23.小田原城 その3

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

立地と歴史

大久保氏の時代

1590年の小田原合戦の最中から、北条領に徳川家康を移し、その本拠地を江戸にすることが規定路線になっていたようです。小田原城には、家康の重臣・大久保忠世(ただよ)を配置することも、城が開城になった早々に決められました(小田原藩の始まり)。本拠地ではないにしても、関東地方の西の要として重要視されたのです。城は、北条氏時代の中心部に石垣を築くなど、修繕しながら使っていました。この時代から天守があったとされますが(以降の天守とは違うスタイル(望楼型)のもの)、北条時代からのものなのか、このとき築いたものなのかはわかっていません。ただ、少なくとも本丸御殿は北条氏の時代のものを使っていたという記録があります。家康は、領内検分を兼ねた鷹狩りのときや、関ケ原の戦いなど西日本に行く際に、よく小田原城本丸を使っていたそうです。しかし、忠世の跡を継いだ忠隣(ただちか)は1614年に、養女を幕府の許可なく婚姻させたとして改易になってしまいます。実態としては、家康の他の重臣、本多正信・正純父子のとの確執があったのではないかと言われています。その後は主には幕府の直轄領となっていました。

大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初代天守(加藤図)、現地説明パネルより

稲葉氏の時代

1632年、小田原藩が復活します。藩主(城主)となったのは、3代将軍・徳川家光の側近である稲葉正勝です。彼は、家光の乳母で大奥を取り仕切っていた春日局の息子でした。そのような人物を配置するほど、やはり小田原は重要視されていたのです。この頃には箱根の関所を関東の防衛線とする構想も固まっていたので、その警護も任されたのです。ところがその矢先、1633年(寛永10年)正月、寛永大地震が発生し、城や町が甚大な被害を受けてしまったのです。しかし翌年には家光の上洛が予定され、小田原城に宿泊することになっていたため、幕府の事業として迅速に復興がなされました。これにより、江戸時代の小田原城の骨格が固まります。天守は、現在の復興天守のようなスタイル(3層の層塔型)で築かれました。また、本丸など城の主要部分は石垣で固められました。本丸御殿は将軍の宿泊専用だったので、藩主は二の丸御屋形(おやかた)で政務を行いました。城下町も東海道の小田原宿として整備されました。一方、城の範囲は平地の三の丸までとなり、八幡山古郭など丘陵部分は放棄されました。ただし、総構の土塁などは、藩や町の境界として機能し続けました。例えば、宿場の東の入口、江戸口見附は、総構の土塁が仕切りとして使われていました。また、山ノ神堀切には門が作られ、番人が管理していました。

稲葉正勝肖像画、養源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代に完成した城のイメージ、現地説明パネルより
2代目天守(正保図)、現地説明パネルより
江戸口見附跡
山ノ神堀切

再び大久保氏の時代

1686年、稲葉氏は高田藩に転封となり、その代わりに大久保氏が小田原藩主に復活します。当時の当主、大久保忠朝は幕府の老中となっていて、将軍の徳川綱吉を支えていました。ところが、それからしばらくたった1703年(元禄16年)11月、元禄地震が起こり、またも城や町が大被害を受けてしまったのです。更にはその4年後には、富士山が噴火(宝永噴火)し、降灰により農作物は大不作となりました。城では、天守、本丸御殿、二の丸御屋形が全て倒壊しましたが、今度は復興への幕府援助はありませんでした。被災した町や住民への救済も基本的には藩任せでした。そのため、復興には長期間を要し、城については18年もかかりました。本丸御殿は、将軍の上洛などはなくなっていたので再建されませんでしたが、天守は以前と同様のものを建て直しました。3代目の天守で、この天守が幕末まで残りました。幕府の江戸城など、災害で天守がなくなると再建しないケースもあったので、小田原城の天守は、この時点で、関東では屈指の天守となっていたのです。関東の入口で「顔」としての役割があったのでしょうか。その後の天災でもなんとか城は維持されました。幕末になって海防の必要性が高まると、海岸の総構の土塁に沿って、台場が3ヶ所築かれました。残念ながら史跡として残っていません。

3代目天守(文久図)、現地説明パネルより

現代の小田原城まで

明治維新後、城は廃城となり、城の建物はほとんどは解体・売却されました。しかし本丸・二の丸の跡地は石垣とともに残され、皇室の御用邸として使われました。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。御用邸は全壊し、石垣もほとんどが崩壊しました。唯一残っていた城の建物、二の丸平櫓も倒壊しました。この震災により、江戸時代の小田原城がほぼ消滅してしまったと言っていいでしょう。御用邸は廃止となり、小田原城址公園となりました。ここからまた城の復興の事業が始まり、1934年(昭和9年)に二の丸の石垣が積み直され、平櫓も再建されました。そして、天守とその石垣が、1960年(昭和35年)に再建されました。以降、1970年(昭和45年)には常盤木門が、1997年(平成9年)には銅門(あかがねもん)が、2009年(平成21年)には馬出門が復元されています。これまでは、江戸時代の小田原城の姿を再現する方向で、復元事業が進められています。これらも、大きな流れの中では、震災からの復興であるとも言えるのではないでしょうか。

関東大震災で崩壊した本丸石垣
現在の4代目天守
現在の馬出門

特徴、見どころ

三の丸から二の丸に進む!

