206.浦添城 その3

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

イントロダクション

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

浦添城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(浦添→首里 尚寧王の道をゆくツアー)

浦添ようどれ見学

それでは、ようどれの入口の方に登っていきましょう。今回は大丈夫そうです。復習ですが、ここは中山王・英祖が築いたと言われる王陵で、沖縄戦で破壊されましたが、2005年に復元されています。琉球王国の尚寧王もここに眠っています。

浦添ようどれ入口
浦添ようどれ現地案内図

暗しん御門(くらしんうじょう)を通って入っていきましょう。ここは、沖縄戦の前まではトンネル状になっていて、あの世に行くかのような雰囲気があったそうです。名前の感じのとおりの場所だったのです。

暗しん御門

ここを抜けると、二番庭(にばんなー)です。ここから石垣に囲まれています。そして、中御門(なーかうじょう)の門をくぐると、墓室前の一番庭(いちばんなー)に到着です。

二番庭
中御門
一番庭

手前側の西室が、英祖王陵、奥側の東質が、尚寧王陵とされます。墓室に入ることはできませんが、その代わりに、浦添グスク·ようどれ館で、英祖王陵の再現墓室を見学できます。

英祖王陵
尚寧王陵
浦添グスク·ようどれ館
再現墓室

ようどれとは反対側の「浦添城の前の碑」に移動しました。尚寧王が、首里・浦添間の道路竣工を記念して建てたものです。振り返ると、首里方面が見えるのですが、前回のズーム画像と比較すると、首里城正殿の本物の屋根が見えて、期待できそうです。石畳道の方に行きます。向こうに海や、近くには発掘されたオリジナルの石垣も見えます。

浦添城の前の碑
首里方面の眺め
ズーム画像(首里城正殿)
ズーム画像(前回)
発掘された石垣

尚寧王の道(浦添)

ここからが尚寧王の道です。石畳の道です。発掘調査に基づき、復元されたものです。石の中にはオリジナルのものもあるそうです。石畳が終わって坂を下り、突き当たったら右に曲がります。

尚寧王の道、スタート地点
坂の途中まで石畳が続きます
突き当たりを右です

そして龍福寺跡があるのですが、薩摩軍の琉球侵攻のとき、焼かれてしまったそうです。やはりこの道を攻め上がったのでしょう。次は郵便局を過ぎたら左です。

龍福寺跡
郵便局を過ぎたら左です

車が多い通りは信号のあるところで渡っていただいて、その先が阿波茶橋(あはちゃばし)です。どんどん下って行って、石畳がまた現れます。小湾側とその支流にかけられた2つの石橋です。風情があります。こちらも沖縄戦で破壊され、その後修復されています。橋の表面の、組み合わせた石の形が面白いです。

阿波茶橋に通じる石畳
阿波茶橋
2つの石橋のうち南橋
南橋を渡ります

普通の道路に戻りますが、歴史の道として、ルートがわかるようになっています。その先には、お経を納めた経塚があって、一旦通りに合流しますが、向こうに郵便局が見えてきたところで脇道に入ります。ここも歩道が石畳風です。

「歴史の道」がわかるようになっています
経塚
ここから右側の脇道に入ります
石畳風の歩道

次の見どころに着きます。浦添御殿(うどぅん)の墓です。琉球国王の親戚、浦添家のことで、代々浦添を領地としてきました。その由緒ある家のお墓です。沖縄のお墓はみんな立派ですが、これはまたひときわすごいです。

浦添御殿の墓

尚寧王の道(那覇)

ここからは道を折り返して、那覇に向かっていきます。一路首里城を目指します。浦添御殿から下って、通りに合流したら、すぐに右折します。その先がフェーヌヒラです。南の坂という意味です。こんな坂があるあとは意外ですが、那覇は「坂の町」と言われているそうです。こういうのは歩いてみないとわかりません。

通りに合流したらすぐ右折します
フェーヌヒラ

また通りに合流したらしばらくまっすぐですが、那覇はより市街地化が進んでいるので、わかりにくいところもあるのです。確かに道なりに左に行ってしまいそうな所もあります。

