53.二条城 その1

二条城は、京都の有名な観光地で世界遺産にも登録されていて、最近では海外からも多くの観光客が訪れています。この城を築いたのは、最後の天下人で江戸幕府の初代将軍となった徳川家康です。しかし、家康以前の将軍や天下人たちにも、それぞれの「二条城」があったことはご存じでしょうか。現在残っている二条城は、家康が築いたものだけですが、それまでの「二条城」たちの集大成のような城なのです。

立地と歴史

二条城は、京都の有名な観光地で世界遺産にも登録されていて、最近では海外からも多くの観光客が訪れています。この城を築いたのは、最後の天下人で江戸幕府の初代将軍となった徳川家康です。しかし、家康以前の将軍や天下人たちにも、それぞれの「二条城」があったことはご存じでしょうか。現在残っている二条城は、家康が築いたものだけですが、それまでの「二条城」たちの集大成のような城なのです。歴史家は、これら将軍や天下人たちが、京都の中心地に築いた城を、一連の「二条城」として取り扱っています(当時から「二条城」と呼ばれているのは現在の二条城のみで、以前のものは歴史的名称となります)。

現在の二条城

将軍・天下人たちの二条城

最初に「二条城」を築いたのは、室町幕府第13代将軍の足利義輝です。それまでの将軍は、「花の御所」と呼ばれた御殿に住んでいましたが、防御性はあまり考慮されていませんでした。義輝が将軍となった当時は将軍家の権威が低下し、義輝自身も有力家臣との対立で、京都に落ち着くことさえできませんでした。1558(永禄元)年、ようやく京都を実質支配していた三好長慶との和議により、京都を拠点にすることができました。彼は自身の御所の造営を、「二条武衛陣」と呼ばれた斯波氏の屋敷地を使って開始しましが、それは本格的な堀に囲まれた城でした。最終的には堀は二重になり、石垣も築かれました。将軍といえども、防御を考慮せざるを得ない状況だったからです。(当時も「武家御城」「御城構」など呼ばれました。)こうして城を拠点とした義輝の政治はしばらくは安定しますが、1564年に実力者の三好長慶が亡くなると、家臣との対立が再燃します。1565(永禄8)年5月19日、警備が手薄なところを三好一門の軍勢に襲われ、義輝は殺害され、義輝二条城も炎上しました。義輝は剣の達人であったと言われ、自ら太刀を振るって戦いましたが、多勢に無勢、力尽きました。

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
花の御所、「洛中洛外圖上杉本陶版」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
義輝二条城の推定位置(赤枠内)、左下の堀に囲まれた区画が現・二条城(Google Mapを利用)

次の二条城の主は、第15代将軍・足利義昭でした。義昭二条城は、これまでも「旧二条城」という通称で、以前の二条城たちの中では最も有名です(当時は「武家御城」「公方様の御城」などと呼ばれました)。1568(永禄11)年、織田信長とともに上洛し、将軍になりましたが、三好三人衆に宿所を襲われたため、翌年、義輝二条城と同じ場所に、城を築くことにしたのです。一般的には、信長が義昭にプレゼントしたというイメージが強いですが、信長は堀や石垣など土木工事を担当し、建物や庭園などは他から移築したものが多かったようです。それでも信長は陣頭指揮を取ったり、高さが8メートル近い高石垣群をわずか2ヶ月半で完成させたり、その石垣の材料に石仏を徴発したり、多くのエピソードが残っています。そして、この義昭二条城には、記録上初めて「天主」と呼ばれる建物がありました。三重の櫓だったようです。日本城郭史上においても、重要な城だったのです。もちろん城の周りは二重の堀で囲まれていました。天皇が行幸するための部屋もあったそうです。やがて義昭と信長が対立するようになると、義昭は自身で二条城の強化を行います。しかし1573(元亀4)年には、京都の外の槙島城に移り、そこで信長に反抗しましたが敗れ、義昭二条城も信長によって破却されてしまいました。

