207.西方城 その1

藤田信吉という武将をご存じでしょうか。それほど有名ではありませんが、戦国時代に関東の大名家を渡り歩き、江戸時代初期には西方藩の藩主になった人物です。例えば、真田昌幸が沼田城を手に入れた時、関ヶ原前の会津征伐が始まる時など、戦国のターニングポイントで登場します。また、彼が藩主になったとき出会ったのが西方城です。もとは、現・栃木県栃木市に、宇都宮氏の一族・西方氏が築いた山城です。こちらもまだそれほど有名ではありませんが、技巧に富んだ造りをしています。今回は、隠れた猛将が出会った隠れた名城、として両方をご紹介します。

立地と歴史

Introduction

藤田信吉という武将をご存じでしょうか。それほど有名ではありませんが、戦国時代に関東の大名家を渡り歩き、江戸時代初期には西方藩の藩主になった人物です。例えば、真田昌幸が沼田城を手に入れた時、関ヶ原前の会津征伐が始まる時など、戦国のターニングポイントで登場します。そして、大坂の陣後に突然亡くなり、藩も改易になるなど、退場の有様も謎めいています。また、彼が藩主になったとき出会ったのが西方城です。もとは、現・栃木県栃木市に、宇都宮氏の一族・西方氏が築いた山城です。こちらもまだそれほど有名ではありませんが、技巧に富んだ造りをしています。信吉はその山麓に、二条城とも呼ばれる城館(陣屋)を築きました。今回は、隠れた猛将が出会った隠れた名城、として両方をご紹介します。

西方城跡、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より

藤田信吉の登場

藤田氏はもともと武蔵国北部(埼玉県)の有力領主(国衆)でした。戦国時代の中頃(16世紀前半)になると、北条氏が台頭し、関東地方の制覇を目指します。藤田氏は、関東管領・上杉氏の配下でしたが、河越城の戦いでの敗戦(1546年)をきっかけに北条氏になびくようになります。そのやり方は、当時の当主・藤田泰邦が、北条氏康の子・氏邦を婿養子として受け入れることでした。北条氏としては、実質その国衆の領地を手に入れることになります。氏邦は、北条氏領国の重要拠点・鉢形城城主にもなりました。

河越(川越)城跡(本丸御殿)

しかし1560年(永禄3年)に上杉謙信の関東侵攻が起こると、北条氏による支配は一時揺らぎます。そのとき氏邦が当てにしたのが、藤田氏の一族・用土氏で、その当主は、藤田康邦の甥の重連(しげつら)でした。重連は北条本家(氏政)にも信用され、謙信亡き後、北条が沼田城を手に入れたときには、その城代の一人にもなりました。

沼田城跡

ところが、1578年(天正3年)、重連が突然亡くなります。北関東統治を安定させた氏邦が、今度は用土氏の存在が邪魔になって、毒を盛ったと言われています。その重連の後釜に、北条本家が指名したのが弟の信吉(当時は新六郎)だったのです。つまり、北条氏内で食い違った思惑の中、重要なポジションを任されたのです(下記補足1)。

(補足1)此の沼田の城は重氏(氏邦)に降りしを、又重連に賜はること安からぬとて、頓て重連に毒すすめて殺しぬ。氏政、重ねて重連が弟弥六郎信吉して、兄が跡を継ぎて沼田の地を守らす。安房守重氏、いよいよ安からぬ事に思ひ、氏政、氏直父子に信吉が事さまざまに讒す。(「藩翰譜」)

ちょうどその時、沼田城を狙っていたのが、武田勝頼の家臣・真田昌幸でした。1580年(天正5年)、昌幸は調略の手を信吉に伸ばしました。信吉はそれまで北条方として真田と戦っていたのですが、一方で北条氏邦から命を狙われていたとも言われます。北条家臣出身の妻が亡くなり、人質に出していた藤田康邦の母も亡くなっていました。機会が訪れたと言えるのかもしれません。信吉は、昌幸に内応し、武田方の城・沼田城の城代になりました。そして藤田信吉と名乗り、北条氏に奪われた家名を、自ら復活させたのです。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

