立地と歴史
Introduction
福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩(52万石と言われる)の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。現在まで天守台は残っているものの、天守の建物は築かれなかったとされていました。しかし、天守の存在を示す史料がいくつも発見(または再注目)され、天守「復元」運動も起こっています。その天守台の上に、仮設のライトアップされた天守を演出するイベントも行われています。果たして福岡城に天守はあったのでしょうか?また、この城はどんな歴史を辿り、どんな特徴を持っていたのでしょうか?これから城跡がどうなっていくかも見ていきたいと思います。




福岡城築城まで
福岡城を築いた黒田長政(生年:1568年〜没年:1623年)は、豊臣秀吉の「軍師」と言われる黒田孝高(官兵衛、如水)の嫡男でした。松寿丸と名乗り、人質だった幼少時代に、父が(荒木村重の有岡城で)囚われの身となり、裏切りを疑った織田信長から殺害を命じられました。しかし、秀吉のもう一人の「軍師」竹中半兵衛にかくまわれ、命拾いしたというエピソードがあります。1600年(慶長5年)の天下分け目の関ヶ原合戦で長政は、半兵衛の遺児・重門と同じ場所(岡山)に陣取っています。(そのとき着用した一の谷兜も、半兵衛から受け継いだものと言われています)その関ヶ原では、当日の合戦だけでなく、西軍だった小早川秀秋などの有力部将を寝返らせ、東軍の勝利に大きく貢献しました。その論功行賞が、豊前国中津から筑前国(の大半)への移封(約12万石→当初約31万石)でした。


その筑前国は、古代より海外(特に朝鮮・中国)への玄関口になった地でした。城の三の丸となった地には、飛鳥〜平安時代に「鴻臚館(こうろかん)」が設けられ、外国使節の迎賓館、日本からの遣唐使などの宿泊施設として利用されました。中世になり、1274年の元寇(文永の役)のときには、後の城周辺の「赤坂」「鳥飼潟」で激戦がありました。城に隣り合った博多は、中世最大の貿易都市として栄えました。関ヶ原当時は、戦国の乱世によって荒廃した町を、「唐入り」(朝鮮侵攻)の根拠地にしようとした秀吉が復興した直後でした。そのときの領主は小早川秀秋で、博多の北東にあった名島城を本拠地にしていました。


慶長5年12月、長政以下家臣団は武装してお国入りを行いました。勢力が強かった博多の商人・僧たちにその威力を見せつけるためです(筑前御討ち入り)。また、前の領地(豊前)から年貢を収納して筑前に移動したため(次の領主に引き渡すのが当時の慣習)、次の領主・細川忠興ともめ事になり、これがきっかけで両氏はその後136年に渡り、犬猿の仲になります(1736年に幕府の仲介で和解)。長政は、豊前との国境に6つの支城を築き(筑前六端城)、細川氏に対峙することになりました。更に、福岡藩はよく「筑前52万石」(支藩含む)と言われますが、引き継いだ当初の石高は約31万石(小早川氏時代)でした。入国後検地を行った結果として、自ら幕府に届け出た石高だったのです(下記補足1)。実力は、これより下回っていたと言われています。
(補足1)初めから五十万石を得んとして欲し、当時の物成(年貢)十六万五千七百九十七石を三つ三歩の率をもって除(「郡方古実備忘録」)して創り出した机上の計算(「物語福岡藩史」、「福岡城」からの引用)

