85.福岡城 その1

立地と歴史

Introduction

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩(52万石と言われる)の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。現在まで天守台は残っているものの、天守の建物は築かれなかったとされていました。しかし、天守の存在を示す史料がいくつも発見(または再注目)され、天守「復元」運動も起こっています。その天守台の上に、仮設のライトアップされた天守を演出するイベントも行われています。果たして福岡城に天守はあったのでしょうか?また、この城はどんな歴史を辿り、どんな特徴を持っていたのでしょうか?これから城跡がどうなっていくかも見ていきたいと思います。

福岡城の模型、福岡城むかし探訪館にて展示
現存する天守台
ライトアップされた仮設天守、Wikimediaより
果たして天守はあったのか、上記模型より

福岡城築城まで

福岡城を築いた黒田長政(生年:1568年〜没年:1623年)は、豊臣秀吉の「軍師」と言われる黒田孝高(官兵衛、如水)の嫡男でした。松寿丸と名乗り、人質だった幼少時代に、父が(荒木村重の有岡城で)囚われの身となり、裏切りを疑った織田信長から殺害を命じられました。しかし、秀吉のもう一人の「軍師」竹中半兵衛にかくまわれ、命拾いしたというエピソードがあります。1600年(慶長5年)の天下分け目の関ヶ原合戦で長政は、半兵衛の遺児・重門と同じ場所(岡山)に陣取っています。(そのとき着用した一の谷兜も、半兵衛から受け継いだものと言われています)その関ヶ原では、当日の合戦だけでなく、西軍だった小早川秀秋などの有力部将を寝返らせ、東軍の勝利に大きく貢献しました。その論功行賞が、豊前国中津から筑前国(の大半)への移封(約12万石→当初約31万石)でした。

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関ケ原合戦で長政が陣取った岡山

その筑前国は、古代より海外(特に朝鮮・中国)への玄関口になった地でした。城の三の丸となった地には、飛鳥〜平安時代に「鴻臚館(こうろかん)」が設けられ、外国使節の迎賓館、日本からの遣唐使などの宿泊施設として利用されました。中世になり、1274年の元寇(文永の役)のときには、後の城周辺の「赤坂」「鳥飼潟」で激戦がありました。城に隣り合った博多は、中世最大の貿易都市として栄えました。関ヶ原当時は、戦国の乱世によって荒廃した町を、「唐入り」(朝鮮侵攻)の根拠地にしようとした秀吉が復興した直後でした。そのときの領主は小早川秀秋で、博多の北東にあった名島城を本拠地にしていました。

鴻臚館の一部復原建物、鴻臚館跡展示館にて展示
赤坂の戦い、「蒙古襲来絵詞」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

慶長5年12月、長政以下家臣団は武装してお国入りを行いました。勢力が強かった博多の商人・僧たちにその威力を見せつけるためです(筑前御討ち入り)。また、前の領地(豊前)から年貢を収納して筑前に移動したため(次の領主に引き渡すのが当時の慣習)、次の領主・細川忠興ともめ事になり、これがきっかけで両氏はその後136年に渡り、犬猿の仲になります(1736年に幕府の仲介で和解)。長政は、豊前との国境に6つの支城を築き(筑前六端城)、細川氏に対峙することになりました。更に、福岡藩はよく「筑前52万石」(支藩含む)と言われますが、引き継いだ当初の石高は約31万石(小早川氏時代)でした。入国後検地を行った結果として、自ら幕府に届け出た石高だったのです(下記補足1)。実力は、これより下回っていたと言われています。

(補足1)初めから五十万石を得んとして欲し、当時の物成(年貢)十六万五千七百九十七石を三つ三歩の率をもって除(「郡方古実備忘録」)して創り出した机上の計算(「物語福岡藩史」、「福岡城」からの引用)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長政は最初、名島城に入城しましたが、手狭だったこともあり(下記補足2)、本拠地として新城を築くことにしました。これが、福岡城です。このときは築城の名手でもあった孝高が健在(1604年没)で、長政が上京などで多忙であったこともあり、共同で築城に当たりました(下記補足3)。城は、博多の町の西隣、那珂川を境界とし「福崎」という丘陵を中心に縄張りが行われました。西側には博多湾の「草ヶ江」と呼ばれた大きな入り江があり、埋め立てるとともに、一部は堀として活用しました(大堀)。長政が上方などから送った、本丸の工事に関する家臣宛の書状がいくつか残っています(下記補足4)。築城は1601年(慶長6年)から約7年間に渡って行われました。完成間際に風水害を受けてしまい、長政は修理の指示を行っています(補足5)。工事期間には、天守についての数少ない記録の一部が見られるのです。

(補足2)名島の城は三方海にて要害よしといへ共、境地かたよりて城下狭き故、久しく平らぎを守るの地にあらず(「新訂黒田家譜」)

(補足3)甲斐守(長政)居城取り替え申し候て、上下隙を得ざる事、御推量あるべく候(慶長6年9月15日付 本願寺坊官下間氏宛 黒田如水書状)

