111.向羽黒山城 その1

有力戦国大名となった葦名盛氏が次に行ったことは、家督を息子に譲り、隠居所として新しい城の建設を始めることでした。これが向羽黒山城となります。

立地と歴史

城の名前の由来

向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)は、現在の福島県の会津地域にあった城です。城や城跡ということに関しては、この地域は江戸時代に会津藩の本拠地であった若松城があることの方が余程知られています。しかし若松城は、以前は黒川城と呼ばれていて、葦名氏が所有していました。また葦名氏は、当時黒川城よりもっと大きい向羽黒山城をも有していました。向羽黒山城が築かれていた山は、もともと岩崎山と呼ばれていたため、城も最初は岩崎城と呼ばれていました。一方で、その山は向羽黒山とも呼ばれていて、羽黒山の向かいにある山という意味になります。これら2つの山は一列に並んでいるように見えるのでそういう名前になったのですが、やがて城の方も向羽黒山城と呼ばれるようになりました。

小田山城跡から見た若松城
小田山城跡から見た、左側が向羽黒山(岩崎山)、右側が羽黒山

葦名氏が会津地域に入植

葦名氏は元は、中世初期に鎌倉幕府の重臣であった三浦氏の支族の佐原氏の一族であり、相模国(現在の神奈川県)の三浦半島を根拠地としていました。鎌倉幕府を創業した源頼朝が1189年に東北地方を征伐した後、佐原氏はそのときの貢献により会津地方に領地を得ました。佐原氏の一部は会津に住み着き、苗字を変えて、猪苗代氏、北田氏、新宮氏といったように名乗りました。14世紀初頭に足利幕府が成立したとき、佐原氏の別の一族であった葦名氏は、会津地域を含む東北地方で大いに活躍し、自らのことを「会津管領」と称しました。その結果14世紀半ば頃に、葦名氏はその本拠地を三浦半島の葦名から会津に移し、新しく館を構え、小高木館(おたかきのたて)と呼ばれました。これが後の黒川城となります。

城の位置と葦名氏発祥の地

ところが、葦名氏は会津地域をそう簡単には統治できませんでした。ただ権威があるというだけでは、佐原氏出身の他の一族たちや地元領主たちが従わなかったからです。葦名氏は武威をもって彼らを従わせるか、そうでなければ武力を行使して倒すしかなかったのです。例えば、葦名氏は北田氏や新宮氏と戦ってこれらを滅亡させますが、彼らは皆同じ佐原一族でした。また一族の猪苗代氏とは戦いの末、猪苗代氏が葦名氏の重臣となることで決着しました。葦名氏はまた、伊達氏、二階堂氏、佐竹氏といった会津の外の有力大名たちが攻め込んでくるのも防ぐ必要がありました。葦名氏の当主は普段は平地である会津盆地の黒川城に住んでいました。また、会津盆地の脇、黒川城から約1.5km離れた小田山山上に小田山城を築き、緊急事態が起こったときのための詰めの城としました。このような平城と山城のコンビネーションは、戦国時代には日本のあちこちで見ることができます。小田山城は、葦名氏の墓地としても使われました。

黒川城周辺の起伏地図

小田山城跡(大手口)
葦名家寿山廟(墓地)跡

葦名盛氏が隠居所として向羽黒山城を築城

16世紀の中盤、葦名盛氏が当主であった頃、葦名氏の勢力は最高潮に達しました。盛氏の会津での統治は安定し、更には上杉謙信、武田信玄、伊達政宗といった他の地域の有力な戦国大名とも外交関係を結びました。これは、盛氏自身も有力戦国大名となったことを意味します。その次に彼が行ったことは、家督を息子に譲り、隠居所且つ小田山城の代替として、黒川城から約5km南のところに新しい城の建設を始めることでした。1861年のことで、これが向羽黒山城となります。しかし、この城は隠居所や建て替えにしては巨大すぎるもので、実際、盛氏は葦名氏の実権をまだ握っていて、城はまるで葦名氏の新しい本拠地のようでした。城の建設は8年間続き、1568年に完成しますが、結果東北地方では最大級の山城となりました。城は土造りで、当時の東日本では典型的なやり方でした。しかし、数えきれないほどの曲輪があり、深い空堀、厚い土塁、人工的な切岸など、自然の地形を加工した防御システムにより守られていました。

葦名盛氏肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
向羽黒山城の想像図、現地説明板より

有力大名に引き継がれ遂に廃城

1580年に盛氏が亡くなった後は、葦名氏の勢力は衰えます。後継者が皆若死にしてしまったからです。そのため一族関係者と重臣たちは領地を守るため、次の当主を外部の有力戦国大名から迎えることにしました。候補者は、佐竹氏と伊達氏から挙げられましたが、結果的には佐竹氏から迎えることとし、その跡継ぎは1587年に葦名義広と名付けられました。ところがこのことは葦名家中の分裂を招き、伊達氏を支持する勢力が派生しました。1589年、伊達政宗は葦名領への侵攻を開始しました。義広は撃退しようとしますが、親族の猪苗代氏を含む多くの重臣たちは伊達に付くか、義広の元を去っていきました。結局、正宗との摺上原の戦いに敗れた義広は、会津から佐竹の実家の方に落ち延びていきました。その結果、葦名氏の本拠地、黒川城は政宗により占拠され、葦名氏は滅亡したのです。

