172.三原城 その2

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ(海城・三原城めぐり)

Introduction

前回の新高山城跡見学に引き続いて、三原駅に着いたところです。駅には、三原城の素晴らしい絵が飾られていて、気分が盛り上がります。すぐ近くには三原観光協会があって、情報収集もできます。

三原駅前に飾られている「絹本著色登覧画図」(複製)

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

城周辺の航空写真

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

かつてのフロントラインを歩く

すっかり市街地になったといっても、意外と海城の形は残っているのです。昔の絵図を見ると、本丸と二の丸が堀に囲まれていますが、そのラインを、街の中に追ってみようと思います。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

駅前広場から通りを渡って、右側にある通りが、大体そのラインに沿っています。ということはこの通りはお堀だったのです。と思っていたら、堀が残っています。実際は、通りを含めてもっと幅が広かったのでしょう。お堀沿いには石垣も残っています。

駅前の通りを渡って右に進みます
最初に入れる通りへ左折します
通りには堀と石垣が残ります(一部復元)

説明パネルがあって、本丸中門跡ということです(「二の丸中門」ではないかという意見もあるようですが)。ここは、西側に張り出した二の丸の一部から渡れるようになっていたのです。限られた出入口の一つでした。今も施設の出入口として使われているところがいいです。

本丸中門跡

お堀を追って行きましょう。堀が切れた角のところに、石碑があります。「三原城 臨海一番櫓跡」とあります。ネーミングのおかげで、ここが曲輪の端で、この先が海だったことがわかります。ということは、ここを曲がった通りは、海に面した曲輪のラインなのです。この歩いている道の右側がみんな海でした。そして、左側には、二番櫓、三番櫓が続いていました。このまま行くと、別の隅っこに着きます。そこが、次のご案内場所です。石垣が見えてきました。

臨海一番櫓跡
この通りが海岸のラインだったことになります
街なかに石垣が現れます

城町(しろまち)公園のところに、船入櫓跡の石垣が残っているのです。こちら方が先にできたのですが、街中に突然現れる感じがします。石垣自体は、福島時代以降に築かれたとされています。石垣のラインが折れ曲がっていいますが、ここは船入なので、敵船がきたときに、いろんな方向から反撃できるようにしたのです(横矢)。

船入櫓跡の石垣
石垣の折れ曲がっている部分

そして、なによりも面白いところが、曲輪の南東の隅に当たる場所にあります。石垣の石ではなさそうな岩があります。これは、元からあった岩礁なのです。ここは元あった島の一つ(小島)で、残っているこの岩礁がその証拠なのです。その周りも少しお堀として残しています。

曲輪の南東隅に向かいます
かつての「小島」時代から残る岩礁

明治時代に撮られた古写真と比べると、今は全然違う様子ですが、この岩だけは、島だったとき、城だったとき、周りが市街地になってからも生き残ったのです。

明治時代の周辺の古写真、現地説寧パネルより

まだ残っていた船入

船入櫓の傍らには、船が入れる「船入」があったのですが、今は、岩礁の廻りのこの細い堀を残して、埋められてしまっています。でも実は、この奥の方に船入の一部が残っているのです。行ってみましょう。

船入櫓跡周辺の現況

通りを少し歩きます。かつては、大体この左側が船入でした。左に曲がって、ずっとまっすぐ行くと、突き当りのところに水辺があります。錦鯉が泳いでいます。ここがわずかに残っている船入なのです。一部とはいえ、船が入ったところだとわかります。向こう側の岸は、二の丸への入口から、曲輪の東側のラインが残ったものです。

石垣の前が船入でした
この先を左折します
わずかに残る船入

そのラインの先は船入櫓跡になっていて、石垣の上も公園になっています。そこにも行ってみましょう。今いるところは行き止まりになっているので、少し戻る必要があります。一旦三原駅の方に向かいます。案内があるので、斜めの道に入っていきましょう。