通常、小田原城への登城ルートとしては、昔だったら大手門から、今だったら、二の丸のお堀端からスタートするのでしょう。もう一つの選択肢として、小田原郵便局脇の「幸田口門跡入口」から三の丸の土塁を歩き、幸田口門跡を経由してからお堀端を進むのもいいでしょう。この門は、その前は「蓮池門」という名前で、お城の大手門でした。上杉謙信も武田信玄も、この門から小田原城を攻めたそうです。二の丸堀は、戦国時代から存在し、当時は「大池」「蓮池」とか呼ばれていたようです。

三の丸の大手門跡、石垣の一部が鐘楼として使われています
幸田口門跡にある説明パネル
二の丸のお堀端

向こうに見える石垣や平櫓は、関東大震災後、最初に再建されたものです。オリジナルの石垣はもっと高かったとのことです。

再建された二の丸石垣と平櫓

「正規登城ルート」とされる正面入口から入ると、お堀の土橋を渡って「馬出門」に入ります。今のところ一番新しい門で、木造復元されています。防御のため、門の中に四角いスペース(桝形)があります。

復元された馬出門

次の銅門(あかがねもん)に入るためには、堀を回り込んで、もう一回橋を渡る必要があります。この門は、二の丸の正門で立派に作ってあります。絵図や文書、発掘の結果の他、古写真が残っていて、かなり正確に木造で復元できたそうです。中の桝形も更に厳重です。

復元された銅門

二の丸の中は、今は広場になっています。かつては、藩主の屋形や、御用邸がありました。

現在の二の丸広場、向こうに見えるのは本丸

いよいよ本丸、天守攻略

いよいよ、本丸に向かいます。本丸へは「常盤木橋」という橋を渡っていくのですが、かつては本丸東堀が、本丸の周りを囲んでいました。今は堀跡が花菖蒲園になっていて、斜面にはアジサイも植えられています。

本丸東堀跡

橋を渡ると、本丸の正門「常盤木門」です。手前に桝形を作るもう一つの門があったのですが、復元されていません。復元された部分はコンクリート造りです。

復元された常盤木門

小田原城の天守は、3層の天守としてはかなり大きいです。高さ27.2メートル、石垣を含めると約39メートルもあります(内部は4階建て)。現在日本にある天守(再建含む)の高さランキングでは、7位につけています。江戸時代に修繕に便利なように作られた天守雛型や、絵図を参考に4代目として建築されました(コンクリート造り)。最上階に展望スペース(高欄付廻縁)を設けるなど、オリジナルと違う外観であるため、「復興天守」に分類されています。中身は歴史博物館になっていて、2016年に耐震補強や展示のリニューアル工事がされています。

現在の小田原城天守(4代目)
天守内部

最上階からは、城の周りの景色を楽しめます。

最上階からの景色(小田原駅方面)
八幡山古郭方面
本丸・二の丸方面
相模湾方面

将来への期待、教訓

本丸の北口から出て、御用米曲輪の方に行ってみましょう。現在発掘調査中で、中には入れませんが、周りにこれまでわかったことが、パネル展示されています。戦国時代の、切り石を使った、珍しい庭園の跡が発見されています。小田原合戦のときには「百間蔵」という倉庫群になっていたようです(ここかどうかわかりませんが、合戦後に伊達政宗が城の倉庫群を見て、備えのすごさに驚嘆しています)。それが、江戸時代に米蔵として引き継がれたのです。今後どんな史跡になるのか、楽しみです。

御用米曲輪
切石を使った庭園遺構発見の説明パネル
江戸時代の葵御紋瓦出土についての説明パネル

本丸の南の斜面では、関東大震災によって崩れた石垣を見ることができます。本丸の石垣は「鉢巻石垣」といって、斜面の上の方だけが石垣になっていました。ここでは、クランクした形の石垣が、上の方からそのまま滑り落ちています。恐ろしい地震のパワーを感じてしまいます。地震への備えを考えさせられる、目に見える展示といっていいでしょう。

