76.徳島城 その1

今回は徳島城を取り上げます。徳島と言えば阿波踊りですが、城のイメージはピンとこないかもしれません。徳島城は、蜂須賀氏が築き、江戸時代末までずっと維持した城です。蜂須賀といえば、蜂須賀小六正勝が有名ですが、その小六子、家政が秀吉から阿波国を与えられたのが徳島城築城のきっかけなのです。小六には「盗賊、野武士の頭というイメージがありますが、実際は尾張国の土豪出身で、秀吉の参謀役として活躍したいっぱしの武将だったのです。

立地と歴史

Introduction

今回は徳島城を取り上げます。徳島と言えば阿波踊りですが、城のイメージはピンとこないかもしれません。徳島城は、蜂須賀氏が築き、江戸時代末までずっと維持した城です。蜂須賀といえば、蜂須賀小六正勝が有名ですが、その小六子、家政が秀吉から阿波国を与えられたのが徳島城築城のきっかけなのです。小六には「盗賊、野武士の頭というイメージがありますが、実際は尾張国の土豪出身で、秀吉の参謀役として活躍したいっぱしの武将だったのです。それに、徳島城は、秀吉の城郭ネットワーク戦略の下、築かれた城なのです。更に、阿波踊りなど、徳島の文化も、城や城下とともに発展した、庶民たちの中から生まれてきたのです。この記事では、そんな徳島城やそれにまつわる文化を、蜂須賀正勝の武将人生から追ってみることにします。

蜂須賀小六正勝肖像画(模写)、出展:東京大学史料編纂所データベース (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

何者?蜂須賀小六正勝

蜂須賀氏は、尾張国蜂須賀村を本拠とした中小地元領主の一つでした。正勝が生まれた後の尾張国は、実質的に守護代とその家老職を務めていた織田一族によって分割されていました。蜂須賀氏がいた下四郡地域は、信長の父・信秀の勢力圏でした。蜂須賀氏は信秀と折り合いが悪く、先祖の地から、上四郡の方に移住したのです。当時の地元領主たちは、その地の大名に必ずしも従っていたわけではなく、状況に応じて主君を変えていました。結果として、信秀以外の織田氏や、美濃の斎藤氏に仕えることになりました。

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

濃尾平野は、今でも木曽三川が流れる地として知られていますが、当時はそれら大河が乱流し、戦国大名の統治もあまり及ばない地域になっていました。その地域の治安や商業・流通などを担っていた集団がいて、史料によっては「川並衆(「武功夜話」)と呼ばれたりします。正勝は、地元領主や商人・民衆と付き合いながら、その集団で頭角を現していったようなのです。その中には、野武士のような人や、略奪行為を行う者もいたのでしょう。そのイメージが、後の秀吉・日吉丸が、橋の上で盗賊の頭・小六に出会った「太閤記」のエピソードにつながったのかもしれません。(その話は、明治になって、当時はその橋がなかったことがわかって、事実ではないとされました。)

『美談武者八景 矢矧の落雁』月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、信長が台頭し、尾張統一が進むと、正勝たちも仕える先が限られるようになります。また、信長としても、桶狭間合戦に勝利した後でもそれほど兵力は多くなく、正勝たちのグループは無視できない存在でした。そんなときに両者を結び付けたのが、後の天下人・木下藤吉郎秀吉でした。秀吉・正勝の最初の大活躍の場が、有名な墨俣一夜城築城と言われてきました。しかし近年、このイベントが記載されている史料が限られ(「武功夜話」など」)、その信憑性が疑われていることから、彼らによる築城はなかったという説もあります。(補足1は、秀吉・小六が登場しない「信長公記」の記述、補足2は登場する「蜂須賀家記」の記述)ただ、尾張を統一した信長が、美濃を攻略する流れや、正勝たちのその後のポジションから、同様の活躍があったのではないでしょうか。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

(補足1)十四条合戦の事
永禄四年辛酉五月上旬、木曽川・飛騨川大河打ち越え西美濃へ御乱入、在々所々放火にて、其の後、洲股御要害丈夫に仰せ付けられ、御居陣のところ五月廿三日、井口より惣人数を出し、十四条という村に御敵人数を備へ候。則ち、洲股より懸け付くる足軽ども取り合ひ、朝合戦に瑞雲庵おとゝうたれ引き退く。
信長は夜の明くるまで御居陣なり。廿四日朝、洲股へ御帰城なり。洲股御引払ひなさる。(「信長公記」)