三原駅前の方に行きます
案内があるので、脇の道に入ります

また船入が見えてきて、この辺からまた曲輪のラインに沿っています。登って行く感じが、島っぽくていいです。門がお出迎えで、入ってみると、垣根に囲まれた何気ない空間です。

船入沿いに進みます
門がお出迎え
船入櫓跡

しかし周りと比べると随分高くなっています。しかも昔は周りは海だったのです。櫓があったらしい場所もあります。角地の下が例の岩礁です。ここも島時代から、現代に生き残っているのです。

櫓跡から石垣を見下ろしています
櫓の建物跡か
この下に先ほど見た岩礁があります
下に見えるのは別の岩礁のようです

最大級の天主台を見学

後半は、天主台を中心にご案内します。また駅前に戻っています。ここが本丸だったので、スタート地点にはちょうどいいです。今度は駅の反対側にいきます。また石垣が見えます。駅をくぐっている間にあるのが本丸の石垣で、出たところに現れるのが、小早川隆景が築いた天主台です。この隅の石垣の積み方がなんともかっこいいです。

駅前から左側に見える通路を進みます
天主台は駅の北側にあります
手前が本丸の、奥が天主台の石垣

こちら西側の石垣は、その特徴から、隆景の時代に積まれたと考えられています。「あぶり積み」という方法で積まれています。通常は石の広い面を寝かせて積むのですが、この方法では広い面を表に出して積んでいるそうです。安定的ではないので危険な積み方とも言われるのですが、今でも健在です。当時としては最高レベルの職人技だったのでしょう。高さは約13メートルで、堀から直接積み上げる石垣としては最古級とのことです。

天主台西側の石垣、背景は桜山
天主台石垣の北西側


北側正面から見た天主台です。駅と一体化している姿も、定番になってきたように思います。その近くに、一部復元された後藤門石垣というのがあります。城の南側が海だったので、北側に西国街道が通り、その途中に後藤門があったのです。

天主台石垣の北側
後藤門石垣(一部復元)

石垣を越えから見える天主台東側は、福島時代の改修または増築なのだそうです。隅の算木積みの積み方を比較すると、新しい福島時代方が整っているとのことです。

天主台石垣の北東側

これぞ「城の駅」

最後のセクションでは、駅から天主台の上に登ってみましょう。「城の駅」を堪能します。先ほど通った駅前から天主台への通路の途中から、駅構内に入っていきます。右側が改札ですが、私たちは左に曲がって、階段を登ります。天主台の案内があります。向こう側に見える絵は、海に面した城の姿でしょう。

天主台に向かう途中を右折して駅構内に入ります
左側が天主台方面、右側が改札方面
天主台入口案内

ここが入口のドアです。ドアを開け閉めして階段をまた上がります。天主台上に到着です。ゴツゴツした感じがして、ここも島だったという雰囲気があります。実際、新幹線の工事のときに、島を削って造成したことがわかったそうです。

天主台へのドア
天主台の上に到着
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示

周りを歩いてみましょう。天主台というより、曲輪という感じもします。実際に隅には櫓が3基ありました。駅に一番近いところに一基、そこから離れていって、北西隅のところに一基、元々城があった桜山を見ながら、進んだ先の北東隅にも一基あったのです。

天主台の中心部
駅に一番近い櫓跡
北西隅の櫓跡
北東隅の櫓跡、桜山も見えます

「城の駅」らしさをもっと体感してみたければ、新幹線が通り過ぎたり、発着するのを眺めましょう。

登りの「のぞみ」が三原駅を通過するところ

関連史跡

他の見どころも少しご紹介します。まず「水刎(みずはね)」です。昔の絵図で見ると、堀と一緒に外側の川(和久原川)が曲げられているところで、水の流れを緩やかにするために築かれた石垣です。