伊達政宗肖像画、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

向羽黒山城は、黒川城(若松城に改名されます)と同じように、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝によって引き継がれます。この城はまだ、戦のような非常事態が起こったときの詰めの城として必要とされたからです。しかし、1600年に景勝が、徳川幕府の創始者、徳川家康との天下分け目の戦に敗れ米沢城に転封となった後、いつしか廃城となりました。

蒲生氏郷肖像画、会津若松市立会津図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
向羽黒山城跡

「向羽黒山城その2」に続きます。

133.鮫ヶ尾城 その1

御館の乱と上杉景虎の終焉の地

立地と歴史

春日山城の支城

鮫ヶ尾城は、現在は新潟県である越後国の西部にあった山城でした。この城が最初にいつ築かれたのかは分かっていませんが、16世紀後半には上杉謙信の本拠地である春日山城の支城の一つとなっていました。謙信は、その当時の日本では最も有力な戦国大名の一人であり、その本拠地を守るために城のネットワークを構築したのです。鮫ヶ尾城は、実のところ、支城としてよりも御館(おたて)の乱の最終決戦地として、そしてその乱で敗者となった上杉景勝の終焉の地として有名となっています。

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城を中心とした支城ネットワーク、上越市埋蔵文化財センターにて展示、鮫ヶ尾城は赤丸内

景虎、北条氏から上杉氏の養子となる

上杉景虎は謙信の養子でしたが、もとは謙信と関東地方をめぐって戦っていた北条氏の一族として生まれました。景虎が上杉家に来ることになった理由は、1569年に武田氏に対抗して上杉と北条が一時的に講和を結ぶことになったからです。武田氏(武田信玄)は、武田・今川・北条による三国同盟を今川氏の両国に攻め込むことで破っていたのです。北条氏(北条氏康)はこれに大いに怒っていました。ところが、上杉と北条の新しい同盟はたった2年しか続かず、北条は上杉との同盟を止めて1571年に再び武田と同盟を結びました(北条が氏康から氏政に代替わりしたことが大きな要因でした)。通常であれば、ここで景虎は北条に返されるはずでした。ところが謙信はなぜか景虎を上杉の一員として留めたのです。一説として謙信が景虎を個人的に気に入っていたと言われています。景虎の肖像画は残っていないのですが、記録によれば、彼は魅力的でかつ眉目秀麗だったとされています。

上杉景虎の想像画、現地説明板より

謙信の死後、2人の養子が対立

北条との同盟が手切れになったことで、謙信は親族よりもう一人の養子を迎えます。それが上杉景勝でした。謙信は、景虎が景勝を支え、お互いに協力していくことを願ったようです。また多くの歴史家は、謙信は1578年3月の突然の彼の死までに、明確に後継者を決めていなかったと言います。実際には、二人の養子は養父の死後しばらくは、景勝が当主であるかのごとく同じ春日山城で暮らしていました。ところが周りの状況が二人の平穏を許してくれなかったのです。景勝の古くからの家臣は、上杉家の中枢として当然景勝を支持しました。越後国の地方領主や他国の戦国大名は景虎を支持しました。彼が外部出身者だからです。特に景虎の実家である北条氏とその同盟者である武田氏は、景虎が後継者となることを望みました。このことにより二人の候補者は1578年5月に戦うことになってしまったのです。この戦いは御館の乱と呼ばれています。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

御館はもともと、元関東管領で、謙信の養父でもあった上杉憲政の屋敷でした。景虎は春日山城から約5km離れた御館に避難していたのです。この場所は乱の間、1年近く彼の本拠となりました。この戦いの初期の段階では景虎の方が他からの支援を受けられることで、景勝より優位な立場にありました。6月には武田勝頼が軍勢を率いて景虎を支持するために越後国に達していたのです。ところが景勝は、多額の金銭贈与と領土の割譲を約束することで、勝頼を引き返させてしまったのです。その結果、状況は逆転しました。景勝は多くの忠誠を誓う家臣がいる一方、景虎はその出自のせいで頼りになる家臣は少なかったのです。景勝はついに御館の屋敷に対して総攻撃をかけ、1579年3月に御館は陥落しました。景虎はそこから逃れ、彼の実家である北条氏の本拠地である小田原城に至ろうとしたのです。そして、彼を支援する堀江宗親(ほりえむねちか)の城に立ち寄りました。そして、そこが彼の最後の地となったのです。それが鮫ヶ尾城でした。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
炎上する御館の想像図、斐太歴史の里総合案内所にて展示

