181.小倉城 その2

現在の天守のデザインは、シンプルな屋根を持っていたオリジナルの天守とは随分違っています。現在の天守の外観は、入母屋破風など多くの屋根装飾があり、それらはオリジナルの天守にはなかったものです。

特徴、見どころ

駅近の城

現在の小倉城は小倉駅の近くにあって、駅から歩いて15分程度のところです。ただ、残念ながら駅から城は見えません。周りに高いビルがあるからです。城の方に向かって紫川沿いに達し、しばらく遊歩道を歩いていくと、ビルの合間に城の天守が見えてきます。この瞬間に、小倉城が川とともに発展したことを実感できるでしょう。

城周辺の地図

紫川沿いから見える天守

天守を含む城の主要部は勝山公園として整備されています。かつては多くの水堀により囲まれ、且つ分割されていたため、入口の門は限られていました。虎ノ門や西ノ門などです。しかし今では堀はあまり残っていないので、ビジターは気軽に公園に入っていくことができます。例えば、紫川から公園に行くには、北九州市役所と大手先門跡の脇を通っていけば、すぐに天守が迫ってきます。

「豊前国小倉城絵図」部分に加筆、出典:国立公文書館
虎ノ門跡
西ノ口門跡
大手先門跡
天守に近づいていきます

オリジナルとはかなり違う復興天守

現在の天守は1959年に復興されたもので、オリジナルの天守より5.9m高い、28.7mの高さがあります。また、この天守は日本に存在している中では6番目の高さになります。現存天守台石垣を含めた高さは47.5mです。天守と天守台を囲む内堀際に立ってみると、本当に素晴らしい姿です。ここは確かにこの城のビューイングスポットと言えるでしょう。ところが、この天守には物議をかもすような問題があります。現在の天守のデザインは、シンプルな屋根を持っていたオリジナルの天守とは随分違っているのです。現在の天守の外観は、入母屋破風、唐破風、千鳥破風といった多くの屋根装飾があり、それらはオリジナルの天守にはなかったものです。現在の天守のデザイナーはオリジナルと同じ設計で天守を作ろうとしたが果たせなかったと言われています。現在見られデザインで設計するよう要望されたそうです。当時の人たちは、観光の目玉となるような華々しい町のシンボルを欲していたようです。

復興天守の外観
現在存在する天守の高さ比べ、小倉城天守内展示より
オリジナル天守の外観、小倉城天守内展示より

本丸内の門跡

天守の中に入るには、すばらしい石垣を持つ大手門跡を通り過ぎて本丸に行く必要があります。大手門の石垣には巨大な鏡石が使われていて、桝形と呼ばれる四角い防御スペースを形作っています。

大手門跡
石垣角に使われている鏡石

その後、本丸とそこにある天守にたどり着くには緩やかな坂を登っていくだけです。しかし過去においては、上級武士はもう一つの門、欅門(けやきもん)を通っていました。その門跡は残っています。一方、下級武士は欅門ではなく、鉄門(くろがねもん)の方を通りました。同じ武士といっても階級によって明確な差別があったのです。

前出の復元CGで赤丸内が大手門、青丸内が欅門、緑丸内が鉄門
天守に直通するビジター用の通路
欅門跡
鉄門跡

本丸には御殿がありましたが、現在では旧日本陸軍の第12師団司令部跡地となっています。

本丸内部
第12師団司令部の門跡

リニューアルされた天守内部

天守は歴史博物館として使われていますが、2019年にリニューアルされたばかりです。最上階は、かつてのオリジナルの天守のように展望台となっています。その最上階の外観も南蛮造りとして張り出したデザインになっています。よって、その内側にいるとその外装部分によって包まれたような感じがします。

天守内の展示
最上階
最上からの眺め(東側の紫川方面)
最上階部分の外観

「小倉城その3」に続きます。
「小倉城その1」に戻ります。

181.小倉城 その1

小倉城天守の最上階は張り出していて「南蛮造り」と呼ばれました。そこにあった回廊と高欄が黒い外壁によって囲われていて、悪天候や強風から守られるようにしたのです。

立地と歴史

九州地方への橋頭堡として築城

小倉城は、九州地方の北端にある北九州市の小倉地区にあります。例えば、新幹線で九州に行く場合には城近くの小倉が最初の駅となります。小倉には九州と本州の間にある関門海峡に面した小倉港があって、過去には九州の玄関口としてもっとよく知られていました。そのため、本州から九州に攻め込もうとする戦国大名はここに橋頭堡を築こうとしました。確かな記録によれば、中国地方の有力戦国大名であった毛利元就が1569年に小倉に城を築き、これが後の小倉城になったとのことです。1587年に天下人の豊臣秀吉が九州侵攻を行ったとき、近臣の毛利勝信がこの城を与えられました。しかし勝信は、1600年の天下分け目の戦いで天下を取った徳川家康に反抗したため、改易となってしまいました。

