121.本佐倉城 その1

関東の名族、千葉氏の城

立地と歴史

千葉氏が15世紀に築城

本佐倉城は下総国(現在の千葉県北部)にあった大きな城です。戦国大名であった千葉輔胤が、将門山と呼ばれた丘陵地帯に遅くとも1484年までにこの城を築きました。この一帯は印旛沼に囲まれていて、南方の平地を通っていた下総街道にのみ開けていました。この地帯は防御に優れていただけでなく、水陸交通の便にも優れていたのです。

明治初期の城周辺の地図、まだ印旛沼が近くにありました

千葉氏の家紋、月星 (licensed by Los688 via Wikimedia Commons)

城の中心部~内郭

最初にこの城が築かれたとき、関東地方の戦国大名は、東と西の2つのグループに分かれていました。西のグループは関東管領であった上杉氏に率いられ、東のグループは関東公方であり古河にいた足利氏に率いられていました。千葉氏は、東のグループに属していて、本佐倉城もまたこのグループの中で下総国の古河と房総半島の他の国々とをつなぐ重要な役割を担っていたのです。千葉氏は、内郭と呼ばれる城の中心部分にいくつもの曲輪を作りました。

城の位置

城山と呼ばれた本丸には城主のための御殿がありました。この曲輪には二棟で1セットの主殿、会所と呼ばれた公式の建物がありました。千葉氏はこの国の守護だったからです。千葉氏が祀っていた妙見社があった奥ノ山が本丸の西隣にありました。奥ノ山は木橋によって本丸とつながっていました。その次は倉跡で、倉庫がありました。一番西側にはセッテイ山があり、迎賓館として使われていました。これらの曲輪群に加え、東山が防御のために設けられていました。そして東光寺ビョウには寺があり、印旛沼に面していました。

内郭の曲輪群(現地説明板より)

里見氏に備えて外郭を構築

16世紀中頃、関東地方の情勢が変化しました。北条氏が関東地方の大半を手に入れたのです。そして千葉氏は、北条氏から養子を受け入れ、北条氏に組することを決断しました。ところが、房総半島(本佐倉城の南方)にいた里見氏がまだ北条に反抗していました。結果、千葉氏は城の南側に対する防御を強化する必要に迫られました。

本佐倉城と里見氏の本拠地との位置関係

千葉氏は内郭の外側に荒上、根古谷、向根古谷といった大きな曲輪群を築き、外郭と呼ばれます。これらの曲輪は分厚い土塁に囲まれ、馬出しという突き出した形の防御陣地がありました。これらは北条の技術を活用していました。加えて、セッテイ山は内郭と外郭の結節点に当たっていたので、防衛の司令塔に変化します。城の範囲はついには3万9千平方メートルに及びました。

外郭を含めた城の全体図(現地説明板より)

ところが、千葉氏は1590年に天下人の豊臣秀吉から改易されてしまいます。主筋の北条氏が秀吉により滅ぼされてしまったからです。その後、本佐倉城は他の氏族により使われましたが、最後は1615年に廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「本佐倉城その2」に続きます。

160.Imori Castle Part1

The first ruler, Nagayoshi Miyoshi’s castle

Location and History

Nagayoshi Miyoshi’s Home Base

Imori Castle was located on a 314m high mountain called “Imori-yama Mountain” in Kawachi Province (what is now eastern part of Osaka Prefecture). The mountain was also on the northwest branch of Ikoma Mountains which was the border between Kawachi and Yamato Province (now Nara Prefecture). Several routes ran at the foot of the mountain, and the area around the castle was accessible from Osaka Bay by ships through Fukonoike Pond near the castle in the past. It is uncertain when the castle was first built, but the Kizawa Clan developed the castle around 1530. The castle became the largest mountain castle in the province. Mountain castles were very popular at that time.

The location of Imori Castle and the range of Kawachi Province

Nagayoshi Miyoshi was a great warlord in the middle 16th Century whose power competed with the Shogun, Yoshiteru Ashikaga. He banished the shogun from Kyoto and started his own governance. That’s why he is currently regarded as the first ruler who governed the center of Japan. He did so without the authority of the shogunate. However, some people consider Nobunaga Oda as the first ruler. Nagayoshi was based at the Akutagagawa-san Castle in Settsu Province (now the northern part of Osaka Prefecture) before he defeated the Hatakeyama Clan who owned Kawachi Province and Imori Castle and moved to the castle in 1560.