ここは道なりに左方向に行ってしまいそうですが、細い道の方をまっすぐ進みます

そうするうちに平良交差点に出て、渡ったところが太平橋(たいへいきょう)です。普通の端に見えますが、かつてはこちらも石橋で、薩摩軍侵攻のときには、ここで攻防戦がありました。しかし薩摩軍鉄砲隊の猛攻撃により、王国軍は撤退しました。

平良交差点
太平橋

橋を越えると道は細く、登りになって、儀保クビリと呼ばれ、切通しのようになっていました。王国軍としてはこの手前で薩摩軍を食い止めたかったのでしょう。

儀保クビリ

階段を下れば、首里城までは一直線のように見えます。案内標識に守礼門とあります。ゆいレールとも交差すします。首里駅は、左手の方になります。

階段を下ります
守礼門への案内標識
ゆいレールと交差します

歩道が石畳風になってきました。ここもまっすぐ行きましょう。なだらかな坂を登っていくと、アダニガー御嶽(うたき)があります。首里城が近いということでしょうか。そして坂を下ると、見覚えがある場所に出ました。

再び石畳風の歩道
アダニガー御嶽

龍潭の畔です!ここから見ても、首里城の再建が着々と進んでいるのがわかります。尚寧王の道のゴールはもうすぐです。首里城公園の入口に向かいます。ここをゴールにしましょう。すごい達成感でした。

龍潭
完成間近の正殿が見えます
前回の同じ場所からの眺め
首里城公園入口

首里城はどうなっている?

それでは、首里城がどうなっているか見に行きましょう。守礼門に来ました。薩摩軍が首里城には攻め込んだとき、そのときの王様も尚寧王で、和議の方針になっていました。ところが、一部の家臣は抵抗の姿勢を見せたため、薩摩兵は、守礼門の柱を楯にしながらグスクに迫ったそうです。

守礼門

次は歓会門ですが、工事中です。その先からが内郭で、正門の瑞泉門になります。そして、漏刻門、広福門を通れば、奉神門の前に到着です。前回は、ここから工事用の素屋根が見えましたが、中はどうなっているのでしょうか。

歓会門
内郭入口の瑞泉門へ
漏刻門
広福門
奉神門
前回の状況

まだ工事中の壁に覆われてはいますが、小窓から正殿の勇姿が見えます。2025年10月に素屋根は撤去されました(取材時点:2025年11月)。2026年秋の完成を目指して工事が進められています。

まだ工事用の壁はありますが・・
小窓から見える正殿

それから、工事用の壁での展示にも注目です。例えば、正殿の建物ができてくるプロセスを展示しています。これもグスクの歴史の一コマたちなのです。

壁面の展示(正殿建設開始時)
壁面の展示(正殿屋根完成)

裏側に行ってみましょう。こしらの方が正殿が良く見えます。これは、ますます正殿完成が楽しみです!

裏側から見る正殿

最後は恒例で、東(あがり)のアザナからの景色を楽しみましょう。ところで、尚寧王はその後どうなってしまったというと、薩摩軍との和議は成立しましたが、降伏同然だったので、尚寧王は本土に連行され、大御所・徳川家康、将軍・徳川秀忠に謁見させられたのです。徳川や島津の権力を高めるために使われてしまったのです。尚寧王が、島津の従属下になった王国の首里城に戻ったのは、二年ぶりのことでした。その後は王国の復興に努め、9年後に亡くなったのです。

尚寧王の御後絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

東のアザナに着きました。相変わらずすばらしい景色です。正殿もよく見えます。浦添城はどの辺りでしょうか。尚寧王は浦添ようどれで眠っています。きっと生まれた浦添が、安らぎの場所だったのでしょう。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(正殿方面)
東のアザナからの眺め(浦添方面)

リンク・参考情報

尚寧王の道を訪ねる、浦添市(ルートマップ)
尚寧王の道をたどる歴史の道ぶらりルート、うらそえナビ
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

「浦添城その1」に戻ります。
「浦添城その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました

98.今帰仁城 その2

外郭の石垣を眺めながら、大隅(うーしみ)の石垣に迫っていきましょう。一番有名かもしれないスポットです。やっぱり記念撮影場所にもなっています。ほんとうに城壁、という感じがします。グスク全体で見ても、中心部を守る要の位置に当たります。きっと石垣の上から兵士が見張っていたのでしょう。