景虎敗れ、鮫ヶ尾城で自刃

鮫ヶ尾城は一支城でしたが、規模は大きく、それは謙信と勝頼の父である武田信玄が何度も戦った信濃国(現在の長野県で越後国の南方)の途上にある場所だったからです。この城は当時の典型的な山城であり、自然の地形を利用して防御を固めていました。土造りの多くの曲輪が山の峰上に築かれていました。これらの曲輪は人工的な堀切によって区切られ、両側を垂直にカットされた細い通路によってつながっていました。谷を通る通路は曲がりくねって作られ、敵が城を容易に攻撃できないようになっていました。

川中島古戦場にある武田信玄(左)と上杉謙信(右)の銅像
鮫ヶ尾城跡図、現地説明板より

いくら強力な城に滞在しているとは言え、景虎は他からの援軍がなければ生き残ることはできません。彼は、景勝は発した景虎追討軍にすぐに追いつかれ攻撃されました。ある記録によれば、城主である堀江宗親まで景虎を裏切ったと言われています。景虎はついに、景勝の軍勢により火をかけられた城内で自刃しました。享年26歳でした。

鮫ヶ尾城跡

「鮫ヶ尾城その2」に続きます。

32.春日山城 その1

最強の戦国大名、上杉謙信の城

立地と歴史

義の武将、上杉謙信

春日山城は、日本海に面した越後国(現在の新潟県)にありました。この城は、城主の一人であった上杉謙信によりよく知られています。謙信は、戦国時代の16世紀において最強の戦国大名であったと言われています。彼はその49年の生涯で70回以上戦いましたが、明らかな敗戦はありませんでした。

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、謙信には他の戦国大名が決して持ち合わせていなかった特異な面がありました。彼は決して自分から他国を侵略するために戦うことはありませんでした。他の戦国大名に敗北した人たちを助けるためにのみ戦ったのです。結果的に、謙信は越後国の南で有力な戦国大名、武田信玄と5度に渡って戦いました。彼はまた山を越え、太平洋に面した関東地方に17回も侵攻し、北条氏と戦いました。謙信は敬虔な仏教徒であり、生涯独身を通しました。戦いの前には数日間毘沙門堂に籠り、勝利の祈願を行っていたのです。彼は一時城を抜け出して仏教僧になろうとしたのですが、家臣達が城に戻ることを懇願し、ついには諦めたということもありました。

川中島古戦場にある武田信玄(左)と上杉謙信(右)の銅像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
復元された毘沙門堂

このような強さにも関わらず、謙信は天下人にはなれませんでした。毎回出先の国での勝利の後、彼が引き上げると、敵方はまた領地を取り返してしまうのです。歴史家の中はこのような有様を批判する人もいますが、多くの歴史ファンは、謙信を義の武将としていまだに敬愛しています。

上杉謙信の旗印 (taken by 松波庄九郎 from photoAC)

曲輪と屋敷に覆われた城

春日山城は、新潟県の西部、頚城平野の傍らの標高189mの山の上にあり、土造りの城でした。この城が最初にいつ築かれたのかは不明ですが、謙信の父親である長尾為景がこの城を拡張しました。謙信の時代には城の規模は更に大きくなり、城の山は数えきれない程の曲輪や建物に覆われていました。

春日山城の古絵図  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この城は当時3つの部分から構成されていました。城の主要部は、東側の平野に面して山の頂上にありました。そこには本丸、毘沙門堂、重臣の直江屋敷、そして謙信の養子であった景勝と景虎の屋敷がありました。次に、大手道が山麓の南東部分から頂上に向かって伸びていました。この道は山の周辺を長く迂回しており、番所や、柿崎などの他の重臣の屋敷を通っていました。最後に、搦手道がまた山麓の北東部分から伸びていました。この道は黒金門、御屋敷、千貫門、そして虎口と呼ばれる食い違いの入口を通っていました。

上越市埋蔵文化財センターにある城のジオラマ

この城自体は、複雑な防御システムは持っていなかったかもしれませんが、鮫ヶ尾城などの支城ネットワークを持ち、戦が起こったときには連携して機能するようになっていました。

春日山城を中心とした支城ネットワーク(上越市埋蔵文化財センター)

平和な時代となり廃城

1578年に謙信が亡くなった後、この城では不幸にも景勝と景虎との間で内紛が起こりました。最終的には景勝が勝利しましたが、1598年には天下人の豊臣秀吉によって若松城に転封となってしまいます。その後、堀氏が春日山城を支配し、総構えと呼ばれる外郭土塁を築き、城の規模は最大となりました。ところが、堀氏は1607年に統治に便利な平地の上の福島城に移っていきました。春日山城は、それと同時に廃城となりました。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
復元された総構え

「春日山城その2」に続きます。