(補足2)九年丙寅秋、右府、諸将を召し、美濃を取ることを議して曰く、吾、砦を洲股河西に構へ、以て進取を図らんと欲す、誰か能く守るものぞと、衆、其の川を阻て敵地に入るを以て之を難ず。右府、密に之を太閤に謀る。太閤、曰く、篠木・柏井・科野諸邑、土豪多し、宜しく収めて我が用と為すべし、臣、請ふ、之を率ゐて砦を守らんと、右府、之を許す。太閤、乃ち土豪及び其の党属千二百余人の姓名を記して以て連む。公及び弟又十郎君と・・・(以下略)(「蜂須賀家記」)

信長は、美濃攻略後上洛しますが、ここで小六は意外な仕事に就きます。秀吉とともに、京都の奉行職になったのです(小六は代理人)。しかも、その働きにより、将軍・足利義昭から褒賞を与えられたのです。槍働きの武将だけではなかった一面が見て取れます。その後は、秀吉配下の武将として、戦いに明け暮れます。秀吉が中国地方の軍司令官格になったときには、播州龍野の大名に取り立てられました。ただ、やはり戦いに明け暮れ、現地を治める暇はなかったようです。本能寺の変を経て、秀吉の天下取りのフェーズになると、正勝は秀吉の参謀役に、子の家政は蜂須賀軍団を率いるようになります。

足利義昭坐像、等持院蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1585年、秀吉軍の四国攻めが終わると、四国のうち、阿波国が家政に与えられました。本来であれば、当然親の正勝に与えられるべきところ、老齢を理由に、子の方になったようです。実際、正勝は前後して病気がちになり、戦にも出られなくなっていました。家政には遺訓を、後見する重臣たちにも家政をよろしく頼む旨、書き送っています(下記補足3)。そして1586年、秀吉の天下統一の完成を見ることなく亡くなりました。残された家政は、阿波国領主として秀吉に仕えますが、阿波国はひとかたならぬ土地柄だったのです。

(補足3)当国の様子・諸式、一書を以て、阿波守へ申し渡し候間、其の意を得られ、申すに及ばず候へども、国衆幷に今度渡海の御牢人衆、御堪忍候様に御心得、肝要に存じ候。阿波守、年、若う候間、何事も、諸事引き取られ、御意見頼みに存じ候。若、又、各々の御才覚にも及ばざる儀候はば、拙者へ仰せ越さるべく候。恐々謹言。(天正十三年十一月三日 西尾利右衛門正吉(家政家老)宛 小六正勝書状)

戦国時代の阿波国

戦国時代に先立つ室町時代には、阿波国の守護は、幕府重臣の細川氏が務めていました。幕府のある京都に近く、細川氏の権力をバックアップする地域でした。細川氏は、水上交通の便がいい吉野川沿いの勝瑞に守護所を置き、ここが阿波国の中心地になりました。

勝瑞城館跡

やがて戦国時代になると、細川氏の配下である三好氏が勢力を強めるようになります。ついには、三好長慶が幕府の権力者に登り詰め、三好政権を確立しました。最近では、長慶は「最初の天下人」と称されています。阿波の拠点、勝瑞城館には弟の実休が控えていて、長慶の危機には援軍に駆け付けたりしました。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、実休・長慶が相ついで亡くなると、三好氏の勢力は衰え、内部分裂を起こします。一時当主がいなくなったため、重臣の一部はその弟を擁立しますが、他の重臣は、土佐国の長宗我部元親と連携したのです。四国統一を目論んでいた元親はこれを口実に阿波攻略を開始し、勝瑞城館は落城しました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三好氏以外の領主たちも、長宗我部になびき、元親は阿波、讃岐、そして伊予と、四国統一をほぼ果たしました。このときから、防御力の弱い平城より、一宮城のような山城が使われるようになります。本能寺の変後、秀吉は信長の後継者となるべく柴田勝家や徳川家康と対峙しますが、元親は反秀吉側に回り、背後から秀吉を脅かしたのです。秀吉は、四国や阿波国の重要性を改めて思い知ったに違いありません。