豊前国の範囲と城の位置

細川忠興が大改修

その代わりに、細川忠興(隠居後の名前の三斎としても知られます)が家康を支持し戦功を上げたことで小倉を含む豊前国の領主となりました。後に小倉藩の藩祖にもなります。彼は最初は以前の城主であった黒田氏が築いた中津城を居城としていたのですが、新しい本拠地として1602年に小倉にあった城の大改修を始めました。これによって現在小倉城と呼ばれている城ができたのです。

細川忠興三斎)肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の中津城跡

以前からあった城と港は、湾のようになっていた紫川(むらさきがわ)の大きな河口に沿っていました。忠興はこれらを基に地区開発を行ったのです。城の範囲は大いに拡張され、西曲輪と東曲輪が川を挟むように築かれました。西曲輪は更に水堀によって区切られ、本丸などの小曲輪に分けられ、領主や武士たちの居住地として使われました。東曲輪は城下町となり、商人、職人、僧たちの居住地として使われました。それに加えて、これら全体のエリアを自然の川や人工の運河によって作られた外堀によって囲み、「総構え」の城としました。外周は約8kmに及びました。忠興は、もし城が敵の大軍に攻められた場合には、川の堤を切って敵を水浸しにすることを考えていたそうです。

「小倉藩士屋敷絵図」、城の全体の姿がわかります、現地説明板より
東側の外堀として開削された砂津川

特徴ある天守

城の主要部は高石垣によって囲まれていました。特筆されるのは天守台石垣で、本丸の北西角に築かれ、高さが18.8mありました。天守自体の高さは22.8mだったので、合わせると41.6mとなります。天守は4層でしたが、内部は5階建てでした。4階と5階の間に屋根が設けられなかったからです。また、付けられていた屋根も実にシンプルで、最上階の天辺を除いては、何の装飾も施されませんでした。「層塔式」と呼ばれる工法です。この工法は天守の建造を容易にし、守る側にとっても効率的でした。守備兵は、周りの地域をよく見渡すことができ、どの方角の敵に対しても反撃を加えやすい構造になっていたのです。更にこの天守には「南蛮造り」または「唐造り」と呼ばれたもう一つの特徴がありました。それは、天守のいずれかの層または階が、他の層または階より外側に張り出しているというものでした。小倉城の場合には、張り出していたのは最上階でした。そこにあった回廊と高欄が黒い外壁によって囲われていて、悪天候や強風から守られるようにしたのです。この小倉城のスタイルは、後に津山城高松城にも取り入れられました。

小倉城主奥部の復元CG、小倉城天守内展示より
小倉城天守の復元模型、小倉城天守内展示より
天守を含む津山城の古写真、明治初期、松平国忠撮影 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小笠原氏統治時代の繁栄と挫折

1632年に細川氏は熊本藩の熊本城に転封となり、小倉城と小倉藩は小笠原忠真(おがさわらただざね)に引き継がれました。小笠原氏は徳川幕府の譜代大名であったため、九州地方の外様大名の監視役を期待されていたと思われます。小倉藩の政治が安定してくると、城下町も商業で繁栄しました。西曲輪と東曲輪間の紫川にかかる常盤橋周辺は特に賑わっていました。この橋は長崎街道の出発点でもあったため、本州と九州を行き交う旅人もここを通ったのです。参勤交代を行う九州地方の大名たちや、朝鮮通信使一行もこの道を通って江戸に向かいました。

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の常盤橋周辺のジオラマ、小倉城天守内展示より
現在の常盤橋、木造復元されています
朝鮮通信使一行のジオラマ、小倉城天守内展示より

一方で、城にとって不吉な出来事が1837年に起こりました。天守はそれまで何度も落雷に遭いながら残っていたのですが、不幸にも失火により焼け落ちてしまったのです。その後、天守は再建されませんでした。次には幕末になって、厳しい事態が訪れました。関門海峡を越えた向こう側、本州の端に位置する長州藩が幕府に何度も反抗していたのです。1866年になって幕府が第二次長州征伐を計画し、小倉藩に対し、他藩と連合して小倉口から長州藩を攻めるよう命じました。小倉口は4つの攻撃ルートのうちの一つでした(そのため長州側では幕府側との戦いを「四境戦争」と呼びました)。

