通路から降りたところが本丸御殿の「大御台所(おおおんだいどころ)」、つまりキッチンです。その向かいには大きな井戸があります。朝鮮で過酷な籠城戦を経験した清正は、熊本城内に120もの井戸を作ったと言われています。この井戸は残っているものの一つで、水源は阿蘇の伏流水だそうです。

本丸御殿の大御台所の出入口が見えます
本丸御殿の井戸

さて、ここからが関門です。すごい梁が横たわっていて、この下を行きます。闇り通路(くらがりつうろ)です。これが本丸御殿への入口で、天守への最後の関門にもなっています。すごい梁が続いて、圧倒されます。多くは熊本県産のアカマツだそうです。

闇り通路への入口
ものすごい梁が続きます

この通路は、東西南北に通じていて、今は、南北のみ通れるようになっています。交差点がありますが、東西の方がメインの通路だったようで、ここでクランクして、まっすぐ通れないようになっています。西側に階段のようなものが見えます。かつては、その場所が御殿の玄関でした。現在は、その階段が一部復元されているようです。御殿内部の復旧はまだちょっと先です。復旧したら、御殿の中にも入ってみたいです。

闇り通路
東側の通路
西側にある復元された玄関か

ついに、天守の前に到着しました。大天守と小天守が並んで、見栄えがします。すっかり元通りになっているように見えます。熊本地震では、天守のほとんどの瓦が落ちたり、天守台の石垣が崩れたりしました。しかし鉄筋コンクリート造りの本体は、基礎の鉄柱を、深い所から立てていたので、大きなダメージはなかったそうです。今回、耐震補強もされましたし、内部の博物館展示も、リニューアルされました。

復旧した大天守と小天守
復旧工事中の天守(2017年)

私の感想

まるで「空中回廊」のような特別見学通路にびっくりしました。旧状況を見るだけじゃなくて、いろんな視点でお城を見れて良かったです。復旧が完了した長塀や、天守を見ることで、希望も感じました。復旧が進んだら、また来てみたいと思いました。

天守入口
天守からの眺め、東の方に阿蘇の山容がうっすら見えます

「熊本城 その2」に続きます。

125.小机城 その2

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

ここに行くには

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

小机駅

振り返ると「小机駅前」交差点がありますので、右に曲がっていきます。商店街の通りを進みます。

小机駅前交差点
商店街

「小机辻」という交差点のところで、右に曲がりましょう。途中に金剛寺というお寺がありますが、奥の高台が「古城」と呼ばれた場所だったようです。

小机辻交差点
金剛寺

その先の横浜線の踏切を渡りましょう。渡った後に「小机城址」の案内があります、次の交差点を左です。閑静な住宅地ですが、線路の方を見ると、向こう側も結構な台地になっています。もしかすると城がそこまで続いていたかもしれません。

横浜線の踏切
左に曲がります
線路の向こう側が台地になっています

城跡への入口はどこでしょう。また案内があります。まだ住宅地が続きますが、急に竹林が現れます。突然、別世界に入った感じです。そうするうちに小机城址市民の森の入口「根古谷広場」に着きました。

電柱に案内があります(赤丸内)
竹林が現れます
根古谷広場

特徴、見どころ

巨大な土塁と空堀

「根古谷」とは、山城の麓の屋敷地という意味だそうなので、城主か城代、家臣たちの屋敷があったかもしれません。それでは、城跡へ登っていきましょう。麓からの高さは、20メートルちょっとです。竹林と城跡が一体化していて、すばらしいです。

城周辺の地図

城跡へ登っていきます

登ったところが、城を囲む土塁の上です。内側に、ものすごい空堀が見えます。土塁と空堀のセットで、城を守っていたのでしょう。土塁の上を歩いていきましょう。空堀の向こう側に、土塁が高くなった場所があります。その場所は櫓跡で、監視をしたり、土塁や空堀に侵入した敵を攻撃するためでしょう。

土塁から空堀を見下ろしています
土塁の上を歩いていきます
空堀の向こうに櫓跡が見えます

遊歩道が下ったところから、空堀の中を歩くことができます。この空堀は、今でも幅約20メートル、深さは12メートルありますが、かつては深さが約20メートルもあったという記録があります。他の堀(北空堀)を約2メートル掘っても底には到達しなかったそうです。堀の形もまっすぐではなく、曲げられています。北条氏の堀の特徴である「畝堀」は見つかっていませんが、簡単に登ったり進めたりできないようになっているのでしょう。それから、空堀の両側に土塁を巡らせた「二重土塁」になっています。