長政は最初、名島城に入城しましたが、手狭だったこともあり(下記補足2)、本拠地として新城を築くことにしました。これが、福岡城です。このときは築城の名手でもあった孝高が健在(1604年没)で、長政が上京などで多忙であったこともあり、共同で築城に当たりました(下記補足3)。城は、博多の町の西隣、那珂川を境界とし「福崎」という丘陵を中心に縄張りが行われました。西側には博多湾の「草ヶ江」と呼ばれた大きな入り江があり、埋め立てるとともに、一部は堀として活用しました(大堀)。長政が上方などから送った、本丸の工事に関する家臣宛の書状がいくつか残っています(下記補足4)。築城は1601年(慶長6年)から約7年間に渡って行われました。完成間際に風水害を受けてしまい、長政は修理の指示を行っています(補足5)。工事期間には、天守についての数少ない記録の一部が見られるのです。
(補足2)名島の城は三方海にて要害よしといへ共、境地かたよりて城下狭き故、久しく平らぎを守るの地にあらず(「新訂黒田家譜」)
(補足3)甲斐守(長政)居城取り替え申し候て、上下隙を得ざる事、御推量あるべく候(慶長6年9月15日付 本願寺坊官下間氏宛 黒田如水書状)
(補足4)
・態(わざ)と申し下し候、仍って天守南の方、つきさしの石垣、急ぎつき申すべく候、拙者事は来月まてハ、此方滞留の事候間、万事普請等油断無く仕るべく候、恐々謹言(慶長6年8月23日付 黒田長政書状)
・一、其地普請之儀、てんしゆノうら石かき、九月中ニ出キ候様ニと、皆々申遣候間、惣右衛門幷年寄共はしめ普請所ニ相詰候か、石場ニ居候而振舞ニあろき申候か又ハ知行所へはいりくつろき申か、毎日よくよく見候而つきおき可申候、油断有間敷候事
(天守の裏の石垣は九月中に完成させるよう、皆に申し付けてある。惣右衛門ならびに年寄りどもは普請の現場につとめているか、石場で忙しく歩き回っているか、あるいは自分の知行所に入って楽をしていないかどうか、毎日丹念に調べて記録しておくように)(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、林家文書、訳は「甦れ!福岡城幻の天主閣」より)
・尚々、我等下国候はぬ已前に、天守どだい出来候様に精入れ申し付くべく候、権右衛門に申し遣わし候うち、石かきをも申し付くべく候、以上(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)
・一、天守を此の月中に柱立て仕るべく候間、其の通り大工・奉行ともへ、かたく申し聞けべく候(年不詳(慶長7年か)2月15日付 黒田一成宛黒田長政書状)
(補足5)城中刷(修理)普請、大方出来の由、しかるべく候、このついでに天守・宗雪丸なとのつくろい申し付くべく由、尤もに候、大風吹き候事もこれあるべく候間、急度つくろい申すべく候、其れに就き、手伝の様子申し越す通り、其の意を成し候(慶長11年7月 黒田長政書状)


福岡城の構造
長政は、城とその地の名前を新たに「福岡」と名付けました。黒田氏のゆかりの地の備前国福岡にちなんだものと言われています。城が築かれた地区は、城部分(本丸・二の丸・三の丸)と城下(外郭・総構)に分かれていました。城下は、北は博多湾、東は那珂川(その向こうが博多)、西は大堀と、自然の要害に囲まれていました。城部分は城下の南側にあって、全体を内堀に囲まれていました。まるで堀に浮かぶ島のようになっていました。堀を渡った城への入口は3箇所のみで、正面の上之橋御門、下之橋御門、裏側の追廻御門でした。その出入りは「御門法」により厳しくチェックされていました。内堀は、中堀・佐賀堀を通して、那珂川・博多に接続していました。

門を入った先は、城では最も広く、低地にあった三の丸です。黒田孝高の隠居屋敷があった高屋敷とそれに続く石垣により、東西に二分されていました。東部は、江戸時代を通じて重臣たちの屋敷地となっていました。例えば、一番東端の「東の丸」と呼ばれた区画には、当初栗山備後の屋敷がありました。西部は、当初は中級以下の家臣の屋敷地(代官町)でしたが、1633年頃(寛永10年)頃に2代目藩主・細川忠之が三の丸御殿を建てました。やがて重臣たちの屋敷や役所(勘定所など)も周りに建てられ、以後政治の中心地になります。近くにある下之橋大手門は、藩士たちの通用門として使われました。

丘陵部分に入ると、二の丸になります。二の丸は、東部・西部・南の丸・水の手に分かれていました。二の丸東部は、三の丸東部から入った場合の入口で、東御門がありました(脇に革櫓、近くに炭櫓)。当初は内部に二の丸御殿があり、藩主の世子の居住用だったと考えられています。やがて世子不在の時期が続き、取り壊されたようです。二の丸西部は、本丸へ通じる接続部分でした。二の丸東部からは扇坂御門、三の丸西部からは松木坂御門(脇に大組櫓・向櫓があり、下之橋大手門に近い)と桐木坂御門(追廻御門に近い)を通りました。内部には目立つ建物はなかったようです。水の手には、籠城用の溜池がありました。南の丸は、城代・城番がいた場所で、そこにあった多聞櫓は、城で唯一そのまま残っている櫓です。

