85.福岡城 その1

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。

立地と歴史

Introduction

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩(52万石と言われる)の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。現在まで天守台は残っているものの、天守の建物は築かれなかったとされていました。しかし、天守の存在を示す史料がいくつも発見(または再注目)され、天守「復元」運動も起こっています。その天守台の上に、仮設のライトアップされた天守を演出するイベントも行われています。果たして福岡城に天守はあったのでしょうか?また、この城はどんな歴史を辿り、どんな特徴を持っていたのでしょうか?これから城跡がどうなっていくかも見ていきたいと思います。

福岡城の模型、福岡城むかし探訪館にて展示
現存する天守台
ライトアップされた仮設天守、Wikimediaより
果たして天守はあったのか、上記模型より

福岡城築城まで

福岡城を築いた黒田長政(生年:1568年〜没年:1623年)は、豊臣秀吉の「軍師」と言われる黒田孝高(官兵衛、如水)の嫡男でした。松寿丸と名乗り、人質だった幼少時代に、父が(荒木村重の有岡城で)囚われの身となり、裏切りを疑った織田信長から殺害を命じられました。しかし、秀吉のもう一人の「軍師」竹中半兵衛にかくまわれ、命拾いしたというエピソードがあります。1600年(慶長5年)の天下分け目の関ヶ原合戦で長政は、半兵衛の遺児・重門と同じ場所(岡山)に陣取っています。(そのとき着用した一の谷兜も、半兵衛から受け継いだものと言われています)その関ヶ原では、当日の合戦だけでなく、西軍だった小早川秀秋などの有力部将を寝返らせ、東軍の勝利に大きく貢献しました。その論功行賞が、豊前国中津から筑前国(の大半)への移封(約12万石→当初約31万石)でした。

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関ケ原合戦で長政が陣取った岡山

その筑前国は、古代より海外(特に朝鮮・中国)への玄関口になった地でした。城の三の丸となった地には、飛鳥〜平安時代に「鴻臚館(こうろかん)」が設けられ、外国使節の迎賓館、日本からの遣唐使などの宿泊施設として利用されました。中世になり、1274年の元寇(文永の役)のときには、後の城周辺の「赤坂」「鳥飼潟」で激戦がありました。城に隣り合った博多は、中世最大の貿易都市として栄えました。関ヶ原当時は、戦国の乱世によって荒廃した町を、「唐入り」(朝鮮侵攻)の根拠地にしようとした秀吉が復興した直後でした。そのときの領主は小早川秀秋で、博多の北東にあった名島城を本拠地にしていました。

鴻臚館の一部復原建物、鴻臚館跡展示館にて展示
赤坂の戦い、「蒙古襲来絵詞」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

慶長5年12月、長政以下家臣団は武装してお国入りを行いました。勢力が強かった博多の商人・僧たちにその威力を見せつけるためです(筑前御討ち入り)。また、前の領地(豊前)から年貢を収納して筑前に移動したため(次の領主に引き渡すのが当時の慣習)、次の領主・細川忠興ともめ事になり、これがきっかけで両氏はその後136年に渡り、犬猿の仲になります(1736年に幕府の仲介で和解)。長政は、豊前との国境に6つの支城を築き(筑前六端城)、細川氏に対峙することになりました。更に、福岡藩はよく「筑前52万石」(支藩含む)と言われますが、引き継いだ当初の石高は約31万石(小早川氏時代)でした。入国後検地を行った結果として、自ら幕府に届け出た石高だったのです(下記補足1)。実力は、これより下回っていたと言われています。

(補足1)初めから五十万石を得んとして欲し、当時の物成(年貢)十六万五千七百九十七石を三つ三歩の率をもって除(「郡方古実備忘録」)して創り出した机上の計算(「物語福岡藩史」、「福岡城」からの引用)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長政は最初、名島城に入城しましたが、手狭だったこともあり(下記補足2)、本拠地として新城を築くことにしました。これが、福岡城です。このときは築城の名手でもあった孝高が健在(1604年没)で、長政が上京などで多忙であったこともあり、共同で築城に当たりました(下記補足3)。城は、博多の町の西隣、那珂川を境界とし「福崎」という丘陵を中心に縄張りが行われました。西側には博多湾の「草ヶ江」と呼ばれた大きな入り江があり、埋め立てるとともに、一部は堀として活用しました(大堀)。長政が上方などから送った、本丸の工事に関する家臣宛の書状がいくつか残っています(下記補足4)。築城は1601年(慶長6年)から約7年間に渡って行われました。完成間際に風水害を受けてしまい、長政は修理の指示を行っています(補足5)。工事期間には、天守についての数少ない記録の一部が見られるのです。

(補足2)名島の城は三方海にて要害よしといへ共、境地かたよりて城下狭き故、久しく平らぎを守るの地にあらず(「新訂黒田家譜」)

(補足3)甲斐守(長政)居城取り替え申し候て、上下隙を得ざる事、御推量あるべく候(慶長6年9月15日付 本願寺坊官下間氏宛 黒田如水書状)

(補足4)
・態(わざ)と申し下し候、仍って天守南の方、つきさしの石垣、急ぎつき申すべく候、拙者事は来月まてハ、此方滞留の事候間、万事普請等油断無く仕るべく候、恐々謹言(慶長6年8月23日付 黒田長政書状)
・一、其地普請之儀、てんしゆノうら石かき、九月中ニ出キ候様ニと、皆々申遣候間、惣右衛門幷年寄共はしめ普請所ニ相詰候か、石場ニ居候而振舞ニあろき申候か又ハ知行所へはいりくつろき申か、毎日よくよく見候而つきおき可申候、油断有間敷候事
(天守の裏の石垣は九月中に完成させるよう、皆に申し付けてある。惣右衛門ならびに年寄りどもは普請の現場につとめているか、石場で忙しく歩き回っているか、あるいは自分の知行所に入って楽をしていないかどうか、毎日丹念に調べて記録しておくように)(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、林家文書、訳は「甦れ!福岡城幻の天主閣」より)
・尚々、我等下国候はぬ已前に、天守どだい出来候様に精入れ申し付くべく候、権右衛門に申し遣わし候うち、石かきをも申し付くべく候、以上(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)
・一、天守を此の月中に柱立て仕るべく候間、其の通り大工・奉行ともへ、かたく申し聞けべく候(年不詳(慶長7年か)2月15日付 黒田一成宛黒田長政書状)

