116.沼田城 その1

沼田城があった地域は、地理の教科書的にも、典型的な河岸段丘の地形として知られています。沼田市街地がある台地は、北は薄根川、西は利根川、南は片品川が作った谷に囲まれ、東側に開けています。城と城下町はその台地上にありました。

立地と歴史

沼田城と天空の城下町の始まり

沼田城があった地域は、地理の教科書的にも、典型的な河岸段丘の地形として知られています。沼田市街地がある台地は、北は薄根川、西は利根川、南は片品川が作った谷に囲まれ、東側に開けています。城と城下町(現在の市街地)はその台地上にありましたが、地名の元となった「渭田郷(ぬまたごう)」は西側の利根川沿いにありました。その周辺に「荘田沼」というのがあって、それが大元なのかもしれません。室町時代には、その地名を名字とした地元領主の沼田氏が、その沼の近くの荘田城を本拠地にしていたと考えられています。やがて戦国時代にさしかかり、戦乱の世の中になってくると、沼田氏は、小沢城(1405年)、幕岩城(1519年)と、段丘上に拠点を移していきました。そして1532年(天文元年)に、当時の当主・沼田顕泰が、現在の沼田城の地に、倉内城を築いたと伝わっています。つまり、沼田氏の移転とともに「沼田」という地名の範囲が広がったようなのです。顕泰は、城下町も台地上に作りました。(「材木町」「本町」「鍛冶町」がこのとき形成されたいう記録あり)当時、城は山上、城下町は山麓というパターンが多かったので、珍しかったかもしれません。しかし、台地の端で水が不足していたため、15キロメートル以上先の台地の東側から白沢(しらさわ)用水(市街地では城堀川、じょうぼりがわ)が引かれました。これが沼田城と「天空の城下町」の始まりです。

河岸段丘のまち、天空の城下町・沼田
荘田城跡
小沢城跡
幕岩城跡
沼田城跡
沼田市街地を流れる用水。城堀川

次に関東地方という視点で見てみると、沼田は北関東において、南北と東西の街道が交わる地点でした。有力な戦国大名が台頭してくると、交通の要衝にあり、要害である沼田城は、彼らにとって是非とも手に入れたい拠点になったのです。やがて、沼田氏一族内で、関東管領・上杉氏につくか、北条氏につくかを巡って内紛が起こりました。16世紀中頃、上杉氏を関東から追い出した北条氏は、内紛に乗じて沼田城を乗っ取りました。(当主の沼田顕泰は、上杉氏とともに越後に逃れたと考えられています。)そして、一族の者を「沼田康元」として沼田城主としました。康元は、北条綱成次男・孫四郎のこととされています(下記補足1)。

(補足1)
康元ハ氏康ノ舎弟玄庵ト申人也、此山城ハ泰拠也、安越ハ綱重(綱成)事也
(年次不詳 北条康元書状写 追而書、沼田市史より)

上杉謙信と真田昌幸の登場

沼田を巡る状況は、1560年(永禄3年)に大きく変わります。越後の長尾景虎、つまり上杉謙信が、関東管領を中心とした秩序回復を掲げ「越山」と呼ばれる関東地方侵攻を開始したのです。謙信は生涯で17回も越山を行いましたが、もっとも大規模でインパクトがあったのが、この年だったのです(2回目)。国境の三国峠を越え、9月に沼田城を確保、さらに厩橋城(前橋城)を関東経営の拠点にします。その後、謙信越山時には、関東の出入口として、毎回往復していて、謙信の関東不在時にも、厩橋城などからの連絡ルートとして機能しました。そのため、城主として、謙信の信頼する・河田長親が置かれました。厩橋城が一時、北条方のものになったとき謙信は、沼田を失えば「天下の嘲り」であると言っています。

沼田顕泰は「越山」とともに「沼田衆」の筆頭として復活したと考えられますが、沼田城主にはなれませんでした。地元領主の城ではなくなっていたのです。1561年(永禄4年)伊香保温泉に湯治に行った謙信が、そのとき恐らく老齢で「万喜斎(ばんきさい)」と名乗っていた顕泰に、酒肴を受け取った礼状を送っています(下記補足2)。
これが彼に関する最後の記録です。

(補足2)
就湯治為音問檜肴給之候、賞翫無他事候、養性相当候間、近日可出湯間、恐々謹言
 四月十六日 政虎
沼田入道殿
(上杉政虎書状写 東大日本史学研究室)

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、謙信が亡くなると(1578年)跡継ぎを巡る内乱が起こり(御館の乱)、その最中に北条が再び沼田城を手にします。そのとき現れたのが、武田勝頼の家臣・真田昌幸でした。謙信の後継となった景勝が、武田と同盟し、その代償で東上野(沼田含む)を武田領と認めたのです。1579年、昌幸は城主だった藤田信吉を調略し、沼田城を占拠しました(下記補足3)。1581年には、旧領回復を狙って攻めてきた沼田顕泰の遺児・平八郎を、謀略で返り討ちにしています。

(補足3)
沼田出勢のみぎり、最前に当家に属され候の条、倉内城本意、誠に忠節比類なく候・・・
(天正8年12月9日 藤田信吉宛武田勝頼所領宛行状)

