27.上田城 その2

今回は、上田駅からスタートします。ここは新幹線駅でもあるので、賑わっています。上田城には、現在「上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)」になっている中心部分以外にも見どころがありますので、駅から公園に向かう間に見学したいと思います。公園に着いたら、櫓が残る本丸を見てから、自然の要害だった「尼ヶ淵」なども回ってみましょう。最後の方では、上田合戦のときに出てきた「砥石城」「神川」にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、上田駅からスタートします。ここは新幹線駅でもあるので、賑わっています。上田城には、現在「上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)」になっている中心部分以外にも見どころがありますので、駅から公園に向かう間に見学したいと思います。公園に着いたら、櫓が残る本丸を見てから、自然の要害だった「尼ヶ淵」なども回ってみましょう。最後の方では、上田合戦のときに出てきた「砥石城」「神川」にも行ってみましょう。

上田駅

街なかの見どころ

まず、上田駅から駅前通りを歩いていきましょう。

駅前通り

「中央2丁目」交差点を左に曲がると「大手通り」です。

中央2丁目交差点
大手通り

道がくねっているところがありますが、ここが大手門の跡です。上田合戦での激戦地とされているのと、江戸時代には石垣と堀があって、枡形が形成されていました。仙石忠政による復興が中断されたためか、城門の建物は作られなかったと言われています。

大手門跡
大手門があった「三の丸」のディスプレイ

この近くに、真田信之以来の藩主屋敷跡があります。現在は高校の敷地として使われています。江戸時代に建てられ、現存している屋敷門です。土塁と堀も残っていますが、隅の部分がちょっと欠けています。これについては、後でご説明します。

藩主屋敷跡
藩主屋敷の土塁と堀

城跡公園に向けて進んでいくと、また屋敷跡があります。ここも学校になっていますが、そう言われてみないとわからない感じです。この屋敷は当初は「中屋敷」、時代が下ると「作事場」または「古屋敷」と呼ばれたそうです。築城時には真田昌幸の屋敷だった可能性も指摘されています(「信濃上田城」)。

中屋敷・作事場跡

公園に近づくと、藩校「明倫堂」跡もあります。

明倫堂跡

二の丸・本丸を攻略!

では、堀にかかった橋を渡って、二の丸東虎口から公園に入っていきましょう。

橋(二の丸橋)渡っていきます

虎口にから見ると、左の方に本丸の櫓が見えて、まっすぐ行けるようになっているのですが、実は城の現役時代にはここも枡形になっていて、まっすぐ進めなかったのです。武者溜り、三十間堀というのがあって、右側に回り込む必要がありました。現在は、武者溜りの復元に向けた調査を行っています。

二の丸東虎口
武者溜りの調査現場
武者溜りなどの復元についてのディスプレイ

本丸の入口である東虎口櫓門は、現存する南櫓・北櫓に挟まれて、上田城のビュースポットと言えるでしょう。

左から南櫓、本丸東虎口櫓門、北櫓

門の右脇にあるのが有名な「真田石」です。真田信之が松代に移るとき、巨大すぎて持っていけなかったという言い伝えありますが、歴史家によると、仙石忠政が築いたようです。

真田石

門に入ると、正面に見えるのが真田神社です。仙石氏も松平氏も祀られています。

真田神社

奥の方に行くと、西櫓を見学できます。廃城になっても最後まで残っていた櫓です。今でも崖の上でがんばっている感じです。ここに来ると景色が急に開けて、どんな所にお城を作ったのかがわかります。

西櫓
西櫓からの眺め

今度は、本丸の中心部に行ってみましょう。本丸の中には、もともと建物はありませんでした。

本丸中心部(上段)
上田城は桜の名所ですが、紅葉もきれいです

過去に櫓があった場所に行ってみましょう。実は、本丸の北東隅には櫓が2つ並んでいました。こんなに近くに櫓が並んでいると、防衛上の効果はなかっただろうとのことです。ちなみに、この2つの櫓の当時の名前はわからないそうです。

北東隅の一つ目の櫓があった場所
北東隅の二つ目の櫓があった場所

次は、北西隅櫓跡に行ってみます。ここの櫓は一つでした。こちらについては、西側の本丸堀から金箔瓦が見つかっています。つまり、真田時代にはこの辺に天守があったかもしれないのです。

北西隅櫓跡
この辺りの堀から金箔瓦が見つかりました

それでは、さっきの北東隅の謎解きに、本丸の周りを歩きましょう。本丸西虎口から外に出ます。ここも枡形になっていました。堀の周りを歩くと、本丸が一番高い所にあることがよくわかります。