大名家を渡り歩きついに独立大名に

信吉は武田方の武将として、北条からの攻撃をよく防ぎました(沼田平八郎によるものなど)。しかし今度は、武田氏の滅亡・本能寺の変による混乱に巻き込まれます。沼田城は一旦、織田方の滝川益重(滝川一益の城代)のものとなり、信吉は他の城に退きました。滝川氏が本能寺の変を聞き、兵を引き上げるとき、信吉は沼田城での独立を目論見ます。ところが、滝川は城を真田昌幸に返したため、信吉は行き場を失ってしまったのです。信吉は城を奪回しようとしますが果たせず、落ち延びました。その行先は、越後(現・新潟県)の上杉景勝でした。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信吉の武名はよく知られていましたので、景勝は喜んで信吉を迎えました。その頃上杉家は内乱(御館の乱)の直後で、人材不足に陥っていました。また、当時の信吉の妻が海野竜宝(武田信玄の子)の娘で、景勝の正室が竜宝の妹だったという縁故もありました。1582年(天正10年)の放生橋の戦い(対新発田重家)で、信吉は景勝の窮地を救うという活躍をし、重臣に抜擢されました(下記補足2)。信吉もその期待に応え、越後国内外の平定(新発田重家の反乱鎮圧など)に貢献しました。1590年(天正18年)豊臣秀吉による北条氏攻めが起こると、信吉は上杉部隊として出陣しました。そしてかつての主君、北条氏邦がこもる鉢形城攻撃に加わったのです。1ヶ月の籠城戦の後、氏邦は降伏しますが、信吉はかつてのいきさつにも関わらす、氏邦の助命嘆願をしたとも言われます(「埼玉人物事典」)。氏邦は、城攻めの大将だった前田利家のもと(金沢)で亡くなる(1597年)まで過ごしました。信吉は信吉なりに、信義を尽くしたのです。

(補足2)同(天正十年)十月廿七日、新発田の城の戦に、首八十六切つて参らす。景勝、大きに感じ、此の年十二月、長島の城を賜り、藤田が手の者二百五十騎、寄騎の侍五十人、都合三百騎の大将に成れてけり。(「藩翰譜」)

鉢形城跡

上杉はその後会津に転封となりましたが、その時代のハイライトは会津征伐でしょう。秀吉没後は、家康が最強の実力者となり、政権基盤を固めようとしました。例えば、前田利家が亡くなった後、その跡継ぎ・利長を勢力下に収めました。前田としても、後に「加賀百万石」が定まる大きな分岐点でした。1600年、慶長5年の正月、信吉は景勝の名代で上洛しました。信吉はこのとき、上方の状況を見て、上杉家存続のためには家康との融和が必要と考えたはずです。折しも、上杉は領国での新城などの建設、旧領国からの年貢持ち去り問題などがあり、謀反を疑われていたのです。信吉は、帰国すると景勝に対して、上洛して家康に申し開きをするよう説得しました。もしここで景勝が上洛していたら「会津120万石」と今でも言われていたかもしれません。しかし「直江状」で有名な直江兼続を筆頭に、家中は反家康に傾いていました。最近の研究では、景勝自身も家康に強硬な態度をとっていたと言われます。つまり信吉は、上杉家中の「家康に買収され内通している」として完全に孤立してしまったのです。この年の3月、信吉は出奔しました。その行先は、徳川でした(下記補足3)。

(補足3)かかる所に景勝、石田治部少輔三成等と言い合はせたる旨あって、東西に分かれて一時に軍起こさんとす。信吉、是を強ちに諫めしに、直江兼続が為に讒せられて誅せらるべしと聞こゆ。信吉、大きに恨みて、おのが家に二心あらざる由の起請文書きて残し置き、慶長五年三月十三日、会津を去りて都に登り、大徳寺に籠り居て入道し、源心とぞ号しける。(「藩翰譜」)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このとき信吉は、江戸で、家康の跡継ぎ・秀忠に、上杉を讒言し、会津征伐のきっかけを作ったという見解もありました。しかし形勢が固まっていたとするならば、状況を報告しただけなのかもしれません。家康は信吉に、会津への道案内をするよう依頼したとも言われますが、信吉は剃髪、「源心」と号して、京都・大徳寺に蟄居しました。関ヶ原後、家康は信吉を召し出し、下野国西方に1万5千石の領地を与えました。ついに、独立大名の地位を得ることになったのです。

西方城の築城と発展

西方城は、伝承によれば、宇都宮氏の一族・西方景泰が、鎌倉時代後期に築いたとされます(江戸時代に編さんされた「西方記録」)。しかし最近の研究よると、同じ宇都宮氏の一族で、西方宗泰という人物が、室町時代に京都から下野にやってきた以降のこととのことです。確実な史料に西方城の名が初めて現れるのは、戦国時代(1573年、天正元年)になります。

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西方城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