Introduction

今日は、沖縄県今帰仁村、今帰仁城跡案内板の前にきています。どーんと目立つグスクのディスプレイがかっこいいです。

今帰仁城跡案内板

ここから車などで登っていけば、駐車場があるところに着きます。

グスク跡への登り口
グスク跡駐車場

そこから先にはビジター向けの施設がいくつもあって、例えば今帰仁村歴史文化センターでは、グスクや郷土の歴史のことを勉強できます。券売所では、チケットだけでなく、パンフレットや御城印が手に入ります。

今帰仁村歴史文化センター
券売所

グスク跡の入口にはグスクの模型があって、気分が出ます。

グスク跡入口
グスクの模型

しかし、入口から少し離れたところで、下からオリジナルの登城道があるという情報を発見しました。これはあくまでオプションですが、下の方に戻って、ご案内をやり直すことにします。

登城道「ハンタ道」の説明パネル

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(今帰仁城 景色と歴史ツアー)

登場道「ハンタ道」をゆく

ここが「ハンタ道(みち)」と呼ばれる登城道への入口付近です。脇を川が流れています。親川(エーガー)という泉で、住民の方からは崇拝の対象にもなってきました。自然の恵みを大切にしているのでしょう。

ハンタ道入口付近
親川

ハンタ道に入ります。山道ですが、石が多いです。石が敷き詰められているようです。石垣もあります。かつては松並木もあったそうです。

ハンタ道入口
脇に石垣が残っています

まるでタイルのようになっているところもあります。明治時代の探検家は「城跡に登る山道は、鏡石のような青色の大理石で、滑りやすい」と述べています。その面影が今でも残っています。

タイルのようになっている道

だいぶ登ったところに別の案内があります。「ミームングスク」今帰仁城の出城のようなグスクです。石積みが残っていますが、慎重に登りましょう。海が見えます。そして目を転じると、今帰仁城の曲輪(志慶真門郭)も見えるのです。

ミームングスクの案内
ミームングスク
ミームングスクからの眺め(海の方向)
ミームングスクからの眺め(今帰仁城方向)

もうすぐ今帰仁城に再到着です。その周辺には、祈りの場所がいくつもあるのです。沖縄のグスクの特徴です。ハンタ道は、その参道としても使われたそうです。グスク跡の入口に戻ってきました。

供のかねノロ殿内火の神の祠
今帰仁阿応理屋恵火之神の祠
今帰仁城跡入口付近、左にいくとハンタ道

すばらしい石垣

それでは、外郭の石垣を眺めながら、大隅(うーしみ)の石垣に迫っていきましょう。一番有名かもしれないスポットです。やっぱり記念撮影場所にもなっています。ほんとうに城壁、という感じがします。グスク全体で見ても、中心部を守る要の位置に当たります。きっと石垣の上から兵士が見張っていたのでしょう。

大隅の石垣

城周辺の航空写真

優雅な石垣をもっとよく眺めましょう。高さ7~8メートルくらいで、古期石灰岩の野面積みとのことです。石垣が波打っているところなど、万里の長城を思い起こしてしまいます。中国の技術が導入されているという意見もありますが、はっきりしないそうです。

大隅の石垣を横から見ています
逆方向の平郎門周辺から

グスクの正門、平郎門から中に入っていくことにしましょう。現在の門は1962年に修復されたものですが、厳重さと威厳を感じてしまいます。天井は一枚岩になっているそうです。古期石灰岩は固いので、築城当時は加工が困難だったという事情もありました。門をくぐった後のまっすぐの通路は戦後に整備されたものです(七五三の階段と呼ばれています)。

平郎門
天井の一枚岩
七五三の階段

大隅の中に入ってみましょう。現在は植樹されていますが、当時は兵士の調練の場だったと考えられています。馬の骨がたくさん発掘されたそうです。石垣も内側から見ると、感じが違います。守る方ですので、登りやすくしているのでしょうか。中は結構ゴツゴツとした地形でう。ここには洞窟への入口があって、城外に抜け出れるそうです(現在は閉鎖)。

大隅の内部
内部から見た石垣

次は、通路に戻りますが、途中からかつての旧道を通ってみます。ちょうど、カーザフを見下ろす場所です。カーザフとは「川の谷間」といった意味だそうです。谷間の崖の岩盤にも石垣が積まれています。

