72.吉田郡山城 その2

城跡を巡ってみれば、毛利氏の長い歴史を実感できます。

その後

吉田郡山城が廃城となった後、浅野氏が江戸時代を通じて城があった地域を領有していました。1600年の関ヶ原の戦いの敗戦により、毛利氏の領地が大幅に削減されてしまったからです。浅野氏は、1637年に起こった島原の乱の後、城の石垣を破壊しました。徳川幕府が西日本の大名に対して、廃城となった城であっても反乱者に利用されないように命じたからです。

崩された三の丸の石垣

対照的に、孫の毛利輝元によって城の一部分に作られた毛利元就の墓所は、維持されていました。浅野氏は、毛利氏の長州藩の領主や藩士たちが元就の墓所に墓参りすることを許していました。結果的に、他の藩の藩士たちも偉大な戦国大名の聖地として同じように元就の墓所を訪れるようになりました。明治維新後、墓所は毛利氏の他の先祖たちの墓も集められ拡張されました。恐らく長州藩が、明治維新における勝者であったからできたことだろうと思われます。城跡は、1940年以来、国の史跡に指定されています。

城内にある毛利元就の墓所

特徴、見どころ

城跡入口へ

もし吉田郡山城跡周辺を車で回ってみると、この地には「桂」や「福原」などの地名が今でも残っていることに気付かれるかもしれません。これらの地名は、江戸時代末期まで毛利氏の重臣であった桂氏や福原氏などの出身地であることを示しています。歴史ファンの方はそれを見ただけでもわくわくするかもしれません。

安芸高田市吉田町周辺の地図

吉田郡山城跡を巡るには、推奨ルート(現地案内図に記載)が設定されています。そのスタート地点は、山麓にある駐車場傍の、元就の墓所の入口となる鳥居です。その鳥居から墓所向かう参道をしばらく歩いて行くと墓所に着きます。ここは城跡の中では聖地としてもっとも整備されている場所かもしれません。ここには洞春寺(どうしゅんじ)跡もあります。この寺は輝元によって開創されましたが、その後の毛利氏の領主とともに広島、萩、そして山口に移っていきました。

城周辺の地図

元就の墓所の入口
元就の墓所への参道
元就の墓所
洞春寺跡

峰上の登山道

そこから、山頂に向かう登山道を登っていきます。この登山道は山の6つの嶺のうちの一つの上を通っています。山頂に着くまで約30分の比較的長いトレッキングになります。その途中では、山にあった曲輪を分ける堀切や、ときには鹿のような野生動物も見かけるかもしれません。野生動物は刺激しないようにしましょう。

登山道の入口
嶺上を進む登山道
曲輪を分ける堀切
シカに遭遇

頂上部分に残る曲輪群

そのうちに、頂上下にある御蔵屋敷跡(おくらやしきあと)に着きます。頂上部分は、本丸、二の丸、三の丸の三段になった曲輪群から構成されています。頂上から6つの嶺が放射状に伸びていて、それらにも数多くの曲輪があります。

御蔵屋敷跡
山頂部分の地形図、現地説明板より

御蔵屋敷跡周辺には、数えきれない程の崩れた石が散らばっています。これらは島原の乱の後に幕府の指導のもとに、浅野氏によって石垣が破壊された状態であると考えられています。だとすると、これらの石は400年近くそのままになっていることになります。しかし、三の丸の壁面の周りを歩いてみると、石垣がいくらか作られた当時のまま残っていることにも気付くでしょう。

散らばっている石
部分的に残っている三の丸の石垣

また、6つの嶺にある曲輪(釣井(つりい)の壇、厩(うまや)の壇、釜屋の壇など)を巡ってみることもできます。但し、危険箇所として立ち入りが禁止されている場所もあります。そこは、登山道が崩落しているような場所ですので、立ち入らないようにしましょう。立ち入りができる場所も草木が茂っていたりしますので、足元に気を付けてください。

釣井の壇にある井戸
厩の壇
厩の壇の先に続く峰
釜屋の壇
一部の嶺は立ち入り禁止になっています(2023年10月時点)

「吉田郡山城その3」に続きます。
「吉田郡山城その1」に戻ります。

72.吉田郡山城 その1

毛利元就の勢力拡大とともに発展した城

立地と歴史

毛利氏累代の本拠地

吉田郡山城は、現在の広島県西部にあたる安芸国にありました。城の位置はまた、中国地方の中心部の山間地でもありました。この城は最初は、郡山という山の一つの嶺上に築かれた小さな山城としてスタートしました。国人領主の毛利氏が中世のいずれかの時期に築いたとされています。戦国時代に毛利氏当主であった毛利元就が中国地方のほとんどを支配する有力戦国大名になったことで、この城も全山を覆うような規模に発展していきました。

