206.浦添城 その1

浦添城は、沖縄特有の城郭施設「グスク」のうち、大型のものの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。

Introduction

浦添城は、現在の沖縄県浦添市にあったグスク(城)です。グスクとは、12世紀終わり頃から15世紀中頃にかけて築かれた、按司(あじ)と呼ばれた領主の城館及び地域の宗教・集落施設としても使われた場所のことです。奄美諸島から沖縄諸島、先島諸島にかけて、約300も築かれたと言われています。特に13世紀から14世紀(日本本土の鎌倉~南北朝~室町時代辺り)には、有力按司の居城として長大な石垣で囲まれた大型グスクが出現しました。日本本土で本格的に石垣を使って築かれた城は、戦国時代後半(16世紀後半)に登場しますので、それより200年以上も早かったことになります。しかも、グスクの石垣は琉球石灰岩を使い、優美な曲線を描いていて、日本本土の石垣とは、ルックスも随分異なっています。浦添城は、そのような大型グスクの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。なお「琉球」という名称は、もともと中国人が命名した地域名で、琉球王国が支配した奄美・沖縄・先島諸島一帯を指すとされています。(「沖縄県の歴史」)

浦添城跡
代表的な大型グスクの一つだった、今帰仁城跡

立地と歴史

グスク時代と三王国の成立

沖縄は古代から夜光貝などの貝殻類の産地として知られていました。夜光貝を加工した螺鈿細工が、美術工芸品や建築の装飾に使われていたのです。当初その交易(「貝の道」と呼ばれた)は、当時日本の境界とされていた奄美諸島の喜界島周辺で活動していた商人たちが、担っていたのではないかという見解があります(「琉球史を問い直す」)。その時点では、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採取を中心とした生活を送っていたと考えられていて、沖縄の時代区分として、11世紀頃までを貝塚時代と呼んでいます。

貝を加工して作られた貝匙(東京国立博物館ホームページから引用)

それが、11〜12世紀頃になってくると、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。石鍋・陶器(亀焼、かむいやき)・鉄器が普及し、農業が普及し、生活レベルが向上しました。沖縄でも「グスク土器」が生産されるようになります。中国の宋王朝も積極的な貿易政策を取っていました。そして高価な中国製磁器が取引されるようになり、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。貿易商人は、最初は中国・朝鮮・日本本土の人たちが中心でしたが、それに沖縄の人たちも加わるようになります。こうして、沖縄に「按司」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの、この時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。
・北山(山北):本拠地 今帰仁城
・中山:本拠地 浦添城
・南山(山南):本拠地 島添大里(しましーおおざと)城
彼らの本拠地にもなった大型グスクの築造も、その動きに沿ったものと考えられます。これらの多くは高台に立地し、複数の郭から構成されていて、中心部は、儀式を行う正殿と、宗教的施設の御庭(うなー)から成り立っていました。

島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために、「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、伝統的な儒教的秩序の確立を目指しました。そのため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。そして、1372年には中山王国に使節が送られました。三王国の中では最大勢力と見なされていたからと思われます。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、1380年には南山王が、1383年には北山王も明への朝貢を始めました。この朝貢は、貿易とセットになっていたため、三国に莫大な利益をもたらしました。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中山王国と浦添城

浦添城を本拠とした中山王国については記録が少なく、いつからどのように治められていたかは、後に作られた琉球王国の正史(「中山世鑑」など)しか文献史料がありません。それによると、3つの王統が統治しました。
1187年:舜天即位(3代継続)
1260年:永祖即位(5代継続)
1350年:察度即位(武寧までの2代、1390年には先島が帰順)
最初に即位した舜天は、日本本土から逃れてきた源為朝と、大里按司の妹との子とされています。そのこともあって、最初の王統は伝説上のものではないかと言われています。実在の可能性があるのは、次の英祖からで、考古学から考えられた浦添城の築城時期と重なっています。最後の察度は、中国側の記録にも現れているので、存在がはっきりしています。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は正史では、これらの王は全て最初から首里城にいて、琉球は最初は統一されていたが、英祖王統4代目の玉城(たまぐすく)のとき三国に分裂したことになっています(下記補足1)。しかし歴史家の中では、最初から三国だったであろうという意見が多いです。また、中山王国の本拠地についても、歴史家で「沖縄学の父」と伊波普猷(いはふゆう)たちによって、浦添城の存在が明らかになりました。