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

そして、主君の武田氏が滅亡し、滅亡させた織田信長までが本能寺の変で討たれると、独立大名を志向して動きました。その核となったのが本拠地の上田城と、沼田城でした。昌幸は、北条〜徳川〜上杉と、有利な条件を求めて、主君を何度も変えています。上杉へ鞍替えしたのは、徳川が北条に、沼田を含む上野国の領有権を認めたからでした。そのために、1585年には、徳川軍から上田城を攻められましたが、撃退に成功しました(第一次上田合戦)。それと並行して、北条軍から沼田城を攻められますが、昌幸の叔父・矢沢頼綱が防ぎました。

その後、豊臣秀吉に臣従し、一旦は沼田城を北条氏に引き渡しますが、名胡桃城事件をきっかけとした小田原合戦(1590年)で北条氏が滅び、また真田の下に戻ってきました。

上田城跡

真田氏による沼田の発展

小田原合戦後、関東地方は徳川家康の領地となりました。沼田城には、昌幸の長男・信之が入り、家康の配下と言う形になりました。併せて、昌幸が本拠としていた上田に対しても、その支藩というような位置付けでした。この2つに区分された領地が、沼田藩・上田藩の基になります。沼田については、信之以後、5代91年の真田氏の支配が続きます。また、正之は、家康の重臣、本多忠勝の娘・小松姫を妻としていました(家康の養女であっととも言われています)。このことが、関ヶ原の戦いのときに、信之が東軍、昌幸(+信繁)が西軍に分かれたときに、混乱なく対応できたことにつながります。なお、そのとき昌幸が沼田城を乗っ取ろうとしたが、城を預かった小松姫が決して入城させなかった逸話がありますが、実際には小松姫は当時大坂にいたようです。関ヶ原後は、信之が上田藩も引き継ぎました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

信之は、沼田に入ってから、城の整備を進めました。城は当初、台地の隅の「捨曲輪」「古城」と呼ばれた場所にありましたが、拡張されていて、1586年(天正14年)には二の丸・三の丸が整備されたと伝わっています。信之時代の1596年(慶長元年)には天守の普請が始まり、翌年に完成しました(「月夜野町後閑区有文書」、時期には異説あり)。この天守の姿は、後に沼田藩が幕府に提出した絵図(「上野国沼田城絵図」)に描かれています。四階に見えますが、下に屋根があるので、五重の天守だったことが確実視されています。関東地方には、他には江戸城にしか五重の天守はありませんでした。真田氏はそれが許されるような存在だったのです。

「上野国沼田城図」部分、出展:国立公文書館
上図本丸部分の拡大

藩政としては、信之の時代は、戦乱や飢饉で荒廃していた領内を復興することを優先しました。例えば、逃散した農民が戻ってきた場合に、未納年貢を免除したり、借金を肩代わりしています(下記補足4)

(補足4)政所村(月夜野町)の百姓が欠落し、あるいは身売りしたため、田地がことごとく荒れてしまったので、借金を返済して身売り百姓を召し返すように(慶長19年7月 出浦対馬守・大熊助右衛門に対する信之指示、訳は「沼田市史」より)

信之は大坂の陣後の1616年(元和2年)、上田に移り(1622年には松代に転封)、沼田藩は長男の信吉に任せました(沼田藩2代目、~1635年・寛永11年)。信吉の時代に、沼田の城下町・用水・新田・街道・産業の開発が本格化します。例えば、城下町では坊田新町を開き(1616年、元和2年)、人口増に伴い再び水不足となったので川場用水を開削したり、新田開発者には一定期間年貢を免除したりしました。当時、城下に時刻を知らせてた時の鐘が残っています。

天桂寺にある信吉墓
信吉時代の時の鐘(城鐘)、沼田市ホームページより引用

信吉の子・熊之助(沼田藩3代目、~1638年・寛永15年)は、幼少で亡くなってしまったので、信之の次男である信政(沼田藩4代目、~1656年・明暦2年)が跡を継ぎました。信政は後に「開発狂」と称されるほど、領内の開発を促進しました。この時代に開発された代表的な用水や町が「信政の七用水」「真田の八宿」と呼ばれています。沼田藩の公式の石高(表高)は3万石でしたが、信政の時代に内輪の検地をおこなったところ(内高)、4万2千石に増加していました。

真田信政肖像画、真田宝物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

沼田藩真田氏の改易

1656年(明暦2年)、信之の隠居に伴い、信政は松代に移っていきました(松代藩2代目)。そして、沼田藩を継いだのが信吉の次男・信利でした(沼田藩5代目、~1681年・天和元年)。その後、松代の信政が亡くなると(1658年・万治元年)、真田本家の跡継ぎをめぐって、信利と、信政の子・右衛門(幸道)との間で争いとなりました。幕府の裁定にまで持ち込まれ、松代藩は右衛門、沼田藩は信利と決定しました。そして間もなく信之も亡くなり、両藩は完全に独立した藩同士になりました。