クランクた石垣部分がそのまま崩落しています
崩落した本丸石垣

最後に、南堀も見ておきましょう。ここは戦国時代における呼び名と同じように、蓮池になっています(今も別名は「蓮池」です)。こういう場面を見ると、小田原城は戦国時代から今までの歴史が折り重なっていることが実感します。

南堀
近くには、三の丸の箱根口跡もあります

私の感想

戦国時代、江戸時代、そして現代まで、小田原城には盛りだくさんの見どころがありました。1日かけても回り切れません。それにしても小田原城の城主たちは、敵から守るために戦国最大級の城を築いたり、災害にあっても天守を3回も建て直したりするなど、地味なことの積み重ねかもしれませんが、なかなかできないことをやってのけました。城主は違っていても、受け継がれるものがあったのでしょう。自然の宿命として、過去のような災害が再び起こるかもしれませんが、きっとまた乗り切ることでしょう。他の地域へのお手本にもなるのではないでしょうか。

現在の小田原城天守

リンク、参考情報

【公式】小田原城 難攻不落の城
総構、小田原市(「総構マップ」はこちら)
地誌のはざまに、【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その4)
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第9回 小田原城を歩こう(近世編)
・「戦国期小田原城の正体/佐々木健策著」吉川弘文館
・「実録 戦国北条記 戦史ドキュメント/伊東潤著」エイチアンドアイ
・「シリーズ藩物語 小田原藩/下重清著」現代書館
・「北条氏五代と小田原城 (人をあるくシリーズ)/山口博著」吉川弘文館
・「小田原城総構-戦国最大級の城郭-」小田原市教育委員会
・「北条氏滅亡と秀吉の策謀、森田善明著」洋泉社
・「年金ロックンローラー内沢裕吉」ダイヤモンド社
・「よみがえる日本の城2」学研
・「後北条氏民政への反抗」岩崎義朗氏論文
・「神奈川の中世城郭-小田原城支城を中心に-」神奈川県教育委員会文化遺産課、令和4年度第4回考古学講座資料

これで終わります。ありがとうございました。
「小田原城その1」に戻ります。
「小田原城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

23.小田原城 その2

前回は、戦国小田原城の歴史をご紹介しましたが、その時代を体験するには、総構を歩くのが一番です。よって、今回は総構めぐりの様子をご紹介します。総構めぐりには、小田原市から出ている「小田原城総構マップ」を使うのが便利です。

特徴、見どころ

前回は、戦国小田原城の歴史をご紹介しましたが、その時代を体験するには、総構を歩くのが一番です。よって、今回は総構めぐりの様子をご紹介します。総構めぐりには、小田原市から出ている「小田原城総構マップ」を使うのが便利です。

小田原市発行の「小田原城総構マップ」

貴重な平地の遺構

総構の平地の遺構はほとんど残っていないので、例えば、まずは旧東海道を東の方に歩いてみるのがいいかもしれません。出発地点としては、城下町・宿場町の中心地であった辺りにある小田原総鎮守の松原神社か、小田原宿なりわい交流館がちょうどいいでしょう。

松原神社
小田原宿なりわい交流館

江戸時代の旧東海道より海岸側の「かまぼこ通り」を進んでいくと、北条稲荷神社に着きます。この場所は、総構の東南の角地でした。この神社も城の東方の守護神として創建されたようです。

北条稲荷神社

そこから北の方に歩くと、「江戸口見附」跡に着きます。江戸時代には宿場の東の出入口で、北条時代には総構の山王口でした。江戸時代でも、総構の土塁が仕切りとして使われていました。

江戸口見附跡

ここから東の方は山王神社があって、その周辺が総構の外にあった出丸(篠曲輪)の跡と言われています。その出丸が、小田原合戦のときに唯一本格的戦闘があった場所です。

山王神社
山王神社の敷地はまるで陣地のようです

「江戸口見附」跡の脇道を進んでいくと、数少ない平地の遺構の一つ「蓮上院土塁」に着きます。長さ約100メートルが残っていて、高さは3メートルくらいでしょうが、かつては堀とセットになっていたため、堀底からはもっと高かったはずです。太平洋戦争中に、空襲を受けた痕もあり、歴史が積み重なっている場所です。

蓮上院土塁、へこんだ部分は空襲の痕

まだまだ残る丘陵部の遺構

丘陵部の遺構を見るのに分かりやすい行き方としては、公園の「めだかの学校」入口の、反対側の道路を進みます。小田原を囲んでいる3つの丘陵の一つ「谷津丘陵」を登っていきます。そうすると、「城下張出(しろしたはりだし)」という、総構えのラインから張り出している部分の遺構です。張り出している所から見張りをしたり、敵の側面を攻撃(横矢掛り)できるようになっていました。出入口の一つでもあった可能性もあります。残っているのは、その根元部分で、上に登ると、直角に曲がっている形がよくわかります。