空堀入口
空堀の底

城跡中心部とすばらしい竹林

今度は、城跡の中心部にやってきました。市民の森の案内図の向かい側には「井楼跡(せいろうあと)」があります。これも櫓のことです。近くの土塁の上にも「櫓台」がありますので、こちらはお城の中心的な櫓だったのかもしれません。それでは「二の丸広場」の方に入っていきましょう。名前に「二の丸」と付いていますが、城跡としては「東郭」と呼ばれています。ここを本丸とする説もあるのです。発掘調査をしたときには、建物の柱の穴が見つかっています。倉庫など、城の施設があったと考えられます。領民が集められてここで訓練していたのかもしれません。

中心部にある案内図
井楼跡
櫓台
二の丸広場(東郭)
以前は発掘調査が行われていました

二の丸広場の裏手を下ると、また見どころがあります。郭の周りを囲む空堀が、遊歩道になっているのです。城跡と自然がミックスされた道を、リラックスして歩けるのです。歴史派も自然派も、楽しめます。

空堀の遊歩道
すばらしい竹林

次は「本丸広場」に行ってみますが、その間にあるのが「つなぎの曲輪」です。ここにある「櫓跡」に行ってみましょう。ここからは、空堀が見渡すことができます。先ほど、空堀の向こうの土塁からみた櫓跡なのです。「つなぎ」といいつつ重要な曲輪だったのです。

つなぎの曲輪を通ります
櫓跡から空堀を見下ろしています

本丸広場に向かいます、城跡としては「西郭」と呼ばれています。中は、スポーツができる場所になっています。名前は「本丸」となっていますが、先ほどの「二の丸」と一緒で、確定されてはいません。「本丸」と名付けた事情はわかりませんが、よく防御された場所にあるとは言えるでしょう。例えば、もう一つの入口の前には、馬出しがあって、簡単に中に入れないようになっていました。それでその奥に、門を再建してみたのかもしれません。

本丸広場(西郭)
馬出し跡から本丸広場へ
本丸広場の門

出城をまわって帰還

周遊コースの最後は、第三京浜道路を越えて、出城があったかもしれない場所に行きます。現地の城の想定図でも、その辺りを「出城」と表示しています。第三京浜の下のトンネルを通るので、一旦台地から降ります。トンネルを出たら、今度は上りです。登りきると、向こう側の城の丘が見えます。周りが開けていたら、見張り台がありそうなところです。

現地にある城の想定図
第三京浜下のトンネル
出城跡への登りの階段
道路向こう側の城の丘

残念ながら、明確なお城の遺構は見つかっていないそうですが、とにかく、天辺まで行ってみましょう。その天辺は小山のようになっていて、石碑があります。「富士仙元大菩薩」と書かれていて、江戸時代のものだそうです。頂上の小山も、その時代に、富士塚として築かれたのでしょう。もしかしたらこの下に、出城の遺構があるかもしれませんが、このミニ富士山も切にしてほしいです。

頂上は富士塚になっています
富士仙元

ここから戻りますが、来た時と違う方向に行きます。すると、また世界が急に変わった感じがします。そこが市民の森と、市街地の境界なのでしょう。大都会の自然や史跡を守るのは大変なのです。駅に戻るには、出たところにある駐車場を抜けて、道を下っていきます。しばらく歩くと、幹線道路にぶつかりますので、左に曲がります。その道路をまっすぐ行くと、城跡に向けて曲がった「小机辻」交差点に至ります。駅はもうすぐです。

市民の森と市街地の境界辺り
突き当たりを左です

私の感想

きれいな竹林に飾られた城跡を満喫し、住宅地から急に別世界に入ったような感覚も面白かったです。もしかしたら城の範囲だったかもしれないところも、周遊して回れたので、かつての城の姿を想像してみるのもありだと思いました。

竹林に囲まれた空堀の遊歩道

また、小机駅のすぐ近くには、横浜市城郷小机地区センターがあって、城の模型や、パンフレット、歴史の展示や書籍などがあります。城跡に行く前か行った後に立ち寄ってはいかがでしょうか。

横浜市城郷小机地区センター

リンク、参考情報

大倉精神文化研究所 横浜市港北区地域の研究(シリーズわがまち港北)
広島市立中央図書館/広島市立図書館貴重資料アーカイブ
・「横浜の戦国武士たち/下山治久著」有隣新書
・「歴史群像149号 戦国の城 武蔵小机城/西股総生著」学研
・「太田道灌と長尾景春/黒田基樹著」戒光祥出版
・「「太田道灌状」を読み解く/尾崎孝著」ミヤオビパブリッシング
・「小机城を明らかに―小机城跡埋蔵文化財試掘調査について―」横浜市教育委員会
・「小机城を明らかに―小机城跡発掘調査成果報告会―」横浜市教育委員会

「小机城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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