(補足4)
・態(わざ)と申し下し候、仍って天守南の方、つきさしの石垣、急ぎつき申すべく候、拙者事は来月まてハ、此方滞留の事候間、万事普請等油断無く仕るべく候、恐々謹言(慶長6年8月23日付 黒田長政書状)
・一、其地普請之儀、てんしゆノうら石かき、九月中ニ出キ候様ニと、皆々申遣候間、惣右衛門幷年寄共はしめ普請所ニ相詰候か、石場ニ居候而振舞ニあろき申候か又ハ知行所へはいりくつろき申か、毎日よくよく見候而つきおき可申候、油断有間敷候事
(天守の裏の石垣は九月中に完成させるよう、皆に申し付けてある。惣右衛門ならびに年寄りどもは普請の現場につとめているか、石場で忙しく歩き回っているか、あるいは自分の知行所に入って楽をしていないかどうか、毎日丹念に調べて記録しておくように)(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、林家文書、訳は「甦れ!福岡城幻の天主閣」より)
・尚々、我等下国候はぬ已前に、天守どだい出来候様に精入れ申し付くべく候、権右衛門に申し遣わし候うち、石かきをも申し付くべく候、以上(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)
・一、天守を此の月中に柱立て仕るべく候間、其の通り大工・奉行ともへ、かたく申し聞けべく候(年不詳(慶長7年か)2月15日付 黒田一成宛黒田長政書状)

(補足5)城中刷(修理)普請、大方出来の由、しかるべく候、このついでに天守・宗雪丸なとのつくろい申し付くべく由、尤もに候、大風吹き候事もこれあるべく候間、急度つくろい申すべく候、其れに就き、手伝の様子申し越す通り、其の意を成し候(慶長11年7月 黒田長政書状)

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「博多往古図」、南が上なので右側の大きな入り江が「草ヶ江」、出展:福岡市博物館

福岡城の構造

長政は、城とその地の名前を新たに「福岡」と名付けました。黒田氏のゆかりの地の備前国福岡にちなんだものと言われています。城が築かれた地区は、城部分(本丸・二の丸・三の丸)と城下(外郭・総構)に分かれていました。城下は、北は博多湾、東は那珂川(その向こうが博多)、西は大堀と、自然の要害に囲まれていました。城部分は城下の南側にあって、全体を内堀に囲まれていました。まるで堀に浮かぶ島のようになっていました。堀を渡った城への入口は3箇所のみで、正面の上之橋御門、下之橋御門、裏側の追廻御門でした。その出入りは「御門法」により厳しくチェックされていました。内堀は、中堀・佐賀堀を通して、那珂川・博多に接続していました。

「福岡御城下絵図」、出展:福岡市博物館

門を入った先は、城では最も広く、低地にあった三の丸です。黒田孝高の隠居屋敷があった高屋敷とそれに続く石垣により、東西に二分されていました。東部は、江戸時代を通じて重臣たちの屋敷地となっていました。例えば、一番東端の「東の丸」と呼ばれた区画には、当初栗山備後の屋敷がありました。西部は、当初は中級以下の家臣の屋敷地(代官町)でしたが、1633年頃(寛永10年)頃に2代目藩主・細川忠之が三の丸御殿を建てました。やがて重臣たちの屋敷や役所(勘定所など)も周りに建てられ、以後政治の中心地になります。近くにある下之橋大手門は、藩士たちの通用門として使われました。

北側から見た福岡城の模型、手前の広い部分が三の丸、福岡城むかし探訪館にて展示

丘陵部分に入ると、二の丸になります。二の丸は、東部・西部・南の丸・水の手に分かれていました。二の丸東部は、三の丸東部から入った場合の入口で、東御門がありました(脇に革櫓、近くに炭櫓)。当初は内部に二の丸御殿があり、藩主の世子の居住用だったと考えられています。やがて世子不在の時期が続き、取り壊されたようです。二の丸西部は、本丸へ通じる接続部分でした。二の丸東部からは扇坂御門、三の丸西部からは松木坂御門(脇に大組櫓・向櫓があり、下之橋大手門に近い)と桐木坂御門(追廻御門に近い)を通りました。内部には目立つ建物はなかったようです。水の手には、籠城用の溜池がありました。南の丸は、城代・城番がいた場所で、そこにあった多聞櫓は、城で唯一そのまま残っている櫓です。

上記模型の丘陵部分、外側がニの丸

本丸は、文字通り城の中心で最も高い所にあります(天守台上端で標高約36m)。北側には本丸御殿がありました。御殿に至るには、本丸表御門と本丸裏御門を通り、普段は裏御門を使っていたそうです。本丸御殿は、初代藩主・黒田長政が建て、そこに住んでいましたが、次の代からは手狭ということで儀礼・儀式の場になりました。御殿の周りには祈念櫓、月見櫓などがありました。南側には武具櫓・鉄砲櫓があって、武具櫓御門から出入りしました。鉄砲櫓には弾薬が、武具櫓には黒田家伝来の武具類などが収められていました。黒田長政は築城時に天守の守りのために30間の長さの櫓を建てると言っていて(下記補足6)これが武具櫓のことと考えられています。本丸の中心が天守台です。

(補足6)三十間に居矢倉立て候、天守之衛にて候(慶長6年9月朔日 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)

上記模型の本丸部分、西側からの視点です

果たして天守はあったのか

これまで、福岡城には天守がなかったと言われた時期がありました。福岡城の一番古い詳細絵図「正保福博惣図」、1646年・正保3年作成)に天守が描かれていないからです。現存する天守台は描かれています。また、福岡藩の公式史料(「黒田家譜」など)や地元の地誌(「筑前国続風土記」など)にも天守のことは記載されていません。これらのことから、天守台は築かれたが、幕府への遠慮により、天守は築かれなかったという見解が主流だったのです。

「正保福博惣図」、堀石垣保存施設にて展示

しかし、築城の部分でも触れた通り、天守の存在を示唆する史料が発見または再注目されています。まずは、福岡藩の隣の小倉藩・「細川家史料」です。藩主の細川忠利が、1620年(元和6年)に伝聞として、黒田長政が福岡城の天守を破却すると書いているのです(下記補足7)。