足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
義昭二条城の推定位置(青枠内)、赤枠内が義輝二条城(Google Mapを利用)
発掘され、京都御苑内に移築復元された義昭二条城の石垣

次はあまり有名ではありませんが、信長の二条城で、1576(天正4)年に自身の京都の宿所とするため、貴族の屋敷地を譲り受けて築いたものです。当時は「二条御新造」「右大将家二条新邸」などと呼ばれました。立派な御殿や行幸の間があったことは確かですが、詳しい内容はわかっていません。それに、義昭二条城と比べると、規模はかなり小さかったのです。更には、信長はこの二条城に1577年からわずか2年間しか住んでおらず、当時の皇太子・誠仁(さねひと)親王に献上し、京都では寺に滞在していました。そしてそのまま1582(天正10)年6月12日の本能寺の変を迎えることになるのです。信長ほどの力があれば、義昭二条城をしのぐ城を作るのは容易だったはずですが、こういった行動は信長の独自の考えに基づいていたのでしょう。その本能寺の変のとき、信長の嫡男・信忠もわずかな配下とともに妙覚寺に宿泊していました。彼は「二条御所」と呼ばれていた信長二条城に移動し、ここで明智光秀軍を迎え撃ったのです。少なくとも、寺よりは防御体制が整っていたことがわかります。しかし、この度も多勢に無勢、城は落城し、信忠は自害しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
信長二条城の推定位置(緑枠内)、青枠内が義昭二条城(Google Mapを利用)
織田信忠肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康の二条城

信長の後に天下人となった豊臣秀吉は、京都での居城として有名な聚楽第を築城しました。この城は、二条よりも北方に、それまでの二条城をはるかに凌ぐ規模で築かれ、天皇の行幸が実施されたことでも知られています。城の役割としては二条城を引き継いだものと言えるでしょう。ただ、秀吉は聚楽第を建設する前に、二条の地に妙顕寺城という城を築いて京都での居城としています。天守があったとも言われています。調査研究が進めば、二条城のラインアップに本格的に加わってくるでしょう。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「聚樂第屏風圖」部分(三井記念美術館所蔵)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
秀吉が築いた妙顕寺城の推定位置(茶枠内)(Google Mapを利用)

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで勝利し、天下人となった徳川家康は、その翌年、京都での居城建設を始めました。これが現代に残る二条城です。その工事は、西国大名を動員する天下普請として行われ、正に天下人のデモンストレーションとなりました。城は1603(慶長8)年に完成し、天守は3年後に追加されましたが、大和郡山城からの移築と言われています。城の範囲は、現在の二条城とは異なり、その東側半分強の大きさで、正方形の形をしていました。堀はまだ一重だったようです。御殿は一つで、現在の二の丸御殿がそれに当たります。そのため、この時期の二条城は「慶長度二条城」とも呼ばれたりします。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
慶長期二条城の範囲(紫枠内)(Google Mapを利用)
慶長二条城が描かれた「洛中洛外図」、メトロポリタン美術館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その当時家康は、京都の南にあった伏見城を通常の滞在先としていて、1603(慶長8)年に将軍宣下を受けたのもここでした。一方、二条城は京都での儀式の場として活用されました。将軍となった家康は、室町幕府の先例に倣い、朝廷に拝賀の礼を行いましたが、その出発地は二条城でした。またその後、勅使を二条城に迎え、祝賀の催しが開かれました。家康は2年後に早くも、将軍の座を息子の秀忠に譲りますが、秀忠も同様に将軍就任の儀式を二条城で行いました。やがて幕府と豊臣家の関係に緊張が高まる中、1611(慶長16)年には、二条城で家康と秀吉の遺児・秀頼の対面が実現します。成長した秀頼を見た家康は、このとき豊臣家を滅ぼす決意をしたとも言われています。そしてついに家康が豊臣家と対決した大坂冬の陣(1614(慶長19)年)、大坂夏の陣(翌年)のときには、二条城は家康の本営となりました。1615(慶長20)年5月に豊臣家を滅ぼした家康は、二条城で8月まで戦後処理を行いました。様々な戦勝祝いの催しが開かれましたが、そこでは豊臣に加担したとして切腹となった大茶人・古田織部の名物茶器が配られました。また、7月には朝廷や公家を統制するための「禁中並公家諸法度」が二条城で発布されました。家康は、二条城を硬軟取り混ぜた演出の場として、最大限活用したのです。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
古田織部肖像画、「茶之湯六宗匠伝記」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀忠・家光の二条城