一宮城跡


四国攻めで元親を降伏させた秀吉は、阿波国に蜂須賀家政を入れました。しかし、まだ若い家政に全てを任せるのではなく、城に関して、2つの施策を実行させました。一つは、阿波国の反乱勢力を抑え込むための9つの支城「阿波九城」の設定でした。そして城主として「蜂須賀七人衆」を送り込んだのです。家政は当初、本城として「九城」の一つ、一宮城に入ったのですが、二つ目の施策として新たに本城を築くことにしました。それが徳島城です。

蜂須賀家政肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の位置

徳島城築城

秀吉は、四国攻めの後の領地配分をしたとき、「小六の居城は、猪山がいいだろう」と述べています(下記補足4)。そこから徳島城が築かれました。猪山とは、四国の大河・吉野川の下流域のデルタ地帯にある、標高約60mの丘陵でした(現在の「城山」)。地形図で見ると、この丘陵が目立っているのがわかります。戦国時代から小規模な城があったようです。

(補足4)
一、阿波国城々不残蜂須賀小六ニ可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいゝの山尤ニ覚候、乍去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻ニ四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在陣の者とも令談合、よく候ハん所相定、さ様ニ候ハヽ大西脇城かいふ牛木かゝせてよく候ハん哉、小六身ニ替者可入置候、但善所ハ立置悪所ハわり、新儀にも其近所ニこしらへ尤候事、(天正十三年八月四日付羽柴秀吉朱印状写(毛利博物館蔵文書))

城周辺の起伏地図、猪山(城山)がデルタ地帯の中で目立っています

次は、現在の航空写真ですが、城のある中州が残っているのがわかります。当時、この周辺は「渭津(いのつ)」と呼ばれていました。現在でもこの中洲は「ひょうたん島」として親しまれています。

城周辺の航空写真

江戸時代の城の絵図を見ると、当時の地形がもっとよくわかります。中州のど真ん中にお城があります。木曽三川もそうですが、昔の大河流域はこんな感じだったのでしょう。

「阿波国徳島城之図」、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

秀吉はこの地を選んだ理由としては、阿波の新たな中心地にしようとしただけでなく、秀吉の城郭ネットワーク戦略との関連が指摘されています。秀吉の本拠地は、ご存じの通り大坂城だったので、その周りに家臣たちを大名として配置し、城を築かせたり、強化させたりして防御を固めました。蜂須賀もそのうちの一つでした。その城の多くは海や川に面した、水運の便利なところに築かれ、経済の発展や、水軍の運用にも適した立地だったのです。特に徳島は、大坂湾への入口に面した重要な場所でした。家政も、地元出身の重臣に、水軍を編成させています。そして、小田原合戦や、朝鮮侵攻に利用されることになりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳島城と大坂城の位置関係

築城の経緯から、工事には他の豊臣大名も動員され、阿波入国翌年の1586年に完成しました。下の図は初期の姿を残す、江戸時代初期の絵図です。この頃の規模は小さく、山の上の防御を固めることが中心でした。最も高いところの本丸には、御殿の他、天守が築かれたと考えられています。当初天守台だったと思われる石垣が残っています。山麓には、家臣の屋敷地や城下町がありましたが、範囲は限られています。多くの家臣が阿波九城に分散していたからです。

「讃岐伊予土佐阿波探索書添付阿波国徳島城図」、出展:徳島大付属図書館 貴重資料高精細デジタルアーカイブ
初期天守台と考えられる弓櫓跡の石垣

それでも、川から攻めてくる敵を想定して、城を、屏風折れの塀で囲み、敵船を、いろんな方向から攻撃できるようにしました。、

屏風折れ塀の現地説明パネル

城と城下の発展

家政は、豊臣大名として小田原合戦、朝鮮侵攻などに参陣しました。しかし秀吉没後は、その進路選択に悩むことになります。関ヶ原の戦いのときには領地返上、大坂の陣のときには豊臣方につこうとしたとも言われます。一方、後継ぎの至鎮(よししげ)は、徳川家康の養女を妻にしていて、関ヶ原では東軍、大坂の陣では幕府方につき、戦功をあげました。結果的に、阿波国が安堵され、淡路国が加増になったのです。家政は、秀吉の恩は忘れがたく、秀吉を祀った豊国神社を維持したそうです。以後、その領地と徳島城は、徳島藩として、蜂須賀氏の下、ずっと続いていきました。