(補足5)城中刷(修理)普請、大方出来の由、しかるべく候、このついでに天守・宗雪丸なとのつくろい申し付くべく由、尤もに候、大風吹き候事もこれあるべく候間、急度つくろい申すべく候、其れに就き、手伝の様子申し越す通り、其の意を成し候(慶長11年7月 黒田長政書状)

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「博多往古図」、南が上なので右側の大きな入り江が「草ヶ江」、出展:福岡県立図書館

福岡城の構造

長政は、城とその地の名前を新たに「福岡」と名付けました。黒田氏のゆかりの地の備前国福岡にちなんだものと言われています。城が築かれた地区は、城部分(本丸・二の丸・三の丸)と城下(外郭・総構)に分かれていました。城下は、北は博多湾、東は那珂川(その向こうが博多)、西は大堀と、自然の要害に囲まれていました。城部分は城下の南側にあって、全体を内堀に囲まれていました。まるで堀に浮かぶ島のようになっていました。堀を渡った城への入口は3箇所のみで、正面の上之橋御門、下之橋御門、裏側の追廻御門でした。その出入りは「御門法」により厳しくチェックされていました。内堀は、中堀・佐賀堀を通して、那珂川・博多に接続していました。

「福岡御城下絵図」、出展:福岡県立図書館

門を入った先は、城では最も広く、低地にあった三の丸です。黒田孝高の隠居屋敷があった高屋敷とそれに続く石垣により、東西に二分されていました。東部は、江戸時代を通じて重臣たちの屋敷地となっていました。例えば、一番東端の「東の丸」と呼ばれた区画には、当初栗山備後の屋敷がありました。西部は、当初は中級以下の家臣の屋敷地(代官町)でしたが、1633年頃(寛永10年)頃に2代目藩主・黒田忠之が三の丸御殿を建てました。やがて重臣たちの屋敷や役所(勘定所など)も周りに建てられ、以後政治の中心地になります。近くにある下之橋大手門は、藩士たちの通用門として使われました。

北側から見た福岡城の模型、手前の広い部分が三の丸、福岡城むかし探訪館にて展示

丘陵部分に入ると、二の丸になります。二の丸は、東部・西部・南の丸・水の手に分かれていました。二の丸東部は、三の丸東部から入った場合の入口で、東御門がありました(脇に革櫓、近くに炭櫓)。当初は内部に二の丸御殿があり、藩主の世子の居住用だったと考えられています。やがて世子不在の時期が続き、取り壊されたようです。二の丸西部は、本丸へ通じる接続部分でした。二の丸東部からは扇坂御門、三の丸西部からは松木坂御門(脇に大組櫓・向櫓があり、下之橋大手門に近い)と桐木坂御門(追廻御門に近い)を通りました。内部には目立つ建物はなかったようです。水の手には、籠城用の溜池がありました。南の丸は、城代・城番がいた場所で、そこにあった多聞櫓は、城で唯一そのまま残っている櫓です。

上記模型の丘陵部分、外側がニの丸

本丸は、文字通り城の中心で最も高い所にあります(天守台上端で標高約36m)。北側には本丸御殿がありました。御殿に至るには、本丸表御門と本丸裏御門を通り、普段は裏御門を使っていたそうです。本丸御殿は、初代藩主・黒田長政が建て、そこに住んでいましたが、次の代からは手狭ということで儀礼・儀式の場になりました。御殿の周りには祈念櫓、月見櫓などがありました。南側には武具櫓・鉄砲櫓があって、武具櫓御門から出入りしました。鉄砲櫓には弾薬が、武具櫓には黒田家伝来の武具類などが収められていました。黒田長政は築城時に天守の守りのために30間の長さの櫓を建てると言っていて(下記補足6)これが武具櫓のことと考えられています。本丸の中心が天守台です。

(補足6)三十間に居矢倉立て候、天守之衛にて候(慶長6年9月朔日 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)

上記模型の本丸部分、西側からの視点です

果たして天守はあったのか

これまで、福岡城には天守がなかったと言われた時期がありました。福岡城の一番古い詳細絵図「正保福博惣図」、1646年・正保3年作成)に天守が描かれていないからです。現存する天守台は描かれています。また、福岡藩の公式史料(「黒田家譜」など)や地元の地誌(「筑前国続風土記」など)にも天守のことは記載されていません。これらのことから、天守台は築かれたが、幕府への遠慮により、天守は築かれなかったという見解が主流だったのです。

「正保福博惣図」、堀石垣保存施設にて展示

しかし、築城の部分でも触れた通り、天守の存在を示唆する史料が発見または再注目されています。まずは、福岡藩の隣の小倉藩・「細川家史料」です。藩主の細川忠利が、1620年(元和6年)に伝聞として、黒田長政が福岡城の天守を破却すると書いているのです(下記補足7)。

(補足7)
一.黒築前殿(黒田長政)行儀、二・三日以前二御目見被仕候(中略)、主居城をも、大かたはきやく(破却)被仕候而被参候様二、下々取沙汰申候、いつれに天主なとを、くつされ候事蹟必定之様二親候、定可被聞召存候事
(長政殿は二、三日前に将軍秀忠公に謁見なされた。(中略)居城をおおかた破壊されてから、また戻られるようだと下々は噂している。いずれにしても、天守はお壊しなさえれるに違いないと取り沙汰されている)
(元和6年3月15日細川忠利書状案、訳は「福岡城天守を復原する」より)
尚々(略)又ちく前縁辺今立、何とも取沙汰無御座候、ふく岡の天守、又家迄もくづし申候(中略)如右申付候よし被申上と承候