安芸国の範囲と城の位置

毛利氏は、もともと典型的な地方領主で、13世紀以来吉田荘を支配していました。時が経るにつれて、福原氏や桂氏など毛利氏の親族は、主家の重臣となっていきました。戦国時代の16世紀初頭のときでさえ、毛利家当主は小さな吉田郡山城に住み、重臣たちは彼ら自身の城や館に住んでいました。一方で、彼らの結束は強く、これが後に中国地方での成功を収める要因の一つとなりました。

城周辺の起伏地図、重臣の本拠地は城とは別の所にありました

困難の連続であった元就

元就が1524年に毛利家の当主となり、最初に吉田郡山城に入城したとき、状況は既に悪化していました。それまでの当主が相次いで若死にし、その結果毛利氏の勢力は衰えていました。更に安芸国は、約30の元就のような小さな国人領主によって分割されていました。その一方で、安芸の西では周防国の大内氏が、安芸の北では出雲国の尼子氏が、有力な戦国大名として勢力を拡大していました。安芸の国人衆はどちらかに従わなければならず、そうでなければ滅ぼされる運命でした。毛利氏は尼子氏に付いていましたが、尼子氏は元就を跡継ぎの座から追い落とし、容易にコントロールできる別の人間(元就の母違いの弟、相合元綱、あいおうもとつな)を当主の座に就けようとしました。しかし、元就は重臣たちの支えによって、何とか切り抜けることができました。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の尼子氏当主、尼子経久肖像画、洞光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このような困難な状況を生き残るため、元就は地元の安芸国では支配者ではなく、調停者のように振舞いました。例えば、彼は競争相手の宍戸(ししど)氏に対して、彼の娘を宍戸氏の跡継ぎ(宍戸隆家)に嫁がせることで講和を結ぶ提案を行いました。宍戸氏はやがて元就の重臣の一角を占めるようになります。また、安芸国や備後国(安芸の東)の国人たちと同盟を結ぶ際には、傘連判状を用いました。この連判状は、主宰者はなく参加する誰もが対等の権利を持っているような形式となっています。元就は常に、彼の3人の息子、隆元、元春、隆景に対して毛利の繁栄のために団結するよう説いていました(これが後の時代に三本の矢のエピソードを生みます)。その後、元春と隆景を、それぞれ吉川氏と小早川氏の跡継ぎに送り込み、毛利の親族にしてしまったのです。しかし、元就はときには毅然として戦うこともあり、例えば重臣の井上氏を滅ぼしたりしました。彼らが統制不能となってしまったからです(井上氏は毛利家の財政を担っていて、家中で勢力が大きくなりすぎてしまったようです)。

毛利隆元肖像画、常栄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉川元春肖像画、早稲田大学図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1540年、吉田郡山城に大きな危機がやってきます。元就が同盟先を尼子氏から大内氏に変えた後のことでした。尼子氏の約3万の兵が9月に城を取り囲みました。その当時の城はまだ小規模だったと思われますが、元就は武士と農民を含む約8千名と4ヶ月間籠城しました。大内氏からの援軍を待っていたのです。その援軍は12月に到着し、尼子軍は撤退せざるをえませんでした。この遠征の失敗は、尼子氏の没落のきっかけとなり、元就による1566年の月山富田城の戦いにおいて現実のものとなります。

当時の尼子氏当主、尼子晴久肖像画、山口県山口博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉田郡山城跡遠景 (licensed by TT mk2 via Wikimedia Commons)
尼子軍が陣を敷いた青山(左)と光井山(右)の遠景
月山富田城跡

家臣が郡山に集まり全山が城郭化

その後、元就は多くの武略、計略、調略を通じて有力な戦国大名となりました。特に大内氏を継いだ陶氏と戦った1551年の宮島の戦いが有名です。元就は、領土拡大事業の最中の1546年、息子の隆元に家督を譲りますが、まだ実権は握っていました。そして、最初に城が築かれた山の嶺から山の頂上の方に引っ越しました。そこが本丸と呼ばれるようになります。隆元は元就の代わりに元の嶺の方に住み続け、そこは本城と呼ばれました。しかし結局、元就がいる近い場所に新たな曲輪(尾崎丸)を築いて移っていきました。父親との連絡のための行き来が大変だったからです。他の家臣たちも山の方に集住することになり、結果、吉田郡山城は毛利氏の勢力が増すたびに拡大し、約270もの曲輪が全山を覆うことになりました。