蜂須賀至鎮肖像画、徳島城博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳島城の方も、平和な時代の訪れとともに変化がありました。本丸にあった天守が、城下や海を臨む、東二の丸に移りました。山麓には、藩政の中心となる表御殿、奥御殿が建てられました。その手前にも、三重櫓(太鼓櫓)がありました。更にその手前の「鷲の門」が城の正門になります。

「阿波国徳島城之図」の山上部分
「阿波国徳島城之図」の山麓部分

現在、徳島城の建物は残っていませんが、御殿の跡には、徳島城博物館があり、鷲の門も復元されています。そしてなにより、表御殿の庭園はまだ残っているのです。「阿波の青石」と呼ばれる地元で採れる緑泥片岩をふんだんに使った石組みと、海水を取り入れていたという「潮入り庭園」としても知られています。

徳島市立徳島城博物館
復元された鷲の門
旧徳島城表御殿庭園

御殿の周りも、同じ種類の石を使った石垣に囲まれています。他の御殿があるような城の精密な石垣とは違いますが、この城にしかない味わいがあります。

御殿周りの石垣

いわゆる一国一城令が幕府から出されると、支城である阿波九城は廃城になり、分散していた家臣が徳島に集中するようになりました。下の絵図は、ちょうどその頃のものです。初期の頃の絵図より、城下が広くなっています。ひょうたん島の外に新しい町ができていきました。

「阿波国徳島城之図」、江戸時代(出展:国立公文書館)、町がが中州の外に広がっていることがわかります

藩政が安定すると、現在につながる地場産業が発展します。いくつかの要因が重なって、藍産業が栄えました。それから、交通面では駅路寺制度というのが定められました。蜂須賀家政が、八つのお寺を指定して、旅人の便宜を図ったのです。その中には、八十八か所巡礼の札所になったものもあります。お遍路もその頃からありました(下記補足5)。

(補足5)定 駅路山何寺
一  当寺之義往還旅人為一宿令建立候之条専慈悲可為肝要或辺路之輩或不寄出家侍百姓等行暮ー宿於相望者可有似合之馳走事(慶弔3年 6月 12日 各駅路寺宛定め書き)

藍染のハンカチ

そして、お待ちかねの阿波踊りの起源です。家政が、徳島城完成祝いに、無礼講の踊りを許してからという言い伝えがありますが、記録上は、2代藩主の忠英が、町人を招いて盆踊りを見たというのがあります。最近の研究によると、江戸時代後期の盆踊りの一種「ぞめき踊り」が直接のルーツとのことです。

街なかにある阿波踊りのフィギア

「徳島城 その2」に続きます。

172.三原城 その2

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ(海城・三原城めぐり)

Introduction

前回の新高山城跡見学に引き続いて、三原駅に着いたところです。駅には、三原城の素晴らしい絵が飾られていて、気分が盛り上がります。すぐ近くには三原観光協会があって、情報収集もできます。

三原駅前に飾られている「絹本著色登覧画図」(複製)

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

城周辺の航空写真

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

かつてのフロントラインを歩く

すっかり市街地になったといっても、意外と海城の形は残っているのです。昔の絵図を見ると、本丸と二の丸が堀に囲まれていますが、そのラインを、街の中に追ってみようと思います。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

駅前広場から通りを渡って、右側にある通りが、大体そのラインに沿っています。ということはこの通りはお堀だったのです。と思っていたら、堀が残っています。実際は、通りを含めてもっと幅が広かったのでしょう。お堀沿いには石垣も残っています。

駅前の通りを渡って右に進みます
最初に入れる通りへ左折します
通りには堀と石垣が残ります(一部復元)

説明パネルがあって、本丸中門跡ということです(「二の丸中門」ではないかという意見もあるようですが)。ここは、西側に張り出した二の丸の一部から渡れるようになっていたのです。限られた出入口の一つでした。今も施設の出入口として使われているところがいいです。