(補足1)今の王城を首里城というのは、昔天孫氏が初めて天から降臨して、あまねく諸国を巡り、城を築く地を選ばれたところ、今の王城の地が最も優れていたので、初めて経営して城を築かれたから首里というのである。
舜天尊敦と申し上げるのは、大日本人皇五十六代の清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤、六条判官為義の八男、鎮西八郎為朝公の男子であらせられる。
この時(玉城王)から世は衰え、政はすたれて朝勤会同の礼も日に日に衰え、内では思うままに女色に溺れ、外では狩猟に耽られたので、諸侯は朝廷に出仕する礼を取らず、国々の戦いが始まった。国は分かれて三つとなり、中山王、山南王、山北王と呼ばれた。(中略)中山というのは、首里の王城である。
(「訳注 中山世鑑」より)

伊波普猷 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浦添城跡にある伊波普猷の墓

浦添城は「浦添断層崖」と呼ばれる琉球石灰岩でできた崖の上に築かれました。頂上部は東西約4百メートルにわたって石積みの城壁に囲まれていました。城の北側は切り立った崖によって天然の要害になっていたので、南側に堀や張り出しの郭(土造り)を築いて防御を固めました。また、崖下を流れる牧港川が貿易港である牧港に通じていました。当時の沖縄では、北山の今帰仁城と並ぶ最大級のグスクだったのです。

浦添城の模型、浦添大公園南エントランス管理事務所に手展示

主郭部には、高麗系の瓦を使った正殿があり、外来の技術者が関わっていました。その前には御庭があり、周辺にも「ディークガマ」などの祈りの場所がありました。城の北側には王墓である「浦添ようどれ」が作られました。後の史書(「琉球国由来記」など)によれば、1261年に英祖王が造営しました。これも、現地の発掘調査による想定と一致しています。英祖王統の王たちが葬られている可能性がある墓室(西室)では、中世本土日本人の特徴がある頭蓋骨が発見され、もう一つの墓室(東室)では中国・東南アジア系人のDNAが検出されています。また、近くには琉球最古の寺院と言われる極楽寺が創建され、城の南側には人工池の「魚小堀(いゆぐむい)」が作られました。こういった城の構成は、後の首里城の原型になったと言われています。

再現された墓室(西室)、浦添グスク·ようどれ館にて展示

明との朝貢貿易は発展していました。明が琉球を優遇していたからです。他の国に対しては「勘合貿易」と言われるように、回数や場所を限っていましたが、琉球はほぼ自由でした(中山は35年間に40回、南山は50年間に35回、北山は33年間で15回)。それだけでなく、貿易船を貸し与えたり、「久米村」と呼ばれる実務者集団を派遣したりしました。これについては、明は新興国の「琉球」を「貿易商社」として使おうとしたとか、「倭寇」として活動していた勢力の受け皿にしようとした、倭寇情報の収集・監視役とした、日本に対する交渉の仲介役にしたなどの見解があります(「琉球史を問い直す」「琉球王国 東アジアのコーナーストーン」)。その結果、中国との交易を制限された国や勢力の間に琉球が入ることになり、ますます三王国が繁栄することになりました。1404年には、中国から冊封使が琉球に派遣され、中国皇帝が中山王・武寧が琉球国中山王として認める儀式が行われました。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
進貢船の模型、沖縄県立博物館・美術館にて展示
中国皇帝が琉球国中山王に与えた玉冠、那覇市歴史博物館にて展示

尚巴志による琉球統一、首里城への移転

15世紀になると、尚巴志により三山が統一され、琉球王国が成立します。尚巴志(生年:1372年~没年:1439年)は、南山王国の一部・佐敷城の按司でした。佐敷城は土造りの小さなグスクでしたが、その地は農業に適し、近くには良港(馬天、与那原)もありました。後世の史書(「球陽」など)によると、彼は身長が低く(五尺(約150cm)未満)で「佐敷小按司」と呼ばれたそうです。「小按司」が「尚巴志」という名の基になったのではないかという説があります。また、彼の刀を外国船が積んできた鉄塊と交換し、それを農具にして農民に与え、人望を得たという伝承があります。小領主ながら人心を掴める人物だったのでしょう。