戦国時代の下野国は総じて、宇都宮城を本拠地とする宇都宮氏の勢力が強かったのですが、国内を統一していたわけではなく、那須氏・小山氏・結城氏・佐野氏らによっても分割されていました。西方城の周りにも、壬生氏・皆川氏がいて、敵にも味方にもなりうる存在だったので、西方城は、宇都宮氏グループの西側の飛び地のようになっていたのです。実際、皆川氏との抗争の場でもあったと言われます(戦国中盤または後半の時期)。やがて、戦国時代後半(16世紀後半)になると、北条氏が南から勢力を伸ばしてきました。佐野氏、小山氏、皆川氏、壬生氏は、北条の傘下となりました。宇都宮氏の当主・宇都宮国綱は、本拠を山城の多気城に移し、北条氏の侵攻に備えました。西方城も、このような状況下で、境目の城として防御態勢が強化されたと考えられます。

復元された宇都宮城
多気城跡

そのころの西方城は山城として築かれ、峰の上には曲輪群があり、それぞれが深い堀で区切られていました。敵の攻撃を防ぐため、土塁・堀・切岸を複雑に組み合わせ、敵の側面に攻撃(横矢)できるようにしました。城への入口は、枡形虎口を多く使っていて、厳重に守られていました。自然の地形を生かしながら、巧みに加工して、攻めにくいように築き上げたのです。

城の地形図(赤色立体地図)、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より
山城の二の丸虎口

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、下野国には、家康の子・結城秀康の領地(本拠は下総国、10万石)の一部が設定されました。西方城も、その中に含まれたのです。その時代の城の状況はわかっていません。一時廃城になったとも、その時期に山麓に城館が築かれたとも言われています。

小田原合戦後の下野国分割状況、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より

関ヶ原後、結城秀康は、越前北ノ庄68万石の大大名になり、その後釜の一人として藤田信吉が入ってきたのです。彼は、山麓に陣屋(藩庁)を置いたとされます。この部分は現在「二条城」とも呼ばれていて、京都の二条城を連想してしまいますが、新しい城という意味で「にいじょう(新城)」がなまったものと言われます。山城部分は、普段は使わなくも、何か事があったときには、山麓と連携して使ったとしてもおかしくありません。信吉は城下町も整備し、その名残として、そのときに由来を持つ神社や寺が残っています。

山麓の「二条城」跡
信吉が創建したと伝わる愛宕神社(鞘堂内)

信吉と西方城の最期

藤田信義と西方城の最期は、思いがけずやってきます。そのきっかけは、1615年の大坂夏の陣の時です。信吉は、榊原康勝の軍監として出陣しました。しかし、慶長20年5月6日の若江の合戦で失態を犯してしまうのです。この合戦で幕府軍は、大坂方の木村重成隊などと戦いました。その直前に、木村隊の一部が、小笠原秀政隊に近づいてきたときに、となりにいた榊原隊がともに戦おうとしましたが、信吉がそれを止めたのです。敵の後ろに伏兵が控えていると思ったからです。(下記補足4)しかし実際には伏兵はいなくて、両部隊は戦機を逸したのです(榊原隊は合戦後半に参戦)。小笠原秀政は、将軍・徳川秀忠から叱責を受けました(信吉が弁明)。翌日の天王寺口の戦いでは、両部隊と信吉は、遮二無二戦いました。大坂の陣終結となる日です。小笠原秀政は戦没、榊原康勝は無理な戦がたたって病没、信吉も重傷を負いました。幕府方にもこんな犠牲があったのです。特に榊原康勝の件は、徳川四天王・康政の跡取りだったので重大視され、戦後、信吉は徳川家康から直接尋問されました。信吉は自分の責任を認めつつ、経緯を説明しました。その場の処分はなかったものの、信吉自身の戦傷が重くなり、1616年(元和2年)療養の途上、信濃国奈良井の長泉寺で亡くなりました(59歳)。信吉には跡継ぎがいなかったので、大名としても改易になってしまったのです(下記補足5)。信吉は、長泉寺の住職に、代々「藤田」を名乗るよう遺言していますので、亡くなるまで家名にこだわっていたのではないでしょうか。

(補足4)其合戦場敵備の後に、誉田八幡の森続、森の茂深し。伏奸あるべき地なり。天下の大軍を引請け、御威風にも恐れず、城より出でゝ備を立て、蹈忍へて引入れざるは事は、武術あるべき儀なるに、敵の備唯一重なり、是は伏兵を秘し、東の大軍追来る時、其乱立ちたる中へ、伏を起し討入るべしと考え申候。其時、館林の備を進め、横合に敵を討ち、勝利を得べしと存じ、此理を遠江守へ申談じ控へさせ候所、案に相違仕り、敵伏兵も無く、総崩れ仕り候。(「管窺武鑑」で信吉が徳川家康の尋問に答える場面)