本丸は、文字通り城の中心で最も高い所にあります(天守台上端で標高約36m)。北側には本丸御殿がありました。御殿に至るには、本丸表御門と本丸裏御門を通り、普段は裏御門を使っていたそうです。本丸御殿は、初代藩主・黒田長政が建て、そこに住んでいましたが、次の代からは手狭ということで儀礼・儀式の場になりました。御殿の周りには祈念櫓、月見櫓などがありました。南側には武具櫓・鉄砲櫓があって、武具櫓御門から出入りしました。鉄砲櫓には弾薬が、武具櫓には黒田家伝来の武具類などが収められていました。黒田長政は築城時に天守の守りのために30間の長さの櫓を建てると言っていて(下記補足6)これが武具櫓のことと考えられています。本丸の中心が天守台です。
(補足6)三十間に居矢倉立て候、天守之衛にて候(慶長6年9月朔日 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)

果たして天守はあったのか
これまで、福岡城には天守がなかったと言われた時期がありました。福岡城の一番古い詳細絵図「正保福博惣図」、1646年・正保3年作成)に天守が描かれていないからです。現存する天守台は描かれています。また、福岡藩の公式史料(「黒田家譜」など)や地元の地誌(「筑前国続風土記」など)にも天守のことは記載されていません。これらのことから、天守台は築かれたが、幕府への遠慮により、天守は築かれなかったという見解が主流だったのです。

しかし、築城の部分でも触れた通り、天守の存在を示唆する史料が発見または再注目されています。まずは、福岡藩の隣の小倉藩・「細川家史料」です。藩主の細川忠利が、1620年(元和6年)に伝聞として、黒田長政が福岡城の天守を破却すると書いているのです(下記補足7)。
(補足7)
一.黒築前殿(黒田長政)行儀、二・三日以前二御目見被仕候(中略)、主居城をも、大かたはきやく(破却)被仕候而被参候様二、下々取沙汰申候、いつれに天主なとを、くつされ候事蹟必定之様二親候、定可被聞召存候事
(長政殿は二、三日前に将軍秀忠公に謁見なされた。(中略)居城をおおかた破壊されてから、また戻られるようだと下々は噂している。いずれにしても、天守はお壊しなさえれるに違いないと取り沙汰されている)
(元和6年3月15日細川忠利書状案、訳は「福岡城天守を復原する」より)
尚々(略)又ちく前縁辺今立、何とも取沙汰無御座候、ふく岡の天守、又家迄もくづし申候(中略)如右申付候よし被申上と承候

また、黒田家側の史料にもそのようなものがあります。時期はわかりませんが、天守の欄干が腐ったという報告を受け、長政が調査と修繕を指示した記録があります。1623年(元和9年)に長政が亡くなるときには、遺言として伝来の「一の谷の兜」は天守にあると言っています(下記補足8)。
(補足8)
高麗ニて我等着候一ノ谷ノ甲遣候、福岡天守二有之
(元和9年7月27日黒田長政遺言覚、諸家文書)
最近では、家臣(毛利氏)の家の資料から、天守の建設と石垣に関する記述がある書状が発見されました(下記補足9)。
(補足9)
石垣ノ石ハ名嶋ノ石を以、其刻ハ穴太無之、しろうとつきに仕、天守御立被成候故、石垣ヌルク御座候、(以下略)
(1640〜50年頃、毛利甚兵衛宛梶原正兵衛書状)
絵画史料もあります。長州藩の毛利氏の密偵が、1611、12年(慶長16、17年)頃スケッチしたとされる「九州諸城図」には、本丸御殿と思われる建物の左側に、4重に見える天守のような建物が描かれています。また、1668年(寛文8年)に作られた「西国筋海陸絵図」には、5重の天守が描かれています。(但し作成時期が、天守がない「正保福博惣図」より後なので想像図の可能性あり、または以前にあった情報を引き継いだ可能性もあり)


これらを証拠として、天守の存在に肯定的な学者などは、天守は築城時に建てられたが、1620年頃解体されたと推定しています。
天守の存在と解体が正しいとすれば、なぜ長政はせっかく建てた天守を短期間で壊してしまったのでしょうか。そのカギも細川家の記録にあります。長政は、当時幕府から命じられていた大坂城再建に動員されていて、その工事の遅れを挽回するために、福岡城を解体して材料調達すると言ったというのです(下記補足10)。
(補足10)
一、黒筑手廻おくれられ候と、其元にて申候由候、ふくおかの城をくつし、石垣も、天主ものほせられ候由、愛元ニ申候、如何様替たる仁ニ候間、可為其分、乍去、別之儀有間敷候事
(元和6年月日不詳 細川忠興書状、松井家史料)
前述の通り、黒田と細川は対立していたので、細川は長政を冷やかな目で観察していたのです。長政はそのとき、自ら追加の工事負担を幕府に願い出ていたので、「変わった人」だと評しています(下記補足11)。
(補足11)
一、黒筑城を割被申候事、又御普請ニ事之外をく(遅)れられ候が、高石垣七十間分望被申之由、兎角奇特なる儀と存寄外無別候事 (元和6年3月29日細川忠興書状、細川家史料)