細川忠利肖像画、矢野吉重筆、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、黒田家側の史料にもそのようなものがあります。時期はわかりませんが、天守の欄干が腐ったという報告を受け、長政が調査と修繕を指示した記録があります。1623年(元和9年)に長政が亡くなるときには、遺言として伝来の「一の谷の兜」は天守にあると言っています(下記補足8)

(補足8)
高麗ニて我等着候一ノ谷ノ甲遣候、福岡天守二有之
(元和9年7月27日黒田長政遺言覚、諸家文書)

最近では、家臣(毛利氏)の家の資料から、天守の建設と石垣に関する記述がある書状が発見されました(下記補足9)。

(補足9)
石垣ノ石ハ名嶋ノ石を以、其刻ハ穴太無之、しろうとつきに仕、天守御立被成候故、石垣ヌルク御座候、(以下略)
(1640〜50年頃、毛利甚兵衛宛梶原正兵衛書状)

絵画史料もあります。長州藩の毛利氏の密偵が、1611、12年(慶長16、17年)頃スケッチしたとされる「九州諸城図」には、本丸御殿と思われる建物の左側に、4重に見える天守のような建物が描かれています。また、1668年(寛文8年)に作られた「西国筋海陸絵図」には、5重の天守が描かれています。(但し作成時期が、天守がない「正保福博惣図」より後なので想像図の可能性あり、または以前にあった情報を引き継いだ可能性もあり)

「九州諸城図」、NetIB-Newsより引用
「西国筋海陸絵図」、出展:国立国会図書館

これらを証拠として、天守の存在に肯定的な学者などは、天守は築城時に建てられたが、1620年頃解体されたと推定しています。

天守の存在と解体が正しいとすれば、なぜ長政はせっかく建てた天守を短期間で壊してしまったのでしょうか。そのカギも細川家の記録にあります。長政は、当時幕府から命じられていた大坂城再建に動員されていて、その工事の遅れを挽回するために、福岡城を解体して材料調達すると言ったというのです(下記補足10)。

(補足10)
一、黒筑手廻おくれられ候と、其元にて申候由候、ふくおかの城をくつし、石垣も、天主ものほせられ候由、愛元ニ申候、如何様替たる仁ニ候間、可為其分、乍去、別之儀有間敷候事
(元和6年月日不詳 細川忠興書状、松井家史料)

前述の通り、黒田と細川は対立していたので、細川は長政を冷やかな目で観察していたのです。長政はそのとき、自ら追加の工事負担を幕府に願い出ていたので、「変わった人」だと評しています(下記補足11)。

(補足11)
一、黒筑城を割被申候事、又御普請ニ事之外をく(遅)れられ候が、高石垣七十間分望被申之由、兎角奇特なる儀と存寄外無別候事                       (元和6年3月29日細川忠興書状、細川家史料)

現在の大坂城天守

また、それ以前には、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の豊臣氏滅亡、同年の一国一城令、1619年(元和5年)には城の無断改修を理由とした福島正則の改易という出来事がありました。正則と同様に、外様の大大名であった長政が、自身の家の存続に過敏に対応したということが考えられます。

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

こうなってくると、天守の存在は明確になったようですが、事は少々複雑です。天守に連結された櫓があって、それを「小天守」などと呼ぶ場合、一番高層の建物を「大天守」と呼び、一般的にはそれが「天守」とされます。実は福岡城の天守台にも「中天守台」「小天守台」と呼ばれる部分があります。(江戸時代に「小天守台」と記載された記録あり)これまで福岡城で「天守」と言ってきたのは、これらの上に築かれた「中天守」「小天守」のことを指すという説があるのです(服部英雄氏による)。「天守があった」とは「大天守があった」という解釈でしょうから、そういう意味でこの説では「天守はなかった」ことになります。

姫路城の大天守と小天守

その根拠を時間の経過に沿って示すと、まず、先ほどの細川家の記録には、「天守を破却する」という伝聞に対する結果の記述が全くありません。その代わりに、1638年(寛永15年)に天守台周りの櫓を取り除いたという記録があるのです(下記補足12)。これは、1635年(寛永12年)にこの地方を襲った大型台風の被害による可能性があります。

(補足12)
御天守台廻り之御矢倉長屋御除候(三奈木黒田文書、九州大学・桧垣文庫)

そしてその結果が「正保福博惣図」に表されているというのです。「大天守」のあるべき位置には単に「天守台」としか書かれていない一方、「矢倉」が除去された中小天守台他には「矢蔵跡」と記載されています。つまり建物があった所は「跡」とし、なかった所は単に「天守台」としたとの解釈です。そして福岡藩はこれらの存在した建物(中天守・小天守)を幕府向けには「櫓(矢倉・矢蔵)」とし、内輪では「天守」と呼んだのです。

「正保福博惣図」の天守台部分

このような天守台の部分使用は、三原城篠山城などに見ることができます。福岡藩でもこの後、天守台脇に小さな天守櫓を建てたり、大天守台を蔵として使いました。大天守を建てなかったのは、コストと必要性を鑑みたものと考えられます。

篠山城模型の天守台部分、篠山城大書院展示室にて展示

今年(2025年)は、天守台の発掘調査が行われる予定です。大天守の存在についての研究進むよう、大いに期待したいところです。

仮に、大天守の存在が明らかになったとしても「復元」にはまだまだハードルがあります。どのような建物であったか確定することが必要です。福岡城跡は国の史跡なので、建物復元には文化庁の許可が要るのです。その基準は「史実に忠実な再現」を求める大変厳しいものでしたが、最近では「復元的整備」として、一部の不明な部分を多角的に検証して再現することも認められています。福岡城(大)天守の「復元的整備」をめざす人たちは、藩の家格などから、5重天守であったと推定し提案していますが、
実態としてまだ資料不足のようです。実際の建築段階では、一番大事な現存する天守台をどう保護・保存するのかも重要な課題となります。