(補足7)
一.黒築前殿(黒田長政)行儀、二・三日以前二御目見被仕候(中略)、主居城をも、大かたはきやく(破却)被仕候而被参候様二、下々取沙汰申候、いつれに天主なとを、くつされ候事蹟必定之様二親候、定可被聞召存候事
(長政殿は二、三日前に将軍秀忠公に謁見なされた。(中略)居城をおおかた破壊されてから、また戻られるようだと下々は噂している。いずれにしても、天守はお壊しなさえれるに違いないと取り沙汰されている)
(元和6年3月15日細川忠利書状案、訳は「福岡城天守を復原する」より)
尚々(略)又ちく前縁辺今立、何とも取沙汰無御座候、ふく岡の天守、又家迄もくづし申候(中略)如右申付候よし被申上と承候

細川忠利肖像画、矢野吉重筆、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、黒田家側の史料にもそのようなものがあります。時期はわかりませんが、天守の欄干が腐ったという報告を受け、長政が調査と修繕を指示した記録があります。1623年(元和9年)に長政が亡くなるときには、遺言として伝来の「一の谷の兜」は天守にあると言っています(下記補足8)

(補足8)
高麗ニて我等着候一ノ谷ノ甲遣候、福岡天守二有之
(元和9年7月27日黒田長政遺言覚、諸家文書)

最近では、家臣(毛利氏)の家の資料から、天守の建設と石垣に関する記述がある書状が発見されました(下記補足9)。

(補足9)
石垣ノ石ハ名嶋ノ石を以、其刻ハ穴太無之、しろうとつきに仕、天守御立被成候故、石垣ヌルク御座候、(以下略)
(1640〜50年頃、毛利甚兵衛宛梶原正兵衛書状)

絵画史料もあります。長州藩の毛利氏の密偵が、1611、12年(慶長16、17年)頃スケッチしたとされる「九州諸城図」には、本丸御殿と思われる建物の左側に、4重に見える天守のような建物が描かれています。また、1668年(寛文8年)に作られた「西国筋海陸絵図」には、5重の天守が描かれています。(但し作成時期が、天守がない「正保福博惣図」より後なので想像図の可能性あり、または以前にあった情報を引き継いだ可能性もあり)

「九州諸城図」、NetIB-Newsより引用
「西国筋海陸絵図」、出展:国立国会図書館

これらを証拠として、天守の存在に肯定的な学者などは、天守は築城時に建てられたが、1620年頃解体されたと推定しています。

天守の存在と解体が正しいとすれば、なぜ長政はせっかく建てた天守を短期間で壊してしまったのでしょうか。そのカギも細川家の記録にあります。長政は、当時幕府から命じられていた大坂城再建に動員されていて、その工事の遅れを挽回するために、福岡城を解体して材料調達すると言ったというのです(下記補足10)。

(補足10)
一、黒筑手廻おくれられ候と、其元にて申候由候、ふくおかの城をくつし、石垣も、天主ものほせられ候由、愛元ニ申候、如何様替たる仁ニ候間、可為其分、乍去、別之儀有間敷候事
(元和6年月日不詳 細川忠興書状、松井家史料)

前述の通り、黒田と細川は対立していたので、細川は長政を冷やかな目で観察していたのです。長政はそのとき、自ら追加の工事負担を幕府に願い出ていたので、「変わった人」だと評しています(下記補足11)。

(補足11)
一、黒筑城を割被申候事、又御普請ニ事之外をく(遅)れられ候が、高石垣七十間分望被申之由、兎角奇特なる儀と存寄外無別候事                       (元和6年3月29日細川忠興書状、細川家史料)

現在の大坂城天守

また、それ以前には、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の豊臣氏滅亡、同年の一国一城令、1619年(元和5年)には城の無断改修を理由とした福島正則の改易という出来事がありました。正則と同様に、外様の大大名であった長政が、自身の家の存続に過敏に対応したということが考えられます。

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

こうなってくると、天守の存在は明確になったようですが、事は少々複雑です。天守に連結された櫓があって、それを「小天守」などと呼ぶ場合、一番高層の建物を「大天守」と呼び、一般的にはそれが「天守」とされます。実は福岡城の天守台にも「中天守台」「小天守台」と呼ばれる部分があります。(江戸時代に「小天守台」と記載された記録あり)これまで福岡城で「天守」と言ってきたのは、これらの上に築かれた「中天守」「小天守」のことを指すという説があるのです(服部英雄氏による)。「天守があった」とは「大天守があった」という解釈でしょうから、そういう意味でこの説では「天守はなかった」ことになります。

姫路城の大天守と小天守

その根拠を時間の経過に沿って示すと、まず、先ほどの細川家の記録には、「天守を破却する」という伝聞に対する結果の記述が全くありません。その代わりに、1638年(寛永15年)に天守台周りの櫓を取り除いたという記録があるのです(下記補足12)。これは、1635年(寛永12年)にこの地方を襲った大型台風の被害による可能性があります。

(補足12)
御天守台廻り之御矢倉長屋御除候(三奈木黒田文書、九州大学・桧垣文庫)

そしてその結果が「正保福博惣図」に表されているというのです。「大天守」のあるべき位置には単に「天守台」としか書かれていない一方、「矢倉」が除去された中小天守台他には「矢蔵跡」と記載されています。つまり建物があった所は「跡」とし、なかった所は単に「天守台」としたとの解釈です。そして福岡藩はこれらの存在した建物(中天守・小天守)を幕府向けには「櫓(矢倉・矢蔵)」とし、内輪では「天守」と呼んだのです。

「正保福博惣図」の天守台部分

このような天守台の部分使用は、三原城篠山城などに見ることができます。福岡藩でもこの後、天守台脇に小さな天守櫓を建てたり、大天守台を蔵として使いました。大天守を建てなかったのは、コストと必要性を鑑みたものと考えられます。