本丸西虎口
本丸堀、向こうが本丸(北西隅)

堀の北東隅に着きました。本丸の北東隅が欠けているのがわかります。これは「隅欠(すみおとし)」といって、鬼門である北東からの災厄を除けるための仕組みとされています。上田城の特徴の一つです。先ほどの藩主屋敷もそうでした。江戸時代の絵図では、二の丸や中屋敷(絵図では「古屋敷」)も同じようになっています。

本丸北東部の隅欠
「信州上田城絵図」、真ん中の本丸だけでなく、周りの二の丸、その右側の古屋敷も北東隅(右上)が欠けています、出展:国立公文書館

今も残る自然の要害

今度は、上田城が自然の要害に築かれたことがわかるスポットに行ってみましょう。最初に入った公園入口の橋(二の丸橋)の脇から、堀の底に下りましょう。堀の底とは言っても、気持ちのいい歩道になっていて、昭和時代には電車の軌道(上田温泉電軌北東線)だったのです。堀の端を曲がると、城の南側の要害だった尼ヶ淵です。崖地帯になってきます。尼ヶ淵に面する崖は、高さが約12メートルあって、火山活動や川の流れに由来する3つの層によって構成されています。異なる性質の層が重なっているので崩れやすいとのことです。

二の丸橋下のトンネル
二の丸堀底の歩道
城の南側の崖

広場になっているところに出ると、全体をよく見渡すことができます。この場所を千曲川の支流(尼ヶ淵)が流れていたのです。しかも1732年(享保17年)の洪水に伴い「大川」が流れるようになり、それは千曲川の本流だったとも言われています。洪水で崩れた崖への対処と、川の護岸のために、今見られる石垣が築かれました(流れが来なくなったのは大正時代以後)。

尼ヶ淵の全景

例えば、本丸南櫓下を見てみると、石垣が3段に積まれています。上段が櫓台の石垣で一番早く築かれ、下段が洪水の後に築かれた護岸用です。中段はその後、崩落を防ぐために何回も石垣が築かれ、修繕された部分だそうです。崖のままになっているところは、突出していて石垣が築けなかったようです(一部現代にモルタル補修)。

本丸南櫓下の石垣

西櫓の方に向かって歩きましょう。崖下から見ても、西櫓のがんばりがよくわかります。

西櫓の方に続く石垣
西櫓

城跡の周りをたどることになりますが、大きな堀の跡を紹介したいと思います。まずは西側で、二の丸西虎口(現在は跡のみ)を出たところが「広堀」でした。今は野球場になっています。

広堀跡

それから北側、二の丸北虎口の外にもあります。この虎口は、残っている石垣を使って復元整備されています。

二の丸北虎口

その外にあるのが百間堀(ひゃっけんぼり)跡です。この大きなグラウンドが、丸々お堀でした。元は自然の川だったのを利用して、こんなに大きなお堀を作ったのです。

百間堀跡

上田合戦ゆかりの地

ここからは、少しですが上田合戦ゆかりの地をご紹介します。一つ目は、砥石城です。上田城からは約7kmの道のりなので、行かれる場合は車を使った方がいいかもしれません。上田合戦では真田信之も(第一次・二次)、信繁(第二次)もこの城を使いました。それにそれ以前からこの城は重要な拠点で、武田信玄と村上義清がこの城を巡って争い、信玄が敗れたことでも有名です(砥石崩れ)。真田昌幸の父、幸隆がこの城を乗っ取り、出世のきっかけにもなりました。

砥石城跡遠景

この城の規模も大きく、実は山の上にある4つの城(拠点)の集合体なのです。今日は4つのうち、標高が高くて上田城が見えそうな「砥石城」に行ってみましょう。

4つの城、現地説明パネルより

櫓門から山道に入ります。

櫓門(現代のアトラクションか)

登っていくと分岐点があります。今回は右に行きます。

砥石城と米山城の分岐点

急な坂が続きます。重要だった城だけのことはあります。

砥石城に続く急坂

山道の途中が入口みたいになっています。山城の虎口でしょうか。

虎口か?

もう少しです。

砥石城の頂近く

砥石城跡に着きました。

砥石城跡

さて、上田城は見えるのでしょうか?