The portrait of Nagayoshi Miyoshi, owned by Juko-in of Daitokuji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Stone Walls as Authority

The range of Imori Castle was about 700m from north to south and about 400m from east to west. The castle had a lot of enclosures which were divided into two groups, the northern and southern parts. The northern enclosures were on very narrow ridges and are thought to be used as defensive positions. On the other hand, the southern enclosures were relatively spacious, and it is said that they were used as residences. The slopes on the northern, eastern, and western sides were very steep. The southern slope was gentle, but the route to the castle on this side was very long.

The miniature model of Imori Castle, owned by Daito City History and Folklore Museum

Historians think that the Main Route to the castle was on the eastern side, as visitors could visit the castle through rivers and valleys on this side. There is another reason why the front of the castle faced the east. It was recently discovered that the eastern side of most of the enclosures was covered by stone walls. They were not for buildings, just for supporting the enclosures. This meant that the stone walls were probably used to show visitors the castle’s authority facing the front. It is said that Nobunaga’s Azuchi Castle was the first case for using stone walls in earnest for a castle. However, the case of Imori Castle was nearly 20 years earlier than Azuchi Castle. This may be one more reason for Nagayoshi being called the first ruler.

The remaining stone walls on the eastern side of the mountain

Nobunaga Oda abolished Castle

Nagayoshi governed the Kinki Region and often battled his enemies. He sometimes held poetry parties and even hosted missionaries while he stayed in the castle for a few years. However, he suddenly died in 1564. The Miyoshi Clan still held the castle but had internal troubles. Nobunaga Oda took advantage of the situation and went to Kyoto in 1568. As Nobunaga proceeded with his unification of Japan, he ordered the destruction of the castle in 1575 before the castle was abandoned.

The portrait of Nobunaga Oda, attributed to Soshu Kano, owned by Chokoji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

To be continued in “Imori Castle Part2”

160.飯盛城 その1

最初の天下人、三好長慶の城

立地と歴史

三好長慶の本拠地となる

飯盛城は、河内国(現在の大阪府東部)の標高314mの飯盛山の上に築かれました。この山はまた、河内国と大和国(現在の奈良県)の国境であった生駒山地の北西支脈に当たりました。幾筋もの街道が山麓に通っており、城の近くには過去には深野池という池があり、大阪湾から城の周辺地まで船を使っての移動が可能でした。この城がいつ最初に築かれたかは不明ですが、1530年頃、木沢氏がこの城を拡張して、河内国の中では最大の城となりました。当時は山城が最もよく利用されていたのです。

飯盛城の位置と河内国の範囲

三好長慶は16世紀中頃の有力な戦国大名でした。彼の勢力は将軍であった足利義輝に拮抗し、この将軍を京都から追放することで、彼自身による統治を始めました。そのため、最近では、長慶は日本の中心地を支配したという意味で最初の天下人と見なされています。彼は幕府の権威なしで、それをなし遂げたのです(もっとも、通常は織田信長が最初の天下人とされていますが)。長慶は摂津国(現在の大阪府北部)の芥川山城を本拠地としていましたが、河内国と飯盛城を領有していた畠山氏を倒し、1560年に飯盛城に移ってきたのです。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石垣を権威の象徴として利用

飯盛城の範囲は、南北約700m、東西約400mに及びます。城には多くの曲輪があり、2つのグループに分かれていました。北部の曲輪群は、とても狭い峰上にあり、防御陣地として使われたと考えられています。一方、南部の曲輪群は比較的広く、住居として使われたと言われています。北側、東側、西側はとても急な坂となっていました。南側は緩い坂となっていましたが、その分城に至る道はとても距離がありました。

飯盛城の模型(大東市立歴史民俗資料館)

歴史家は、城に至る大手道は東側と考えています。この方面から川筋や谷筋に沿って城に向かうことができたからです。なぜ城の正面が東側であったのかもう一つ理由があります。最近、ほとんどの曲輪の東側は石垣に覆われていたことが分かったのです。これらの石垣は建物のためではなく、曲輪を支えるためだけに使われました。これは、恐らく石垣が正面に向いて、訪問者に対して城の権威を示していたのだと考えられます。信長の安土城が、城のために石垣を使った最初の例と言われてきました。ところが、この飯盛城の事例は安土城よりも20年近く早いのです。これが長慶が最初の天下人と言われるもう一つの理由になるかもしれません。

山の東側に現存している石垣

織田信長が廃城とする

長慶は近畿地方を支配し、敵と頻繁に交戦しました。彼は在城していた数年間で、時々連歌の会を開き、宣教師をも招いたりしました。ところが、1564年に彼は突然死んでしまいました。三好一族はまだこの城を維持していましたが、内紛を起こします。織田信長はこの状況を利用して1568年に上洛したのです。信長は天下統一を進めていく中で、1575年には飯盛城の破却を命じます。そしてこの城は廃城となりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「飯盛城その2」に続きます。