家康は、後顧の憂いを断ち、1616(元和2)年に亡くなりましたが、後を継いだ秀忠、家康の孫の家光には、幕府の安定のためにやるべきことがありました。それは、朝廷との関係の強化です。秀忠は1620(元和6)年に、娘の和子(かずこ、後にまさこ)を、後水尾天皇の中宮として入内させました。彼女の入内の行列は、二条城から出発しました。これで、秀忠は天皇の義父になったわけです。そして、総仕上げとして行われたのが、天皇の二条城への行幸です。秀吉が行った後陽成天皇の聚楽第行幸を意識し、これを超えるイベントを行おうとしたのでしょう。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後水尾天皇肖像画、宮内庁書陵部蔵、尾形光琳筆 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川和子(東福門院)肖像画、光雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この一大イベントは1626(寛永3)年に行われるのですが、それまでに二条城は大改修されました。そのため、改修後の二条城は「寛永度二条城」とも呼ばれたりします。現在に残る二条城が完成した時期でもあります。まず、城の敷地が西側に拡張され、四角形を2つ重ねたような形になりました。その西側の方に、本丸が新たに作られ、内堀に囲まれました。これで全体が二重の堀に囲まれるようになったようです。本丸の中には、そのときまでに家光に将軍職を譲り大御所となった秀忠のための、本丸御殿が作られました。本丸の隅には、新たに天守が築かれましたが、伏見城からの移築と言われています。それまであった東側の敷地は二の丸とされ、それまでの御殿も改造され、今に残る「二の丸御殿」となりました。御殿前にある豪華絢爛の「唐門」もそのとき作られました。更に、二の丸の南側には、天皇のための行幸御殿も作られました。城の正面入口の東大手門は2階建ての櫓門でしたが、天皇が通るのを見下げる形になるので、単層に改装されました。(行幸後に、現在見られる2階建てに戻しました。)

現在の二条城の航空写真(Google Mapを利用)
現存している二の丸御殿
行幸の際に作られた唐門
単層に改装された東大手門が描かれた洛中洛外図、千葉県立中央博物館蔵、同博物館サイトから引用
現在の東大手門

「寛永行幸」と呼ばれる二条城への行幸は、1626(寛永3)年9月6日から5日間に渡って行われました。御所から二条城まで、天皇や中宮・和子以下9千人の行列がつづき、京都の町には見物人が詰めかけました。期間中には城で、豪華な饗応、贈り物の交換、舞楽・蹴鞠・和歌などが催されましたが、興味深いものとしては、天皇が2度天守に登ったことです。行幸御殿があった二の丸と、天守と本丸御殿がある本丸との間には堀がありましたが、ここに二階建ての廊下橋がかかっていて、天皇が外に出ることなく天守に行けるようになっていました。天皇は3日目に天守に登りましたが、天気が悪くて眺望が悪かったらしく、最終日に御所に戻る前、再度天守に赴いたとのことです。この大イベントは、多くの絵巻物・文書に記録され、語り継がれることになりました。幕府によるものとはいえ、平和の訪れを象徴する出来事になったのです。同時に、二条城にとってもこれが最盛期でした。その後、家光は1634(寛永11)年、ギクシャクしていた後水尾上皇(5年前譲位)との関係修復のため、上洛し二条城に入ります。それ以降2百年以上、将軍の上洛はなくなり、二条城は一旦長い眠りにつきます。