当時の瓦版「九州小倉合戦図」、出典:文化庁文化遺産オンライン

小倉口の戦いは6月に始まりました。ところが大方の予想に反して、長州軍が小倉地区に逆上陸を敢行し、幕府側に反撃に出てきたのです。更に悪いことに、7月20日に将軍の徳川家茂が病死したことを聞いた小倉藩の友軍が全て撤退してしまったのです。小倉藩兵は孤立し、ついには8月1日に自らの城に火をかけ、ゲリラ戦のような形で長州との戦いを継続しました。しかし、小倉城の落城と長州軍による占領は、この戦いでの幕府方の失敗を象徴していました。。このことが幕府の崩壊と、長州藩を含む新政府による明治維新を促進することになりました。

現在の小倉城

「小倉城その2」に続きます。

105.白石城 その3

旧城下町のエリアにも、白石城に関する見どころがいくつもあります。まず挙げられるのは、城の北側の三の丸にある武家屋敷です。この武家屋敷は、1730年に建てられたことが確認されています。

特徴、見どころ

天守内部

天守の中へは、本丸の内側から覆屋におおわれた石段を登って入っていきます。実はこの石段は、本丸御殿の「御成御殿」と同じように、藩主の伊達の殿様専用でした。他の藩士は天守のとなりの附櫓(つけやぐら)にあった通用口から出入りしていました。

本丸内側から見た天守
天守模型の入口にも覆屋が付けられています
天守入口の石段

天守は三階建てで、全て木材による伝統的工法で復元されました。柱は吉野檜で、約250年持つということです。一階のレイアウトは発掘によって明らかになり、中央部分が武具の保管庫、その周りが武者走りとなっています。武者走りと壁沿いには、石落とし、狭間、格子窓などの防御システムが備えられています。

天守一階
中央には鎧兜が展示されています
格子窓(左)と石落とし(右)
狭間

上層階への階段はとても急ですが、オリジナルよりは緩やかで、補助の手すりも付いています。二階と三階のレイアウトは資料がなくて不明であるため、想定復元されていますが、オーソドックスな作りになっています。最上階(三階)は物見台になっていて、恐らくそれが正しいでしょう。現在ではビジターにとって快適な展望台となっています。

急な階段(二階部分)
最上階
最上階からの眺め
本丸と市街地の眺め

城下町の見どころ

旧城下町のエリアにも、白石城に関する見どころがいくつもあります。まず挙げられるのは、城の北側の三の丸にある武家屋敷です。この武家屋敷は、1730年に建てられたことが確認されています。片倉氏の配下で、中級クラスの武士であった小関氏が長い間住んでいました。その子孫の方も1991年まで住んだ後、白石市に寄贈したのです。市は住居をかつてあった状態に復元し、翌年一般公開しました。

旧小関屋敷

市街地周辺の航空写真

茅葺屋根の小さく簡素な屋敷で、部屋が4つあります(板間の茶の間と納戸、土間の台所、畳間の座敷)。建物が小さいのは恐らく、白石の藩士が伊達家に直接使える藩士に比べて比較的収入が少なかったからと思われます(小関家の場合は石高換算で15.5石、伊達家で中級とされたのは少なくとも30石以上だったようです)。それでも、沢端川が屋敷の2面を流れていて(屋敷の角で曲がっています)とてもよい立地です。

茶の間(居間)
座敷(現場では「なかま」と呼ばれています)
屋敷にある庭
沢端川が隣接しています

それ以外には、街の中を水路沿いに歩いてみたり、當信寺(とうしんじ)や延命寺(えんめいじ)では移築された城門を見学することができます。

當信寺にある旧東口門
延命寺にある旧厩口門(修繕中)

私の感想

振り返ってみると、白石城は2度の例外適用によって生き残ってきたことになります。一度目は江戸時代に幕府によって発布された一国一城令のときです。二度目は現代の権鞠基準法に関するものです。それに加えて、片倉氏や現在の白石の人たちの大いなる貢献がなければ、城の天守を目にすることはなかったと思うのです。

復元された天守

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の白石ICから約10分かかります。
城がある丘の東側に「城下広場」があり、駐車場として使用できます。
公共交通機関を使う場合は、JR白石駅から15分程度歩くか、東北新幹線の白石蔵王駅からタクシーで約5分かかります。
東京から白石駅まで:東北新幹線に乗って、福島駅で東北本線に乗り換えてください。

白石駅

リンク、参考情報

白石城 公式ホームページ
・「日本の城改訂版第50号」デアゴスティーニジャパン
・「よみがえる日本の城17」学研
・「よみがえる白石城」碧水社
・「仙台藩の武士身分に関する基礎的研究」堀田幸義(宮城教育大学)の論文

これで終わります。ありがとうございました。
「白石城その1」に戻ります。
「白石城その2」に戻ります。