篠山城模型の天守台部分、篠山城大書院展示室にて展示

今年(2025年)は、天守台の発掘調査が行われる予定です。大天守の存在についての研究進むよう、大いに期待したいところです。

仮に、大天守の存在が明らかになったとしても「復元」にはまだまだハードルがあります。どのような建物であったか確定することが必要です。福岡城跡は国の史跡なので、建物復元には文化庁の許可が要るのです。その基準は「史実に忠実な再現」を求める大変厳しいものでしたが、最近では「復元的整備」として、一部の不明な部分を多角的に検証して再現することも認められています。福岡城(大)天守の「復元的整備」をめざす人たちは、藩の家格などから、5重天守であったと推定し提案していますが、
実態としてまだ資料不足のようです。実際の建築段階では、一番大事な現存する天守台をどう保護・保存するのかも重要な課題となります。

更に、建物の仕様が決まったとしても、それが地元の人たちに受け入れられることも必要です。福岡商工会議所が市民に実施したアンケートによると、
・「賛成」「どちらかというと賛成」と回答した人が59.1%
・「反対」「どちらかというと反対」と答えた人が14.4%
・「分からない」と答えた人は26.5%
肯定的回答が6割近くになりましたが、そのうちの76%が、「過去に存在したものにできるだけ忠実なもの」を求めています。この辺も大きな課題になりそうです。

余程の大きな発見や基準の変更がない限り、天守「復元」には相当な時間がかかりそうです。

福岡城のその後

明治維新後、福岡城は廃城となり、その広大な敷地は主に日本陸軍によって使われました。ほとんどの城の建物は解体され、または移築されました(武具櫓など)。戦時中の福岡大空襲のときには、武具櫓のように移築先で焼失してしまったケースもあったのです。堀も多くが埋められ市街地となり、中堀の一部と、大堀の一部が大濠公園として残されました。戦後は、公共施設やスポーツ施設のために使われ、中でも三の丸にあった平和台球場が有名です。その場所に鴻臚館があったことがわかり、発掘調査が行われ、復元事業が始められています。福岡城跡としての史跡の価値も見直され、福岡市はセントラルパーク構想の中で、歴史・文化・観光の一大拠点の一つとして位置付けています。

206.浦添城 その2

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。

特徴、見どころ

Introduction

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。ご紹介する順番は、ゆいレールで行ける浦添城と首里城を続けるのではなく、建国ストーリーに沿って古い方からにします。

那覇空港到着ロビー

それでは最初の浦添城に向けて出発しましょう。空港からゆいレールに乗り込めば、最寄りの浦添前田駅に到着します。

ゆいレール(那覇空港駅)
浦添前田駅

浦添城 遺跡パート

浦添城跡は「浦添大公園」の一部(歴史学習ゾーン)になっていて、南エントランスから入っていきます。

浦添城跡の現地案内板

駐車場の脇の坂を登って行くと、古そうな道になってきます。これが復元整備された、首里城と結ばれた石畳道の一部です。

復元整備された石畳道

登った先に、石垣が見えてきます。埋もれていたオリジナルの城壁の石垣が、発掘により姿を現したのです。

発掘された石垣

更に登って行くとその途中に、尚寧王が建てた、石畳道の完成記念碑(浦添城の前の碑)が復元されています。南側への展望が開けた場所で、遠くに首里城も見えます。

浦添城の前の碑
城跡南側の眺め
再建中の首里城(2024年11月下旬時点)

丘の上は、戦災や採石の影響で、遺跡はほとんど残っていません。正殿跡と思われる場所や、浦添尚家の屋敷跡と言われる石の基礎が残っています。

丘の上
正殿跡と思われる場所
浦添尚家の屋敷跡とされる場所

グスク内の祈りの場所であった「ディーグガマ(デイゴの樹があった御嶽)」の跡が残っています。沖縄戦のときは、住民の避難場所だったそうです。

ディーグガマ

丘の上からの景色を眺めてみましょう。説明パネルがあって「ハクソー・リッジ」とあります。激戦があった場所です。見晴しがいいことで、戦いの場になってしまったのです。景色を楽しむことができる世の中が続いてほしいです。

城跡南側の眺めと「ハクソー・リッジ」の説明パネル

すこし遠くの方(東側)になりますが、この場所を象徴する見どころがあります。大きな岩が立ちはだかっています。ワカリジー、通称「為朝岩」です (米軍の通称「ニードル・ロック」)。その通称は比較的新しいもの(近代)のようですが、この岩も聖地の一つでした。浦添市で一番標高が高いところ(約148m)です。

ワカリジー

遺跡見学の最後に、慰霊碑に行ってみましょう。来た方から反対側(北側)を下った所には、「前田高地平和の碑」があります。ここでの戦いで多くの犠牲者を出した部隊(第24師団32連隊)の慰霊碑です。

前田高地平和の碑

そして、ディーグガマ近くの、沖縄戦戦没者を祀った「浦和の塔」です。ここであったことを忘れないようにして、平和をお祈りしましょう。

浦和の塔

浦添城 復元パート

次は、浦添城の復元されたアイテムを見に行きましょう。西側の方に下っていくと、復元された石垣の城壁が見えてきます。こんな城壁が何百メートルも続いていたのです。その周囲を巡っていた城壁を復元することが計画されています。

復元された城壁

この城壁の下の方に復元された「浦添ようどれ」があります。「ようどれ」とは「夕凪(ゆうなぎ)」を表す言葉で、静かな場所・極楽を意味するとも言われます。ようどれに入ると、「暗しん御門(くらしんうじょう)」「二番庭(なー)」「中御門(なーかうじょう)」「一番庭」と進んで墓室の前までは見学できることになっています。(2024年11月下旬時点では「落書き事件」の影響で一時閉鎖中でした)