(補足5)元和二年七月十四日、五十九歳にて卒し、男子なければ家たえたり(「藩翰譜」)

大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西方・実相寺にある信吉墓(中央)

ところで、藤田氏の改易には異説があります。信吉の夏の陣での失態が直接の原因であるというもの(下記補足6)と、信吉の失言説もあります(下記補足7)。確かに失態により改易の方が理解されやすいとも思えます。現時点では、失態説の方が一般的のようです。

(補足6)大阪ノ役、指揮ヲ失フヲ以テ封除セラル(「徳川除封録」)

(補足7)大坂より御帰陣之日、能登守信吉言上奉り、「実に易く落城致し候」と祝い申し上げ、御機嫌に背き、面目を無くして高野山へ遁世(「西方記録」)

また、信吉の亡くなり方にも異説があって、自ら命を絶ったとするもの(補足8)、殺害説まであります(下記補足9)。失態→改易→自害というのが、聞き手にはドラマティックに思えてしまうのでしょう。早くに改易されて、家としても残らなかったで、いろんな話が作られたのでしょう。藤田信吉、謎と波乱に満ちた武将の人生でした。

(補足8)六日の戦に小笠原、榊原手に逢わざる事後に御せんさくに付き、小笠原事藤田差図のより申上げて藤田ついに信州へ流罪、これを憤って自殺す(「新編武家事紀」)

(補足9)三太郎(北条氏邦旧臣の諏訪部定吉)。越前中納言秀康卿に仕え、のち伏見に於て藤田能登守某を殺害して自殺す(「寛政重修諸家譜」)

西方藩廃藩に伴い、西方城も廃城になりました。そして。長い眠りにつくとことになったのです。城下町のあった辺りは、日光例幣使街道の宿場の一つ(金崎宿)になりました。西方藩廃藩に伴い、西方城も廃城になりました。そして。長い眠りにつくとことになったのです。城下町のあった辺りは、日光例幣使街道の宿場の一つ(金崎宿)になりました。

「西方城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

111.向羽黒山城 その1

有力戦国大名となった葦名盛氏が次に行ったことは、家督を息子に譲り、隠居所として新しい城の建設を始めることでした。これが向羽黒山城となります。

立地と歴史

城の名前の由来

向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)は、現在の福島県の会津地域にあった城です。城や城跡ということに関しては、この地域は江戸時代に会津藩の本拠地であった若松城があることの方が余程知られています。しかし若松城は、以前は黒川城と呼ばれていて、葦名氏が所有していました。また葦名氏は、当時黒川城よりもっと大きい向羽黒山城をも有していました。向羽黒山城が築かれていた山は、もともと岩崎山と呼ばれていたため、城も最初は岩崎城と呼ばれていました。一方で、その山は向羽黒山とも呼ばれていて、羽黒山の向かいにある山という意味になります。これら2つの山は一列に並んでいるように見えるのでそういう名前になったのですが、やがて城の方も向羽黒山城と呼ばれるようになりました。

小田山城跡から見た若松城
小田山城跡から見た、左側が向羽黒山(岩崎山)、右側が羽黒山

葦名氏が会津地域に入植

葦名氏は元は、中世初期に鎌倉幕府の重臣であった三浦氏の支族の佐原氏の一族であり、相模国(現在の神奈川県)の三浦半島を根拠地としていました。鎌倉幕府を創業した源頼朝が1189年に東北地方を征伐した後、佐原氏はそのときの貢献により会津地方に領地を得ました。佐原氏の一部は会津に住み着き、苗字を変えて、猪苗代氏、北田氏、新宮氏といったように名乗りました。14世紀初頭に足利幕府が成立したとき、佐原氏の別の一族であった葦名氏は、会津地域を含む東北地方で大いに活躍し、自らのことを「会津管領」と称しました。その結果14世紀半ば頃に、葦名氏はその本拠地を三浦半島の葦名から会津に移し、新しく館を構え、小高木館(おたかきのたて)と呼ばれました。これが後の黒川城となります。

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向羽黒山城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置と葦名氏発祥の地