佐敷城跡

尚巴志の琉球統一のストーリーですが、琉球王国の史書に、3つの異なった説が書かれているのです。
・中山世鑑(ちゅうざんせいかん):1650年成立、琉球王国初の正史
・蔡鐸本中山世譜(さいたくぼんちゅうざんせいふ):1701年成立、「中山世鑑」を修正
・蔡温本中山世譜(さいおんぼんちゅうざんせいふ):1725年成立、更に加筆修正
地元の伝承に基づいて書かれた最初の説を、中国の記録などを見ながら修正したらしいのです。現在の定説は、最後の説(蔡温本中山世譜)を基にしたもので、それをご紹介しますが、最初の説(中山世鑑)も捨てがたいので、異説として括弧書きで掲載します。

1402年、尚巴志は近くの島添大里城を攻撃・占領し、そこに本拠を移しました。この城は南山王国の本拠地とされていましたが、1429年まで明に朝貢を行っていることなどから、別の場所(島尻大里城か)に本拠が移ったと解釈されています。当時、南山王国では中山との抗争や内紛が起きていて(下記補足2)、尚巴志はその混乱に乗じたのかもしれません。(異説:尚巴志が島添大里城に移ったときに南山王になった、南山は尚巴志による傀儡政権になったとする歴史家もいます。)尚巴志の次のターゲットは、南山ではなく、中山の本拠地・浦添城でした。1406年、尚巴志軍に対し、当時の中山王・武寧は呆気なく降伏しました。そして尚巴志は父親の恩紹を中山王としました(異説:11421年に中山を倒し、尚巴志が中山王になった)。史書によると、武寧は周りの按司たちの支持を失っていたとされます。しかし、恩紹が1409年に朝鮮に使者を送ったときの記録によると、敵対勢力を鎮圧するのに数年を要したことが伺えます(下記補足3)。

(補足2)
朝鮮に在逃する山南王子承察度の発回(「李朝実録」太祖3年(1394年)中山王察度の願い出)
山南王温沙道(おんさどう)が中山王に追われ来たりて晋陽に寓す(「李朝実録」太祖7年(1398年)中山王察度の願い出)
是れより先、(先王の)応祖は兄達勃期(たぶち)に弑される所と為る。各塞官兵を合わせて、達勃期を誅し、他魯毎(たるみー)を推して国事を摂らしむ(「明実録」永禄13年(1415年)山南王世子他魯毎が明皇帝にあてた奏文)

(補足3)武寧が死んだ後、各按司が争いを起こし連年遠征をしていたため、使者を派遣するのが遅れた(「朝鮮太宗実録」、訳は「尚氏と首里城」より)

そして尚巴志は1416年(北山最後の進貢の翌年)、最大の敵・北山王国と対決、これを倒しました。(異説:1422年に北山を倒しこの時点で琉球統一)1421年には父から王位を継ぎ、1429年に南山王国を制圧し、ついに三山統一を果たしました(異説:すでに統一済み)。琉球王国の成立です。この間、尚巴志は本拠地を浦添から首里に移したと考えられています。現存する琉球最古の石碑「安国山樹華木之記碑」が1427年に作られ、城の周辺に人工池(龍潭)を作り、花木を植え、太平の世の記念としたことが記されています。かつての浦添城の姿が再現されたのでしょう。首里城は、以前の中山王国のときから支城として使われたと考えられていますが(「京の内」の範囲)、尚巴志が本拠とした大きな理由は、近くの那覇港の存在がありました。サンゴ礁に囲まれた沖縄は、大型船が安全に停泊できる港は、当時那覇港と運天港(今帰仁城の近く)くらいでした。尚巴志の政権は、貿易を司る「久米村」との結びつきも強めていました。城の範囲は、現在「内郭」とされる瑞泉門から内側であったとされています。尚巴志の王統(第一尚氏)は6代続きました。

龍潭から首里城の眺め
首里城の模型、首里杜館(首里城公園レストセンター)にて展示

主のいなくなった浦添城は、荒れ果てた状態になったという記録があります(下記補足4)。しかし一方で尚氏(尚巴志の王統である第一尚氏)は、王墓である浦添ようどれを改修したと考えられています。自分たちが正当な王権を継ぐ者であることを示そうとしたのでしょう。墓室である洞窟内にあった瓦葺きの建物が撤去され、中国産の石(輝緑岩)で作られた石棺墓を設置しました。そこには沖縄最古とされる仏教彫刻が刻まれています(第二尚氏の尚真、または察度王統の時代の可能性もあり)。