水刎

それから城の西の方、西国街道沿いのかつての城下町には、今も古い町並みが残っています。

西国街道沿いに残る旧家

その周辺には、三原城から移されたと伝わる門(順勝寺山門)や、新高山城から移されたと言われる門(宗光寺山門)があります。宗光寺山門については、建物の形式からは、福島時代に建てられたとも考えられるそうです。

宗光寺山門

私の感想

最期は、三原港に来てみました。意外と駅から近いところにあります。残っている史跡をめぐってみて、海城・三原城を想像することができました。それに昔、島だったところが、天主台や櫓跡として市街地の中で残っているのを見て、先祖返りしたようにも思えました。自然の地形が、ずっと今の町の姿にも影響しているのです。

三原港

リンク、参考情報

三原城跡、三原観光navi(三原観光協会)
中井教授インタビュー、三原市
戦国ジジイ りりのブログ
まっつんのブログ 明るく楽しく元気よく!
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「三原城本丸大広間についての考察 /佐藤大氏論文」 広島大学学術情報リポジトリ

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「新高山城 その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

8.仙台城 その2

今日は、仙台駅前に来ています。今回は、ここから仙台城に歩いて向かいます。ここ、仙台駅はかつても城下町の一部だったようですが、城と城下町は、広瀬川にかかる大橋によってつながっていました。その大橋から伸びる通りは、今でもその名前を残しながら現在も商店街として栄えています。仙台駅から近いところから、アーケードになっているのでわかりやすいと思います。それでは、仙台城踏破ツアーとして、さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今日は、仙台駅前に来ています。今回は、ここから仙台城に歩いて向かいます。ここ、仙台駅はかつても城下町の一部だったようですが、前回ご説明した通り、城と城下町は、広瀬川にかかる大橋によってつながっていました。その大橋から伸びる通りは「大町(おおまち)」「新伝馬町(しんてんままち)」「名掛丁(なかけちょう)」といって、今でもその名前を残しながら現在も商店街として栄えています。仙台駅から近いところから、アーケードになっているのでわかりやすいと思います。仙台のいろんな所に行きたい人はバスなどを使われる方がよいのですが、お城一択であれば、歩いていくのもいいかもしれません。それでは、仙台城踏破ツアーとして、さっそく出発しましょう。

仙台駅
藩政時代の仙台駅周辺、「伊達な歴史の新体験」VR画像より

仙台駅前から大橋までのルート

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

仙台城下町ルートを歩く

仙台駅から少し北側に歩くと、アーケードの入口が見えます。アーケード下は、先ほど申し上げた通り、3つの町名をまたいだ商店街になっています。現在の仙台の繁栄が目に見える場所です。ちょうど七夕まつりをやっています。すごい人出ですが、飾りが華やかです。この通り(現在名:中央通り)と交差するアーケード街(一番丁通り)が、この七夕飾りに彩られるのです。

アーケード入口
七夕まつりの笹飾り


城下町の中心だった「芭蕉の辻」は、七夕飾りを抜けた向こう側にあります。石碑が立っています。ここは、高札場になっていて、江戸時代後期には交差点四隅に城郭風の建物がありました。見るからに町の中心とわかります。奥州街道と交差していて、商家が軒をつらねていました。「芭蕉」という名称は、松尾芭蕉を連想してしまいますが、残念ながら、ここに住んでいた虚無僧の名前に由来すると言われています。

芭蕉の辻の石碑
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)
芭蕉の辻、「伊達な歴史の新体験」VR画像より

先に進んでいきます。大きな通りに合流します。有名な青葉通りです、バスで行くときにはここを通るのでしょう。橋が見えてきました。大橋です。城がある青葉山も見えてきました。何度渡っても清々しい気分です。広瀬川も見渡せるし、お城と山がだんだん迫ってきて、雰囲気が出ます。

青葉通り
大橋
大橋、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大橋を渡ります
橋から見える仙台城本丸