「二条城行幸図屏風」部分、出展:京都国立博物館
ここに廊下橋がありました

家茂・慶喜の二条城

その約200年間、二条城は「二条在番」と呼ばれた幕府の役人が管理していましたが、使われることはありませんでした。火災や天災により、本丸御殿や天守が消失し、二の丸御殿も荒れ果てていました。(行幸御殿は、御水尾上皇のために移築されました。)幕末になり、幕府と、有力諸藩を後ろ盾にする朝廷との関係が緊張してくると、京都とともに二条城が再び表舞台に現れます。1862(文久2)年に公武合体政策により、皇女和宮と結婚した14代将軍・徳川家茂が翌年、将軍として229年振りに上洛することになったのです。当時の孝明天皇が、将軍・家茂の義父になり、2百年前の徳川秀忠と同じ立場ですが、幕府と朝廷の立場が逆転したような感じです。二条城では、本丸に仮御殿が、天守台には火の見櫓が建設されましたが、不十分だったようです。幕府の権威や経済力は衰えており、将軍一行の旅費にも節約の通達が出される程だったのです。よって、将軍・家茂の滞在時には、主として修繕された二の丸御殿が使われました。家茂は都合3回上洛しましたが、長州征伐が行われた時期で、本営の大坂城にいることも多く、1866(慶応2)年7月に病気で亡くなった場所も大坂城でした。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後を継いだ徳川慶喜は、以前から家茂の後見として京都に長期間滞在していましたが、基本的に二条城には宿泊していませんでした。将軍でなかったということもありますが、二条城は公式の場で仕来りが多く、自由に動けないためと本人が語っています。家茂が亡くなった5ヶ月後に二条城で将軍宣下を受けてもなお、近くの小浜藩邸「若州屋敷」に滞在し続けました。二条城に移ったのは、1867(慶応3)年9月、有名な大政奉還の1ヶ月前でした。内大臣に任官したタイミングだったようです。10月12日、慶喜は幕臣や一門大名を二の丸御殿黒書院に集め、大政奉還の主旨を説明しました。翌日には、大広間に諸藩重役を集め、書類を回覧した後、希望者にも説明を行いました。そして14日に朝廷に提出、15日に受理と進みます。これは、慶喜が討幕派の矛先をかわし、政局の主導権を維持しようとした動きでした。しかし、薩長中心の討幕派は、「倒幕の密勅」「王政復古の大号令」などで反撃し、12月9日に慶喜の「辞官納地」が決定され、二条城に伝えられました。これは討幕派の挑発でしたが、周りの家臣や一門衆が激高する中、慶喜は12日に大坂城に退去しました。京都での偶発的な合戦を避けるためでした。

将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大政奉還図」、邨田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、10月12日の黒書院での場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後二条城は、慶喜を護衛していた水戸(慶喜の出身藩)・本圀寺勢に任されます。しかし、翌年1月に鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷側に引き渡されました。そして、2月3日、明治天皇が二条城に行幸し、幕府討伐の詔を発せられたのです。二条城は、徹頭徹尾、ときの政治の象徴的な場として使われたのでした。

「二条城太政官代行幸」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵、明治天皇の行幸の場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「二条城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

187.福江城 その1

福江城は、五島列島で最大の島、福江島にあった城で、福江藩の藩主、五島氏によって築かれました。五島列島は、九州最西端にあり、古代から外国との交渉・貿易のためのルート上にもあったので、長い歴史を有しています。しかし、福江城は意外にも、日本で最後に築城された城の一つなのです。そのことにも、五島列島ならではの歴史や事情が絡んでいます。

立地と歴史

福江城は、五島列島で最大の島、福江島にあった城で、福江藩の藩主、五島氏によって築かれました。五島列島は、九州最西端にあり、古代から外国との交渉・貿易のためのルート上にもあったので、長い歴史を有しています。しかし、福江城は意外にも、日本で最後に築城された城の一つなのです。そのことにも、五島列島ならではの歴史や事情が絡んでいます。