信利の治世にはこれまで、よい評判はありませんでした。松代藩への対抗心をあらわにし、石高を松代より多い14万石と称し、豪華な藩邸を建て、贅沢な暮らしをしたというものです。また、費用を捻出するために、年貢を重くし、あらゆるものから税金を取り立てたとのことです。そしてついに、義民、杉木茂左衛門の命をかけた訴えが元で、改易になったというストーリーが知られています。しかし、残念ながら茂左衛門の存在は当時の史料では確認されておらず、知られているストーリーも明治時代に広まったのです。それでは、信利の改易の実態はどうだったのでしょうか。

義人杉木茂左衛門の碑

沼田藩は、信利にとって厳しい状況でした。沼田藩は山間地であるため収穫が不安定で、以前は松代藩の援助を受けていたのです。また、かつて沼田の地を確保するため、地元領主を優遇していて、彼らは高禄の家臣になり、その領地には藩主の支配が及んでいませんでした。その合計石高は藩の表高を越えるほどでした。開発を急いでいたのは、こういう事情もあったのです。

信利はこの状況に対応するため、前代にも増して用水、新田の開発に力を注ぎました。件数では歴代最多です。また、領民の心の拠り所となりうる寺社も多く創建しました。多すぎる地元出身の高禄家臣に対しては、リストラを敢行し、支出を減らしました。そして、開発した田畑を確かめるため、藩で初めて徹底的な検地を行いました。地元領主の力が強かったときにはできなかったことです。

しかし、この検地の結果は、開発が進んだとはいえ、総石高が14万4千石という驚くべきものでした。実は単位あたりの田畑収穫高を実態より過剰に見積っていたのです。よって、農民は重税に苦しむことになりました。また、1680年(延宝8年)には大雨と洪水の被害が発生し更に困窮しました。そして、この大雨により江戸の両国橋まで破損したことが(下記補足5)、信利の命取りにつながるのです(両国橋用材請負失敗)。

(補足5)昨夜大雨風やまず、昼より黄蝶数知らず群がり飛んで、夜に及んで散ぜず。また南風激しく、城中諸門の瓦を落とし壁を落とす。まして武家、商屋傾覆すること数知らず。地が震え海が鳴ること甚し。芝浦のあたりより高潮押し上げ、深川永代、両国辺り水涯の邸宅、民屋ことごとく破損し、溺死の者多し(徳川実紀 延宝8年閏8月6日条)

「両国橋大川ばた」、歌川広重作、出展:国立国会図書館

この両国橋再建の幕府入札で、江戸の材木商(大和屋久右衛門)が格安で落札しました(相場1万5千~2万両のところ、9500両)。その商人は、沼田の近場の山から簡単に調達できると考え、沼田藩に話を持ち掛けました。信利は安易にその話に乗ってしまったのです。財政の足しになると思ったのでしょうか。用材は近場どころか山奥でも調達できず、納期の翌年10月に間に合いませんでした。その調達のために、領民が大量動員され(延べ約17万人)、更に困窮しました。その結果、信利は1681年、天和元年11月、幕府から改易を言い渡されたのです。

幕府の公式記録(徳川実紀)によると、信利改易の理由は以下の通りです(下記補足6)。
・両国橋の用材の遅延
・日ごろの身の行いが正しくないこと
・家人・領民を苦役したこと
2、3番目は、処分の場合の常套句だそうですが、信利の場合は、リストラされた家臣や、酷使された農民たちからの影響があったかもしれません。当時の将軍は徳川綱吉で、将軍独裁の風がまだ残っていて、その治世で40人以上が改易・減封になっています(赤穂事件などもその一つ)。信利は、改革を急ぎすぎて失敗し、幕府にその隙を突かれることになったのかもしれません。沼田は幕府領となり、そのとき関東で唯一だった五重天守を含め、沼田城は、翌年1月、わずか10日間で破壊され、埋められてしまいました。

(補足6)上野国沼田城主・真田伊賀守信利の所領三万石没入せられ、出羽山形に配流し、奥平小次郎昌章に召し預けらる。これは、両国橋構架を助役し、おのが封地より橋材を採りけるが、ことのほか遅緩せしのみならず、日頃身の行い正しからず、家人、領民を苦使する聞えあるをもてなり(徳川実紀 天和元年11月22日条)

徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
沼田城天守、街なかのディスプレイより

その後

沼田地域は、幕府代官の努力で復興に向かい、再び沼田藩として、本多氏、黒田氏、土岐氏に受け継がれました。ただ、城としては小規模に再興されただけでした。現在は、本丸周辺が沼田公園として整備されています。

沼田公園

「沼田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その2

金沢城公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

今回は出発地として、金沢駅前に来ています。鼓門がすっかり駅のシンボルになっています。駅から金沢城公園までは少し離れているので(約2km〜)、バスなどに乗っていかれるのがいいと思います。公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。実際に行かれるときは、お時間に応じて、選択されたらいいと思います。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

金沢駅鼓門

百間堀〜石川門コース

ここは「広坂」交差点の近くです。向こうに城の高石垣が控えています。城がどんなところに築かれたのかよくわかります。道路がまっすぐ城がある台地を貫いていますが、これがかつての百間堀です。手前に見えるのが、外堀の「いもり堀」と「鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)」で、いずれも復元されたものです。