ところが、葦名氏は会津地域をそう簡単には統治できませんでした。ただ権威があるというだけでは、佐原氏出身の他の一族たちや地元領主たちが従わなかったからです。葦名氏は武威をもって彼らを従わせるか、そうでなければ武力を行使して倒すしかなかったのです。例えば、葦名氏は北田氏や新宮氏と戦ってこれらを滅亡させますが、彼らは皆同じ佐原一族でした。また一族の猪苗代氏とは戦いの末、猪苗代氏が葦名氏の重臣となることで決着しました。葦名氏はまた、伊達氏、二階堂氏、佐竹氏といった会津の外の有力大名たちが攻め込んでくるのも防ぐ必要がありました。葦名氏の当主は普段は平地である会津盆地の黒川城に住んでいました。また、会津盆地の脇、黒川城から約1.5km離れた小田山山上に小田山城を築き、緊急事態が起こったときのための詰めの城としました。このような平城と山城のコンビネーションは、戦国時代には日本のあちこちで見ることができます。小田山城は、葦名氏の墓地としても使われました。

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黒川城
Leaflet|国土地理院
黒川城周辺の起伏地図

小田山城跡(大手口)
葦名家寿山廟(墓地)跡

葦名盛氏が隠居所として向羽黒山城を築城

16世紀の中盤、葦名盛氏が当主であった頃、葦名氏の勢力は最高潮に達しました。盛氏の会津での統治は安定し、更には上杉謙信、武田信玄、伊達政宗といった他の地域の有力な戦国大名とも外交関係を結びました。これは、盛氏自身も有力戦国大名となったことを意味します。その次に彼が行ったことは、家督を息子に譲り、隠居所且つ小田山城の代替として、黒川城から約5km南のところに新しい城の建設を始めることでした。1861年のことで、これが向羽黒山城となります。しかし、この城は隠居所や建て替えにしては巨大すぎるもので、実際、盛氏は葦名氏の実権をまだ握っていて、城はまるで葦名氏の新しい本拠地のようでした。城の建設は8年間続き、1568年に完成しますが、結果東北地方では最大級の山城となりました。城は土造りで、当時の東日本では典型的なやり方でした。しかし、数えきれないほどの曲輪があり、深い空堀、厚い土塁、人工的な切岸など、自然の地形を加工した防御システムにより守られていました。

葦名盛氏肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
向羽黒山城の想像図、現地説明板より

有力大名に引き継がれ遂に廃城

1580年に盛氏が亡くなった後は、葦名氏の勢力は衰えます。後継者が皆若死にしてしまったからです。そのため一族関係者と重臣たちは領地を守るため、次の当主を外部の有力戦国大名から迎えることにしました。候補者は、佐竹氏と伊達氏から挙げられましたが、結果的には佐竹氏から迎えることとし、その跡継ぎは1587年に葦名義広と名付けられました。ところがこのことは葦名家中の分裂を招き、伊達氏を支持する勢力が派生しました。1589年、伊達政宗は葦名領への侵攻を開始しました。義広は撃退しようとしますが、親族の猪苗代氏を含む多くの重臣たちは伊達に付くか、義広の元を去っていきました。結局、正宗との摺上原の戦いに敗れた義広は、会津から佐竹の実家の方に落ち延びていきました。その結果、葦名氏の本拠地、黒川城は政宗により占拠され、葦名氏は滅亡したのです。

伊達政宗肖像画、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

向羽黒山城は、黒川城(若松城に改名されます)と同じように、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝によって引き継がれます。この城はまだ、戦のような非常事態が起こったときの詰めの城として必要とされたからです。しかし、1600年に景勝が、徳川幕府の創始者、徳川家康との天下分け目の戦に敗れ米沢城に転封となった後、いつしか廃城となりました。

蒲生氏郷肖像画、会津若松市立会津図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
向羽黒山城跡

「向羽黒山城その2」に続きます。

133.鮫ヶ尾城 その1

御館の乱と上杉景虎の終焉の地

立地と歴史

春日山城の支城

鮫ヶ尾城は、現在は新潟県である越後国の西部にあった山城でした。この城が最初にいつ築かれたのかは分かっていませんが、16世紀後半には上杉謙信の本拠地である春日山城の支城の一つとなっていました。謙信は、その当時の日本では最も有力な戦国大名の一人であり、その本拠地を守るために城のネットワークを構築したのです。鮫ヶ尾城は、実のところ、支城としてよりも御館(おたて)の乱の最終決戦地として、そしてその乱で敗者となった上杉景勝の終焉の地として有名となっています。