城の位置

五島列島と松浦党、海賊、倭寇

古代には、五島列島は遣唐使のルートの一つ、南路の拠点となり、有名な空海もここから唐に渡りました。中世になると、中小武士氏族の集団である松浦党が進出してきました。松浦党の中心は平戸を根拠地とした松浦氏でしたが、五島列島においては、最北端の島、宇久島には宇久氏が、その南の方にある中通島には青方氏が渡ってきました。彼らは、陸地の支配の他、通常は海上警護や水軍としての活動をしていましたが、場合によっては略奪行為も行ったため「海賊」とも呼ばれました。

復元された、水軍や海賊が使っていた小早船、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

また、中世の五島列島のもう一つの主役として、ここを根拠地の一つとした「倭寇」が挙げられるでしょう。倭寇は主に、室町時代の前期倭寇と、戦国時代に後期倭寇に分けられます。後期倭寇は、日本人よりむしろ中国人が主体で、私貿易と略奪両方を行う、武装商人のような存在であったと考えられています。日本側の武士や住民の一部にも、倭寇に参加した者がいたのではないかと言われています。それよりも松浦党の領主層が、後期倭寇の中国人首領と組んで、勢力を伸ばそうとしていました。

「倭寇図巻」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

宇久氏→五島氏による福江藩支配

室町時代には、松浦党の一氏族、宇久氏が五島列島全体を支配するようになりました。そして、その本拠地を宇久島から、最大の島・福江島に移しました。16世紀中ごろの当主、宇久盛定(うくもりさだ)は、福江島の福江川河口近くに江川城を築き、貿易を盛んにしようとしました。その過程で出会ったのが、後期倭寇の大物であった明(中国)人・王直です。盛定は1540年、王直に福江での居住と貿易を許し、唐人町を作りました。今でも、唐人町だった周辺には、明人堂(廟堂)や六角井戸(井戸跡)が史跡として残っています。五島は、平戸とともに重要な貿易港になったのです。

王直の肖像画、明人堂にて展示
唐人町の想像図、明人堂にて展示
明人堂
六角井戸

盛定の子、純定(すみさだ)の時代には、キリスト教の宣教師がやってきて、純定自身もキリシタン大名となりました。やがて、純定の孫、純玄(すみはる)のときに豊臣秀吉による天下統一が進むと、五島列島の支配を認められたことで、名字を「五島」と改めました。その跡継ぎの五島玄雅(ごとうはるまさ)も、江戸幕府からも支配を認められて、初代福江藩主となりました。2代藩主の盛利(もりとし)は、「福江直り」と呼ばれる政策により、藩士を福江に集住させ、藩主の権力を強化しました。中級クラスの藩士の居住地跡が「福江武家屋敷通り」として残っています。五島氏による福江藩は、江戸時代を通じて続くことになります。

福江武家屋敷通り

このように順調に見えた福江藩ですが、思い通りにならないこともありました。鎖国政策により貿易はできなくなりましが、当初は捕鯨などの運上金による収入で藩財政は潤っていました。ところが捕鯨の衰退や飢饉などにより、産業が衰退し財政が悪化すると、藩は対策を迫られます。特筆すべきものとして、領民を人単位で把握し課税する制度、更には領民の(長女以外の)娘を強制的に3年間奉公させる制度の導入があります。これらは当時から見ても悪法であり、江戸時代の後半約100年間に渡って維持されました。他には、対岸の九州の対岸の大村藩から、農民を千人単位で移住させたことです。鎖国とともにキリスト教は禁止され、信者は弾圧されていましたが、この移住者の中には多くの「隠れキリシタン」がいました。福江藩は、弾圧より農民の受入れを優先したため、彼らの信仰が五島で密かに維持されることになりました。これが、結果的に後に五島のキリシタン遺産と文化につながったとされています。

五島列島頭ヶ島に残る頭ヶ島天主堂 (licensed by Indiana jo via Wikimedia Commons)

城の観点からは、江川城が1614年に焼失してから、代わりに後の福江城を築く場所に、石田陣屋を設けました。福江藩の石高は約1万5千石(当初)であり、この石高では城の築造が認められていなかったからです。石田陣屋がどのようであったかわかりませんが、石垣など城のような姿をしていたとも言われています。