(下記4)城毀壊し、宮殿荒蕪して、瓦廃れ垣崩れ、鞠りて荒野と為る(「球陽」)

石棺に刻まれた仏教彫刻、浦添グスク·ようどれ館にて再現されたもの

その後

その後、琉球王朝は尚巴志とは違う王統の第二尚氏によって引き継がれましたが、その3代目の尚真王の子・尚威衡(しょういこう)が1524年に浦添城に移り住み、浦添尚家となりました。浦添城もその本拠として再整備されました。やがて尚家本家に跡継ぎがいなくなると、1589年に尚威衡のひ孫・尚寧(しょうねい)が王位を継ぎました。尚寧は首里城に移りましたが、浦添城には出張機関(浦添美御殿)を残し、両城の間を石畳の道で結びました。

復元整備された石畳道

ところが1609年、琉球王国は薩摩の島津氏の軍による侵攻を受けてしまいます。島津軍は読谷海岸に上陸し、浦添城の屋敷や城下の寺の焼き討ちを行いました。そして、尚寧が作った石畳道を通って、首里城に迫ったのです。城を包囲された尚寧は降伏し、琉球は薩摩藩の支配下に入りました。尚寧王が亡くなると、その亡骸は浦添ようどれに葬られました。2つある墓室のうちの一つ(東室)が、そのとき作られたものとされています(察度王統によるものではないかという意見もあります)。ようどれはその後、御墓番(比嘉家など)によって守られていました。

浦添ようどれの案内パネル、左側の墓室が尚寧王陵
戦前の浦添ようどれ、現地案内パネルより

そして1945年の沖縄線では、浦添城にとって最大の悲劇が起こりました。米軍は読谷海岸に上陸し、日本軍司令部があった首里を目指して南下しました。そのとき激戦があったのが、崖上にあった城跡に設置された陣地「前田高地」です(米軍は「ハクソー・リッジ」と呼称)。12日間にわたる戦闘で、浦添ようどれを含む城跡はほぼ壊滅しました。何よりも日米両軍兵士だけでなく多くの住民も犠牲となったのです。

壊滅した浦添ようどれ、現地案内パネルより

戦後、城跡は採石場となり、ますます城跡の荒廃が進みました。1955年になって、当時の琉球政府がわずかに残った墓室の修復を始めました。その後公園用地となり、1989年には国指定史跡になりました。それを受けて浦添市は発掘調査を行い、2005年には浦添ようどれの復元を行いました。現在は浦添城の復元を目指した調査や整備を行っています。

復元された浦添ようどれ、現地案内パネルより

「浦添城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

187.Fukue Castle Part2

If you want to visit Fukue Island where Fukue Castle Ruins are located, you need to take a ship or a plane. The ruins are closer to Fukue Port than Fukue Airport, which only about 300m away from the port. If you walk from the port to the ruins in the west, you will see the eastern stone walls and the moats in the front. However, the moats had originally been a seashore, and were reclaimed around. That’s why the moats are still filled with the sea water which is controlled by the tide

Features

Walking around Front of Castle

If you want to visit Fukue Island where Fukue Castle Ruins are located, you wil need to take a ship or a plane. The ruins are closer to Fukue Port than Fukue Airport, which is only about 300m away from the port. If you walk from the port to the ruins in the west, you will see the eastern stone walls and the moats in the front. However, the moats had originally been the frontline of the seashore, and where the new artificial land is currently located. That’s why the moats are still filled with the sea water which is controlled by the tide.

Fukue Port
The aerial photo around the castle (Google Map)
The stone walls at the eastern side of the castle

The stone walls are part of the second enclosure, which faced the sea as the front line of the castle. Its corner on the left is one of the canon ruins. The stone walls were basically piled using basalt natural stones which had been produced by Onidake Mountain of the island. Meanwhile, the corners of the stone walls were piled using precisely processed stones. This was because the corners mainly had to support the weight of the walls. If you walk to the north along the moats, you will also see the water gate which was used for ships.

The stone walls of the battery ruins
A part being piled using basalt natural stones
A corner being piled using precisely processed stones
The water gate

Over the moats, you will eventually arrive at the ruins of the main gate which is the entrance of the northern enclosure. The gate also faced the sea in the front.
The stone walls of the gate were piled up using precisely processed stones, as it was also the front gate. It had a turret building on it as well. The enclosure now has the Goto Kanko Historical Museum which looks like a Main Tower, where you can learn the history and culture of Goto Islands.