カーザフ

旧道を歩きましょう。発掘によって確認された道で、少し登りにくいですが、防御を重視するグスクらしいとも言えます。さっきハンタ道を歩いたので平気です。そして、城の中心部の一つ、大庭(うーみやー)に到着します。

旧道

すばらしい景色

大庭の中は、今は主に歌碑があるだけですが、かつては北殿・南殿があって、首里城でいえば御庭(うなー)のような場所と考えられます。儀式などが行われたのでしょう。

大庭
志慶真乙樽の歌碑と北殿跡

次は景色がいい場所に行きましょう。グスク内で最も標高が高く、御嶽(うたき)がある重要な場所、御内原(うーちばる)です。入口には御嶽の一つ、ソイツギがあります。

ソイツギ

御内原は、かつては女官部屋があった場所だったと言われます。大奥のような場所だったのでしょうか。

御内原

そこからは、すばらしい景色です。大隅の石垣に、青い海に青い空・・・沖縄らしい景色です。

御内原からの眺め

反対側に行ってみましょう。すごく深い谷になっています。谷底を志慶真(しげま)川が流れています。さらに進むと奥の曲輪(志慶真門郭、しじまじょうかく)も見えます。

反対側は深い谷になっています
背後を守る志慶真門郭(しじまじょうかく)

これから主郭に向かいますが、途中にまた重要な御嶽があります。グスク内で最も神聖な聖地、テンチジアマチジです。実は、ここは尚巴志軍との戦いのときに、北山王・攀安知(はんあんち)が切り刻んだ霊石があったところと言われているのです。それから宝剣を向こうの川に投げ込んだという訳です。

テンチジアマチジ(城内上の御嶽)
川に投げ込んだとされる宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

いよいよ、主郭です。発掘調査により、時代区分ごとの遺構が見つかっています。

主郭

まず、初期の時代に版築や石積みにより土台を固めた跡(第1期)があります。

版築の層を説明したパネル

そして北山王国が発展したときの正殿跡です(第2期)。発掘で基壇が発見されましたが、柱を支える礎石は失われていました。それでもひとかたならぬ建物があったと感じます。

第2期正殿の基壇

北山監守時代の遺構がその先にあります(第4期)。北山王国全盛期の正殿跡(第3期)は、その下に埋もれているようです。正殿の後に建てるくらいですから、監守が住んでいたのでしょう。

監守時代の建物礎石

現在あるのは、グスクが廃城になったあとに建てられた火神(ひのかん)の祠です。現在の祠は20世紀の建築で、発掘調査時に元の位置(中心部)から現在地に移されました

火神の祠

グスクの裏手も圧巻

一番奥の曲輪、志慶真門郭(しじまじょうかく)に向かいます。主郭の奥の門から出て、階段を下っていきます。ずいぶんと高低差があります。下っていくときの景色も見ものです。今度は草木の緑も加わったすばらしい眺めです。

主郭から見た志慶真門郭
ここから出ます
主郭から階段を下ります
下る途中の眺め

建物の跡が見えます。発掘調査により、4つの掘立柱建物の跡が見つかり、家臣の住居だったと考えられています。石垣もよく残っています。その上を兵士が行き来していた感じがわかります。この曲輪は、グスクの全盛期に築かれたと考えられています。グスクの裏手を守る重要な曲輪だったのです。主郭の石垣がそびえ立っているのもグッドポイントです。

曲輪内の建物跡と石垣
そびえ立つ主郭の石垣

振り返ると、グスクの裏門・志慶真門(しじまじょう)跡があります。この門は南側を向いていますので、定説の方ではありませんが、尚巴志軍が放火するためにグスクの南西側から忍び寄った場所かもしれません(定説では本部平原が裏切って敵をここから引き入れたとか)。

志慶真門跡

それでは主郭の方に戻りましょう。今度は迫りくる主郭の石垣が目立ちます。行き帰りで違った見方で景色を楽しむことができます。

帰りはちがった景色を楽しめます
主郭石垣

お時間があれば、外郭の石垣もご覧になってはいかがでしょう。南側はカーザフの向かい側から始まっています。石が新しいので、復元されたものでしょうか。

外郭南側の石垣

こちらは、北側です。古そうな感じです。ここまで歩いていただければ、総延長1.5kmと言われる石垣の長さを感じられると思います。

外郭石垣(北側)