城下張出

この辺りからは、丘陵に沿った雄大な空堀を眺めることができます。ただし、現在は大半が農地になっているので、ビジターは入れません。

農地になっている丘陵部の空堀

道なりに進むと、三叉路があって「白秋童謡の散歩道」の案内があります。この散歩道に沿って行くと、総構の見学もスムーズです。

三叉路の向こう側に散歩道の案内があります

しばらく進むと「山ノ神堀切(やまのかみほりきり)」があります。「堀切」とは、尾根を伝って攻めてくる敵を食い止めるために、丘陵をわざとカットしたものです。堀切の外側に行ってみると、総構の堀がありますが、堀切よりずっと深くなっています。堀切と高低差をつけることで、外側から攻めてくる敵も防げるようになっていたのです。

山ノ神堀切
堀切から総構の堀を見ています
総構の堀底から土塁や堀切を見上げています

次は「稲荷森(いなりもり)」です。総構の土塁と堀が内側にへこんでいて、向こう側が離れ小島のようになっています。そこにも土塁を積み上げていたそうです。ここは地形に沿って築いた総構がとてもよく残っている場所で、今でも堀の深さは約10メートル、50度以上の急斜面とのことです。そのためか、堀の中へは立入禁止になっています。

稲荷森
残念ながら堀へは立入禁止です

クライマックス!小峯御鐘ノ台大堀切

いよいよ小田原城総構のクライマックス、小峯御鐘ノ台大堀切です。小田原の北側は、3つの丘陵(八幡山、天神山、谷津)に囲まれていて、それを総構にも利用したのですが、小峯御鐘ノ台は、八幡山丘陵の一部で、この一帯では最も標高が高い場所です。他の丘陵にもつながっているので、最重要防御ポイントだったのです。そのため、ここには堀が3本も作られました。稲荷森から歩いていくと、その3本の堀への分岐点に着きます。右に登って行くと西堀、道をまっすぐ行くと中堀、左に下っていくと東堀です。

3本の堀への分岐点

西堀が一番外側にあります。小田原合戦の直前に築かれ、長さは200メートル以上ありましたが、残っているのは150メートルくらいです。オリジナルよりは浅く緩やかになっているようですが、底の部分を見ると、仕切りが残っています。障子堀の跡かもしれません。堀の橋は、総構の外側の堀につながっています。

西堀
西堀の底

次は中堀で、西堀と同じ時期に作られてとされています。ここは道路になっていますが、周りを囲む土塁は一部残っています。途中で枝分かれして東堀につながっています。

中堀

最後は、東堀です、公園になっているので、堀底を気軽に歩けます。東堀は、3本の大堀切の中では一番よく残っていて、長さ280メートル、幅25〜30メートル、深さは今でも8〜10メートルです。もとは12メートルくらいあって、障子堀になっていました。斜面の傾斜も50度くらいとのことで、オリジナルに近いのではないでしょうか。東堀も途中でカギ型に曲がっていて、まっすぐ通れないようになっています。

東堀
土塁の上から見た東堀
東堀の南側出入口

総構のゴールはどこ?

ここからは丘陵を下っていきます。次は「三の丸外郭新堀土塁」です。北条氏政が総構を作り始めた場所で、「新堀」という名称は当時からのものです。西側の眺めがすばらしく、豊臣秀吉が城を築いた石垣山も見えます。城が完成した時に周りの木を伐採したため、北条方がびっくりして降伏したという「一夜城」伝説がありますが、城を作っていたときからよく見えていたのではないでしょうか。気を付けていただきたいのは、この場所の見学は、午後3時までということです。

三の丸外郭新堀土塁
西側の眺め、石垣山がくっきりと見えます
見学時間に気を付けましょう

道なりに進んで行くと、位置としては「天神山丘陵」移ります。新幹線の高架前にも、三の丸の土塁が残っています。伝肇寺(でんじょうじ)西の土塁と呼ばれているようです。下から見上げると、地形を利用して作っていることがよくわかります。

伝肇寺西の土塁
下から見上げています

平地に下った後は、数少ない平地の遺構の一つとして「早川口遺構」を見学しましょう。早川口は、西から攻めてくる豊臣軍の正面に当たったので、特に厳重に作られました。土塁と堀が二重に築かれたのです。その二重の土塁部分が公園として整備されています。

早川口遺構

他にも、海岸近くに、総構の土塁が屋敷地の土台に使われていると思われる場所があります。こういった様子を見ると、こんな海岸近くにまで総構があったんだと実感できますし、今でも活用されていることもわかります。総構めぐりはここまでにしたいと思います。

海岸近くで屋敷地の土台として使われている土塁と思われます

「小田原城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。