広坂交差点付近
「いもり堀と鯉喉櫓台

本丸南面の高石垣は、何段にも分かれて積まれています。実はもとはひと続きだったのが、明治時代に崩れてしまい、今のように積み直されたそうです。

本丸南面の高石垣

歩いている通り(お堀通り)が百間堀跡で、長さ150間(約270m)、幅40間(約70m)にもなったことで、その名がついたと言われています。今もその迫力は変わりません。台地の方(右側)から攻めてくる敵を防ぐためでした。現在は金沢城公園と兼六園の境界になっています。

百間堀跡

左側もすごい石垣が続きます。「東の丸東面の石垣」です(本丸の東側を「東の丸」といいます)。ここも段積みになっていますが、当初からこのスタイルでした。城でもっとも古い石垣の一つで、高さはトータルで21mもあるそうです。おそらく、前田利長が、利家から命じられて築いたものでしょう。

東の丸東面の石垣

石川門が見えてきました。門に行くのには、道路のこちら側(西側)からは登れないので、向こう側(東側)に渡って、改めて頭上の橋(石川橋)を渡ります。

石川門
石川橋

かつての石川橋は、堀にかかる土橋だったとのことです。兼六園ともつながる城の代表的な入口です。城としては搦手門(裏門)に当たりますが、防衛上は正門なみに大事な場所でした。橋から見る百間堀(跡)も壮観です。

石川橋と石川門
石川橋から見る百間堀跡

石川門の櫓(隅櫓)は大変見栄えがします。味方にとっては頼もしく、敵にとっては脅威だったでしょう。最初の門(一の門、高麗門)を入ると、枡形(防御用の四角い空間)です。枡形の左右の壁で石垣のデザインが違います。左側が江戸前期(寛文年間〜、粗加工石積み)で、右側が江戸後期(明和年間〜、切石積み)です。改修を重ねた結果、こうなったようです。さすが石垣の博物館です。

石川門隅櫓
一の門
枡形の石垣

枡形の内側にある鉄砲狭間も見逃さないようにしましょう。表側からは見えないようになっています(隠し狭間)。次の門(二の門、櫓門)は、とにかく重厚です。
ず:あれ、表からは見えなかったよね。石川門の内側が三の丸です。

枡形内側の鉄砲狭間
二の門
三の丸

大手門~二の丸コース

次は大手門口にやってきました。傍らには、唯一そのまま残っている大手堀があります。昔はここに大手門があり、尾坂門とも呼ばれました。大手門らしく、正面に「鏡石」を配しています。何度も通路が曲げられているので、ここも枡形だったのでしょう。石垣は初期(慶長)の頃のものですが、現在残っている絵図には、建物は描かれていないそうです(石川県HP)。早くに火事で燃えて再建されなかったのかもしれません。

大手門口
大手堀
大手門の鏡石

中に入ると、広々としています。ここは新丸(広場)で、初期には重臣の屋敷地でしたが、つ:やがて、城外に移転していき、藩の役所や細工所(工房)が置かれました。

新丸広場

次は、三の丸の入口・河北門への坂道を登っていきましょう。この門は、幕末まで実質的な城の正門として機能しました。陸軍による撤去後、2010年に130年ぶりに復元されました。右側には、「出し」(出窓)がついた、ニラミ櫓台があります。とても見栄えがするけど、敵だったらそこから狙われてしまうでしょう。枡形の中に入ると、中は石垣があまりないように見えます。実は「枡形土塀」といって、中に隠し石垣が仕込まれていて、それも復元したそうです。櫓門の中に入ることもできます。

河北門への坂道
河北門
河北門枡形
河北門内部

門の内側が三の丸で、折り返して、二の丸の入口・橋爪門に行きましょう。今度は、右側に菱櫓があって、五十間長屋が橋爪門の続櫓までつながっています、これらも2001年に復元されました。

河北門(右側)を出て折り返します
菱櫓(右側)
五十間長屋が橋爪門続櫓までつながっています

橋爪門は、二の丸の正門です。二の丸御殿までの最後の門として格式も高かったのです。2015年に復元されました。中の枡形はかなり広く、周りの塀は二重で、なんと出し付きです。門を出ると、二の丸に到着です。

橋爪門
橋爪門桝形
門を出ると二の丸です

二の丸御殿の復元工事が始まっています。今後が楽しみです。

二の丸御殿跡

五十間長屋(など)の中に入ってみましょう。

五十間長屋入口付近

こちらは、つながっている橋爪門続櫓の中です。先ほど通った枡形が見えます。

橋爪門続櫓内部
橋爪門枡形が見えます

五十間長屋の中を進みましょう。中を歩いた方が、かえってその長さを感じることができます。

五十間長屋内部

端のところにあるのが菱櫓です。床を見ると、ゆがんで作られているようにも感じます。これは、菱櫓の平面がわざと菱形(平行四辺形?)に作られているからです。大手門と搦手門両方を視野を広く監視するためと言われています。

