立地と歴史
Introduction
小机城は現在の横浜市(北区)にあった城です。現在も横浜線に「小机駅」があります。しかし、「横浜」は幕末に横浜が開港してからメジャーになった地名です。それ以前は、横浜の辺りは、何と呼ばれていたでしょうか。小机城の全盛期、戦国時代後半には、北部横浜市域は「小机領」と呼ばれたのです。ということは当時は、今の「横浜」と同じくらいネームバリューがあったのかもしれません。もしその当時の人に聞いたら、「横浜」より「小机」の方が知られていたでしょう。小机城は、その中心的な拠点だったのです。

太田道灌による小机城攻め
まず、小机城がどんなところにあったかご紹介します。現在は東京を中心として交通網が整備されています。小机城は、東京-横浜をつなぐラインからは外れてしまっています。一方、中世の関東地方は鎌倉を中心に、鎌倉街道と呼ばれる複数の道があって、小机城は鎌倉街道の一つに沿った位置にありました。それに近くに鶴見川が流れていて、舟による交通の便もありました。城は、その鶴見川に着きだした丘陵地帯の先端に築かれました。自然の地形を生かして築城したと考えられます。築城時期ははっきりしませんが、戦国時代になると、その名を現します。

戦国時代になると(15世紀後半)関東地方は、関東公方・足利氏と、関東管領・上杉氏が、二分して争っていました。上杉氏には2つの系統があって、山内上杉氏の家宰(筆頭の重臣)長尾氏と、扇谷上杉氏の家宰・太田氏が力を持っていました。1476年(文明8年)、長尾景春は、その家宰の地位を継げなかった不満から反乱を起こしました(長尾景春の乱)。上杉方の中からも景春に味方する者が多く、陣営は大混乱に陥りました。この乱を鎮めたのが、もう一方の家宰・太田道潅だったのです。

太田道潅は江戸城や河越城を築いたことで有名ですが、その連絡線上に勢力があった豊島氏が反乱軍に加わったので、それを撃破しました。更に現在の川崎市辺りに攻め込みますが、そのとき敵が逃げ込んだのが小机城だったのです。道灌も「太田道灌状」の中で「小机要害」と呼んでいるので、それなりの城になっていたと思われます。道潅は、鶴見川の対岸に布陣し、約2ヶ月もかけて、城を攻略しました。道潅が、兵士を鼓舞するために詠んだ歌が残っています。
「小机は先手習いの初にて、いろはにほへとちりぢりになる」
小机城は「小机を用意して「いろは」の習いを始めるくらい、簡単に落とせるよ」という意味でしょうか。この歌は江戸時代の記録によるものなので(「新編武蔵国風土記稿」など)、本当に道灌が詠んだのかどうかは何とも言えません。乱が収まった後、小机城は一旦廃城になったようです。
北条氏と小机領
道潅による小机城攻めから数十年後、再び城が注目されるときがきました。15世紀末までに相模国(現・神奈川県中西部)を治めた北条氏が、武蔵国への侵攻を始めたのです(小机城があった現・神奈川県東部地域は武蔵国の範囲内でした)。北条氏2代目の北条氏綱が、扇谷上杉氏の江戸城を攻略したのが1524年(大永4年)なので、同じ頃に小机城も北条氏の支配下となり、再興されたと考えられています。小机城は当初、相模国玉縄城の管轄下で、城代として、初代・早雲以来の重臣・笠原氏が入りました。
やがて、城主として、北条一族が宛がわれるようになり、三郎、氏堯(うじたか)、氏信、氏光と続きました。笠原氏は、引き続き代々城代を務めました。