本丸中門跡

お堀を追って行きましょう。堀が切れた角のところに、石碑があります。「三原城 臨海一番櫓跡」とあります。ネーミングのおかげで、ここが曲輪の端で、この先が海だったことがわかります。ということは、ここを曲がった通りは、海に面した曲輪のラインなのです。この歩いている道の右側がみんな海でした。そして、左側には、二番櫓、三番櫓が続いていました。このまま行くと、別の隅っこに着きます。そこが、次のご案内場所です。石垣が見えてきました。

臨海一番櫓跡
この通りが海岸のラインだったことになります
街なかに石垣が現れます

城町(しろまち)公園のところに、船入櫓跡の石垣が残っているのです。こちら方が先にできたのですが、街中に突然現れる感じがします。石垣自体は、福島時代以降に築かれたとされています。石垣のラインが折れ曲がっていいますが、ここは船入なので、敵船がきたときに、いろんな方向から反撃できるようにしたのです(横矢)。

船入櫓跡の石垣
石垣の折れ曲がっている部分

そして、なによりも面白いところが、曲輪の南東の隅に当たる場所にあります。石垣の石ではなさそうな岩があります。これは、元からあった岩礁なのです。ここは元あった島の一つ(小島)で、残っているこの岩礁がその証拠なのです。その周りも少しお堀として残しています。

曲輪の南東隅に向かいます
かつての「小島」時代から残る岩礁

明治時代に撮られた古写真と比べると、今は全然違う様子ですが、この岩だけは、島だったとき、城だったとき、周りが市街地になってからも生き残ったのです。

明治時代の周辺の古写真、現地説寧パネルより

まだ残っていた船入

船入櫓の傍らには、船が入れる「船入」があったのですが、今は、岩礁の廻りのこの細い堀を残して、埋められてしまっています。でも実は、この奥の方に船入の一部が残っているのです。行ってみましょう。

船入櫓跡周辺の現況

通りを少し歩きます。かつては、大体この左側が船入でした。左に曲がって、ずっとまっすぐ行くと、突き当りのところに水辺があります。錦鯉が泳いでいます。ここがわずかに残っている船入なのです。一部とはいえ、船が入ったところだとわかります。向こう側の岸は、二の丸への入口から、曲輪の東側のラインが残ったものです。

石垣の前が船入でした
この先を左折します
わずかに残る船入

そのラインの先は船入櫓跡になっていて、石垣の上も公園になっています。そこにも行ってみましょう。今いるところは行き止まりになっているので、少し戻る必要があります。一旦三原駅の方に向かいます。案内があるので、斜めの道に入っていきましょう。

三原駅前の方に行きます
案内があるので、脇の道に入ります

また船入が見えてきて、この辺からまた曲輪のラインに沿っています。登って行く感じが、島っぽくていいです。門がお出迎えで、入ってみると、垣根に囲まれた何気ない空間です。

船入沿いに進みます
門がお出迎え
船入櫓跡

しかし周りと比べると随分高くなっています。しかも昔は周りは海だったのです。櫓があったらしい場所もあります。角地の下が例の岩礁です。ここも島時代から、現代に生き残っているのです。

櫓跡から石垣を見下ろしています
櫓の建物跡か
この下に先ほど見た岩礁があります
下に見えるのは別の岩礁のようです

最大級の天主台を見学

後半は、天主台を中心にご案内します。また駅前に戻っています。ここが本丸だったので、スタート地点にはちょうどいいです。今度は駅の反対側にいきます。また石垣が見えます。駅をくぐっている間にあるのが本丸の石垣で、出たところに現れるのが、小早川隆景が築いた天主台です。この隅の石垣の積み方がなんともかっこいいです。

駅前から左側に見える通路を進みます
天主台は駅の北側にあります
手前が本丸の、奥が天主台の石垣

こちら西側の石垣は、その特徴から、隆景の時代に積まれたと考えられています。「あぶり積み」という方法で積まれています。通常は石の広い面を寝かせて積むのですが、この方法では広い面を表に出して積んでいるそうです。安定的ではないので危険な積み方とも言われるのですが、今でも健在です。当時としては最高レベルの職人技だったのでしょう。高さは約13メートルで、堀から直接積み上げる石垣としては最古級とのことです。