更に、建物の仕様が決まったとしても、それが地元の人たちに受け入れられることも必要です。福岡商工会議所が市民に実施したアンケートによると、
・「賛成」「どちらかというと賛成」と回答した人が59.1%
・「反対」「どちらかというと反対」と答えた人が14.4%
・「分からない」と答えた人は26.5%
肯定的回答が6割近くになりましたが、そのうちの76%が、「過去に存在したものにできるだけ忠実なもの」を求めています。この辺も大きな課題になりそうです。

余程の大きな発見や基準の変更がない限り、天守「復元」には相当な時間がかかりそうです。

福岡城のその後

福岡城は江戸時代、ずっと黒田氏の福岡藩によって維持されました。その間に起こった大事件といえば「黒田騒動」でしょう。2代藩主・忠之と、重臣の栗山大膳が対立し、大膳が、三の丸の屋敷に武装して立て籠もったのです。大膳の追放という幕府の裁定で収まったのですが、実態としては、藩主の素行に問題があったようです。

黒田忠之肖像画、福岡市美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
栗山利章(大膳)肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つ城関連の話題として「天守櫓」をご紹介します。天守台の建物が亡くなってしまった後、天守台脇にある区画が「天守曲輪」となり、そこにある小さな櫓が「天守櫓」と呼ばれるようになったのです。その曲輪に入るにはとても狭い門(鉄御門、埋門)を通らなければならず、門(鉄御門)の上には「切腹櫓」と呼ばれた櫓もあったそうです。つまり、その曲輪は、城での最後の戦いの場とされたようなのです。

鉄御門跡
埋御門跡

明治維新後、福岡城は廃城となり、その広大な敷地は主に日本陸軍によって使われました。城の建物は、ほとんどが解体されるか売却されていきました。例えば、本丸にあった武具櫓は、黒田家のお屋敷に移築されましたが、戦争中の空襲で焼けてしまいました。一方、南の丸にあった多門櫓は、もともと倉庫として使われ、兵舎や、学校の寮として引き継がれ、同じ場所で生き延びたのです。

武具櫓の古写真、「国史跡福岡城跡整備基本計画」より引用
現存する南丸多聞櫓

戦後、城跡は舞鶴公園、大濠公園となり、多くの文化施設、スポーツ施設が建てられました。その中では、三の丸にあった平和台球場が有名です。今、その場所で鴻臚館の復元整備を行っています。福岡市は、両公園を統合したセントラルパーク構想を進めていて、そこには、福岡城の史跡整備・復元も含まれています。

舞鶴公園の入口の一つ
大濠公園
平和台球場のレリーフ

「福岡城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

71. 福山城 その2

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

福山駅福山城口
二の丸の高石垣

ところで、その石垣の周りに堀は見られません。堀はみんな埋められてしまったのです。この駅前の広場(北口広場)が内堀の名残となっています。

広場では、内張が水辺として再現されています

駅近なので いきなり本丸へ

それでは、内堀を乗り越えるつもりで、二の丸の石垣沿いを歩いてみましょう。石垣の石が変色していますが、これは第二次世界大戦での空襲の火災で焼けた痕なのだそうです。歩いてみると、迫力を感じます。現代のビルにも負けていない感じです。

二の丸石垣

現代に作られた石段を登っていくと、どっしりとした伏見櫓が急に現れます。空襲を生き延びた現存建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。その前は伏見城にあったことを示す刻印(「松ノ丸ノ東やくら」)も発見されています。つまり、言い伝えだけでなく、証明されているわけです。伏見城は3代あって、この櫓は3代目のものだろうと言われていますが、転用材が多く、地震の跡急拵えした2代目のものではないかという意見もあります(愛媛大学社会共創学部紀要「福山城伏見櫓に関する考察」)。

伏見櫓

先に進むと、これも現存している、本丸の正門・筋鉄御門(すじがねごもん、国の重要文化財)が控えています。敵だったら、伏見櫓と挟まれて、攻撃されそうです。こちらも伏見城から移されたと言われていて、名前の通り、その扉は筋金入りなのです。さすが本丸の正門だけのことはあります。

筋鉄御門
筋金入りの扉

本丸に入ると、伏見御殿跡があります。これも伏見城からの移築とされています。天守が向こうに見えます。

伏見御殿跡
外観復元天守

本丸には、もう一つ、現存建物があって、それが鐘櫓(かねやぐら、福山市重要文化財)です。「時の鐘」として城下に時間を知らせていたのですが、今でも自動で鳴っているそうです。

鐘櫓

二の丸を歩いてみよう

今度は、本丸下の二の丸をぐるりと歩いて、天守の裏側と本丸の搦手門(棗門)に回り込んでみます。まずは本丸の、復元された御湯殿を見上げてみましょう。これも元は伏見城からの移築と言われています。蒸し風呂(サウナ)と、せりだした座敷(物見の間)のセットになっています。ただし、時代によって間取りは異なっていたようです。本丸側からでは正直よくわからなかったのですが、二の丸側から見ると目立ちます。こういう造りを「懸け造り」といって、城郭建築では珍しい事例です。

御湯殿(二の丸側)
御湯殿(本丸側)

次に進むと、角のところに櫓が見えます。外観復元された月見櫓で、現在は貸会場や、   「キャッスルステイ」の宿泊場所になっているそうです。城も多角化の時代です。

月見櫓

角を曲がって見えるのが、もう一つの外観復元された「鏡櫓」です。現在は「文書館」として使われています。

鏡櫓

更に進むと、公園の入口がまたあります。「東側階段ルート」で、北側や南側より緩やかになっています。現代になって 作られた通路です。

東側階段ルート

その脇には別の入口もあります。こちらが城のオリジナルの門跡です(東上り楯門跡)。ただし、本丸に直通はしていません。せっかくなので、こちらに進みましょう。

東上り楯門跡

そして、二の丸を回り込むと、外観復元天守の北側が見えるところに至り、黒い鉄板張りの面がよく見えます。この鉄板張りは、北側の防御のためとも、風雨への備えとも言われています。オリジナル天守の資料を参考に、現在の天守リニューアル(2022年)のときに復元されました。