また、それ以前には、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の豊臣氏滅亡、同年の一国一城令、1619年(元和5年)には城の無断改修を理由とした福島正則の改易という出来事がありました。正則と同様に、外様の大大名であった長政が、自身の家の存続に過敏に対応したということが考えられます。

こうなってくると、天守の存在は明確になったようですが、事は少々複雑です。天守に連結された櫓があって、それを「小天守」などと呼ぶ場合、一番高層の建物を「大天守」と呼び、一般的にはそれが「天守」とされます。実は福岡城の天守台にも「中天守台」「小天守台」と呼ばれる部分があります。(江戸時代に「小天守台」と記載された記録あり)これまで福岡城で「天守」と言ってきたのは、これらの上に築かれた「中天守」「小天守」のことを指すという説があるのです(服部英雄氏による)。「天守があった」とは「大天守があった」という解釈でしょうから、そういう意味でこの説では「天守はなかった」ことになります。

その根拠を時間の経過に沿って示すと、まず、先ほどの細川家の記録には、「天守を破却する」という伝聞に対する結果の記述が全くありません。その代わりに、1638年(寛永15年)に天守台周りの櫓を取り除いたという記録があるのです(下記補足12)。これは、1635年(寛永12年)にこの地方を襲った大型台風の被害による可能性があります。
(補足12)
御天守台廻り之御矢倉長屋御除候(三奈木黒田文書、九州大学・桧垣文庫)
そしてその結果が「正保福博惣図」に表されているというのです。「大天守」のあるべき位置には単に「天守台」としか書かれていない一方、「矢倉」が除去された中小天守台他には「矢蔵跡」と記載されています。つまり建物があった所は「跡」とし、なかった所は単に「天守台」としたとの解釈です。そして福岡藩はこれらの存在した建物(中天守・小天守)を幕府向けには「櫓(矢倉・矢蔵)」とし、内輪では「天守」と呼んだのです。

このような天守台の部分使用は、三原城、篠山城などに見ることができます。福岡藩でもこの後、天守台脇に小さな天守櫓を建てたり、大天守台を蔵として使いました。大天守を建てなかったのは、コストと必要性を鑑みたものと考えられます。

今年(2025年)は、天守台の発掘調査が行われる予定です。大天守の存在についての研究進むよう、大いに期待したいところです。
仮に、大天守の存在が明らかになったとしても「復元」にはまだまだハードルがあります。どのような建物であったか確定することが必要です。福岡城跡は国の史跡なので、建物復元には文化庁の許可が要るのです。その基準は「史実に忠実な再現」を求める大変厳しいものでしたが、最近では「復元的整備」として、一部の不明な部分を多角的に検証して再現することも認められています。福岡城(大)天守の「復元的整備」をめざす人たちは、藩の家格などから、5重天守であったと推定し提案していますが、
実態としてまだ資料不足のようです。実際の建築段階では、一番大事な現存する天守台をどう保護・保存するのかも重要な課題となります。
更に、建物の仕様が決まったとしても、それが地元の人たちに受け入れられることも必要です。福岡商工会議所が市民に実施したアンケートによると、
・「賛成」「どちらかというと賛成」と回答した人が59.1%
・「反対」「どちらかというと反対」と答えた人が14.4%
・「分からない」と答えた人は26.5%
肯定的回答が6割近くになりましたが、そのうちの76%が、「過去に存在したものにできるだけ忠実なもの」を求めています。この辺も大きな課題になりそうです。
余程の大きな発見や基準の変更がない限り、天守「復元」には相当な時間がかかりそうです。
福岡城のその後
明治維新後、福岡城は廃城となり、その広大な敷地は主に日本陸軍によって使われました。ほとんどの城の建物は解体され、または移築されました(武具櫓など)。戦時中の福岡大空襲のときには、武具櫓のように移築先で焼失してしまったケースもあったのです。堀も多くが埋められ市街地となり、中堀の一部と、大堀の一部が大濠公園として残されました。戦後は、公共施設やスポーツ施設のために使われ、中でも三の丸にあった平和台球場が有名です。その場所に鴻臚館があったことがわかり、発掘調査が行われ、復元事業が始められています。福岡城跡としての史跡の価値も見直され、福岡市はセントラルパーク構想の中で、歴史・文化・観光の一大拠点の一つとして位置付けています。