菱櫓内部
五十間長屋と菱櫓の継ぎ目

本丸コース

次は、二の丸から本丸に行ってみることにします。極楽橋を渡ります。尾山御坊(金沢御堂)のときからあったと言われる橋です。現存している三十間長屋が見えてきます。

極楽橋

なにか普通の倉庫にも見えます。確かに普段は倉庫として使われたそうですが、反対側に回ってみると、出し(出窓)が付いています。出し周辺からは、玉泉院丸や鼠多門の方を眺めることができます。きっとこちら側を監視する役割があったのでしょう。

三十間長屋
三十間長屋の出し

鉄門(くろがねもん)跡を通って、本丸の中心部に行きます。いくつか櫓跡があります。まず、北西の戌亥櫓跡です。今まで回った城の建物をよく見渡すことができます。

鉄門跡
戌亥櫓跡
戌亥櫓からの眺め

本丸の中心部は現在「本丸の森」と呼ばれています。次は、南東の辰巳櫓跡です。金沢の街を一望できます。ここは、最初に見た本丸南面の高石垣の天辺です。見張りをするにも最適な場所だったのでしょう。しかし、寛永の大火のときは、ここに飛び火したそうです。

本丸の森
辰巳櫓跡
辰巳櫓跡からの眺め

最後は、北東の丑寅櫓跡です。向かい側は兼六園で、この下は先ほど歩いた百間堀跡です。

丑寅櫓跡
丑寅櫓跡からの眺め

この辺から下ると、三の丸の方に出ますが、その途中に、現存する鶴丸倉庫があります。

鶴丸倉庫

鼠多門~玉泉院丸コース

最後のコースの出発点として、尾山神社に来ています。ここも人気の観光スポットです。実はこの場所は、城の金谷出丸で、これから通る鼠多門を通じて城の中心部とつながっていたのです。それでは、神社の裏手から進んで行きましょう。ずっとブリッジを歩いていきます。つ:鼠多門、鼠多門橋がともに2020年に復元されています。橋の下は道路(お堀通り)ですが、かつては外堀でした。「鼠多門」の名前の由来ですが、:壁の色から来ていると言われていますが、建設時にネズミがたくさんでできたからという設もあるそうです。門の内部の見学もできます。

尾山神社(神門)
鼠多門橋と鼠多門
鼠多門
鼠多門内部

門を入ったところが玉泉院丸です。復元された庭園がきれいです。向こうの方に見える建物が三十間長屋です。現在では庭園の借景になっています。

玉泉院丸庭園
三十間長屋が見えます

玉泉院丸の上手のいもり坂を登って(登り切ったところが二の丸です)色紙短冊積石垣を見に行きましょう。違った色や形の石が組み合わされています。本当に見せるための石垣です。

色紙短冊積石垣

リンク、参考情報

金沢城公園(公式ホームページ)
水土の礎
・「戦国時代と一向一揆/竹間芳明著」日本史史料研究会ブックス
・「前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説/大西泰正著」平凡社
・「隠れた名君 前田利常: 加賀百万石の運営手腕/木越隆三著」吉川弘文館
・「家から見る江戸大名 前田家・加賀藩/宮下和幸著」吉川弘文館
・「研究紀要金沢城研究第19号」石川県金沢城調査研究所
・「研究紀要金沢城研究第20号」石川県金沢城調査研究所
・「日本の城下町と金沢城下町 城下町金沢学術研究1」金沢市
・「史跡金沢城跡保存活用計画 令和3年3月」石川県
・「福井の戦国歴史秘話40 凄惨な一揆弾圧を伝える瓦」福井県観光営業部ブランド営業課

「金沢城その1」に戻ります。

「金沢城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その1

金沢城は「加賀百万石、前田利家の城」とよく言われます。しかし実際には、一言では言い切れないものがあります。例えば、百万石というのは、加賀・能登・越中3国にあった加賀藩の領地の石高のことです。その百万石や金沢城も、利家一代で築いたものでもないのです。城主だった前田氏が代々引き継いて完成させたのです。

立地と歴史

Introduction

金沢城は「加賀百万石、前田利家の城」とよく言われます。しかし実際には、一言では言い切れないものがあります。例えば、百万石というのは、加賀・能登・越中3国にあった加賀藩の領地の石高のことです。その百万石や金沢城も、利家一代で築いたものでもないのです。城主だった前田氏が代々引き継いて完成させたのです。あと、金沢城には、兼六園と一緒に、華やかなイメージがありますが、城の歴史は意外と苦難の道を辿っていて、兼六園もそれに関わっています。それに加えて、金沢城の前身は、加賀一向一揆の一大拠点だったのです。このような金沢城の歴史をご説明します。

現存する石川門

「尾山御坊」の時代

一向宗は仏教の宗派の一つで、戦国時代に国中(特に中部地方)に広まりました。「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行けると称したため、多くの人たちが信仰しました。15世紀後半に第8代宗主・蓮如が精力的に活動し、多くの地方組織(「講」など)を作り、宗派の強力な基盤となっていました。この時代は中央政府(幕府・将軍家など)の力が衰え、国中のほとんどの人たちは自衛する必要がありました。領主層や武士だけでなく、農民・商人・僧までもが武装していたのです。その中でも、一向宗の武力は強く、戦国大名が援軍を要請するほどでした。一向宗がなにかのために戦ったとき、その行為は「一向一揆」と呼ばれ、戦国大名並みの勢力になりました。