「仙台城跡」入口に来ました。ここからまっすぐ行くと、大手門跡ですが、その手前を左に曲がると三の丸で、当初は伊達政宗の屋敷があったところです。今は仙台市博物館、とあります。そこは帰りに寄ってみます。坂を登って行くと、左側に櫓が、右側には立派な石垣が見えます。再建された大手門脇櫓と、大手門北側石垣です。この間にどーんと大手門があったのです。その大きさがしのばれます。大手門には復元計画があります。今ここを通っている道路はどうするのでしょうか。それをどうするかも課題の一つで、迂回させる案などが検討されているます。一旦亡くなった城の建物をそのまま建てようとすると、避けて通れない問題です。知恵を絞って進めていくしかありません。

仙台城跡入口
左手は三の丸です(現・仙台市博物館)
大手門跡
大手門、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大手門脇櫓(再建)

大手門から本丸まで正面突破

これから大手門跡のところを左側に曲がって、本丸の方に行きます。右側は二の丸で、かつて御殿があったところです。現在は、公園や、東北大学のキャンパスになっています。

青葉山公園、二の丸広場
東北大学キャンパス


それでは、本丸に向かって登って行きましょう。ずーっと一本道の登りで、しかも、くねっています。これも城を守るための仕掛けだと思います。歩くと、そういうのがよくわかります。途中にも関門が設けられていて、「中門(なかのもん)」跡とあります。今は道が続いているだけですが、この門から先は「中曲輪(なかのくるわ)」と呼ばれていました。もう城の中ということです。

本丸に向かう一本道
中門跡


どこからか道が合流しています。ここは「沢門(さわのもん)」跡で、三の丸からの道がここに来ています。帰りはこちらのルートを通ろうと思います。道は大きくカーブしていきます。もうすぐこのセクションのクライマックスです。

沢門跡
カーブの先には・・・

すごい石垣です。もしかしたら、お城そのものの最大の見どころかもしれない本丸北壁の石垣(北面石垣)です。敵を防ぐためでもあるのでしょうけど、城の威厳も表しています。高さが17メートルもあるのです。ところで、現代になって修繕する際に発掘をしたところ、城があったときから何回も改修されたことがわかりました。元は中世の山城だったところに、石垣を築き、その後地震で被害を受けるたびに、改修を重ねたのです。そして、今見る頑丈な姿になりました。現在の石垣(3代目)は、東日本大震災で一部被害を受けたが、300年以上保たれています。

石垣が見えてきました
本丸北壁石垣

かつてはこの上に櫓がありました。しかし事は少々複雑で、最初は三重の艮櫓があったのですが、2代目の石垣のときに地震で崩れてしまい、その後は再建されなかったのです。現在の石垣は3代目ですから、その頃にはもう櫓はなかったことになります。実はこれも現代になって、櫓を再建しようという話がありましたが、今の石垣とは位置がずれた所にあったことがわかって断念されたのです。なかなか思い通りにはいきません。もうすぐ本丸の入口です。

石垣に沿って進みます
本丸入口が見えてきました

本丸跡~景色と政宗像にプラスアルファ

それでは、本丸入口、詰門(つめのもん)跡から入っていきましょう。当初は、ここの両脇にも2基の三重櫓がありました。今は立派な鳥居があります。本丸は現在、宮城県護国神社の敷地でもあります。

詰門跡
宮城県護国神社

神社の石段を登った左手に、大広間の跡があります。本丸の中心だった建物です。現在は、発掘された後に、礎石と間取りが平面表示されています。本丸入口の、西の方から大広間に入ったとすると、紅葉の間、檜の間、孔雀の間、と進んで上段の間に至ったことがわかります。政宗や藩主たちが座った所です。そして、その横には上々段の間がありました。将軍や天皇を迎えるための部屋でした。

大広間跡
大広間、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大広間の間取り、仙台市ホームページより引用
上段の間跡
上々段の間跡