浦添ようどれの現地案内板
ようどれの入口付近
ようどれの一番庭(墓室前)(Wikimediaより)

浦添ようどれの全景を眺めてみると、曲線の石垣が組み合わされていて、優雅で雄大に感じます。王城というのにふさわしい場所です

浦添ようどれ全景

「浦添グスク・ようどれ館」では、普段でも入れない墓室(西室・英祖王陵)が再現されています。

浦添グスク・ようどれ館

中には3つの石棺(1号〜3号石棺)がありますが、調査の結果によれば(「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」による)、最初は、洞窟の中に建物があって、木製の棺を使っていたそうです。それが、尚巴志王統(第一尚氏)時代以前に、石棺に置き替えられたとのことです。そして1号石棺の方が古く、あとの2つはデザインが似ているので同じ時期に作られた可能性があります。

再現墓室、右側から2号石棺、3号石棺、1号石棺

それでは中に入ってみましょう。例えば、1号石棺の側面には仏像の彫刻があります。

1号石棺の仏像彫刻

2号石棺には、中世本土人の特徴(出っ歯)がある頭蓋骨が入っていました。こんなお墓に入れる本土人がやって来たのかもしれません。

2号石棺

3号石棺にはお骨まで再現されています。埋葬当初は、きれいな布にくるまれていたそうです。

3号石棺

尚巴志ゆかりの地へ

尚巴志の故郷、佐敷城(佐敷上グスク)跡に行ってみましょう。グスク一帯が神社になっています。尚巴志一族を祀るために「月代宮(つきしろのみや)」として建てられたものです。

佐敷城跡入口

中腹のグスクの遺構があるところ(二の郭)まで登ると、神社への参道があります。遺構の説明は所々にはありますが、普通の神社と言われたら、そう思ってしまうかもしれません。

二の郭
内原の殿
上グスクのカマド跡
上グスクの嶽
親井

グスクとしては土造りで、他に見られる本格的な石垣は発見されていないそうです(土留めの石組は発見された)。この辺りでは石材が採れない事情もあったようです。お宮があるところがグスクの中心部で、尚巴志が住んでいたのでしょう。

月代宮(一の郭)

木々の向こうには海が見えます。尚巴志が刀を鉄と交換したエピソードもあるので、交易をやっていたのでしょう。このグスクは、英雄の出身地としては地味かもしれませんが、尚巴志は、お金やパワーを、グスク以外のところに使っていたのではないでしょうか。

二の郭からの眺め

続いて、尚巴志の統一事業の足掛かりになった島添大里城の跡に行きましょう。高台にあって、広々としています。南山王国の本拠地だったとも言われています。

島添大里城跡(二の郭)

グスクの中心部に向かってみると、崩れた石垣が散らばっています。現在は公園になっていますが、戦中戦後に採石されてしまったとも、首里城建設のために持ち去られたとも言われています。

残存している石垣

中心部の一の郭には、かつて正殿がありました。近くの一番高い所に拝所跡(ウティンチヂ)があります。物見台にもなっていたと思われます。

一の郭
拝所跡(ウティンチヂ)からの眺め

他にグスクらしい見どころとしては、「カニマン御嶽(うたき)」があります。

カニマン御嶽

あと、おもしろいのは、グスクの外に設けられた「チチンガー」です。地下8メートルのところにある井戸です。現在も農業用で使われているそうです。井戸であっても、神聖な感じがします。

チチンガー(入口)
チチンガー(通路)
チチンガー(底にある井戸)

首里城の今

いよいよ今回最後の目的地、首里城です。龍潭の畔から眺めると、着々と再建が進んでいることがわかります。

龍潭から見た首里城

さすが沖縄屈指の観光地、再建中でも賑わっています。有名な守礼門から入っていきましょう。

守礼門

外郭の正門「歓会門」の前に来ました。首里城がこのような姿になったのは、15世紀後半の尚真王の時代です。尚巴志の頃はこの門はなかったのですが、琉球国最古の現存絵図(1453年「琉球国図」)によると、王城(首里城)には、石垣で囲まれた内郭と、柵や土塁で囲まれた外郭と思われる部分が描かれています。これは、石垣と土塁を併用した浦添城のスタイルを引き継いだとする意見があります。

歓会門
「琉球国図」の首里城部分(沖縄県立博物館・美術館にて展示)

次は、内郭の正門「瑞泉門」です。ここからが、先に整備された範囲ということになります。漏刻門、広福門と進んで、グスクの中心部に入ります。ここから先は工事中で、大きな素屋根(すやね)は、風雨を防ぐために設置されています。

瑞泉門
漏刻門
広福門
グスク中心部

正面の奉神門は火災で損傷を受けましたが、修復されました。本来その先が御庭(うなー)なのですが、現在(2024年11月下旬時点)は復元工事の見学コースが設定されています。

奉神門
素屋根の建物に描かれた御庭と正殿
復元工事の見学コース通路

見学コースでは、被災した建物の残骸、木材倉庫・加工場見学エリア、素屋根見学エリアなどを見て回ることができます。復元工事は、2026年秋の正殿完成を目指して進んでいます。

被災した龍頭棟飾
被災前の龍頭棟飾
木材倉庫・加工場見学エリア
素屋根見学エリア
正殿の屋根
素屋根建物の裏側

見学コースから出たら、首里城最高地点の 「東(あがり)のアザナ」に行ってみましょう。標高約140メートルあって、物見台だったところです。昔は見張りのための場だったのでしょうが、今は景色を楽しむ場になっています。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(浦添城方面)
東のアザナからの眺め(正殿及び那覇市街方面)