蓮如影像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

加賀国は、一向宗の中でも特に強力な組織化が進み「加賀一向一揆」と呼ばれました。当初は守護の富樫氏と協調していましたが、やがて税の賦課をめぐって対立するようになり、ついにはこれを倒しました(1488年(長享2年)の長享の一揆)。一揆軍の中には、富樫氏から領地や権利を奪いたい、地元領主たちもいたのです。以降約90年間、加賀国は一揆勢が自分たちで治める「百姓の持ちたる国」になりました。その本拠地として築かれたのが、後の金沢城になる「尾山御坊」(または「金沢御堂」)だったのです(1546年、天文15年)。

名前は尾山御坊時代に遡るという「極楽橋」

尾山御坊は、金沢平野に突き出した小立野(こだつの)台地の先端に築かれました。その台地の両側には、犀川・浅野川が流れていました。当時の一向宗(浄土真宗)の本山であった石山本願寺も、大坂の上町(うえまち)台地の先端に築かれていて、実態としては城郭そのものでした。ここは、1570年(元亀元年)から11年間にわたって、織田信長との石山合戦の舞台となりました。この地には、後に豊臣秀吉の大坂城が築かれます。尾山御坊も、城のような構えをしていたと考えられています。

Marker
金沢城
Leaflet|国土地理院
金沢城周辺の起伏地図

石山本願寺にあった大坂御堂の模型、大阪歴史博物館にて展示

加賀国は、本願寺宗主の代理人である御堂衆が中心になり、国の支配を行いました。一揆勢は、越前国の朝倉氏の侵攻を撃退したり、上杉謙信の越中侵攻に対して越中一揆に援軍を派遣したりしました。謙信は、一揆勢の鉄砲に対して十分注意するよう指示を与えています(元亀3年9月13日謙信書状)。1573年(天正元年)に越前の朝倉義景が信長に滅ぼされますが、翌年、越前一向一揆が蜂起し、越前国まで一揆勢が支配するようになります。しかし1575年(天正3年)に信長が出馬し越前を制圧、1580年(天正8年)に石山本願寺と講和すると、加賀一向一揆の討伐にもかかります。天正8年4月、尾山御坊は、信長の部将・柴田勝家の攻撃により陥落しました。勝家は、甥の佐久間盛政にその跡地を、金沢城(尾山城)として任せました。やがて、信長没後、勝家は羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗れ、秀吉に味方した前田利家が城主となったのです。

佐久間盛政の江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

前田利家・利長と初期金沢城

前田利家(加賀前田家初代)は「鑓の又左」の異名を持った信長配下の武将でした(
生年:1539年?〜没年:1599年)。若いころ、信長の近習を成敗して出奔し、桶狭間の戦いで、討ち取った敵の首を持って駆け付け、帰参を願ったというエピソードがあります。信長の天下統一の過程では、北陸方面軍で柴田勝家の与力となり、先ほどの一向一揆の鎮圧では、過酷な司令官としての一面が、城の瓦に刻まれて残っています(下記補足1)。一方、後に加賀国を治めるときには、一揆勢の生き残りの領主層の権利を一定程度認め、統治の安定化を図っています。秀吉の配下になってからは、秀吉の「おさなともたち」という縁もあって重用され、最後は「五大老」の一人にもなりました。その中でも、徳川家康(内大臣)に次ぐ地位(大納言)として、秀吉の遺児・秀頼の守役を任されたとされています(下記補足2)。

(補足1)
此の書物後世に御らん(覧)じられ、御物かた(語)り有るべく候、然れば(天正三年)五月廿四日いき(一揆)おこり、其のまま前田又左衛門(利家)殿、いき千人ばかりいけとり(生捕)させられ候也、御せいはい(成敗)はりつけ、かま(釜)にい(煎)られ、あぶられ候哉、此の如く候て、一ふて(筆)書とと(留)め候、
(小丸山城跡出土の文字丸瓦、通称「呪いの瓦」)

(補足2)
一大納言殿ハおさなともたちより、 りちきを被成御存知候故、 秀頼様御もりに被為付候間、 御取立候て給候へと 、 内府年寄五人居申所にて、 度々被成 御意候事
(太閤様御覚書(秀吉遺言)、浅野家文書)

田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利家の嫡男・前田利長(加賀前田家2代)は一般には目立ちませんが、加賀藩「百万石」を確立した武将です(生年:1562年〜没年:1614年)。1585年(天正13年)、秀吉が越中攻め(VS佐々成政)を行った後独立した大名として(段階的に)越中国を与えられました。利家が亡くなると、その領土と五大老の地位を引き継ぎ、家康にも対抗しうる立場になりました。しかし、家康とのなんらかの緊張関係が生じ、交渉の結果、利長が引き下がり、母親の芳春院(まつ)を江戸に送ることで決着しました。家康が「加賀征伐」を画策し、利長を屈服させたという話は、同時代の根拠となる資料はないそうです。