砥石城跡からの眺め

清掃工場の煙突の手前の、木が茂っている辺りが上田城だと思います。

砥石城跡から見える上田城

最後になりますが、第一次上田合戦の激戦地だった神川周辺に行きましょう。近くには信濃国分寺があって、第二次合戦のときに、東軍の信之と西軍の昌幸が会見した場所だと言われています。

信濃国分寺
「真田徳川会見之地」の石碑

もう遅くなってきましたが、神川に着きました。砥石城の方から流れてきて、千曲川に合流しています。何気ない川に見えますが、当時はここが重要な防衛ラインでした。

神川

リンク、参考情報

上田市 上田城総合サイト
上田市立博物館
「真田氏時代の上田城考」コイワイド
長野県立歴史館/信濃史料
・「シリーズ・城郭研究の新展開5 信濃上田城/利根崎剛編」戒光祥出版
・「真田氏三代/笹本正治著」ミネルヴァ書房
・「歴史群像41号 戦国の堅城 上田城」学研
・「歴史群像136号 戦略分析 第一次上田合戦/三島正之著」学研
・「歴史群像137号 第一次上田合戦の歩き方」学研
・「歴史群像139号 戦国の城 第二次上田合戦/樋口隆晴著」学研
・「シリーズ藩物語 上田藩/青木蔵幸著」現代書館
・「日本を開国させた男、松平忠固/関良基著」作品社
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著、小林賢章訳」ちくま学芸文庫
・「信州上田軍紀/堀内泰訳」ほおずき書籍
・「史跡上田城跡保存活用計画(案)」上田市・上田市教育委員会
・「国史跡上田城跡石垣解体修復工事報告書」2009年3月 上田市・上田市教育委員会

「上田城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

27.上田城(Ueda Castle)

Location and History

上田城は、長野県上田市の最も有名なシンボルの一つです。この城は真田氏によって築城されました。城に向かう道すがら、真田の旗印である「六文銭」(三途の川の渡し賃の意味)がたくさん目に入ってきます。
The Ueda castle is one of the most famous symbols of Ueda city in Nagano prefecture. The castle was founded by the Sanada clan. You can see a lot of Sanada’s flag of “Rokumonsen” (six one-mon coins), which is the fee for crossing the Styx, which is beside the castle.

「六文銭」旗印と上田城(The flag of “Rokumonsen” and Ueda Castle)taken by 松波庄九郎 from photo AC

戦国時代後期の大名、真田昌幸が1583年に最初に上田城を築きました。彼は、真田一族の独立を意図し、後に幕府を開くことになる徳川氏に反抗しました。徳川は2回この真田の城を攻めたのですが、真田は負けませんでした。特に、1600年の天下分け目の合戦の中で行われた2回目の戦いがよく知られています。それ以来、真田とこの城が有名になったのです。徳川は激怒し、天下を取った後この城を完全に破壊させました。
Masayuki Sanada, a lord in the late Civil war period first built Ueda castle in 1583. He aimed to make his clan more independent against the Tokugawa clan which would become the Shogunate. Tokugawa attacked the Sanada castle twice, but they couldn’t be defeated. The second one was particularly a well-known battle among the fateful battles in 1600. That had made Sanada and this castle famous from then on. However, Tokugawa was so angry that they ordered to have the castle completely destroyed after the clan came to power.

真田昌幸像、個人蔵(The picture of Masayuki Sanada, privately owned)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

結果的として実は、真田の城がどんなだったかはわからないのです。江戸時代になって、仙石忠政が上田藩の藩主として移封されてきたとき、城の再建を許可されました。忠政は真田の城を再現しようとしたのですが、それを果たす前に亡くなってしまいました。今、私たちが目にしているのは、忠政によって残された土木建築の一部なのです。
As a result, in fact, the structure of Sanada’s castle is uncertain. In the Edo period, when Tadamasa Sengoku was transferred to the lord of the feudal domain of Ueda, he was allowed to rebuild the castle. He tried to recreate the Sanada castle, but he died before it had done. Now we can see part of the remaining buildings and constructions made by Sengoku.

仙石忠政像、上田市立博物館蔵(The picture of Tadamasa Sengoku, owned by Ueda City Museum)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

Features

現在、「本丸」とそこにある3棟の「櫓」の建物、そして「二の丸」が残っています。本丸は高く盛られていて、北・東・西の三方向を水堀と二の丸によって囲まれています。過去においては、その三方向の外側が更に川と湿地帯よって守られていました。
Now, the main enclosure “Honmaru” with the buildings of three turrets “Yagura” and the second enclosure “Ninomaru” remains. Honmaru is highly elevated and it is surrounded by a water moat and Ninomaru in north, east and west directions. In the past, the outside of the three directions were also protected by rivers and waterlogged areas.