リンク・参考情報

うらそえナビ
沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)
那覇市歴史博物館
らしいね南城市
首里城公園
・「県史シリーズ47 沖縄県の歴史/安里進著」山川出版社
・「日本人として知っておきたい琉球・沖縄史/原口泉著」PHP新書
・「琉球王国 -東アジアのコーナーストーン/赤嶺守著」講談社
・「琉球史を問い直す: 古琉球時代論/吉成直樹著」森話社
・「琉球王国の形成―三山統一とその前後/和田久徳著」榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編、 諸見友重訳」榕樹書林
・「尚氏と首里城(人をあるく)/上里隆史著」吉川弘文館
・「歴史群像144号 戦国の城 浦添グスク/上里隆史著」学研
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」吉川弘文館
・「史跡浦添城跡整備基本計画書(平成 30 年度改定)」浦添市教育委員会
・「浦添ようどれⅠ 石積遺構編 史跡浦添城跡復元整備事業に伴う発掘調査報告」浦添市教育委員会
・「浦添市平和ガイドブック」平成27年4月版 浦添市
・「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」高屋麻里子氏論文
・「石材と人間の民族的・歴史的関わり」神谷厚昭氏(沖縄県立博物館)論文

「浦添城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

206.浦添城 その1

浦添城は、沖縄特有の城郭施設「グスク」のうち、大型のものの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。

Introduction

浦添城は、現在の沖縄県浦添市にあったグスク(城)です。グスクとは、12世紀終わり頃から15世紀中頃にかけて築かれた、按司(あじ)と呼ばれた領主の城館及び地域の宗教・集落施設としても使われた場所のことです。奄美諸島から沖縄諸島、先島諸島にかけて、約300も築かれたと言われています。特に13世紀から14世紀(日本本土の鎌倉~南北朝~室町時代辺り)には、有力按司の居城として長大な石垣で囲まれた大型グスクが出現しました。日本本土で本格的に石垣を使って築かれた城は、戦国時代後半(16世紀後半)に登場しますので、それより200年以上も早かったことになります。しかも、グスクの石垣は琉球石灰岩を使い、優美な曲線を描いていて、日本本土の石垣とは、ルックスも随分異なっています。浦添城は、そのような大型グスクの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。なお「琉球」という名称は、もともと中国人が命名した地域名で、琉球王国が支配した奄美・沖縄・先島諸島一帯を指すとされています。(「沖縄県の歴史」)

浦添城跡
代表的な大型グスクの一つだった、今帰仁城跡

立地と歴史

グスク時代と三王国の成立

沖縄は古代から夜光貝などの貝殻類の産地として知られていました。夜光貝を加工した螺鈿細工が、美術工芸品や建築の装飾に使われていたのです。当初その交易(「貝の道」と呼ばれた)は、当時日本の境界とされていた奄美諸島の喜界島周辺で活動していた商人たちが、担っていたのではないかという見解があります(「琉球史を問い直す」)。その時点では、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採取を中心とした生活を送っていたと考えられていて、沖縄の時代区分として、11世紀頃までを貝塚時代と呼んでいます。

貝を加工して作られた貝匙(東京国立博物館ホームページから引用)

それが、11〜12世紀頃になってくると、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。石鍋・陶器(亀焼、かむいやき)・鉄器が普及し、農業が普及し、生活レベルが向上しました。沖縄でも「グスク土器」が生産されるようになります。中国の宋王朝も積極的な貿易政策を取っていました。そして高価な中国製磁器が取引されるようになり、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。貿易商人は、最初は中国・朝鮮・日本本土の人たちが中心でしたが、それに沖縄の人たちも加わるようになります。こうして、沖縄に「按司」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの、この時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。
・北山(山北):本拠地 今帰仁城
・中山:本拠地 浦添城
・南山(山南):本拠地 島添大里(しましーおおざと)城
彼らの本拠地にもなった大型グスクの築造も、その動きに沿ったものと考えられます。これらの多くは高台に立地し、複数の郭から構成されていて、中心部は、儀式を行う正殿と、宗教的施設の御庭(うなー)から成り立っていました。

島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために、「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、伝統的な儒教的秩序の確立を目指しました。そのため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。そして、1372年には中山王国に使節が送られました。三王国の中では最大勢力と見なされていたからと思われます。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、1380年には南山王が、1383年には北山王も明への朝貢を始めました。この朝貢は、貿易とセットになっていたため、三国に莫大な利益をもたらしました。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中山王国と浦添城

浦添城を本拠とした中山王国については記録が少なく、いつからどのように治められていたかは、後に作られた琉球王国の正史(「中山世鑑」など)しか文献史料がありません。それによると、3つの王統が統治しました。
1187年:舜天即位(3代継続)
1260年:永祖即位(5代継続)
1350年:察度即位(武寧までの2代、1390年には先島が帰順)
最初に即位した舜天は、日本本土から逃れてきた源為朝と、大里按司の妹との子とされています。そのこともあって、最初の王統は伝説上のものではないかと言われています。実在の可能性があるのは、次の英祖からで、考古学から考えられた浦添城の築城時期と重なっています。最後の察度は、中国側の記録にも現れているので、存在がはっきりしています。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は正史では、これらの王は全て最初から首里城にいて、琉球は最初は統一されていたが、英祖王統4代目の玉城(たまぐすく)のとき三国に分裂したことになっています(下記補足1)。しかし歴史家の中では、最初から三国だったであろうという意見が多いです。また、中山王国の本拠地についても、歴史家で「沖縄学の父」と伊波普猷(いはふゆう)たちによって、浦添城の存在が明らかになりました。