大広間に興味がある方は「仙台城見聞館」に立ち寄ってはいかがでしょうか。大広間の模型や、再現上段の間の展示などがあります。

仙台城見聞館
大広間模型、仙台城見聞館にて展示
再現上段の間、仙台城見聞館にて展示

次は政宗像と思うかもしれませんが、もう少し、まわり道をしてみます。さっき下から見た石垣を、今度は上からながめてみたいのです。詰門の東脇櫓があった辺りから、石垣の天辺を辿っていきます。石垣が張り出した部分からは、石垣を見下すことができます。ということは、敵をここから攻撃できたということでしょう。しかも景色も素晴らしいです。石垣の隅の方に進みます。

詰門の東脇櫓跡か
石垣の張り出し部分からの眺め
石垣の隅の方に進みます

石垣隅に来ましたが、ここには櫓はありませんでした。隅の部分がもっと手前にあった時に櫓が建てられていました。同じ城でも、随分変化したということです。それから政宗像を見れば、お城に来た気がすると思うのです。大広間に櫓と石垣、天守がなくても十分城と言えるでしょう。

石垣隅からの眺め
市街地が一望できます
伊達政宗騎馬像

ところで、懸造はどこにあったのでしょうか?政宗像から少し離れたところにあったのですが、現在、説明パネルはありますが、その頃と同じ地形とは限らないようです。崖のところにあったのだから、仕方ないかもしれません。

懸造跡
崖に面した懸造想像図、青葉城本丸会館にて展示

それから、もう一つの三重櫓・巽櫓の跡はこんな感じです。この近くからの眺めもいいです。

巽櫓跡
付近からの眺め

本丸の裏門、埋門の跡は、駐車場の入口になっています。山の上なのに、いろんな施設から駐車場まであるのです。仙台城の本丸は、諸大名の本丸の中でも有数の広さだったからです。

埋門跡
青葉城本丸会館

それから、本丸の外側、詰門の近くに、本丸北西石垣があります。度重なる地震の被害からの修復が終わったばかりです。そのため、きれいに積み直されています。だた、石の加工の仕方や、積み方が場所によって異なっているのがわかります。城があった時代にも、修復を繰り返していたということです。それを現代も営々と続けているのです。なお、ここに行くには、細い車道を歩いて通らなければいけないので、十分気を付けてください

本丸北西石垣

帰りは政宗が通った道へ

往路で申し上げた通り、帰りは三の丸を通って行きます。当初は政宗の屋敷があったところです。沢門(さわのもん)跡から入っていきます。実は、最初はこのルートが大手道だったと考えられています。ということは、政宗が本丸に通った道だと言えるのです。道が随分くねっています。この辺りに沢曲輪(さわのくるわ)というのもあって、防衛体制を整えていました。当初からある道だけあって、石垣も古そうです。

沢門跡から三の丸に向かいます
曲がりくねる道と古風な石垣

更に下ったところにあるのが、清水門跡です。その向かいにはその名にふさわしい場所があります。その場所は「造酒屋敷」跡といって、お酒を造っていました。その酒造りに使われたという清水が今も流れています。

清水門跡
造酒屋敷跡
酒造りに使ったと思われる清水が沸く場所

その下にある巽門跡の中が三の丸です。政宗より後は、蔵が建てられていたそうです。そして今は「仙台市博物館」になっています。政宗のこと、お城の事がたっぶり勉強できます。

巽門跡
仙台市博物館
仙台城模型、仙台市博物館にて展示

三の丸を反対側の子門(ねのもん)跡から出ていきます。そして三の丸の外側の堀(長沼)を進んで、行きつく先が、また政宗像です!上の部分だけですが、山の上の像にそっくりです!実はこちらは戦前に作られた初代の騎馬像だったのです。それが戦争中の金属供出で撤去され、胸から上だけが残ったのです。今ある騎馬像は跡継ぎで、戦後に作られた2代目です。城のシンボルも受け継がれていたのでした。

