76.徳島城 その2

物静かな山を背後に、緑と赤の石垣のコントラストが楽しめます。

特徴、見どころ

珍しく、美しい石垣

現在、徳島城跡は徳島中央公園として一般に公開されており、山上と平地両方の部分が含まれています。観光客は、一般的には最初は石垣と内堀に囲まれた平地部分を訪れます。徳島城の石垣は、大変珍しく且つ美しいものです。緑泥片岩(りょくでいへんがん)と呼ばれる深緑色の縞模様がある石を使って積み上げられているからです。これらの石は「阿波の青石」としても知られています。その上に石垣の一部は、これも「赤石」として知られる紅簾片岩(こうれんへんがん)が使われています。石垣に映えるこの緑と赤のコントラストは、ひと際美しく見えます。

城周辺の航空写真

徳島城跡のモニュメント
緑泥片岩を使って築かれた石垣
「青石」と「赤石」が組み合わされた部分

威厳ある城の入口

現存している城の建物はありませんが、城の正門である鷲の門が、1989年に復元されました。その門を後にしてから、下乗橋を渡って、黒門跡を通って、公園の中心部に入っていきます。黒門跡とその傍にある太鼓櫓跡の石垣は特に立派です。ここは大手門とされていたからです。石垣から内側の方には、花壇(お花見広場、バラ園など)、徳島城博物館、国の特別名勝に指定されている現存する御殿庭園など見どころがいくつもあります。石垣に囲まれた公園内の遊歩道を歩くだけでも楽しめます。

復元された鷲の門
下乗橋を渡って黒門跡へ
黒門跡の石垣から下乗橋を見下ろす
黒門の石垣
公園内の遊歩道

静かな雰囲気の山の上

山上部分に行ってみることもできます。この山は、現在は城山と呼ばれています。山頂への通路は現代的な石段が作られ、よく整備されているので、登っていくのはそれ程大変ではありません。山上の曲輪は空き地になっていますが、説明板を見ると、その曲輪の名前と、そこにどんな建物が建っていたのかがわかります。例えば、東二の丸には天守が築かれていました。頂上の本丸からは、徳島市街を眺めることができます。この曲輪にある弓櫓跡には、初代天守が建てられていました。山上部分の石垣は、平地部分のそれより、ずっと古いものに見えます。それは恐らく山上部分が平地部分より早く建設されたからでしょう。今日、山上部分を訪れる人は少ないように見えますが、静かな雰囲気を味わいたいのであれば、それもよいかもしれません。

山上への石段
東二の丸
本丸
本丸からの眺め
弓櫓の石垣
西二の丸入口の石垣

「徳島城その3」に続きます。
「徳島城その1」に戻ります。

76.徳島城 その1

徳島城は様々な点で発展してきました。

立地と歴史

蜂須賀家政が築城

徳島城は、現在の徳島市にありました。徳島県の県都は徳島市です。徳島県は、かつて阿波国と呼ばれていて、戦国時代の16世紀後半には、この国をめぐって長宗我部氏と天下人の豊臣秀吉が争っていました。最終的に秀吉が勝利し、1585年にこの国を重臣の蜂須賀家政に与えました(秀吉は、家政の父の正勝に与えようとしたが、固辞したため子の家政に与えたとされています)。家政は最初は主要な山城の一つであった一宮城を拠点としましたが、すぐの1586年に他の場所に新しい城を築いて移ります。それが徳島城でした。

城の位置

蜂須賀家政肖像画、個人蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
一宮城跡

海上交通のネットワークを形成

徳島城は、渭津(いのつ)と呼ばれた砂州にあった標高62mの渭山(いのやま)の上に築かれました。その砂州は、四国で一番の大河であった吉野川のデルタ地帯の中にありました。この城が築かれた場所は、この国の領主にとって決して広くはありませんでした。秀吉がこの場所に城を築くよう示唆したとも言われています。それでは、なぜ秀吉は家政にそのような場所に城を築くよう指示したのでしょうか。歴史家は、秀吉は本拠地の大坂城とともに海上交通のネットワークを構築しようとしたと推測しています。渭津は徳島と改名され、紀伊水道のような海上交通ルートをコントロールできる拠点となったのです。この地域は、大坂城が面していた大阪湾の入口に当たりました。この海上ネットワークは水軍と商船隊の両方から構成されていました。この場所を選んだもう一つの理由としては、蜂須賀氏はまだ長宗我部の残党に対抗するため、阿波九城と呼ばれた支城に家臣を派遣する必要があったと考えられています。そのため、蜂須賀の本拠地はそれ程広大でなくてもよかったのです。