外観復元天守(北側鉄板張り)
オリジナル天守の北側鉄板張りの古写真、現地説明パネルより

その先の、本丸搦手門(棗門)を通って行けば、天守の表側に到着します。

搦手門付近から見た天守

天守の中は歴史博物館になっていて、外観と一緒にリニューアルされました。水野勝成の放浪時代についての展示もあります(撮影できる範囲は限られています)。

天守内部の展示の一例
水野勝成のコーナー

最上階からは街を展望できます。南側は先ほど見学した本丸です。次は、北側に向かってみます。

天守からの眺め(東側)
天守からの眺め(南側)
天守からの眺め(北側)
天守からの眺め(北側)

城の弱点? 北側を歩く

これから、城の北側が弱点ということで、幕末に長州軍が大砲を放ったという、円照寺がある山に行ってみます。その途中では、長州軍と福山城兵が戦った場所という赤門や、水野勝成が上水道の水を溜めるために作った蓮池を、見学するといいと思います。

赤門、福山市HPより引用
蓮池

円照寺の標柱があるところから登っていきます。

山への登り口

寺の入口がありますが、まだ登り道が続きます。

円照寺入口

上の方は神社になっています(本庄八幡神社)。

本庄八幡神社

境内の奥の方が開けています。

境内の脇に進みます

この辺が頂上のようです。城は見えるでしょうか。

頂上付近

なんとか見えました、ツートンカラーの天守です。

円照寺山から見える天守

福山の歴史スポット巡り(関連史跡)

鞆の浦

最初の関連史跡として、鞆の浦(鞆ノ津)に来てみました。鞆の浦のシンボルとして常夜灯が有名です。また、古い町並みが残っていることでも知られています。

常夜灯
古い町並み

史跡としては、江戸時代に港として使われた、5つのアイテム(常夜灯、雁木、波止、船番所、焚場)が残っていることがとても貴重なのです。常夜灯は、そのうちの一つです。

雁木
波止
船番所
焚場(たでば、ドッグのような施設)

こちらは、鞆城跡です、江戸時代には奉行所が置かれていました。今は、歴史民俗資料館の敷地になっています。やはりここはいい場所で、鞆の浦全体を見渡すことができます。

鞆城跡
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡からの眺め

おすすめは、朝鮮通信使が宿泊した場所の一つ、福禅寺です。境内の対潮楼からの景色は「日本で一番美しい景勝地(日東第一形勝)」として賞賛されました。柱が額縁みたいで、絵になる風景です。

福禅寺
対潮楼からの眺め

草戸千軒

次のスポットは、中世の港町・草戸千軒跡です。ここは、近くにある明王院です。背景の五重塔・本堂は、鎌倉・室町時代に建てられたもので、国宝に指定されています。草戸千軒の町と同じ頃から存在していました。当時は常福寺といって、草戸千軒はその門前町でもあったそうです。

明王院

町は、ここから見える芦田川の中州あたりにありました。当時、川は別の所を流れていて、町は三角州の上にあったようです。環境の変化(自然及び社会)によって町が消滅し、伝説的存在になっていましたが、芦田川の改修作業中に遺跡が見つかり、発掘されたのです。幻の町が発見されたのです。でも、川の中の遺跡には行けません。

草戸千軒町遺跡

そこで、現地で発掘されたものや、研究の成果が、福山城近くの広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で展示されています。

広島県立歴史博物館
発掘・展示されている遺物(貯蔵用の陶器)
発掘・展示されている遺物(建築部材の一つ、壁木舞)
発掘・展示されている遺物(舶来磁器)
発掘・展示されている遺物(信仰に関するもの)

それらを基に、復原された町並みを歩いてみることもできます。草戸千軒は地域の港町だったので、こういう町がいろんな所にあったのでしょう。

復原された町並み

神辺城

最後は、神辺城跡です。福山城の前にあった城です。黄葉山(こうようざん)という山の上に築かれましたが、近くに神辺歴史民俗資料館があって、山頂近くまで車で上がってくることができます。

神辺歴史民俗資料館
資料館の駐車場

さっそく城跡に進みましょう。山道をまっすぐ進むと、鬼門櫓跡に着きます。景色がよくて、周辺一帯を見渡すことができます。このあたりは、備後国分寺が置かれるなど、古代から栄えた場所だったのです。

鬼門櫓跡
備後国分寺の模型、神辺歴史民俗資料館にて展示

それでは、本丸に向かいましょう。今は曲輪の敷地が残っているだけです。しかし福島正則の領地だったときには、石垣の上に神辺一番櫓(天守)がありました。福山城築城時に石垣と一緒に移されたのです。福山城にその跡があります。神辺城本丸の回りには、わずかながら石垣が残っています。

本丸
福山城に移された神辺一番櫓の古写真、福山城現地説明パネルより
福山城の神辺一番櫓跡
神辺城本丸周りに残る石垣

本丸下には段状に曲輪が続いています。それぞれに「二番櫓」「三番櫓」「四番櫓」があって、これらも福山城に移されました。山の上にこんなに櫓が並んでいたのです。

本丸下に続く曲輪群
神辺城の二番櫓跡
福山城の神辺二番櫓跡
神辺城想像図、現地説明パネルより

こちら側の景色もいいです。この城は、この辺りでは最適の拠点だったことがわかります。

三番櫓跡からの眺め

私の感想

神辺城を見てから再認識したのですが、福山城は、ただ新しいお城として作られたのではなく、新しい町と土地を開発するために築かれたのではないでしょうか。現地に行って感じることがとても大事だと、改めて思いました。