最新の城周辺地図(The latest map around the castle)




本丸の南の方は、急崖による天然の要害になっていて、現在でも見ることができます。更には、「尼ヶ淵」という今は干上がっている沼沢があり、崖に沿って流れている千曲川につながっていました。それも障壁だったのです。
The south of it has natural hazard with a steep cliff which can be seen today. In addition, a pool called “Amagafuchi” which drys up now, connected to the Chikuma River that flows alongside the cliff. it was another hazard.

本丸の南面(The south side of Honmaru)

(’19-9-10 追記 added)
上田城に天守があったかどうかははっきりしません。「武家事記」という古書では初期の上田城のことを「天守も無き小城」と述べている一方、江戸時代の寛政年間の古地図には「御天守跡」との記載があります。よって歴史家の意見は分かれていました。しかし最近になって本丸の辺りから、天守で使われたような金箔瓦が出土したのです。現在、多くの歴史家は天守か、それに準ずる豪華な櫓があったのではないかと考えています。
It is uncertain whether Ueda Castle had the keep “Tenshu” or not. While an old book “Buke-Jiki” calls the early castle “A small castle even without the Tenshu”, another old map in the Kanei Eea, Edo peried records “The ruin of the Tenshu”. So historians’ opinion remained devided. But, recently an old roof tile with gold leaf that might have been used for Tenshu was excavated from the Honmaru area. Now, many historians think the castle had the Tenshu or a similar luxury turret “Yagura”.

「御天守跡」の記載がある古地図「上田城構之図」部分(The part of the old map called “Ueda-Jo-Kamae-no-Zu” recording “The ruin of the Tenshu”)、協力:上田市マルチメディア情報センター

Later Life

明治維新の後、2つの櫓が売られていき、遊郭の建物として使用されました。最悪の時には、たった一つの櫓(西櫓)を残すのみとなり、他は撤去されてしまいました。
After the Meiji restoration, two of those turrets were sold and used as Geisha houses. At the worst time, only one turret (the West Yagura) remained and the others were removed.

西櫓(The West Yagura)

第二次世界大戦後、市民たちは売られた2つの櫓を買い戻すことに成功し、元あった場所に据え付け直しました(北櫓と南櫓)。最近になって、東虎口櫓門と袖塀が忠実に復元され、北と南の櫓をつなぎました。この辺りの外観が、昔ながらの姿に正確に再現されたことで、絶好の写真スポットになっています。
After the World War II, citizens were successful to get the bought turrets back and placed them to their original positions (the North and South Yagura). Recently, the East entrance gate and side walls were rebuilt in the original way connecting the north and south Yagura. Their appearance has become an accurate representation of the past, and has become a good photo spot.

東虎口櫓門と南北櫓(The East Entrance between the North and South Yagura)taken by チャコ from photo AC

My Impression

先ほど申し上げました通り、真田の城そのものは現在見ることはできません。しかし、後に続いた城主仙石忠政は、英雄である真田にちなんで築城できないかどうかと考えたのではないでしょうか。だから真田の城の思想は、忠政の城に引き継がれていると思うのです。それが正しければ、今現在存在する城を見て、真田の城がどうあったかというのも理解できるはずです。
As mentioned above, we can’t see the structure of Sanada’s castle. But I imagine that the following lord Sengoku was wondering if he could build his castle after the brave Sanada. So I think the idea behind Sanada’s castle could led to the castle by Sengoku. If that was true, we can understand how Sanada created their castle by examining the castle now.

忠政が掘り起こした本丸の水堀(The water moat at Honmaru that Sengoku dug up once again)

この城は、高低差、自然の要害、人口の構築物をうまく使って、少ない兵で敵から守れるようコンパクトに作られたのだと言えます。
I can say the castle was made compact to prevent enemies with a small number of soldiers, using different elevations, natural hazard, and artificial structures.

本丸から二の丸を見下ろす(A view looking down Ninomaru from Honmaru)

南面の崖に行ってみて、崖の崩壊を防ぐため各時代に作られた様々な石垣を見てみるのもおすすめです。
I recommend you see the south side cliff where you can also find many kinds of stone walls to prevent the cliff from collapsing in different times.

南面の様々な石垣(The different kinds of stone walls on the south side)

How to get There

上田駅から歩いて15分くらいです。
東京から上田までは、直通の北陸新幹線があります。
It takes about 15 minutes on foot from the Ueda train station.
There is a direct train from Tokyo to Ueda via the Hokuriku Shinkansen super express.

Links and References

上田城・上田城跡公園~信州上田観光協会(Uedajo Castle~Ueda City Tourism Association)