44.名古屋城 その1

本当に木造天守が必要でしょうか?

何が起きているか?

名古屋市の方針

名古屋市にある名古屋城はとても有名です。その天守の頂には金鯱がそびえ、市の最も知られたシンボルの一つです。天守は現存しているものではありませんが、1959年に外観復元されました。元の天守は、第二次世界大戦中の1945年の名古屋空襲により焼け落ちてしまいました。

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名古屋城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

名古屋市長である河村たかし氏は、元あった天守と同じ設計の木造天守の建設を提案しています。現在の天守は建設から60年以上経ち、耐震性が低いことが指摘されています。河村氏は現在のコンクリート製の天守をほとんど元通りの木造製に置き換えるいい機会だと強調しています。また、市には焼け落ちる前の天守の多くの写真、図面、その他の記録があるので十分可能だと言います。彼は市民に対して、木造の天守は自信を与え、観光にも有効だと説明しています。多くの市民は彼を支持していますが、事はそう単純ではありません。

元あった天守の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

文化庁の主張

河村市長は、天守置き換えを始める前に文化庁からの承認が必要です。城が国の特別史跡に指定されているからです。文化庁は名古屋市に天守置き換えの前に天守台石垣を調査するよう要求しています。天守台は現存しているものですが、空襲のときに傷んだままになっています。文化庁にとっては、木造天守を復元するより天守台を修理する方が重要なのです。

天守台の石垣
空襲で傷んだ部分

現在の天守は実際にはエレベーター付きの近代的なビルであり、博物館として使われています。もしこの建物が元通りの木造天守として置き換えられた場合には、エレベーターを付けることはできません。障がい者の団体は新しい建物にもエレベーターを付けるべきだと主張しています。更には、その木造の建物が火災防止のためスプリンクラーを付けたり、地震から守るために柱を増やしたとしても、政府は博物館として使うことは認めないでしょう。また、入場時の人数制限のような規制も行われるでしょう。

現在の天守には外側と内部にエレベーターがあります。

他の意見

木造の天守は、全く元通りではなく、エレベーターや非常設備を備えられるよう設計変更されるべきだと言う人もいます。役所の中にもこれに賛同する人がいますが、河村市長はあくまで木造天守は元のまま建てられるべきだと言っています。少数派ですが、木造天守は不要で、代わりに現在の天守を耐震工事と博物館改装により一新すべきだとの意見もあります。木造天守を作るには500億円以上かかるのに対し、改装は70億円程で済みます(大坂城での実績)。また、現在の天守自身が文化遺産になりうるのです。事実、大坂城の現在のコンクリート製の天守は、現在建設から90年経っており、最近、国の登録有形文化財になっています。

登録有形文化財になっている大坂城天守

「名古屋城その2」に続きます。

149.小牧山城 その3

徳川氏により守られた山と城跡

その後

1584年の戦いの後、小牧山城は再び廃城となりました。江戸時代の初期、巨石の一部が名古屋城の建設工事のために持ち去られました。そのために一旦割られたが、結局使われなかった石を見ることができます。江戸時代の間、徳川氏は人々が小牧山に入るのを禁じました。この場所は創始者である家康の「御勝利と御開運の御陣跡」とされたためです。近代になっても長い間この山は徳川氏の私有地となっていました。そのために城の基礎部分がよく残っていると言われています。徳川氏が国に山を寄贈した後、1927年に城跡は国の史跡に指定されました。

名古屋城建設のために割られたが使われなった石
公園の北入口に展示されている土塁の断面

私の感想

以前、小牧山城は信長の次のステップのための単なる一時的な陣地だと信じられてきました。ところが、最近の発掘調査の成果により、この城に関する考え方は変わりました。私も実際に残っている巨石を見て驚きましたし、これは信長の城づくりの考え方によるものだと学びました。将来、また新しい発見や研究が出てくることが楽しみです。

山上に残る巨石群
山上からの眺め

ここに行くには

車で行く場合:
東名自動車道の小牧ICから約10分のところです。
小牧市役所を含む山の周辺にいくつか駐車場があります。
電車の場合は、名鉄小牧線の小牧駅から歩いて約30分かかります。
東京または大阪から小牧駅まで:
東海道新幹線に乗って名古屋駅で降り、地下鉄東山線に乗り換え、栄駅で地下鉄名城線に乗り換え、平安通駅で名鉄小牧線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

史跡小牧山、こまき市民文化財団
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「日本の城改訂版第128号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。
「小牧山城その1」に戻ります。
「小牧山城その2」に戻ります。

149.小牧山城 その2

信長と家康の遺産を見ることができます。

特徴

土塁に囲まれた山と城

現在でも、小牧山は緑の木々に覆われ、平地の上に目立って見えます。頂上にある建物は天守のように見えますが、小牧市歴史館です。小牧市は、この山全体を史跡公園として整備してきています。2019年には山麓に小牧山城史跡情報館がオープンしました。

市街地から見える小牧山

Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

山に近づくと、山を取り囲む土塁や空堀を目にすることができるでしょう。これらは1584年の小牧長久手の戦いの際に徳川家康により築かれたものです。東側の御幸橋入口から木橋を渡り、食い違いになっている土塁を通って公園の中に入っていきます。この橋はもとからあったものではなく、観光客が公園に入り易いように作られたものです。土塁の内側は平らな曲輪が広がっており、信長や家臣たちの館があり、また家康の軍勢の駐屯地となっていた所です。

土塁に囲まれた山
御幸橋入口
土塁の内側

安土城と似ている大手道

南側の正面入口からは、もとは信長が作った大手道を山に向かって登っていきます。この道は山の中腹まではまっすぐ伸びていてそこから上はジグザグになっています。この形態は、信長の最後の本拠地となった安土城のものととてもよく似ています。これは、彼が築城に関する考え方をかなり早くから持っていたことを意味します。

小牧山城の大手道
安土城の大手道
中腹から上の大手道
安土城の大手道(中腹より上)

山上に残る巨石と石垣

小牧市歴史館が山の頂上にありますが、かつてはそこが本丸でした。頂上の周辺には、巨石がいくつも転がっているのが見えます。実はこれらの石はもともと本丸を囲む石垣として組み込まれていたものです。石垣の一部は今なお現存していますが、信長ではなく、家康が築いたものと考えられてきました。ところが、最近の発掘により、信長が巨石を使って築いたことが判明しました。三段積みにより作られ、彼の権威を表していたのです。現在では、信長独特の方法で築かれた、城の石垣としては非常に速い事例として認められています。

小牧市歴史館 (licensed by Bariston via Wikimedia Commons)
頂上付近
「転落石」の一つ
現存している石垣

「小牧山城その3」に続きます。
「小牧山城その1」に戻ります。

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