ライトアップされた伏見櫓
ライトアップされた御湯殿
ライトアップされた天守

リンク、参考情報

福山城博物館
広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
福山の郷土史、大和建設株式会社
御湯殿の変遷について、備後歴史訪訪倶楽部
・「放浪武者 水野勝成/森本繁著」洋泉社
・「初代刈谷藩主 水野勝成展」刈谷市歴史博物館
・「中世瀬戸内の港町 草戸千軒町遺跡 改訂版/鈴木康之著」新泉社
・「新版 福山城」福山市文化財協会
・「シリーズ藩物語 福山藩/八幡浩二著」現代書館
・「阿部正弘/後藤敦史著」戎光祥選書ソレイユ
・「青年宰相 阿部正方」福山城博物館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「史跡福山城跡整備基本計画」2020年10月28日 福山市教育委員会
・「福山城伏見櫓に関する考察/佐藤大規氏論文」愛媛大学社会共創学部紀要第7巻第2号

「福山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

71. 福山城 その1

福山城は、現在の広島県福山市にあった城です。現在でも再建された天守を、福山駅の新幹線プラットフォームから間近に見ることができます。この城は比較的新しい城で、大坂の陣後徳川の天下が定まってから建設されました。しかし城が築かれた地域には、長い前史がありました。しかも築城した水野勝成は放浪武者だった時代があり、この地域に浅からぬ縁があったと考えられるのです。これらが結びついた結果が福山城やその城下町だったのです。

立地と歴史

Introduction

福山城は、現在の広島県福山市にあった城です。現在でも再建された天守を、福山駅の新幹線プラットフォームから間近に見ることができます。この城は比較的新しい城で、大坂の陣後徳川の天下が定まってから建設されました。しかし城が築かれた地域には、長い前史がありました。しかも築城した水野勝成は放浪武者だった時代があり、この地域に浅からぬ縁があったと考えられるのです。これらが結びついた結果が福山城やその城下町だったのです。また、江戸時代後半には阿部氏が城主となり、激動の幕末に直面しました。その歴史の流れをご紹介します。

福山駅新幹線ホームから見える福山城

放浪武者、水野勝成

水野勝成は、信長・秀吉・家康に仕えた三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれました(生年:1564年~没年:1651年)。伯母が徳川家康の母・於大の方(忠重の姉)なので、家康とは従兄弟同士ということになります。1581年(天正9年)の高天神城の戦いが初陣だったのですが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い(家康方)では兜も被らず突撃するほどの猪武者だったようです。このことを父親から叱責され、同じ年に金銭のトラブルから父親の側近を成敗し、出奔してしまいます。父親・忠重の方も息子を勘当(武家奉公構、他家への奉公を禁ずる)したのです。

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
水野忠重肖像画、東京大学史料編纂所データベース (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

勝成は、まず四国攻めをしていた豊臣秀吉に仕えました(家康配下ではないので武家奉公構は通用せず、下記補足1)。

(補足1)摂津国豊嶋郡に於て、神田七百二十八石を扶持せしむ。全く領知すべき者也
       天正十三年九月一日 (秀吉)御判 
     水野藤十郎とのへ
(「水野家見聞覚書」、「放浪武者 水野勝成」より)

しかし何事かあって秀吉の下を飛び出し、名を「六左衛門」と変え、虚無僧の姿で放浪生活に入ったとされています。秀吉からは追手も差し向けられたと言われています。やがて秀吉の九州征伐が開始される(1587年、天正15年)と九州に向かい、肥後の国主となった佐々成政の家臣になります。しかし成政は、肥後国人一揆の責任を取らされ、翌年には切腹させられてしまいます。勝成は後継の小西行長、加藤清正に仕えますが、双方とも短期間で辞め、今度は「城戸乗之助」という名前で豊前国の黒田長政に仕官しました(下記補足2)。1589年、天正17年秋、勝成は主君の長政とともに船で大坂の秀吉の下に向かっていました。ところが勝成は、途中の備後国鞆ノ津でまたも出奔したのです。秀吉とその配下たちとは余程反りが合わないか、秀吉からの追及を恐れたのでしょうか。そして、鞆ノ津は後に彼の福山藩の領地の一部となる場所だったのです。

(補足2)豊前国に一揆が起こったとき、秀吉公より黒田如水と同筑前守(長政)に命じて城井の城を攻めさせた。日向守(勝成)も寄手に加わって出陣した。(「水野勝種記録」、「放浪武者 水野勝成」より)

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加藤清正像、本妙寺蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後、勝成に関する確かな記録は途切れ、8年後の1597年(慶長2年)には、備中国三村親成の食客となり、妻子ももうけていました(勝成34歳、下記補足3)。この間、福山城となる地の土地柄や民情も把握していたのではないでしょうか。また、実家とは全く無関係になったわけではなく、家臣を通じて何らかの連絡も取っていたようです。

(補足3)備中の国に三村紀伊守と申す方へ六左衛門殿御懸かり御座候時分、下女一人御召し使いなされ候。その腹に美作守御出生なされ候云々。(「水野記」、「放浪武者 水野勝成」より)

やがて秀吉が亡くなると、1599年(慶長4年)、勝成は伏見の徳川家康の下に出向き、父親の忠重とも15年振りの対面をします。翌年、忠重が不慮の事件で亡くなると、刈谷城主(3万石)を引き継ぎました。直後に関ケ原の戦いが起こりますが、勝成は家康から命ぜられたのは、一城(曽根城)の守備でした。最前線で戦いたい勝成は不満で、独断で大垣城を攻めたのです。これを聞いた家康は罰することもしませんでしたが、加増もしませんでした。それから15年後の大坂夏の陣のとき、勝成は52歳になっていました。かつて黒田家で同僚だった後藤又兵衛軍を破る戦功をあげましたが、最後の場面で家康の本営守備を命じられていたのを無視し、大坂城に突撃するという有様でした。戦後、勝成は大和郡山6万石に加増されましたが、その武功のややには家康の評価は低かったと言われています。勝成の戦う姿勢は、彼の官職名(日向守)から「鬼日向」と呼ばれました。