リンク、参考情報

世界遺産 今帰仁城跡(公式サイト)
今帰仁グスクをガイドと歩く
・「世界遺産今帰仁城跡・今帰仁村文化財ガイドブックvol.1」沖縄県今帰仁村教育委員会
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」
・「琉球王国の形成/和田久德著」 榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編著 諸見友重訳注」 榕樹書林
・「訳注 蔡鐸本中山世譜/首里王府編著 原田兎雄訳注」 榕樹書林
・「広報 なきじん」
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林
・「沖縄県立博物館所蔵「琉球國圖」/深瀬公一郎。渡辺 美季著」琉球大学学術リポジトリ
世界遺産『今帰仁城跡』取材:東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター(Yutubeビデオ)

「今帰仁城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

98.今帰仁城 その1

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

Introduction

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

今帰仁城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

三山時代と北山王国

グスクが築かれる前、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採集を中心とした生活を送っていたと考えられています。沖縄の時代区分では「貝塚時代」と呼ばれています。日本本土では、この地域から輸入した貝製品や、貝を加工した螺鈿細工が重宝されました。

螺鈿細工を使った中尊寺金色堂の柱、東北歴史博物館にて展示

11世紀ころからは、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。中国との貿易もさかんになり、高価な中国製陶磁器が輸入される一方、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。その結果「按司(あじ」)」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。今帰仁城を本拠地とした北山王国、浦添城の中山王国、島添大里城の南山王国です。王国の本拠地になった大型グスクの建設も、その動きに沿ったものと考えられます。

グスクの位置

浦添城跡
島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。1372年には中山王国に使節が送られました。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、南山王や北山王も明への朝貢を始めました。この時代はグスク時代の中でも、特に「三山時代」と呼ばれています。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここから北山王国と今帰仁城を、外部の記録から追ってみます。中国の史書(「明実録」)によると、北山王は1383年から1415年の間に、19回明と交易を行っています。その間の王は、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3代です。公的な場では、馬や硫黄などを献上し、冠帯衣服や貨幣などを賜っていました。きっと、他の場所でも色々なものを交易していたのでしょう。ただ、中山王国と比べると、回数はだいぶ劣りますので、それが国力の差になっていったとも考えられます。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、琉球国最古の現存地図を見てみます。真ん中には初期の首里城の姿が描かれていて、15世紀中ごろの状況と考えられています。この頃は、北山王国はなくなっているのですが、北(上)の方に、今帰仁城が「伊麻奇時利(いまきじり)城」として載っているのです。もう一つ注目は「雲見泊」として現在の運天港も記載されていることです。運天港は那覇港と並ぶ天然の良港だったのです。

「琉球國図」、沖縄県立博物館・美術館蔵

今までのストーリーは、いかがだったでしょうか。客観的なデータのおかげで、北山王国や今帰仁城の存在と繁栄が理解いただけたと思います。ただ、グスクの名前が今と全然ちがっていて、今でも漢字とその読み方が変わっているのが気になります。「新参者の統治」という意味の「いまきじり」が、「みやきせん」→「いまきじり」→「なきじん」と変化してきたと言われます。しかし他にも、最初から「みやきせん」と呼んでいたのではないかという説や、語源についても、魚が寄り付く場所という意味の「なきずみ」であるという説もあります。名前だけでも奥が深いものです。

今帰仁城の伝説と実態

次は外部からはわからない、王国とグスクの生い立ちを、沖縄内部の情報から探りましょう。地元の言い伝えや琉球王国の史書によると、はるか昔、天帝の子孫・天孫氏が首里城を築いてから、その流れをくむ者が、今帰仁城主になったとされています。これは、神話ということなのでしょう(前北山時代)。

次に出てくるのは、浦添城のときにもご紹介した源為朝で、なんと彼は運天港に上陸したというのです。ここにも為朝伝説があるのです。そして、その子が琉球王に、孫が今帰仁城主になったそうです。13世紀くらいのことになるでしょうか(中北山時代)。そしてその後、一つの王国が3つに分かれたというストーリーです(後北山時代)。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