江川城があったと思われる場所(ビジネスホテルの傍らに石碑があります)

異国船、海防への対応

後の福江城築城につながる福江藩の特徴として、異国船警備を担っていたことが挙げられます。五島列島は、鎖国下唯一の貿易港であった長崎に近く、貿易船が難破したときの対応や、不審船の監視を行っていたのです。そのため、長崎に「長崎聞役」という情報収集役の役人を駐在させていました。江戸時代後期になると、西欧諸国の船が日本近海に頻繁に現れるようになり、対外的な緊張が高まってきました。その状況下、海防の必要性を感じた福江藩は、1806年に最初の築城許可を幕府に申請しましたが、却下されてしまいます。その後、1808年にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した「フェートン号事件」や、1844年にオランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王の開国勧告書を持参して長崎に入港した出来事がありました。福江藩は、これらの情報も入手し、築城許可を再三にわたって申請していました。そしてついに1849年に築城許可が、北海道の松前城とともに下りたのです。

長崎で貿易が行われた出島(19世紀前半)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フェートン号 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
パレンバン号(文化遺産オンライン)
松前城

ついに福江城を築城

福江藩は、石田陣屋を発展させる形で同じ場所に、福江城を築城しました。築城許可後すぐに建設に取りかかったものの、予算不足と、海に面した河口近くの立地のために、工事に15年を要し、完成は1863年でした。現在、福江港近くに「常灯鼻(じょうとうばな)」と呼ばれる灯台跡がありますが、もとは築城工事の際、波除のための堤防として築かれたものです。海防を目的としたことと、日本最後期の築城だったことで、この城にはいくつも特徴がありました。まず、東の海に向かって、南北東三方が海に面し、海が天然の外堀となっていたことです。そして、正面の東側の石垣は厚く作られ、船を乗り出す水門が設けられていました。次に挙げられるのは、中心の本丸を、内堀を挟んで、北の丸、二の丸、厩などが囲んでいましたが、これらの曲輪の隅には、櫓の代わり砲台が築かれたことです。また、藩主の隠居屋敷と庭園が、海から見て一番奥の西側に建設されました。最後に挙げる特徴としては、ご当地らしく、島で調達した丸い自然石を多く使って、野面積みの石垣を築いたことでしょう。

常灯鼻
「肥前國松浦郡五島福江城 絵図面」、「石田城跡発掘調査報告書」1997年長崎県教育委員会より
福江城東側の石垣
福江城の野面積み石垣

しかし、築城後まもなく明治維新となり、1872年には城は陸軍の所管となり、廃城となってしまいました。城の完成後わずか9年後のことでした。

現在の福江城跡

「福江城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

203.前橋城 その1

前橋市といえば群馬県の県庁所在地で人口約33万人の都市です。しかし、となりの高崎市の人口は約37万人でこちらの方が多く、且つ新幹線駅など交通の要衝となっています。なぜこれら2つの都市がこのような形で並び立っているのか、他県の人からすれば、不思議かもしれません。細かい経緯はともかく、前橋に今の地位は、前橋城とそれにまつわる自然と人々の活動がなければ、なかったものと思われます。

立地と歴史

利根川によって生まれた「厩橋城」

前橋市といえば群馬県の県庁所在地で人口約33万人の都市です。しかし、となりの高崎市の人口は約37万人でこちらの方が多く、且つ新幹線駅など交通の要衝となっています。なぜこれら2つの都市がこのような形で並び立っているのか、他県の人からすれば、不思議かもしれません。細かい経緯はともかく、前橋の今の地位は、前橋城とそれにまつわる自然と人々の活動がなければ、なかったものと思われます。