The ruins of the main gate
The Goto Kanko History Museum

Going to the Back of Castle

If you go to the back of the castle in the west, from the northern enclosure, you will see the main enclosure and the inner moat. The main enclosure is now used as a high school. That’s why visitors can only look around it. The stone walls of the enclosure have something like a gap, which was actually one of the entrances where the bridge over the moat used to be. If you go further, you need to turn to the right rear and will walk along the long stone walls of the northern enclosure. There is also one of the canon base ruins nearby.

The stone walls of the main enclosure and the inner moat
The trace of the entrance
The stone walls of the northern enclosure
The cannon base ruins seen from the city area

It would be better to exit Fukue Culture Hall, which uses the former castle’s land, in order to see the castle site more. If you go on the city area to the west, you will see the castle’s stone walls and the moat in front of them again. In fact, the moat is original, and does not originate from the sea, and is in the westernmost part of the castle. The stone bridge over the moat, and gate behind are original as well, which have been maintained for a long time. The gate was used as the back gate of the castle. The inside is the remaining retreat of the founder of the castle, Moriakira Goto. This site is open to the public, called “Goto Garden”. However, it sometimes has irregular holidays which may confuse visitors. Therefore, I recommend calling the management office in advance to confirm its business days, if you really want to see it.

The entrance of the Fukue Culture Hall
The western side of the castle still has its original moat, bridge and gate
The back gate of the castle
The entrance of Goto Garden, it was closed when I visited

Overall, the stone walls remain well even though most of the sea area around the castle has been reclaimed. The other remaining castle’s gate is used as the entrance of the high school.

The stone walls of the southern side of the castle, the road on the left was the sea in the past
The other remaining gate where high school students pass every weekday

Related Historical Sites

One of the related sites to Fukue Castle is Fukue Samurai Residence Street, which was the residential area of middle-class warriors of the Fukue Domain. It consists of the remaining gates and walls for the residences, which are about 400m long. The walls resemble those of Fukue Castle, but some points are different. There are rough stones lazily piled up, called “kobore-ishi” (meaning “spilling stones”), on the walls. There are also semi-circular stones, called “waki-ishi” (meaning “side stones”), at the edges of the walls. The latter stones keep the former stones on the walls. This is a unique system for the whole country. One theory suggests that invaders over the walls would inform the host by spilling the stones. The other theory says that the host would counterattack the invaders by throwing the stones.

Fukue Samurai Residence Street
The side stones and the spilling stones

Most of the area behind the gates and walls has become modern residences. However, the street still looks like what it was, with the stone pavements.

There seems to be a park behind the gate
There seems to be an apartment house behind the gate
This street has stone pavement which makes it old-fashioned

Another related site is Jotobana Ruins near Fukue Port. It was originally built as a lighthouse and the banks to protect the castle construction site from the big waves. Its only remaining item is the lighthouse, so you need to access it by crossing the modern pier. It was said that the site was built by the same craftsman group as those for the stone walls of the castle. In addition, originally, this structure was built alongside the castle, but in fact it was built even before the start of the castle construction. That meant the shogunate might have given an unofficial permission to the castle’s lord back then.

The Jotobana Ruins
You can access the ruins through the pier

If you get close to the stone walls of the lighthouse ruins, you will see they look just like those of the castle. Such a historical site would make us interested in the history of the castle more and more.

The steps to the lighthouse ruins

Is this Extra Edition?

If you walk around the Fukue area, you will often see Onidake Mountain, a symbolic mountain of Fukue Island.

Onidake Mountain, seen from the Jotobana Ruins

The mountain is 315m above sea level. It is classified as a volcano mountain but there have been no records of its eruptions in human history. Before that, it erupted and eventually made lava coast in the southeastern part of the island. The eruption made the top of the mountain look like a mortar, academically called a scoria hill. People burn off a field of the mountain every several years; the mountain is covered with green grass.

Top of the mountain, seen from the mid slope
The shape of the mountain with green grass is beautiful
Around the top of the mountain

In fact, the mountain is related to the Fukue Domain and Fukue Castle. It was one of the 11 lookout posts the domain built on the islands, in order to monitor foreign ships. You will realize it is a good place for the lookout where you can look over the sea and the castle site.