天主台西側の石垣、背景は桜山
天主台石垣の北西側


北側正面から見た天主台です。駅と一体化している姿も、定番になってきたように思います。その近くに、一部復元された後藤門石垣というのがあります。城の南側が海だったので、北側に西国街道が通り、その途中に後藤門があったのです。

天主台石垣の北側
後藤門石垣(一部復元)

石垣を越えから見える天主台東側は、福島時代の改修または増築なのだそうです。隅の算木積みの積み方を比較すると、新しい福島時代方が整っているとのことです。

天主台石垣の北東側

これぞ「城の駅」

最後のセクションでは、駅から天主台の上に登ってみましょう。「城の駅」を堪能します。先ほど通った駅前から天主台への通路の途中から、駅構内に入っていきます。右側が改札ですが、私たちは左に曲がって、階段を登ります。天主台の案内があります。向こう側に見える絵は、海に面した城の姿でしょう。

天主台に向かう途中を右折して駅構内に入ります
左側が天主台方面、右側が改札方面
天主台入口案内

ここが入口のドアです。ドアを開け閉めして階段をまた上がります。天主台上に到着です。ゴツゴツした感じがして、ここも島だったという雰囲気があります。実際、新幹線の工事のときに、島を削って造成したことがわかったそうです。

天主台へのドア
天主台の上に到着
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示

周りを歩いてみましょう。天主台というより、曲輪という感じもします。実際に隅には櫓が3基ありました。駅に一番近いところに一基、そこから離れていって、北西隅のところに一基、元々城があった桜山を見ながら、進んだ先の北東隅にも一基あったのです。

天主台の中心部
駅に一番近い櫓跡
北西隅の櫓跡
北東隅の櫓跡、桜山も見えます

「城の駅」らしさをもっと体感してみたければ、新幹線が通り過ぎたり、発着するのを眺めましょう。

登りの「のぞみ」が三原駅を通過するところ

関連史跡

他の見どころも少しご紹介します。まず「水刎(みずはね)」です。昔の絵図で見ると、堀と一緒に外側の川(和久原川)が曲げられているところで、水の流れを緩やかにするために築かれた石垣です。

水刎

それから城の西の方、西国街道沿いのかつての城下町には、今も古い町並みが残っています。

西国街道沿いに残る旧家

その周辺には、三原城から移されたと伝わる門(順勝寺山門)や、新高山城から移されたと言われる門(宗光寺山門)があります。宗光寺山門については、建物の形式からは、福島時代に建てられたとも考えられるそうです。

宗光寺山門

私の感想

最期は、三原港に来てみました。意外と駅から近いところにあります。残っている史跡をめぐってみて、海城・三原城を想像することができました。それに昔、島だったところが、天主台や櫓跡として市街地の中で残っているのを見て、先祖返りしたようにも思えました。自然の地形が、ずっと今の町の姿にも影響しているのです。

三原港

リンク、参考情報

三原城跡、三原観光navi(三原観光協会)
中井教授インタビュー、三原市
戦国ジジイ りりのブログ
まっつんのブログ 明るく楽しく元気よく!
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「三原城本丸大広間についての考察 /佐藤大氏論文」 広島大学学術情報リポジトリ

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「新高山城 その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

173.新高山城 その2

今日は、新高山城跡を見学ということで、広島県の本郷駅に来ています。新高山城へは車で行く人が多いと思いますが、電車で行く場合は、ここ本郷駅が最寄りです。ちょっと城跡からは離れていますが、途中で情報収集ができたり、沼田川沿いを歩いて、新旧高山城の山を眺めたりできるので、これはこれで、楽しめると思います。もちろん、城跡についたら、山城らしい防御の仕組みや、中腹の寺跡、本丸の石垣跡、そして山頂の素晴らしい景色など、たっぷりご紹介します。井戸跡まで行ってみようと思います