子門跡
三の丸外側の堀、長沼
初代政宗像

関連史跡

それから、城の周辺で政宗関連と言えば、政宗の霊廟「瑞鳳殿」、政宗が仙台に造営した大崎八幡宮、などがありますが、意外なところでは、古くからあった陸奥国分寺も、政宗が再興しているのです。やはり仙台を、東北地方の中心地にしようとした意思を感じます。

瑞鳳殿 涅槃門
瑞鳳殿 本殿
大崎八幡宮(photoAC)
陸奥国分寺仁王門
奈良時代の陸奥国分寺南大門、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
陸奥国分寺薬師堂

リンク、参考情報

仙台城跡―伊達政宗が築いた仙台城―、仙台市
仙台市博物館、仙台市
仙台城見聞館、仙台市
・「奥州の竜」伊達政宗/佐藤貴浩著」角川新書
・「伊達政宗の素顔/佐藤憲一著 」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」学
・「家からみる江戸大名 伊達家仙台藩/J・F・モリス著」吉川弘文館
・「仙台城本丸跡石垣の背面構造と変遷」我妻仁氏論文
・2016年10月17日河北新報記事(大手門復元時の迂回路案)

「仙台城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

207.西方城 その2

今回は、栃木県栃木市の西方に来ています。一面に、青々とした田んぼが広がっていますだ。ここは、昔から「西方五千石」といわれる米どころで、今はイチゴの産地でもります。この美田につながる用水を開いたのも藤田信吉と言われています。そして向こうに見えるのが城山で、西方城があったところです。西方を象徴する景色と言えるでしょう。

ここに行くには

今回は、栃木県栃木市の西方に来ています。一面に、青々とした田んぼが広がっていますだ。ここは、昔から「西方五千石」といわれる米どころで、今はイチゴの産地でもります。この美田につながる用水を開いたのも藤田信吉と言われています。そして向こうに見えるのが城山で、西方城があったところです。西方を象徴する景色と言えるでしょう。

城山を背景にした西方の田園風景

西方城跡への道のりはわかりにくい所もありますが、山に近づいたところで案内表示を見つけていただければ、高速道路をくぐって駐車場がある城跡登山口まで着けると思います。

西方城跡への案内表示
高速道路下を進みます
登山口にある駐車場

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

Introduction

内容としては、山頂部の方がメインとなりますが、登り・山上・下り、それぞれに見どころがありますので、山城の技巧をたっぷりとご紹介します。そして最後に、藤田信吉が陣屋を置いた通称「二条城」にも行ってみましょう。お城の守り本尊が置かれた開山不動尊がゴールになります。

「西方城址散策マップ」、栃木市観光協会ホームページより

城の防御システムの中を登る

登山道は、長徳寺というお寺の脇から登って行きます。谷筋の斜面をまっすぐに登って行きますが、葉っぱが積もって滑りやすくなっている場所があるかもしれないので気を付けましょう。曲がっているところは、竪堀の一部分だったようです。城に着く前から随分厳重です。竹林がきれいなので、こういうのも楽しみましょう。

登山道に入ります
谷筋を進んでいきます、落ち葉が滑りやすいので注意
竪堀だったと思われる部分

そのうち、伏兵が潜むような穴が現れますが、炭焼の跡だそうです。続いて分岐点がありますが、案内の通り右に行きましょう。

炭焼跡
分岐点

道が急に、しかも谷底を通る感じになってきました。しかも曲げられています。:ここは、竪堀そのものだったのです。敵だったらろくに身動きもできず、やられてしまいそうです。

屈曲する竪堀
屈曲する竪堀のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
竪堀の底を進みます

ようやく山の上に着きました、山麓からは約140mの高さだそうです。ここから左(南)が城の中心部ですが、右(北)も堡塁になっています。それでは、北から攻める視点と、堡塁で守る視点で見てみましょう。攻める側からすると、この堡塁には堀もあるし、ずっと回り込む必要があります。ずっと守備兵に監視されているでしょう。守備兵はいつでも側面攻撃できたでしょう。