A view of the Fukue city area including Fukue Castle from the top
A view of the opposite side of the castle from the top

There is also the lava coast the mountain created at the opposite side. The coast provided the natural stones to the castle to build its stone walls. The castle’s history comes with the natural environment of the island.

The lava coast seen from the top

My Impression

I honestly say that I thought it would be enough to have a day trip just to visit Fukue Castle Ruins. That’s why I originally bought a return ticket using ships to and from Nagasaki Port in one day. However, when I got there, I got interested in many other things. As a result, I unfortunately didn’t have enough time to see everything including the lava coast and a church. Therefore, I recommend staying overnight if you visit Fukue Island.

I had to return to Nanasaki in no time at all

That’s all. Thank you.
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187.Fukue Castle Part1

Fukue Castle was located in Fukue Island, which is the largest one of Goto Islands. It was built by the Goto Clan, the lord family of the Fukue Domain during the Edo Period. Goto Islands are at the westmost part of the Kushu Region. That’s why they have a long history including close relationships with foreign countries through sea transportation. However, the castle is one of the latest castles in Japan because of the special conditions and matters of the islands.

Location and History

Fukue Castle was located in Fukue Island, which is the largest one of Goto Islands. It was built by the Goto Clan, the lord family of the Fukue Domain during the Edo Period. Goto Islands are at the westernmost part of the Kushu Region. That’s why they have a long history including close relationships with foreign countries through sea transportation. However, the castle is one of the youngest castles in Japan because of the special conditions and matters of the islands.

The location of the castle

Goto Islands with Matsura Party, Kaizoku warriors, and Wako pirates

In the ancient times, Goto Islands were on the southern route for Japanese missions to the Tang dynasty of China. For example, a famous priest, Kukai, left the islands to the dynasty by ship. In the Middle Ages, warriors, called Matsura Party, invaded the islands in order to govern it. Though their leader, the Matsura Clan stayed in Hirado of the main Kyushu Island, other members like the Uku and Aokata Clans moved to Goto Islands. Apart from the jobs for ruling their lands, they usually acted as sea guards and navies. They also pirated cargos from the ships which meant they didn’t have to pay to enter certain areas or were wrecked. So, they were sometimes called Kaizoku, which directly means ‘pirates’.

The restored Kobayabune boat, which is an example of navies’ or Kaizoku’s boats, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum

Another leading group at that time were Wako pirates, which used Goto Islands as a base. They were classified in the former Wako during the Muromachi Period and the later one during the Sengoku Period. The latter was, in fact, ruled by Chinese people, who were like armed merchants. It was said that some Japanese people from the Matsura Party might have joined the Wako pirates. The lords of the party tried to build a strong connection with those of the pirates to improve their power.

A picture of the Wako attack (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Rule of Goto Clan as Fukue Domain

In the 14th Century during the Muromachi Period, one of the Matsura Party, the Uku Clan managed to unify Goto Islands. As a result, the clan moved its home from Uku Island to Fukue Island, the largest one in the islands. Morisada Uku, who was the lord of the clan in the middle of the 16th Century tried to increase trading by building Egawa Castle near the estuary of Fukue River. He met a Chinese big shot from the Wako Pirates, called Wang Zhi, in the process. Morisada allowed Wang Zhi to live and trade in Fukue, by building a Chinatown near the castle. Some historical items, such as Minjin-do (a mausoleum) and Rokkaku Well, can be seen in the town ruins. Goto Islands became a trading center following Hirado.

The portrait of Wang Zhi, exhibited by Minjin-do Mausoleum
The imaginary image of the Chinatown, exhibited by Minjin-do Mausoleum
The Minjin-do Mausoleum
The Rokkaku Well

The Uku Clan also adapted to its new environment. When Christianity came to Goto Islands, Morisada’s son, Sumisada became a Christian. Sumisada’s grandson, Sumiharu changed his family name from Uku to Goto, as the representative of the islands, during the unification of Japan by Hideyoshi Toyotomi. Sumiharu’s successor, Harumasa Goto survived even when Ieyasu Tokugawa became the last ruler. Harumasa was the first lord of the Fukue Domain which governed the area all through the Edo Period. The second lord, Moritoshi Goto forced all the warriors of the domain to live in Fukue town to rule over them completely. Fukue Samurai Residence Street is the ruins for the middle-class warriors’ residential area.