前田利長肖像画、魚津歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「百万石」までの道を簡単に整理すると、(石高は概算)
・1581年(天正9年):利家、能登国主に(22万石)
・1583年(天正11年):利家、加賀北部加増、金沢城主に(27万石)
・1595年まで(文禄4年):利長に越中国(53万石):前田家として101万石
利家・利長・利長の弟(利家次男)の利政で3分割した期間もありましたが、前田家としてある程度一体運営されていたようです(軍役や城の預かりなど)。
・1600年(慶長5年):利長、加賀西部加増(18万石):計120万石
関ヶ原の戦いの前後で、利家からの相続、利政改易による引き継ぎによって、利長による約120万石の加賀藩が成立したのです。
・1639年(寛永16年):利常による支藩設立により加賀藩は102万石に(富山藩10万石、大聖寺藩7万石)

初期の金沢城の詳細はわからないのですが、佐久間盛政時代の伝承も残っています(下記補足3)。前田利家は城主になってから城の整備に着手し(以下補足4)、1586年(天正14年)頃には本丸に天守が造営されました(下記補足5)。しかしその天守は1602年(慶長7)年に落雷で焼失してしまいます。その後は、代わりに三階櫓が建てられました。本丸御殿については、その一部(広間)は、尾山御坊時代のもの(下間法橋ノ時ノ御堂「政春古兵談」)をそのまま使っていたそうです。それから在京中の利家が、留守役の利長に、高石垣を築くよう命じています(1592年、文禄元年、「三壺聞書」)。前提として、台地と城を分断する、巨大な百間堀もこのときまでに開削されたと考えられます。また、徳川家康が緊張関係にあったときには、城と城下町を囲む総構も築かれ始めました。

(補足3)
佐久間玄蕃しはらく居城し、かきあけて城の形ニ成、其故御取立、山城に被成、惣構、一・二の曲輪、本丸の廻り堤をほりなさりけり(「三壺聞書」)
(補足4)
当城普請付て、両郡(石川・河北郡)人夫申付候(天正12年2月 呉竹文庫史料)
(補足5)
去年かい置候くろかね、如日起下候へく候、天守をたて候付て入申候(「小宮山家文書」)

本丸東側の高石垣
百間堀跡
総構遺構

初期金沢城の姿を表すとされる絵図が残っています(「加州金沢之城図」)。この頃は、もっとも標高が高い本丸を中心に、堀や石垣、さらには惣構で防御を固めていた城の姿が想像されます。3代目の前田利常(利長の弟)が跡を継いだ後(1605年、慶長10年、利長は富山城に隠居)本丸を拡張して政治を行う場にしようという動きがありましたが、その最中に起こったのが、寛永の大火(1631年、寛永8年)でした。城下町の火災が延焼し、本丸を含む城の中心部が焼失してしまったのです。

「加州金沢之城図」出典:東京大学総合図書館

前田利常・綱紀と前期金沢城

前田利常には、幕府の嫌疑を逃れるため、わざと鼻毛を伸ばして愚鈍を装ったという逸話が残っていますが、実際には、2代将軍・徳川秀忠の娘(珠姫)を妻とし、幕府との関係強化に努めました(生年:1594年〜没年:1658年
藩主期間:1605年〜1639年、藩主後見期間:1645年〜1658年)。4代目の光高が若くして亡くなったため、幼少の5代目・綱紀を後見し、長きに藩政に関わり、その安定化も図りました(改作法など)。

前田利長肖像画、那谷寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

金沢城に関しては、寛永の大火の後、御殿を本丸から二の丸に移しました。本丸では、三階櫓・隅櫓などは再建されましたが、御殿は建てられませんでした。防御機能よりも、居住・政庁としての機能が発揮できる場所に、城の中心部を定めたのです。その前提として、元は武家屋敷だった所を造成することで、二の丸が拡張され、内堀も掘られました。それに伴い、石垣も整備され、この時期を起源とするものの多くを、今でも城内で見ることができます。また、当初は防御のために作られた玉泉院丸を、庭園に作り替えました。

二の丸の内堀と石垣
玉泉院丸の復元庭園

そして、これらの堀や庭園に水を導くために、辰巳用水が開削されました。防火、防衛、そして新田開発のためでもありました。しかし、城は台地の上にあるため、容易に大量の水は得られません。そこで、犀川の上流から取水し、手掘りのトンネルを経由し、10km以上もの用水路を作りました。その水を現・兼六園の霞ヶ池に貯め、台地を削ったところにある白鳥堀に落とし、その自然の水圧で城の内堀に上げていたのです。(逆サイフォンの原理、「伏越(ふせごし)の理)その工事を指揮したのが、小松の町人・板屋兵四郎で、わずか1年で完成させたと言われています。