それに伴い、小机城がある地域は「小机領」として、北条氏の領国支配の単位として認識されます。小机領の西隣りは玉縄領で、東隣りは江戸領でした。その範囲は厳密にはわかっていませんが、支城がいくつもあったので(下記補足1)、その分布から大まかに推定できます。また現在でも「旧小机領三十三所観音霊場」というのが残っていて、その分布も参考になると思います。これらの分布は、北部横浜市域が中心ですが、一部は川崎市や東京都町田市にも及んでいます。現在の川崎市と東京都を分ける多摩川は、かつてはもっと川崎市側を流れていたそうなので、現・川崎市が全て小机領というわけではありませんが、小田原と江戸の中間にある、重要な地域だったとは言えるでしょう。小机城は、その小机領の中心的な拠点だったと考えられます。
(補足1)大曽根城、篠原城、大豆戸城、矢上城、加瀬城、井田城、山田城、茅ヶ崎城、池辺城、佐江戸城、川和城、久保城(榎下城)、恩田城、荏田城など
また、小机領には「小机衆」という家臣団が編成されていました。北条氏の家臣の役高が記載された「小田原衆所領役帳」には、小机衆として、笠原氏を筆頭に、29名が記載されています。小机衆は、当初は、小机領を確保し支配するための組織でしたが、北条氏の領土が広がると、軍団の一つとして動員されたようです。
城の改修と小田原合戦
初期の城の姿はわかっていませんが、「要害」と言われていたので、主に自然の地形を利用していたのでしょう。北条氏の時代になって改修が進められ、豊臣秀吉による小田原攻めが迫ると、遺跡などから推定される、最終形に至ったと考えられます。中心部に大きな曲輪が2つあって、「つなぎの曲輪」と呼ばれる十字形の曲輪によって、連結されています。全体はそれほど大きくなく、他の北条氏の支城に比べたら縄張り(レイアウト)はシンプルです。しかしこの城の特徴は、そのサイズに不釣り合いなほど、長大な土塁を空堀が全体を囲んでいることです。


小田原攻めの2年前の1588年(天正16年)、領内の百姓に対して、15〜70歳までの男性は、武器を持って城に集まるよう命令が出されています。この動きは、小机城の改修された姿と関連はあるのでしょうか。ある歴史家は、小机城は少人数の百姓主体の部隊でも、秀吉軍の攻撃に対して、ある程度耐えられるように作られたのではないかと推定しています。北条領内の各城から、専業武士を中心とした精鋭は、小田原城防衛のために引き抜かれていました。北条軍総勢約8万人のうち、約5万人が小田原に集められたと言われています。実際、小机城主・北条氏光は、足柄城から小田原城に転戦しています。小田原以外の城は、残った少数の武士が、徴兵した百姓を率いて戦わなければなりませんでした。小机城は大きすぎないので、少数の兵でも目配りができ、大軍に対しても周囲の土塁と空堀で、敵の攻撃を防ぐことができます。あくまで小田原の防衛が最終目的なので、時間稼ぎができればいいのです。


しかし、残念ながら小田原合戦のときの小机城の動向は記録されていません。他の多くの城のように戦わず開城したとも、最初から放棄されたとの説もあります。城代の笠原氏は、後に江戸幕府の旗本になっているので、小机城にいて降伏恭順したのかもしれません。
その後
小田原合戦後、小机城は廃城になり、やがて平和な江戸時代を迎えます。小机城跡は「城山」と呼ばれるようになりましたが、城跡の研究もその当時から始まりました。その成果の一つが、広島藩浅野家に伝えられた「諸国古城之図」の中の「武蔵 北条三郎居城」(小机城のこと)です。これが初めて小机城が描かれた絵図です。これを見ると、中心部は今残っている遺跡とあまり変わらないことと、現在「東郭」と呼んでいる曲輪を「本城(本丸)」としているのがわかります。東郭と西郭、どちらが本丸なのかは、この時以来議論になっていて、一番奥まった場所とするか、一番広いかもしくは強固に守られているか、といった視点によって異なるようです。当初は東郭が本丸だったが、城の改修が進んで西郭に移ったという意見もあります。

自然に戻るような形で維持された城跡でしたが、近現代になると開発の波に晒されます。1908年(明治41)、横浜線が開通するときに「城山トンネル」が掘られ、その線路によって、城跡と根元の台地が分断されました。根元の方に「古城」という地名が残っていて、そちらが城の発祥地かもしれないとのことです。戦後には、第三京浜道路が城跡を通る形で開通し(1964年〜1965年)、西郭の一部が破壊されました。皮肉にもこの工事中(1963年、昭和38年)に曲輪の遺構が発見され、緊急調査が行われました。
























その後、城跡は1977年(昭和52年)から横浜市「小机城址市民の森」として保護されています。「市民の森」は1971年(昭和46年)に市が始めた、緑地保存のための制度です。史跡として指定はされていませんが、史跡保護にもつながっています。2021年(令和3年)には、初めて城跡の発掘調査が行われました。すぐに、城の全貌や謎が明らかになるわけではありませんが、これからに期待です。

「小机城 その2」に続きます。
今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。