前橋市の範囲と城の位置

前橋城そのものの話をする前に、その立地を説明する必要があります。前橋城は、旧利根川の流路に残された崖(東側)と、現在の利根川の流路が作った崖(西側)に挟まれた台地上に築かれたからです。中世の途中まで利根川は、前橋市街地の東側、現在の広瀬川の辺りを流れていたと言われています。そのルートは一定ではありませんでしたが、前橋台地の北から東側の崖を形成しました。その崖は、後の前橋城の境界線として活用され、現在は馬場川などの用水路のルートとして残っています。その旧利根川が1427年(応永34年)、400年に一度とされる大洪水によって、西側を流れるルートに変わりました。当初は細く浅いものでしたが、その後度重なる洪水により拡大していきました。その結果、台地の西側にも崖ができ、自然の要害として、城を築くには格好の場所となったのです。

前橋城周辺の地図(Google Mapを利用)

前橋城を最初に築いたのは、全語句時代の1500年前後に、箕輪城を本拠としていた長野氏の支族であるとされています。その際、現在も城の周辺を流れている風呂川を、用水路として開削したと言われています。城があった台地は、周りの自然の川より標高が高く(十数m程度)、そこからの取水が難しかったからです。この城は、当初は厩橋(まやばし)城と呼ばれていました。これまで、この名前は、奈良時代にこの地域にあった東山道の駅家「群馬駅」に由来すると言われてきました。「厩(うまや、駅家の意味)」にあった「橋」という組み合わせです。しかし「厩橋」という地名は戦国時代より前の記録にはなく、読み方も「まやばし」または「まえばし」でした。そこから考えられる別の説としては「むまやはし(崖地の谷の端の意味」」「前方にある端(はし)」というのがあります。これであれば、前橋城の立地と一致することになります。

長野氏の本拠地、箕輪城跡
城の北側を流れる風呂川

上杉謙信によりメジャー化

1560年(永禄3年)、城にとって画期的な出来事が起こりました。越後国(現在の新潟県)の戦国武将、上杉謙信が本格的な関東地方への侵攻(「越山」)を開始したのです。謙信はそのとき、自身の関東地方の根拠地として、厩橋(前橋)城を選んだのです。彼は都合17回の越山を行いましたが、毎回もこの城に滞在し、ときにはそこで年を越したりました。なぜこの城を選んだのか不明ですが、関東経営を行うための地理的な条件もあったのでしょうが、やはり地形的に要害堅固だったことがあったと思われます。謙信は、厩橋城を重臣の北条(きたじょう)高広に任せますが、高広は北条(ほうじょう)氏に転じ、城も北条氏の勢力下に入ってしまいます。その後、徳川家康が関東地方を領有し、天下を取ると、家康はこの城を重臣の酒井氏に任せました。酒井氏の時代に、城の名前は「厩橋」から「前橋」に定められました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が、前橋城のことを「関東の華」と呼んだという有名なエピソードがあります。しかし、少なくとも江戸時代の資料には「関東の華」という表現は見られないそうです。その代わりに、1740年代に酒井家が前橋から姫路に移ろうと画策したとき(1749年に実現)、それに反対した家臣の言い分として家康の言葉が記録されています。前橋城は「二つと無き城」であるというものです。もう少し長めに引用すると、家康は「前橋城は、江戸城と同じ曲輪の配置で築いた城なので2つとはない城である」と言ったということです。江戸城は、家康の入城以降、半世紀以上をかけて巨大城郭となりましたが、当初は半島状に突き出た崖がある台地上に築かれました。「同じ曲輪の配置」とは、どの時点のどういった視点なのかわかりませんが、同じような堅固な立地であるという意味であれば、大変興味深いことです。しかし、台地が突き出る方向が、江戸城は下流の南であるのに対し、前橋城は逆で、上流の北であったため、これがその後の困難につながることになります。

江戸城周辺の地図(Google Mapを利用)

「前橋城」最盛期からどん底へ

酒井氏(酒井雅楽頭家)は江戸時代前期、前橋城主として前橋藩を統治し、幕府の幹部も輩出しました。特に酒井忠清は、大老として4代将軍・徳川家綱を補佐しました。前橋城は、初期の頃から西の利根川を背に、本丸・二の丸・三の丸があったと考えられています。謙信の時代までに水曲輪、金井曲輪などが加わり、酒井氏の時代に一番外側の伯耆曲輪が築かれ、最大となりました。本丸には、三層三階の天守がそびえていました。しかし、守りの要である利根川は、度々洪水を起こし、城にとって脅威ともなりました。1706年には、本丸西側の曲輪群が洪水により崩壊してしまいます。利根川の氾濫は、藩内の農業生産にも打撃を与え、藩の財政も悪化しました。そのため、酒井氏は領地替えを幕府に嘆願し、1749年に姫路藩(姫路城)に移っていきました。