Introduction

今日は、新高山城跡を見学ということで、広島県の本郷駅に来ています。新高山城へは車で行く人が多いと思いますが、電車で行く場合は、ここ本郷駅が最寄りです。ちょっと城跡からは離れていますが(城跡入口まで2km弱)、途中で情報収集ができたり、沼田川沿いを歩いて、新旧高山城の山を眺めたりできるので、これはこれで楽しめると思います。もちろん、城跡についたら、山城らしい防御の仕組みや、中腹の寺跡、本丸の石垣跡、そして山頂の素晴らしい景色など、たっぷりご紹介します。井戸跡まで行ってみようと思います。新高山城一気通貫ツアー、さっそく出発しましょう。

本郷駅前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

ここに行くには

それでは、本郷駅から城跡に向かいます。交差点のようなところを、ここは左に、

本郷駅からの道路を歩き、ここは左に曲がります

次は右に進んでいくと、右側に施設の建物が見えてきます。ここは本郷生涯学習センターで、パンフレットなど情報収集をすることができます。

道なりですが、ここを右です
本郷生涯学習センター

そこから沼田川の方に向かいますが、歩行者用の橋があるので、そちらを渡ります。

歩行者用の橋が横断歩道の先にあります

橋を渡るところから、視界が開けてきます。橋を過ぎたら、横断歩道を2つ、気を付けて渡っていただくと、沼田川の川沿いの道に出ます。2つの山の城跡が一望できます。

横断歩道を2つ渡ります(手前と右奥)
沼田川沿いの道

道が分岐しますが、どちらでもいいので、川沿いを行きましょう。

道の分岐点

山がぐんぐん迫ってきます。突き当りを左に曲がれば、神社のところで、道は合流します。

突き当りを左に
先ほど分かれた道の合流点、右に行きます

ごつごつした岩山の姿もわかります。城跡の入口に到着しました。その向こう側には駐車場もあります。

新高山城の山
城跡入口(大手道入口)
ビジター用駐車場

特徴、見どころ

山城をひたすら登る

それでは、これから大手道入口に入っていきます。この先に登山道入口もありますが、その手前の道の脇にある神社(荒神社)も、かつて城の曲輪だったかもしれないのです。最初から厳重だったのです。

城周辺の地図

大手道入口から入って右側の丘が神社の敷地になっています
荒神社

案内の通り進んでいくと、大きな案内板の前に出ます。ここが登山道の入口です。新高山城は、標高200メートル近い山に築かれ、曲輪が山全体にあったそうですが、ビジターは整備された中央の登山道を進んでいきます。安全優先で登りましょう。

案内の通り進みます
登山道入口前の案内板

それでは登っていきます。左側の峰の裾を進んでいきますが、ただならぬ気配を感じます。実は左側は「鐘の段」という大きな曲輪の裾部分になっていて、訪問者は常にチェックされていたのではないかと思うのです。

「鐘の段」の裾の道を進みます
曲輪側からの視点
「鐘の段」中心部、別の道からいくことができます

道は、小川を渡って、となりの峰に移っていきます。そして、その峰にも階段状にたくさんの曲輪がありました。今度は右側の方です。石積みの跡も見られます。

小川を渡って隣の峰へ
今度は右側に曲輪群があります
石積み跡か

その曲輪の一つが「番所跡」です。今でもよく整地されているのがわかります。

番所跡入口
番所跡(内部)

更に登っていくと、開けた場所に至ります。中腹にある「匡真寺(きょうしんじ)跡」です。説明パネルには、小早川隆景が、父親の毛利元就没後に建てたとありますが、前回の記事でご説明した通り、元就の生前にこの城に招待したときから、同じか似た名前の寺があったので、そのときには、ここに「御会所」や能舞台があったと考えられます。儀式や祝宴が行われた場所です。そのあと寺を立て直したのかもしれません。寺は廃城時に移転したので、今では池の跡や、瓦の破片などが見られるそうです。背後の石の壁も、なにやら庭園の一部のように思えてきます。

匡真寺跡
現地に残る瓦の破片
石材も少し残っているようにも見えます

山上から本丸へ

道は更に険しくなってきました。本当に登山になってきました。かなり登ったせいか、景色がいいです。もうすぐ中の丸です。立派な石段があります。これが門の入口として残っているそうです。