Fukue Samurai Residence Street

However, the situation of the domain was not stable. Even though the income of the domain had been good because of the prosperous fishing industry, both of them declined rapidly. Therefore, the domain needed to make counterplans. Their first plan was to tax each person in the domain, It seemed unusual but the second counterplan was more unorthodox. Their second plan was to force some girls to serve high-class warriors like slaves for three years! This was obviously a tribble law even during the Edo Period, which lasted until the end of the period. On the other hand, another plan might have unknowingly brought a good thing to Goto Islands. Fukue Domain asked Omura Domain in the main island of Kyushu to move farmers to Goto Islands. They agreed with each other, and then, thousands of farmers went to the islands. In fact, many of the farmers were underground-Christians. Being Christian was prohibited at that time, but Fukue Domain accepted them carelessly without checking their background because they wanted to increase their income. As a result, Christianity was secretly worshiped by the farmers, which would lead to some Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region (as a World Heritage) in Goto Islands.

Kashiragashima Church in Kashiragashima Island of Goto Islands (licensed by Indiana jo via Wikimedia Commons)

As for the castle’s matter, Egawa Castle was eventually burned down by accident in 1614. Fukue Domain tried to build another one, however, it was not allowed by the shogunate. This was because the domain was too small for having a castle. The shogunate controlled all the domains by classifying them and permitting what they could do. Instead, Fukue Domain built Ishida Encampment at a seashore where Fukue Castle would later be built.

The ruins of Egawa Castle, where only a monument stands beside the hotel

Road to Fukue Castle

Fukue Domain was also not allowed to trade with foreign countries because it was allowed to do so with Netherlands and China. The only trading that was allowed was in Nagasaki Port. Furthermore, the domain was ordered by the shogunate to monitor the foreign trading ships on route to Nagasaki near Goto Islands. The domain built 11 lookout posts on the islands in order to monitor foreign ships. That made the domain become more careful of foreign affairs. The domain sent some officers to Nagasaki to collect foreign information. As time passed, unidentified Western ships often appeared in the sea around Japan. The domain felt a sense of crisis and applied the first permission to build a castle in 1806 but was rejected in the end.

Dejima Island in Nagasaki Port, which was used for the trading with the foreign countries (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Meanwhile, there were big incidents at Nagasaki. In 1808, a British warship, called Phaeton, rushed towards Nagasaki, to catch some ships of Netherlands under a state of war between the countries. Then, in 1844, a Dutch warship, called Palembang, visited Nagasaki with a diplomatic massage by the Dutch king, which encourage Japan to open the country. This information was basically confidential, but Fukue Domain got it through the officers at Nagasaki.

The British warship, Phaeton (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The Dutch warship, Palembang (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Therefore, it asked the shogunate to allow them to build the castle again and again. Eventually, they were allowed to do it in 1849, which was the same year as that of Matsumae Castle in Hokkaido was built.

Matsumae Castle

Construction of Castle

Fukue Domain lauched the construction of Fukue Castle at the same site as its encampment right away. However, it took a very long time as long as 15 years. This was because of the lack of the budget and its location near the estuary. There is the ruins of a lighthouse called Jotobana near Fukue Port. it was originally built as banks to protect the construction site from the big waves. The castle was eventually completed in 1863. It was one of the youngest castles in Japan and unique one devoted to guarding the sea.

The Jotobana Ruins

For these reasons, it had several distinct features. First, the castle faced Eastern China Sea in the east and surrounded by it in the east, north, and south directions. The sea could be a natural moat for the castle too, but it made enemy ships attack that area more easily. Therefore, the stone walls at the eastern side were very thick. A water gate was also built to sail the castle’s ships. Secondly, the castle had several enclosures such as the Main, Second and Northern Enclosures like other castles. However, the corners had cannon bases, not turrets which Japanese castles used to have. The residence and garden for the lord were built in the western part of the castle, which was the farthest from the sea, which was also the safest area of the castle. Finally, the stone walls of the castle used many natural stones which the island produced. The stones were piled in a method called Nozura-zumi by a special stone craftsman group called Ano-shu.

The illustration of Fukue Castle, quoted from the board of education of Nagasaki Prefecture
The stone walls at the eastern side of the castle
The stone walls which were piled in the Nozura-zumi method

Though the castle was built after the great efforts after a long time, it was abandoned in 1872 after the Meiji Restoration when it was only 9 years old.

The ruins of Fukue Castle

To be continued in “Fukue Castle Part2”