辰巳用水(兼六坂上)
辰巳用水の引水の仕組み、「水土の礎」ホームページより引用

その後、前田綱紀は、加賀藩の地位や藩政を更に安定させました(生年:1643年〜没年:1724年、藩主期間:1645年〜1723年)。利常が亡くなった後は、幕府の実力者・保科正之(秀忠の弟、綱紀の義父)の後見を受けました。時の将軍・徳川綱吉との関係も良好で、幕府内では御三家に次ぐ待遇を得ることに成功しました。藩内でも直接政事に関与し、組織体制を整え、貧民救済・新田開発の事業も行っています。書物の収集、芸能・工芸の育成を行ったことでも知られています。

前田綱紀肖像画、前田育徳会蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

金沢城では、二の丸御殿の整備を進め、例えば、能舞台を作ったりしました。また、玉泉院丸の庭園も改修し、色紙短冊積石垣がこの時期に築かれたと考えられています。そして、城の東側の百間堀を越えたところにあった蓮池(れんち)にも庭園と屋敷を造営しました。これが兼六園の原型です。

移築された能舞台(中村神社拝殿)
色紙短冊積石垣
蓮池(現・瓢池)

これらの改修により、金沢城の姿は最盛期を迎えたといっていいでしょう。しかしこの姿も、1759年、宝暦9年4月10日に起こった宝暦の大火により、全焼してしまうのです。

全盛期を意識した金沢城模型、五十間長屋内にて展示

後期金沢城と特徴

宝暦の大火後の金沢城は、本丸には櫓等は再建されず、二の丸御殿を中心に復興が進められました。三の丸を守る「河北門」「石川門」、二の丸の正門「橋爪門」が三御門と呼ばれました。そのうち、現存する石川門(重要文化財)は、この大火後の再建です(1788年、天明8年)。他に現存する三十間長屋、鶴丸倉庫(ともに重要文化財)は、幕末の建造です(それぞれ1858年、1848年)。貴重なのは、何度もの大火を生き延び、北の丸・東照宮(1643年、寛永20年創健)が現存していることです(現・尾崎神社)。

現存する三十間長屋
現存する鶴丸倉庫
現存する東照宮(尾崎神社)

このように災害を何度も経験し、前田家によって一貫して維持された金沢城にはいくつか特徴があります。規模が大きく、各時期に造成・修復が重ねられた結果、「石垣の博物館」と言われています。

後期に築かれた土橋門石垣

櫓門などの壁は「なまこ壁」といって、瓦を並べて貼り、その継ぎ目に漆喰を盛り付けて仕上げられています。防火・防水・防御力が強いためとされますが、見た目上の効果もあったと思われます。またその瓦は、屋根も含めて鉛瓦が使われ、軽量で耐寒性があり、美観上も優れていました。櫓や長屋に備えられた出窓は、石落とし付きの防御設備ですが、屋根が優美に作られています(唐破風)。

石川門のなまこ壁
鉛瓦は当然屋根にも使われています(河北門)
三十間長屋の出窓(「出し」)

蓮池の御殿や庭園も大火で被害を受けましたが、11代・前田治脩(はるなが)が復興し、更に夕顔亭、翠滝を作りました。12代・斉広(なりなが)の時代に、松平定信が「兼六園」と命名したと言われています。13代・斉泰(なりやす)のときには、ほぼ現在の姿になっていました。兼六園の「六勝」のうちの「水泉」は、城を潤した辰巳用水によって成り立っています。

翠滝
霞ヶ池
兼六園内の辰巳用水

家臣の武家屋敷は、前田利家の時代には城内の二の丸・三の丸にあったと伝わります(下記補足6)。城の改修に伴い、城外に移転していき、5代・綱紀の時代までに城下町とともに整ったとされています。並行して多くの用水も整備され、現在も武家屋敷と用水の景観が、観光地として残されています。

(補足6)
天正十一年利家御入城の後、荒子衆・府中衆を初め、新参の御侍・出家・町人までも尾張・越前より従ひ来るもの夥し。其頃は二・三の丸に武家・町家打交ざりて居住す。
(「金沢城事蹟秘録」)

長町武家屋敷跡と大野庄用水

家臣の最上位にいたのが、加賀八家(かがはっか)と呼ばれた重臣層です。綱紀の時代に確立し、いすれも1万石以上という、大名並みの俸禄を得ていました。中でも筆頭の本多家の石高は5万石で、官位までもらっていました。その屋敷地(上屋敷)は、兼六園の背後の台地上にあり、城にとっても重要な防御拠点でした。初代の本多政重は、徳川家康の重臣・本多正信の子で、本多正純の弟です。2代・前田利長によって召し抱えられ、藩主の補佐、幕府との折衝に活躍しました。兄の正純は「宇都宮城釣天井事件」で改易となりましたが、政重は正純と確執があり、有力大名の藤堂高虎の取り成しもあって、罪を逃れました。

本多政重肖像画、加賀本多博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治維新後、お城は軍隊の駐屯地となりましたが、1881年(明治14年)にまた大火があり、城の建物は、ほとんどが焼けてしまいました。戦後は、金沢大学が置かれましたが、現在は「金沢城公園」として復元整備が進められています。

旧第六旅団司令部庁舎

Leaflet|国土地理院
金沢大学が設置されていた1970年代の城周辺の航空写真

復元された橋爪門
復元された河北門
復元された五十間長屋

「金沢城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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