吉田郡山城の山頂と本城の位置関係、現地説明板より
「郡山全図」、山口県文書館蔵、現地説明板より

孫の輝元が広島城に移り廃城

1563年の隆元、1571年の元就の死後、隆元の息子、輝元は祖父と父親が残した城を継承し、石垣を築くなど城の改築と近代化を行いました。しかし、輝元は1591年に新しい本拠地として広島城を築き、移転していきました。吉田郡山城はやがて廃城となりました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の広島城

「吉田郡山城その2」に続きます。

74.岩国城 その3

あまり人が行かない北の丸が見どころ

特徴、見どころ

破却の跡が残る北の丸

オリジナルの岩国城の中で、真の見どころは、実は本丸ではなく、ほとんど人が行かない北の丸だと思います。旧天守台石垣の脇の通路から本丸を出て、本丸と北の丸の間にある大きな空堀を渡るルートを進みます。城の創始者、吉川広家が敵が突然攻めてきても本丸を守れるよう、この空堀を設けました。

山城部分周辺の地図

旧天守台石垣脇の通路
本丸と北の丸の間の空堀
空堀を渡る土橋

北の丸の内部は広場になっています。しかし、そこから曲輪の外側へ注意深く下っていくと、そこで見るものにびっくりするかもしれません。曲輪の西側周辺に、たくさんの大きな石が崩れ、横たわっているのです。一方、曲輪の東側周辺では石垣がまだ健在です。これは、吉川氏が山城部分をどのように破却したかを示しています。破却の最初の段階では建物のみを撤去したのですが、1638年の島原の乱が起こった後に、幕府が西日本の大名に、使っていない城の破却を徹底するよう命じたのです。吉川氏は、それにより石垣の一部(西側)を破壊したのですが、残りの分は恐らく居住に使っている方角(東側)に被害が発生しないよう残したのだと思われます(東側は城の正面にあたるので威厳を守るため残したとの意見もあります)。

北の丸
北の丸の西側周辺
北の丸の東側周辺

山麓部分

山麓の以前居館だったところは、現在でも内堀に囲まれていて、吉香公園となっています。吉香神社がこの中に移設されています。神社の本殿は重要文化財です。錦雲閣(きんうんかく)という絵馬堂が区画の隅に立っていて、まるで櫓のように見えます。公園ができたときに建てられました。

山麓部分周辺の地図

吉香公園
吉香神社本殿
錦雲閣

その周辺にはいくつか武家屋敷がそのまま残っていて、散策をしながら見学できます。

旧目加田(めかた)家住宅、重要文化財

私の感想

吉川広家は、戦わないという決断を下すことができる真の勇者だと思います。その当時の毛利氏の多くの関係者や、今日の歴史ファンの一部も、もし広家が関ヶ原の戦いに参戦していれば毛利氏が天下を握れたのではないかと文句を言っていますし、私もかつてはそうでした。しかし、それは正にギャンブルそのものです。広家の決断のおかげで実際に毛利家も今日まで続いているわけです。広家は、先を見通すことができる優れたリーダーだったのです。岩国城も同じく、広家の生き方のように、そのときの社会の要請に応えながら生き残っています。そのおかげで城のある地は錦帯橋とともに栄えているのでしょう。

再建天守から帰るときには西側の広い道を通ってはいかがでしょう
城の西側にある井戸「大釣井」
城の西側には石垣が見当たりませんが、全て撤去されてしまったようです
城の東側には立派な石垣が残っています(写真は本丸下)

ここに行くには

車で行く場合:山陽自動車道の岩国ICから約20分かかります。周辺に駐車場がいくつかあります。
公共交通機関を使う場合は、岩国駅か新岩国駅から錦帯橋行きのバスに乗り、錦帯橋バスセンターで降りて下さい。
東京か大阪から岩国駅まで:山陽新幹線に乗って、広島駅で山陽本線に乗り換えてください。
東京か大阪から新岩国駅まで:山陽新幹線に乗ってください。

岩国城と錦帯橋

リンク、参考情報

岩国城、岩国の観光.com
・「よみがえる日本の城7」学研
・「うつけの采配(上下合本)/中路啓太著」中公文庫

これで終わります。ありがとうございました。
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「岩国城その2」に戻ります。