左側が城の中心部、右側が堡塁
堡塁のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
堡塁を攻める側の視点
堡塁を守る側の視点

山の上も関門の連続

それでは、北の丸に進んで行きましょう。現在の見学者ルートは簡単にまっすぐ入れますが、城があった当時はやっぱり回り込んで入っていたようです。隅のところに櫓跡もあります。ここから本丸に行きつくのに、何段階も関門があるのです。

北の丸入口
櫓跡
北の丸内部

進んで行くと、次の曲輪(郭3-1)への入口があります。最初から折れ曲がっています。そして、細長い通路を歩きます。曲輪に入るときも、また折れ曲がります。これを曲輪の土塁からみたらどうでしょうか。これまたお見通しです。曲がったり、狭い通路を通っているうちに攻撃されてしまいます。

郭3-1への入口
屈曲する進入路のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
最初の屈曲部分
細い通路を進みます
また屈曲して中に入ります
曲輪の土塁からの視点

次に進むときも、違う仕掛けがあります。入口に入るための土橋がすごく細くて、空堀に挟まれています。ここでもまた滞留してしまいます。現代のビジターは安心して進みましょう。この曲輪(郭3-1)には、ビュースポットがあります。こちらは、「西の方」なので、東の方がよく見えます。東の方には、宇都宮氏の本拠地、宇都宮城がありました。なにかあったときは、救援隊の様子もわかったはずです。

空堀に挟まれた土橋
郭3-1からの眺め

この先は、二の丸の入口も、本丸の入口も同じようになっていて、やっと本丸到着です。敵だったら無理そうです。曲輪の中は、今までと同じように見えるかもしれませんが、本丸の土塁は、やっぱり図太いですので、歩いてみましょう。発掘調査では石積みが発見されました。歩いてみると、周りがすごく急だとわかります。本丸の西側を歩いているのですが、この先にかつては西の丸がありました(ゴルフ場開発時に消滅)。城山の山頂もこの辺りです(標高221m)。八幡宮のお社もありますので、お城めぐり安全祈願をしましょう(転ばないように、など)。

二の丸入口
本丸入口
本丸内部
本丸土塁
土塁下の急斜面
城山山頂
八幡宮

巧みな入口の造り

これから帰り道になるので、本丸の反対側から下っていくのですが、城の入口を守る仕組みがまだまだ出てきます。それでは、本丸から下っていきましょう。結構急な坂で下ったところも土塁と堀で守られています。

本丸を下ったところにある空堀

ここから先がまたすごいのです。進んだところが出丸のようになっています。そこから出る通路が曲げられていて、上の曲輪から側面攻撃できるようになっているのです。その通路の先が分岐点になっています。逆から見ると、城の南、東、西からの通路が合流している場所なのです。無茶苦茶重要な場所です。そのため、東の丸に向かっては、通路がさらに曲げられています。東の丸の方から登ってみると、またよくわかります。攻める立場になると、これは大変と思えます。

その先にある出丸
その出丸から出ている通路、右に曲がっています
通路の先が分岐点になっています
屈曲する進入路のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
出丸から通路を見た視点、側面攻撃(横矢)ができるようになっています
南の丸から見た視点、出丸が立ちはだかっています
東の丸の方から見た視点

下りの道に戻りましょう。左側に曲輪のようなものが見えてきます。「水の手」とあります。この上が井戸跡になっています。今でも石材が散らばっているので、石垣があった可能性があります。籠城戦にはなくてはならないものです。

「水の手」曲輪
内部には石材が散らばっています

今度は「連続する枡形虎口」です。さっきと同じように、攻める側から見た方がわかりやすいと思います。それでは、下の方から入っていきましょう。まず入口が曲げられています。しばらくまっすぐいくと、出口も曲げられています。入口と出口の両方が枡形になっていたのです。連続枡形の外側が東の丸です。