刈谷城模型、刈谷市歴史博物館にて展示
大垣城
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が亡くなった後、1619年(元和5年)、将軍・徳川秀忠は、安芸・備後の太守・福島正則を改易としました。幕府に無断で城を修繕したというのが理由ですが、結局幕府が正則を危険視していたからでしょう。その遺領のうち、備後10万石が勝成に与えられることになったのです。西国の外様大名の監視が期待されての抜擢ですが、勝成のこれまでの経歴から、その土地を見知っていたことも要因だったと思われます。

福山城以前の福山

水野勝成が放浪武者時代に上陸した鞆ノ津は、瀬戸内海の潮流の分水嶺付近にあり、古代から瀬戸内海を航行する船が潮待ちをする港として栄えていました。戦国時代においても、織田信長によって京都を追われた足利義昭がここにやって来て、信長打倒のための策を巡らせました(「鞆幕府」)。福島正則が領主だった頃には鞆城が築かれました。勝成が福山藩主となって最初に上陸したのもここでした。それ以来、藩の奉行所が置かれ、江戸時代にも朝鮮通信使の寄港地になり、景勝地としても称賛されました。幕末には、坂本龍馬の「いろは丸号事件」の舞台にもなります。

鞆ノ津、現在は鞆の浦と呼ばれる
鞆城跡
朝鮮通信使が宿泊した福禅寺からの眺め

一方、福山城のあった辺りは、古代には瀬戸内海が城の北側まで湾のように入り込んでいました。城の北側には今でも「深津」「奈良津」「吉津」「津之郷」といった地名が残っていて、往時は港だったと考えられます。その後、付近を流れる芦田川が運ぶ土砂により、遠浅の海が干潟のようになっていたと思われます。芦田川はその干潟部分を幾筋にも分かれて流れていました。

中世になると、芦田川の河口付近の三角州に「草戸千軒」という港町ができ、栄えていました(当時は「草津」とも呼ばれていました)。近くの常福寺(現・明王院)の門前町でもあったのです。最近の研究では、戦国大名の山名氏の家臣・渡邉氏が領主として関わっていたと考えられています。鞆ノ津が他地域とのつながりを持つ港だとすれば、草戸千軒は地域内の港という位置づけでした。この町は16世紀初めに衰退したため、江戸時代には既に伝説的存在になっていました(下記補足4)。福島正則の時代には「草戸村」として農地になっていたようです(備陽史探訪:110号)。福山城の築城前には、近くの神島(かしま)という所に町が移っていました。水野勝成も放浪時代に訪れていたかもしれません。

復原された草戸千軒の町並み、広島県立歴史博物館にて展示
現・明王院

(補足4)
「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、木庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に、草戸千軒と云町有りけるか、水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。水野外記と云ものいひけるは、此川筋に新涯を築きては、本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれども、止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし。」
(「備陽六郡志」)

そして地域を代表する城としては「神辺城(かんなべじょう)」がありました。後の福山城の北、数kmのところにある黄葉山(こうようざん)にあった山城で、室町時代に山名氏によって築かれたと言われています。福島正則が領主だった時には、石垣の上に天守・櫓がそびえる近世城郭として整備され、重臣(福島正澄)を配置しました。勝成も当初はこの城にいましたが、領内を巡視した結果、干潟の海に突き出た半島状の常興寺山に新城を築くことにしました。これが福山城になります。風水による四神相応の地とも言われますが、やはり勝成の知見・経験に基づく、城下が発展できる場所だったからでしょう。この時期に新城の建設が認められるのは異例で、大規模な近世城郭としては最後のものとされます。それだけ、幕府の期待が大きかったということでしょう。

神辺城跡
福山城模型、旧福山城博物館にて展示

福山城と城下町の建設

城の建設は、1619年(元和5年)から3年間続きました。中心部には本丸が築かれ、その周りを二の丸・三の丸が囲みました(輪郭式)。本丸・二の丸は山部分にあり、ひな段状の高石垣に覆われていて、三の丸は平地にありました。内堀が二の丸と三の丸の間、外堀が三の丸の外側に掘られました。幕府からは資金援助の他、監督をする奉行が2名派遣され、廃城となった伏見城の建物も提供されました。以前の本拠だった神辺城の建物・石材も活用されました。

本丸・二の丸の高石垣

本丸には、五重五階(+地下一階)の層塔型天守が築かれました。他の城に比べ、一階から五階に至る床面積の減り方が少なく、層塔型天守の完成形とも言われています。またこの天守の大きな特徴として、天守背面(北側)を黒い鉄板で覆ったことが挙げられます。風雨を防ぐためだったとも、比較的防御が手薄だった北側からの攻撃に備えるためだったとも言われています。他の3面は漆喰塗の白亜の壁だったので、黒と白のコントラストが目立っていました。本丸には他に、伏見城から移された伏見櫓、伏見御殿、懸け造りが特徴的な御湯殿などがありました。二の丸には、神辺城から移された言われる神辺一番櫓から四番櫓などがありました。城全体では三重櫓が7基、二重櫓が16基もありました。城を含む地は「福山」と名付けられました。その由来は、長寿と多幸を祝う言葉である「寿山福海」から取ったとするなど諸説あります。