中の丸手前からの景色
中の丸への石段

中の丸は、弓なりの形をしていて、山上の曲輪群をつないでいました。要の曲輪ということです。つながれる方の名前(本丸、西の丸、東の丸、北の丸など)を見てもよくわかります。本丸の反対の方に、高台になっている場所があって、そこから先には西の丸などがあります。司令塔のような場所だったのでしょう。

中の丸跡
城の縄張り図(現地説明パネル)に中の丸範囲を加筆(赤ライン)
中の丸(高台)から見た西の丸方面、こちら側はビジター向けとしては未整備
中の丸(高台)から見た本丸方面

では、本丸の方に向かいましょう。大石がごろごろして、見るからにすごいです。元は、本丸を取り囲んでいた石垣だったのです。こんな石たちが組み合わさって、壁のようになっていたのでしょう。しかし、これだけ残したのはどうしてなのでしょうか。

本丸石垣跡

いよいよ本丸入口(南西側)です。「(内)枡形」になっています。ただし、正面から入るとちょっと微妙な感じで、そうだと言われないと気が付かないかもしれません。正面右側から見ると、わかりやすいと思います。

本丸入口の枡形跡(正面から)
右側から見た本丸枡形跡

本丸の中は一見なにもないようですが、奥の方に建物跡の礎石があります。確かに石の列があります。ここは本丸なので、当然小早川隆景の御殿があったことが想定されます。しかしこの城には、元就を接待したときの、他の建物の名前も記録に残っているので(「高之間」「茶湯之間」など」どこにあったのだろうと想像すると面白いです。

本丸
本丸御殿跡か
礎石が並んでいます

岩山の頂を楽しむ?

本丸の先にはまだ高い所があります。山頂がある「詰の丸」です。これは、景色が期待できそうです。詰の丸とは、城の最終防衛ラインという意味で、そこに天守が建てられる例もありました。ということは、この城にもそこに天守があったのではと期待してしまいます。実際それはわからないのですが、例の元就接待のときに「高之間」という建物があったという記録があるので、やっぱり一番高いところにあったのでは、と楽しい想像をします。

詰めの丸へ進みます

城っぼくはないけれど、すごくインパクトがある石仏や石碑があります。この山は、城が廃城になった後、修験道の山伏たちの修行の場になったそうです。この石仏たちは、そのときに作られたらしいのです。実は、隆景にも天狗と遭遇したという逸話があって(九州領主時代)、なんだか因縁を感じてしまいます。

詰めの丸にある石仏
とても見ごたえがあります

山頂からの眺めを楽しみましょう。眼下の景色もすばらしいですし、川の向こうに高山城があった山も見えます。海がある三原方面も見渡せるので、周りの状況を把握することもできたでしょう。ここは、下から見たあの岩山の頂上なのだと思うと、城を制覇した気分です。

山頂からの景色
高山城跡も見えます

山頂から道が崖下に向かっているように見えますが、実は、山伏たちの修行の関係で崖に鎖場が設けられたそうです。今でもそこから登っている人もいるとかいないとか。通常のビジターにとっては、とても無理な話ですが・・

崖下に伸びている道?

帰りは、ちょっと寄り道をしていきます。本丸のもう一つの出入口(北側)から下っていきます。ここには門があったと言われていて(大手門か)、外側が枡形になっています。

本丸のもう一つの出入り口

「釣井の段」という井戸があった曲輪に行ってみます。ここでは井戸跡が6つも見られるそうです。一番大きい井戸は直径4.2mとのことです。城は、生活の場でもあったのです。

釣井の段、井戸跡の周りにロープが張られています
井戸跡の一つ
一番大きな井戸跡

中の丸に登って、元来た道に戻ります。本丸に接したところが関門になっていて、堀のようなものもあります。どの方向もしっかり守られていたのでしょう。本丸石垣跡の大石たちのところに戻ってきました。

中の丸から釣井の段を見下ろしています
中の丸が本丸に接するところにある関門
本丸を囲む空堀か
本丸石垣跡に戻ってきました

リンク、参考情報

新高山城跡、三原観光navi(三原観光協会)
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「早春の沼田本郷に小早川氏の夢を訪ねる」備陽史探訪の会 平成15年3月徒歩例会資料

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「三原城 その2」に続きます。

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