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鮫ヶ尾城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城を中心とした支城ネットワーク、上越市埋蔵文化財センターにて展示、鮫ヶ尾城は赤丸内

景虎、北条氏から上杉氏の養子となる

上杉景虎は謙信の養子でしたが、もとは謙信と関東地方をめぐって戦っていた北条氏の一族として生まれました。景虎が上杉家に来ることになった理由は、1569年に武田氏に対抗して上杉と北条が一時的に講和を結ぶことになったからです。武田氏(武田信玄)は、武田・今川・北条による三国同盟を今川氏の両国に攻め込むことで破っていたのです。北条氏(北条氏康)はこれに大いに怒っていました。ところが、上杉と北条の新しい同盟はたった2年しか続かず、北条は上杉との同盟を止めて1571年に再び武田と同盟を結びました(北条が氏康から氏政に代替わりしたことが大きな要因でした)。通常であれば、ここで景虎は北条に返されるはずでした。ところが謙信はなぜか景虎を上杉の一員として留めたのです。一説として謙信が景虎を個人的に気に入っていたと言われています。景虎の肖像画は残っていないのですが、記録によれば、彼は魅力的でかつ眉目秀麗だったとされています。

上杉景虎の想像画、現地説明板より

謙信の死後、2人の養子が対立

北条との同盟が手切れになったことで、謙信は親族よりもう一人の養子を迎えます。それが上杉景勝でした。謙信は、景虎が景勝を支え、お互いに協力していくことを願ったようです。また多くの歴史家は、謙信は1578年3月の突然の彼の死までに、明確に後継者を決めていなかったと言います。実際には、二人の養子は養父の死後しばらくは、景勝が当主であるかのごとく同じ春日山城で暮らしていました。ところが周りの状況が二人の平穏を許してくれなかったのです。景勝の古くからの家臣は、上杉家の中枢として当然景勝を支持しました。越後国の地方領主や他国の戦国大名は景虎を支持しました。彼が外部出身者だからです。特に景虎の実家である北条氏とその同盟者である武田氏は、景虎が後継者となることを望みました。このことにより二人の候補者は1578年5月に戦うことになってしまったのです。この戦いは御館の乱と呼ばれています。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

御館はもともと、元関東管領で、謙信の養父でもあった上杉憲政の屋敷でした。景虎は春日山城から約5km離れた御館に避難していたのです。この場所は乱の間、1年近く彼の本拠となりました。この戦いの初期の段階では景虎の方が他からの支援を受けられることで、景勝より優位な立場にありました。6月には武田勝頼が軍勢を率いて景虎を支持するために越後国に達していたのです。ところが景勝は、多額の金銭贈与と領土の割譲を約束することで、勝頼を引き返させてしまったのです。その結果、状況は逆転しました。景勝は多くの忠誠を誓う家臣がいる一方、景虎はその出自のせいで頼りになる家臣は少なかったのです。景勝はついに御館の屋敷に対して総攻撃をかけ、1579年3月に御館は陥落しました。景虎はそこから逃れ、彼の実家である北条氏の本拠地である小田原城に至ろうとしたのです。そして、彼を支援する堀江宗親(ほりえむねちか)の城に立ち寄りました。そして、そこが彼の最後の地となったのです。それが鮫ヶ尾城でした。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
炎上する御館の想像図、斐太歴史の里総合案内所にて展示

景虎敗れ、鮫ヶ尾城で自刃

鮫ヶ尾城は一支城でしたが、規模は大きく、それは謙信と勝頼の父である武田信玄が何度も戦った信濃国(現在の長野県で越後国の南方)の途上にある場所だったからです。この城は当時の典型的な山城であり、自然の地形を利用して防御を固めていました。土造りの多くの曲輪が山の峰上に築かれていました。これらの曲輪は人工的な堀切によって区切られ、両側を垂直にカットされた細い通路によってつながっていました。谷を通る通路は曲がりくねって作られ、敵が城を容易に攻撃できないようになっていました。

川中島古戦場にある武田信玄(左)と上杉謙信(右)の銅像
鮫ヶ尾城跡図、現地説明板より

いくら強力な城に滞在しているとは言え、景虎は他からの援軍がなければ生き残ることはできません。彼は、景勝は発した景虎追討軍にすぐに追いつかれ攻撃されました。ある記録によれば、城主である堀江宗親まで景虎を裏切ったと言われています。景虎はついに、景勝の軍勢により火をかけられた城内で自刃しました。享年26歳でした。

鮫ヶ尾城跡

「鮫ヶ尾城その2」に続きます。

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