(補足1)今の王城を首里城というのは、昔天孫氏が初めて天から降臨して、あまねく諸国を巡り、城を築く地を選ばれたところ、今の王城の地が最も優れていたので、初めて経営して城を築かれたから首里というのである。
舜天尊敦と申し上げるのは、大日本人皇五十六代の清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤、六条判官為義の八男、鎮西八郎為朝公の男子であらせられる。
この時(玉城王)から世は衰え、政はすたれて朝勤会同の礼も日に日に衰え、内では思うままに女色に溺れ、外では狩猟に耽られたので、諸侯は朝廷に出仕する礼を取らず、国々の戦いが始まった。国は分かれて三つとなり、中山王、山南王、山北王と呼ばれた。(中略)中山というのは、首里の王城である。
(「訳注 中山世鑑」より)

伊波普猷 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浦添城跡にある伊波普猷の墓

浦添城は「浦添断層崖」と呼ばれる琉球石灰岩でできた崖の上に築かれました。頂上部は東西約4百メートルにわたって石積みの城壁に囲まれていました。城の北側は切り立った崖によって天然の要害になっていたので、南側に堀や張り出しの郭(土造り)を築いて防御を固めました。また、崖下を流れる牧港川が貿易港である牧港に通じていました。当時の沖縄では、北山の今帰仁城と並ぶ最大級のグスクだったのです。

浦添城の模型、浦添大公園南エントランス管理事務所に手展示

主郭部には、高麗系の瓦を使った正殿があり、外来の技術者が関わっていました。その前には御庭があり、周辺にも「ディークガマ」などの祈りの場所がありました。城の北側には王墓である「浦添ようどれ」が作られました。後の史書(「琉球国由来記」など)によれば、1261年に英祖王が造営しました。これも、現地の発掘調査による想定と一致しています。英祖王統の王たちが葬られている可能性がある墓室(西室)では、中世本土日本人の特徴がある頭蓋骨が発見され、もう一つの墓室(東室)では中国・東南アジア系人のDNAが検出されています。また、近くには琉球最古の寺院と言われる極楽寺が創建され、城の南側には人工池の「魚小堀(いゆぐむい)」が作られました。こういった城の構成は、後の首里城の原型になったと言われています。

再現された墓室(西室)、浦添グスク·ようどれ館にて展示

明との朝貢貿易は発展していました。明が琉球を優遇していたからです。他の国に対しては「勘合貿易」と言われるように、回数や場所を限っていましたが、琉球はほぼ自由でした(中山は35年間に40回、南山は50年間に35回、北山は33年間で15回)。それだけでなく、貿易船を貸し与えたり、「久米村」と呼ばれる実務者集団を派遣したりしました。これについては、明は新興国の「琉球」を「貿易商社」として使おうとしたとか、「倭寇」として活動していた勢力の受け皿にしようとした、倭寇情報の収集・監視役とした、日本に対する交渉の仲介役にしたなどの見解があります(「琉球史を問い直す」「琉球王国 東アジアのコーナーストーン」)。その結果、中国との交易を制限された国や勢力の間に琉球が入ることになり、ますます三王国が繁栄することになりました。1404年には、中国から冊封使が琉球に派遣され、中国皇帝が中山王・武寧が琉球国中山王として認める儀式が行われました。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
進貢船の模型、沖縄県立博物館・美術館にて展示
中国皇帝が琉球国中山王に与えた玉冠、那覇市歴史博物館にて展示

尚巴志による琉球統一、首里城への移転

15世紀になると、尚巴志により三山が統一され、琉球王国が成立します。尚巴志(生年:1372年~没年:1439年)は、南山王国の一部・佐敷城の按司でした。佐敷城は土造りの小さなグスクでしたが、その地は農業に適し、近くには良港(馬天、与那原)もありました。後世の史書(「球陽」など)によると、彼は身長が低く(五尺(約150cm)未満)で「佐敷小按司」と呼ばれたそうです。「小按司」が「尚巴志」という名の基になったのではないかという説があります。また、彼の刀を外国船が積んできた鉄塊と交換し、それを農具にして農民に与え、人望を得たという伝承があります。小領主ながら人心を掴める人物だったのでしょう。

佐敷城跡

尚巴志の琉球統一のストーリーですが、琉球王国の史書に、3つの異なった説が書かれているのです。
・中山世鑑(ちゅうざんせいかん):1650年成立、琉球王国初の正史
・蔡鐸本中山世譜(さいたくぼんちゅうざんせいふ):1701年成立、「中山世鑑」を修正
・蔡温本中山世譜(さいおんぼんちゅうざんせいふ):1725年成立、更に加筆修正
地元の伝承に基づいて書かれた最初の説を、中国の記録などを見ながら修正したらしいのです。現在の定説は、最後の説(蔡温本中山世譜)を基にしたもので、それをご紹介しますが、最初の説(中山世鑑)も捨てがたいので、異説として括弧書きで掲載します。

1402年、尚巴志は近くの島添大里城を攻撃・占領し、そこに本拠を移しました。この城は南山王国の本拠地とされていましたが、1429年まで明に朝貢を行っていることなどから、別の場所(島尻大里城か)に本拠が移ったと解釈されています。当時、南山王国では中山との抗争や内紛が起きていて(下記補足2)、尚巴志はその混乱に乗じたのかもしれません。(異説:尚巴志が島添大里城に移ったときに南山王になった、南山は尚巴志による傀儡政権になったとする歴史家もいます。)尚巴志の次のターゲットは、南山ではなく、中山の本拠地・浦添城でした。1406年、尚巴志軍に対し、当時の中山王・武寧は呆気なく降伏しました。そして尚巴志は父親の恩紹を中山王としました(異説:11421年に中山を倒し、尚巴志が中山王になった)。史書によると、武寧は周りの按司たちの支持を失っていたとされます。しかし、恩紹が1409年に朝鮮に使者を送ったときの記録によると、敵対勢力を鎮圧するのに数年を要したことが伺えます(下記補足3)。

