立地と歴史
松平忠輝が短期間で築城
高田城は越後国(現在の新潟県)にありました。戦国時代の16世紀には、春日山城にいた上杉氏がこの国を領有していました。上杉氏が他の国に転封となった後、17世紀初めにはこの国はいくつかの大名により分割されました。その内の一つが堀氏で、越後国西部を領有し、福島城に住んでいました。しかし、堀氏は1610年に徳川幕府により改易となってしまいます。その代わりに徳川幕府の創始者である徳川家康の息子、松平忠輝が福島城に送られてきました。彼と幕府はもっと強力な城を必要としていました。幕府と豊臣氏との間の緊張が高まっており、豊臣氏に味方するかもしれない外様大名を監視する必要がありました。その新しい城が高田城だったのです。
城の位置城の建設は1614年の3月に始まり、その年の10月に幕府と豊臣氏との戦いが起こる前に、わずか4ヶ月間でほぼ完成しました。幕府はこの建設のために、忠輝の義理の父親である伊達政宗を含む13家の大名を動員しました。この短い工事期間のためか、高田城にはいくつかの特徴がありました。城の基礎部分は、その当時の築城で通常使われていた石垣ではなく、完全に土だけで作られました。同じく他の城でよく見られた天守も築かれませんでした。その代わりに三階櫓が建てられました。
広大な堀と高い土塁で防御
しかしながら、工事に手抜きがあった訳ではありません。いくつもの川の流れを利用して広大な水堀が作られました。その結果、城は内堀、外堀、そして流れを変えられた川によって囲まれることになりました。三の丸は外堀の中に、二の丸は外堀の内側に、本丸は内堀の内側に配置されました。三の丸の外側にある大手道から城に入ろうとすると、本丸に着くまでに3つの橋を渡らねばなりませんでした。また、土塁であっても10mもの高さがあり、そのためこの城は十分な防御力を備えていたのです。
領主が次々に交替
忠輝はその当時の日本では10人の大大名の内の一人でした。ところが、1615年に幕府が豊臣氏を滅亡させた後、1616年に忠輝は幕府から不確かな理由で改易されてしまいます。彼が父親に対して不遜な態度をとったとか、幕府内で内紛があったなどと言われています。忠輝は高島城に幽閉され、1683年に92歳で亡くなるまでそこで過ごしました。
それから何年か後、松平光長が57年に渡って城を治めました。彼は農業や商業を振興し、城下町や交通網の整備を行いました。城下町は現在の上越市の市街地となっています。ところが、跡継ぎをめぐるお家騒動により、彼もまた1681年に改易となってしまいます。
現在の城と市街地の航空写真その後、いくつかの大名がこの城と高田藩の地域を支配しました。この地域は大雪が降る都市として知られており、他の地域から来た人にとっては、生活や付き合いに苦労があったようです。この城の最後の城主は榊原氏で、18世紀中盤から19世紀後半の明治維新まで城を所有していました。