「連続する枡形虎口」の標識
連続する桝形虎口のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
下から入って右に曲がります。「馬出し」の表示があります
出口のところは左に曲がります
東の丸

山頂の方が見えるようになってきました。だいぶ下ってきました。また、分岐点に出ました。ここは登ったときにも遠った場所で、ここまで戻ってきたのです。逆側から歩いてきたビジターがいましたが、ここを左側に曲がったのでしょう。次来た時には違うコースを楽しめるということです。

山頂部を仰ぎます
登りのときに通った分岐点に戻ってきました

信吉のいた場所へ

最期のセクションは、城跡の山麓部、通称「二条城」に行きましょう。山頂部とは、別の方向に行きます。ちょっと通路が心もとない感じです。「主郭(本丸)」の方に行きましょう。「イノシシ注意」とあります!(山頂部への道でも同様の表示がありました)。なんとか道は続いています。「山麓」とは思えない険しさです。

登山口を左手の方に進みます
「西方城址散策マップ」の二条城部分、栃木市観光協会ホームページより
主郭(本丸、通称「御城」)への分岐点
山麓部とは思えない険しさです

大きな曲輪(郭22-2、通称「北曲輪」)に着きました。山麓だけでも本格的なお城という感じがします。それでは山麓部の本丸に向かいましょう。その手前に、巨大な細長い空間があります。帯曲輪でしょうか、高い土塁に囲まれています。本丸は季節柄、草木に覆われてしまっています。草木の少ない外側を歩いてみましょう。土塁の高まりはちゃんと残っています。それに石材も残っています。最近の発掘調査でも、石積みが見つかっています。その結果によると、結城氏時代に、山麓部は山頂部とともに使われたと想定されています。歴史もだんだんわかっていくのでしょう。隅に近いところには、櫓台のような高まりがあります。この向かい側には天守台のような区画もあるそうです。夢があります。

郭22-2
本丸下の帯曲輪
本丸内部
本丸土塁、奥には櫓台のような高まりがあります

本丸を下ったところから、最終目的地の開山不動尊に行きます。本当はもう一つ下って、藤田信吉の陣屋があったとされる曲輪(郭32-1、通称「二城」)を通りたいのですが、ここからかなりの急坂で、草木に覆われてもいますので、別ルートを通ります。道なき道を行く感じですが、出口がありました。ここも、城の出入口の一つだったのでしょう。建物が見えてきました。これが開山不動尊のお堂です。廃れていたのを。藤田信吉が復興したと言われています。剣の印がかっこいいです。ところで、帰り道ですが、来た道を戻るのが、確実だと思います(不動尊の参道から下はまともに通れない状況でした)。攻めるも引くも、楽にはいかないということです。

下に見えるのが郭32-1
上の方の曲輪から外に出られました
反対側から見た出入口
開山不動尊

関連史跡

関連史跡として、例幣使街道の宿場の一つ、栃木宿に来てみました。蔵の街として有名です。蔵や古い建物が、今でも現役で使われているところがいいです。

油伝味噌
平澤商事

ここは、とちぎ山車会館のとなりにある蔵の街市民ギャラリーです。これも蔵です。約200年前に作られた土蔵で、蔵の内装を生かして、展示会などに使われているのです。実は、ここで以前、西方城についての企画展も行われていました。かなり勉強になりました。

蔵の街市民ギャラリー

リンク、参考情報

西方城址・二条城址、栃木市観光協会
歴史探訪⑦国指定史跡 西方城跡、歴史のなかの栃木
・「戦国の猛将 藤田信吉/志村平治著」戒光祥出版
・「関東の名城を歩く 北関東編/ 峰岸純夫・齋藤 慎一編 」吉川弘文館
・「なんで西方城 なるほど西方城」企画展
・「二条城跡」2020年3月栃木県教育委員会、公益財団法人とちぎ未来づくり財団
・「国史跡の西方城ってどんな城?」2024年11月14付下野新聞記事

「西方城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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