酒井氏時代の前橋城絵図 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前橋城天守の想像図(現地説明板より)

代わりに前橋藩主となったのが、結城松平氏(松平大和守家)でした。しかし、前橋城崩壊の危機的状況は変わらず、ついに1767年、藩主の松平朝矩(まつだいらとものり)は、幕府の許可を得て、当時領地の一部にあった川越城に本拠を移しました。そして、1769年には前橋城は廃城となり、建物は取り壊されました。前橋には、領地を管理するための陣屋が置かれましたが、現地の状況は悪化するばかりでした。

川越城本丸御殿

地域再生と「再築前橋城」

その状況を救ったのが、前橋藩改め川越藩の郡奉行(行政官)の安井与左衛門でした。
「前橋の恩人」とも称されています。彼は、1833年に前橋に赴任し、民政や治水で大きな功績を残しました。例えば民生面では、1835年から発生した天保の大飢饉のとき、与左衛門は藩士用の備蓄米を領民に配布することを訴え、実現させました。治水という観点では、前橋は以前にも増して、危機に瀕していました。利根川が蛇行することにより、用水路の風呂川のすぐ近くまで迫っていたのです。風呂川が破壊されると、前橋の農業生産は大打撃を受けることになります。与左衛門は6年を費やして、利根川の流れをまっすぐに変える大工事を行いました。併せて川岸に護岸のための石堤も築きました。この取り組みは、目下の危機を回避させただけでなく、後の前橋の発展につながるきっかけとなりました。

安井与左衛門が着任したときの前橋の状況(Google Mapを利用)
安井与左衛門の顕彰碑
与左衛門が築いたといわれる石堤

1854年に日本が開国し、1858年に欧米諸国との通商条約が結ばれると、国際貿易が行われるようになりました。日本からの輸出品の第1位は生糸で、安くて高品質であると好評を得ました。生糸の主な産地の一つは前橋のある上野国(現在の群馬県)で、後には世界遺産になっている富岡製糸場も設立されます。前橋には有力な生糸商人たちがいて、貿易によって莫大な利益を得ていました。そのとき彼らが実現しようとしたのが「前橋城の再築」でした。彼らにとっては城というより、地元に藩庁があった方が、商売上都合がよかったからではありますが。商人たちは莫大な献金を行い、その金額は城の建設費だけでなく、窮乏していた藩財政の足しになる程でした。藩にとっても、藩庁を内陸部に移すことで、幕府から命じられていた品川台場などの沿岸警備の負担を逃れられるとの思惑がありました。幕府としても、幕末の混乱状況のなか、江戸城に危機が生じた場合の代替拠点として価値を感じたようです。そして、1863年に城の再築が許可され、1867年に城は完成、藩主の松平直克が移ることで「前橋藩」が復活します。川越城は、別途設立された「川越藩」として、松井松平家に引き継がれました。

品川台場跡

再築前橋城は、以前の前橋城と同じではなく、まず本丸は以前の三の丸だったところに作られました。利根川の浸食により、東側に後退した位置となったのです。近代的な砲撃戦の標的となってしまう天守は作られず、城の中心は本丸御殿でした。本丸や大手門など城の要所の土塁の上には、砲台が作られ、西洋式の要素も取り入れられました。ところが、明治維新が城の完成の翌年に起こり、1871年の廃藩置県により、完成からわずか4年で取り壊しとなってしまったのです。

新旧前橋城の範囲の比較(Google Mapを利用)
再築前橋城の本丸御殿(前橋県庁庁舎として使用されていた頃) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本丸の砲台跡

「前橋城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。