続いて、今帰仁城の発掘成果をご紹介します。これまでに中心部の主郭などが発掘され、グスクには、4つの時代区分があることがわかりました。主郭の様子を時代順にご説明します。まず第1期です(13世紀末~14世紀前期)。時期は、先ほどの伝承では2番目の終わり頃でしょうか。発掘した結果では、その頃にグスクができたことになります。館は掘立柱で、防御のための柵で囲われていて、周りも本格的石垣ではなく、石積や版築による土塁でした。使っていた土器も、地元産が多かったとのことです。

第1期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第1期の出土土器(沖縄産)、現地説明パネルより

次が第2期です(14世紀中期)。時期は、三山時代に入った頃です。大発展した感じです。中にはグスクらしい礎石建ての正殿が建てられ、規模が大きくなって、周りに石垣も築かれました。中国産の陶磁器の使用も増えてきました。

第2期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第2期出土の青磁環耳瓶(中国産、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして最盛期の第3期です(14世紀後半~15世紀前期)。北山王国が明と交易をおこなっていた時期と一致しています。規模も最大になったのですが、なによりも、出土した当時の交易品が、その繁栄を表しています。

第3期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
主郭で発掘された中国銭、今帰仁村歴史文化センターにて展示

特にびっくりするが、以下の出土品です。これら6つの中国産青磁碗は、土の中からそのまま出てきたのです。意図的に埋められていたようです。重要な祈りの儀式が行われたのかもしれません。

中国産青磁一括出土品、今帰仁村歴史文化センターにて展示

グスク全体の規模としても、このときまでに並行して拡張され、10の曲輪を持つとされる、沖縄屈指の大型グスクになったと考えられます。

今帰仁城模型、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして、優美な石垣も築かれたのです。本土の城と違って、当時はこの石垣の上を直接、兵士が走り回っていたそうです。塀とか櫓はなかったとのことです。

大隅(うーしみ)の石垣

王国と今帰仁城の生い立ちストーリー、いかがだったでしょうか。為朝伝説にも夢があっておもしろいのですが、発掘の成果などから考えると、やはり小さな按司が、貿易などで成長して、王国を築いたと思えます。現在のところ、この見解が定説になっています。

北山王国の滅亡

いよいよ、クライマックスです。実は北山王国滅亡のストーリーも、尚巴志の琉球統一のプロセスとともに、2つの説があるのです。定説の方からご説明します。こちらのプロセスは、琉球国史書のうち、新しい方の記載をもとにしています(「中山世譜」など)。古い史書の記載を、中国の記録などと照合し、改めているとのことです。こちらは、尚巴志が北山王国(1416年)、南山王国(1429年)の順に攻略しています。

定説での北山王・攀安知(はんあんち)は、武勇に優れていましたが、淫逆無道であったとされます。彼は、重臣の本部平原(もとぶていばら)とともに、中山王国を攻めることを計画します。北山配下の按司たちは、そのことを中山王・思昭に告げたのです。思昭の子・尚巴志が、按司たちと今帰仁城を攻めることになりました。尚巴志軍は優勢でしたが、堅固な城を攻めあぐね、計略を用います。重臣の本部平原を買収したのです。平原は、攀安知を城外で戦うように仕向け、城に火を放ちました。異変に気付いた攀安知は、平原を伝家の宝剣「千代金丸」で成敗しますが、時すでに遅し・・・。悲運を嘆き、グスクを守護する霊石を切りつけ、自害しようとしてもなぜか切れなかったので、宝剣を川に投げ捨て、別の刀で自害しました。これが定説による今帰仁落城のストーリーです。悪人は滅ぶべくして滅ぶ、みたいな筋書です。

グスクの守護岩があったといわれる御嶽・テンチジアマチジ

次は「異説」として、古い史書(「中山世鑑」)による統一プロセスをご紹介します。この説では、北山攻略をもって琉球統一(1422年)としていますが、事実としてその後も南山王国が明と交易をしています(1429年まで)。だから定説では修正されたのですが、この時期の南山は、尚巴志の傀儡だったという意見もあるのです。こちらも捨てたものではないように思います。それに城攻めの内容は、中国の史書とは関係ないのに、全然ニュアンスが違うのです。