阿波国徳島城之図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

城周辺の起伏地図、渭山がデルタ地帯の中で目立っています

徳島城と大坂城の位置関係

大坂城

当初は城の中心は山上部分

渭山は、くの字型に曲がっていて、東西方向に横たわっていました。本丸は、最高地点で且つ最も広く、山の形が曲がっている辺りにありました。ここには、初代天守と初代の城主御殿があったと考えられています。ところが、その天守は創建から約30年後になぜか解体されてしまします。そして、東側の低い位置にあった東二の丸に再建されたのです。これはとても稀なケースで、なぜならほとんどの城の天守は山の最高地点にあったからです。たった一つ、水戸城で似たようなケースが見られるだけです。水戸城の場合は、理由は明白です。本丸が狭く不便であったからです。(徳島城の場合は、東二の丸の方が、城下町をより見渡すことができたからだという説があります。)山の西側の部分には、西二の丸と西三の丸があり、本丸を防御していました。これら山の上の曲輪は、それぞれ石垣に囲まれていました。一方、山の南側の砂州にあった平地は開発がまだ進んでいませんでした。専門家は、恐らく城主の御殿は山上と平地の2か所にあっただろうと推測しています。メインの方は山上にあり、予備の方は平地にあって、そこには家臣の屋敷もありました。初期の段階では、徳島城は戦いがあった場合に備えた作りになっていたと思われます。

渭山に築かれた本丸などの曲輪、天守は本丸ではなく、東側の低い部分にあります(阿波国徳島城之図部分

水戸城周辺の航空写真

二の丸にあった水戸城天守の古写真

城の中心が平地部分に移動

1615年に徳川幕府が豊臣氏を倒した後は、幕府の統治はついに安定してきました。蜂須賀氏も幕府に貢献したことにより淡路国も与えられ、領地を広げることができました。天下泰平が続く中、阿波九城はやがて廃城となりました。その結果、家臣たちは徳島城に集まることになり、城の再構成が必要となりました。平地には城主のための大規模な御殿が再建築され、城の中心部となりました。また、櫓がいくつも築かれた石垣や、屏風塀と呼ばれる塀が、内堀や寺島川に沿って中心部を囲んでいました。南側には、大手門としての黒門があり、そのとなりには太鼓櫓という三階櫓がありました。御殿の南の方には、三木郭があり、そこには城の正門として鷲の門がありました。城の周りには多くの川がありましたが、埋め立てられて武家屋敷や城下町となっていきました。蜂須賀氏は、江戸時代の終わりまでここを居城としていました。

御殿が建てられた平地部分(阿波国徳島城之図部分)絵図に御殿は描かれていません
黒門と太鼓櫓(阿波国徳島城之図部分)
三木郭と鷲の門(阿波国徳島城之図部分)

「徳島城その2」に続きます。

175.勝瑞城 その3

巨大な遺跡が工場の敷地から現れました。

その後

勝瑞城が廃城となった後、見性寺が城の部分に建てられました。一方、館の部分は市街地となりました。時間が経つにつれ、人々は、その城の部分だけが勝瑞城だったと思うようになりました。ところが、1994年の発掘により、その城の部分は、勝瑞城の長い歴史に鑑みると新しすぎるものだとわかりました。更なる調査が周辺地域で行われ、1997年に近くの工場敷地の地下から、領主の館の遺物が発見されました。それから度々の発掘により、館の部分は想像以上に大きく、この遺跡は、この地域だけではなく、日本全体の歴史にとって重要であることがわかったのです。城跡はついに2001年に、城と館両方の部分を含めて、国の史跡に指定されました。館の部分は現在公有地となり、発掘が行われています。

館の部分にはかつて工場が建っていました(現地説明板より)
工場敷地の発掘(現地説明板より)
公有地となった後の発掘風景(現地説明板より)
現在の城跡風景(現地説明板より)

私の感想

正直言わせていただくと、勝瑞城跡を訪れたとき、がっかりしました。それは、遺跡が最初はただの空き地と小さな城跡のように見えたからです。ところが、この城の歴史を学んでみると、この遺跡が画期的な発見の後、整備中であることを理解できました。きっとこの城跡は、しばらく後には他の新しい発見とともに、よい歴史公園になるでしょう。もし今この城跡を訪れるならば、事前に城の歴史を学んでおくことをお勧めします。また、遺跡から発掘された遺物を見学できるので、現場事務所が開いている年末年始以外の日に行かれた方がよいでしょう。私は、その当時事務所がやっていなかった休日に行ったので、見学できませんでした。.

勝瑞城の館部分跡
勝瑞城の城部分跡

ここに行くには

車で行く場合:
高松自動車道の板野ICまたは徳島自動車道の藍住ICから約15分かかります。
城跡には、駐車場が館部分の中と、城部分の脇にあります。
電車では、JR勝瑞駅から歩いて約15分かかります。
東京か大阪ら行かれる場合は、飛行機か高速バスを使った方がよいでしょう。

リンク、参考情報

勝瑞城館跡、徳島県藍住町教育委員会
・「三好一族と阿波の城館、図説日本の城郭シリーズ」戒光祥出版
・「史跡勝瑞城館跡Ⅰ」藍住町教育委員会
・「日本の城改訂版第78号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
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