(補足2)
朝鮮に在逃する山南王子承察度の発回(「李朝実録」太祖3年(1394年)中山王察度の願い出)
山南王温沙道(おんさどう)が中山王に追われ来たりて晋陽に寓す(「李朝実録」太祖7年(1398年)中山王察度の願い出)
是れより先、(先王の)応祖は兄達勃期(たぶち)に弑される所と為る。各塞官兵を合わせて、達勃期を誅し、他魯毎(たるみー)を推して国事を摂らしむ(「明実録」永禄13年(1415年)山南王世子他魯毎が明皇帝にあてた奏文)

(補足3)武寧が死んだ後、各按司が争いを起こし連年遠征をしていたため、使者を派遣するのが遅れた(「朝鮮太宗実録」、訳は「尚氏と首里城」より)

そして尚巴志は1416年(北山最後の進貢の翌年)、最大の敵・北山王国と対決、これを倒しました。(異説:1422年に北山を倒しこの時点で琉球統一)1421年には父から王位を継ぎ、1429年に南山王国を制圧し、ついに三山統一を果たしました(異説:すでに統一済み)。琉球王国の成立です。この間、尚巴志は本拠地を浦添から首里に移したと考えられています。現存する琉球最古の石碑「安国山樹華木之記碑」が1427年に作られ、城の周辺に人工池(龍潭)を作り、花木を植え、太平の世の記念としたことが記されています。かつての浦添城の姿が再現されたのでしょう。首里城は、以前の中山王国のときから支城として使われたと考えられていますが(「京の内」の範囲)、尚巴志が本拠とした大きな理由は、近くの那覇港の存在がありました。サンゴ礁に囲まれた沖縄は、大型船が安全に停泊できる港は、当時那覇港と運天港(今帰仁城の近く)くらいでした。尚巴志の政権は、貿易を司る「久米村」との結びつきも強めていました。城の範囲は、現在「内郭」とされる瑞泉門から内側であったとされています。尚巴志の王統(第一尚氏)は6代続きました。

龍潭から首里城の眺め
首里城の模型、首里杜館(首里城公園レストセンター)にて展示

主のいなくなった浦添城は、荒れ果てた状態になったという記録があります(下記補足4)。しかし一方で尚氏(尚巴志の王統である第一尚氏)は、王墓である浦添ようどれを改修したと考えられています。自分たちが正当な王権を継ぐ者であることを示そうとしたのでしょう。墓室である洞窟内にあった瓦葺きの建物が撤去され、中国産の石(輝緑岩)で作られた石棺墓を設置しました。そこには沖縄最古とされる仏教彫刻が刻まれています(第二尚氏の尚真、または察度王統の時代の可能性もあり)。

(下記4)城毀壊し、宮殿荒蕪して、瓦廃れ垣崩れ、鞠りて荒野と為る(「球陽」)

石棺に刻まれた仏教彫刻、浦添グスク·ようどれ館にて再現されたもの

その後

その後、琉球王朝は尚巴志とは違う王統の第二尚氏によって引き継がれましたが、その3代目の尚真王の子・尚威衡(しょういこう)が1524年に浦添城に移り住み、浦添尚家となりました。浦添城もその本拠として再整備されました。やがて尚家本家に跡継ぎがいなくなると、1589年に尚威衡のひ孫・尚寧(しょうねい)が王位を継ぎました。尚寧は首里城に移りましたが、浦添城には出張機関(浦添美御殿)を残し、両城の間を石畳の道で結びました。

復元整備された石畳道

ところが1609年、琉球王国は薩摩の島津氏の軍による侵攻を受けてしまいます。島津軍は読谷海岸に上陸し、浦添城の屋敷や城下の寺の焼き討ちを行いました。そして、尚寧が作った石畳道を通って、首里城に迫ったのです。城を包囲された尚寧は降伏し、琉球は薩摩藩の支配下に入りました。尚寧王が亡くなると、その亡骸は浦添ようどれに葬られました。2つある墓室のうちの一つ(東室)が、そのとき作られたものとされています(察度王統によるものではないかという意見もあります)。ようどれはその後、御墓番(比嘉家など)によって守られていました。

浦添ようどれの案内パネル、左側の墓室が尚寧王陵
戦前の浦添ようどれ、現地案内パネルより

そして1945年の沖縄線では、浦添城にとって最大の悲劇が起こりました。米軍は読谷海岸に上陸し、日本軍司令部があった首里を目指して南下しました。そのとき激戦があったのが、崖上にあった城跡に設置された陣地「前田高地」です(米軍は「ハクソー・リッジ」と呼称)。12日間にわたる戦闘で、浦添ようどれを含む城跡はほぼ壊滅しました。何よりも日米両軍兵士だけでなく多くの住民も犠牲となったのです。

壊滅した浦添ようどれ、現地案内パネルより

戦後、城跡は採石場となり、ますます城跡の荒廃が進みました。1955年になって、当時の琉球政府がわずかに残った墓室の修復を始めました。その後公園用地となり、1989年には国指定史跡になりました。それを受けて浦添市は発掘調査を行い、2005年には浦添ようどれの復元を行いました。現在は浦添城の復元を目指した調査や整備を行っています。

復元された浦添ようどれ、現地案内パネルより

「浦添城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。