異説では、北山王国が存在するうちに琉球統一が進んでいて、配下の按司も中山王国に服属していきました。劣勢となった攀安知は、一族郎党を集め、彼らを鼓舞し、中山と最後の決戦をすべく、城の防備を固めました(下記補足1)。それを周りの按司たちから聞いた尚巴志は、今帰仁城に大軍で攻め寄せます。しかし堅固な城は、いくら攻めてもなかなか落ちません。そこで尚巴志軍は一計を案じます。その地を知る按司が、夜裏側(グスクの南西側)から忍び寄り、グスクに火を放ったのです。それを合図に総攻撃が始まりました。最期を悟った攀安知は、尚巴志軍に突撃、ついには宝剣で切腹し、引き抜いた剣でグスクを守護するイベの岩を切り刻み、剣を川に投げました(下記補足2)。定説と比べると潔い最期と感じます。

(補足1)「今の人々の多くは心変わりして、我が方は小勢となったが、多数を恐れて一戦もせずに降参するのは、如何にも口惜しいことだ。そして、山北国をうち建てた祖先に恥をさらすことにもなる。さあ、中山の軍は攻め寄せて来るがよい。これを一蹴して手柄を見せようではないか。攻め寄せる中山軍がたとえ数万騎あろうと、これを打ち破ることは雑作もないことだ。もし命運尽きて、この戦に敗れることがあれば、そのときは潔く自害して、名を後世に残そうぞ。さあ者共、仕度をせよ。怖気づいて世の笑いものになるな」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

(補足2)「さあ、イベも、そしてイベにおわす神も供に冥土に旅立ちましょう」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

城の裏側(南側)を守っていた志慶真門(しじまじょう)跡

その剣はその後、中山王に献上され、現在国宝になっています。2つのストーリー、いかがだったでしょうか。もちろん定説の重みは感じますが、どちらも沖縄の伝承がもとであれば、古い方が事実を伝えているかもしれないし、異説の方が真に迫っているようにも思えます。皆さんはどうお感じでしょうか。

宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

その後

北山王国を滅ぼした尚巴志は、次男の尚忠を、北山監守として今帰仁城に置きました。尚忠は、尚巴志が亡くなると、琉球国王を継いだ人物です。今帰仁城は、琉球統一後も、重要な拠点であり続けたのです。この監守制度は、王統が第二尚氏になっても続き、第二監守時代と呼ばれています。一世から十四世まで続き、「山北今帰仁城監守来歴碑記」にその由来が刻まれています。

「山北今帰仁城監守来歴碑記」今帰仁村歴史文化センターにて保管

発掘調査による時代区分だと第4期に当たります。この時代にも監守の住居と思われる建物がありました。面白いのは、この時代のものとして、ベトナム製・タイ製の陶磁器や、本土の備前焼も出土していることです。

第4期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
ベトナム製陶磁器
備前焼

ところが、第二監守五世・向克祉(しょうかくし)の時代に大事件が起こるのです。1609年、薩摩藩の島津氏による琉球侵攻があったのです。慶長14年3月7日、約3千名の薩摩軍は、80艘以上の船に乗り出航しました。7日に奄美大島に到着、まず奄美諸島を制圧します。ここは、琉球王国の支配下にありましたが、この侵攻をきっかけに薩摩藩の直轄地になりました。薩摩軍が次に向かったのが、運天港でした。3月25日のことです。そして薩摩軍が滞在した数日間のうちに、今帰仁城や城下が放火されたととれる記録があります(下記補足3)。更にその間に、北山監守の向克祉が謎の最期を遂げるのです。29日、薩摩軍は浦添、那覇方面に向かいました。今帰仁城は廃城になり、北山監守は城下、そして首里に移っていきました。

(補足3)今きじんの城は無人であるらしい。不意に掃討を開始し、方々へ放火などした。(「琉球渡海日々記」、現代語訳は「広報なきじん」より)

現在の運天港
主郭にある火神の祠

グスク跡には火神(ひのかん)の祠が建てられ、祈りの場所になりました。ようやく静かな時を迎えたと言えるでしょう。監守の石碑が建てられたのもこの時代のことです。文化財として注目されるようになったのは、戦後のことでした。1972年には国の史跡に指定され、2000年には世界文化遺産に登録されました。並行して現存する石垣の修復、失われた石垣の復元など、史跡整備も進められました。それで私たちが今、すばらしいグスクを見学できるのです。

「今帰仁城 その2」に続きます。

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