福山城の外観復元天守
復元された背面鉄板
伏見櫓(現存)
伏見御殿跡
御湯殿(復元)
神辺一番櫓跡

福山城主(藩主)の水野勝成は、城以上に城下町・地域の開発に力を注ぎました。城の背後(北)の山を開削し、芦田川から水を引き、吉津川として通しました。その途中にの「蓮池」に水を貯め、上水道として城下に配水しました。小田原用水・神田用水などに次ぐ日本でかなり早い事例の一つでした。城の背後の防御という意味合いもありました。また、野上堤防を築き、芦田川を一本化し、城下町の敷地を造成しました。商人たちに無償で土地を与え、地子(税金)も免除したので、自ずから人が集まりました(下記補足5)。元の川の流路は舟入として活用し、水路にかかった天下橋・新橋(木綿橋)の辺りが繁華街となりました。更に藩の収入を増やすため、城下町の外側を干拓し、農地としました。入植する農民には一定期間税を免除し、海岸部でも栽培できる綿花を奨励しました。綿は、福山の特産物になります。勝成は、いかに街を活性化させるか、放浪時代の経験も生かしながら、政治を進めていったのでしょう。

(補足5)当町場荒地の遠干潟に御座候ところ、町並銘々器量次第、敷地を開き住居仕候は、地子諸役等永々御除地に仰付かるべき候由、之により御領分は申すに及ばず、近国所々より相集まり、銘々沼、芦原を埋め、町並家作り出来申候(「福山領分御伝記」

蓮池
かつての舟入
天下橋跡
水野時代の干拓地(沖野上町)

また勝成は、藩士たちに対して誓紙を取ったり、目付を置くようなことはしませんでした。それでも家中は安定していたのです。勝成に対する信頼の高さが伺えます。隣の岡山藩主の池田光政は、勝成を「良将中の良将」と称えたそうです(補足6)。1638年(寛永15年)に島原の乱が勃発したとき、勝成は75歳でしたが、幕府に請われ、現地に出陣しました。「鬼日向」も健在だったのです。翌年には隠居しますが、かえって領内開発に専念し、隠居料さえもつぎ込みます。開発は、水野家4代約80年継続しますが、既に現在の福山市街地の多くができあがってしまった程でした。藩の石高も10万石→13万3千石に増加しました。勝成は88歳まで生き抜きました。

(補足6)私は随分国中を治めんと思っているが、なかなか思うようにならない。然るに隣国故日向守殿の仕置を聞くに、目付横目一人もなく、侍から誓詞を取るということもない。法度書・制法条目などついに一件も出されなかったが、国中よく治まり、家中の者よくなつき、他家よりいくら招いても見向きもしない。然らば徳を以て国中を治められたものと思われる。その頃良将が多かったが日向守のような仕置のことは聞かない。凡そ近代の良将というのはこの日向守殿ならん(「宗休様御出語」、訳は「放浪武者 水野勝成」より)

阿部氏による継承と幕末の争乱

ところが、水野氏5代目の勝岑(かつみね)が1698年(元禄11年)にわずか2歳で亡くなり、水野氏は改易となってしまいます。その後、幕府直轄領・奥平松平氏1代を挟んで、1710年(宝永7年)からは阿部氏が幕末まで城と藩を統治しました。しかし阿部氏の福山藩の内情はきびしいものでした。石高は水野氏時代の初期と同じ10万石でしたが、幕府領時代の検地により15万石と算定され、5万石分を削られていたのです。また、阿部氏10代のうち4人が幕府老中を務めたため出費がかさみました。更にこの時期には日照りと洪水による凶作が度々起こり、農民一揆が絶えませんでした。裕福な商人・豪農などが出資して設立した「義倉」からの貸付・施し・献金などもあって、なんとか藩の運営が成り立っている状態でした、

10人の阿部氏藩主の中では、なんといっても幕末に活躍した阿部正弘が有名でしょう。彼は1843年(天保14年)わずか25歳で老中に抜擢されますが(それまでの最年少、22歳で寺社奉行になったときも最年少だった)、福山にお国入りしたのは藩主になった直後、1837年(天保8)の一回切り(2ヶ月間)だけでした。ペリー来航前後の厳しい政局に幕閣の最高責任者(老中首座)として対峙していたのです。彼自身はいわゆる鎖国政策を維持したかったようですが、「衆議」を重んじ、徳川斉昭・堀田正睦など考え方が異なる大名をも取り込み、開国という結論を導きました。また、広く諮問を行い、優秀な人材の発掘も行いました。幕府の最後の最高幹部となった勝海舟もそのとき登用された一人です。しかし激務が祟ったのか、老中在職中に39歳で亡くなりました(1857年、安政4年)。

阿部正弘肖像画、福山誠之館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正弘から2代後の阿部正方(まさかた)は、1861年(文久3年)に14歳という若さで藩主になりました。やがて幕府と長州藩が対立するようになると、1864年(元治元年)長州征討(第一次)が発令され、福山藩は幕府軍の先鋒を命じられました。彼と福山藩兵は、西の広島に向かいますが、そこで和睦となります。1865年(慶応元年)の第二次長州征討では、正方は再び出陣しますが、途中で病(脚気)を患い待機となります。藩兵は他藩と連合して長州軍と戦いますが(石州口の戦い)敗れ、撤退することになりました。正方は帰国後、御湯殿で湯治を行うなど治療に努めますが、慶応3年11月、20歳で亡くなってしまうのです。そのわずか2ヶ月後、福山城にとって大事件が起こりました。

阿部正方肖像画、福山市蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

翌年(1968年、慶応4年)1月、戊辰戦争が勃発すると、各地で朝廷方の攻勢が始まります。中国地方では、尾道で待機していた、杉孫七郎が指揮する長州軍が福山城を攻撃しようとしていました。藩主が亡くなったばかりの福山藩は和平交渉を行おうとしますが、相手にされませんでした。長州軍は、西国大名を監視していた福山城を落とすという実績が欲しかったのです。1月9日、長州軍の攻撃が開始されました。長州軍は、城の弱点とされる北側にある円照寺の山の上から大砲を放ち、一発は天守西側に命中しました。幸い火薬は装填されておらず爆発・火災は発生しませんでした。そして長州兵が城の裏門(赤門)に突撃しますが、福山藩兵も抵抗、長州が兵を引いたところで和平交渉となりました(福山藩が朝廷方に恭順)。これが城で行われた唯一の戦いでした。

「福山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。