4.弘前城 その1

津軽氏によって築かれ、維持された城

立地と歴史

津軽為信が独立して築城

弘前城は、現在の青森県弘前市にありました。この城は実際、弘前藩の創始者、津軽為信が築いて以来、弘前市の礎となってきました。彼はもともと大浦為信といい、戦国時代の16世紀に北東北地方の有力戦国大名であった南部氏の一族でした。ところが、彼は南部氏からの独立を目論んでいました。

津軽為信肖像画、弘前城史料館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下人の豊臣秀吉が天下統一を進めていたとき、為信は1590年に秀吉に会い、秀吉により独立した大名として認められることに成功しました。この機会に彼は苗字を津軽と改めたのです。その後、彼は徳川幕府に与することで津軽郡(現在の青森県西部地方)の彼の領地を維持しました。そしてついに、彼は1603年に新しい本拠地として、津軽平野に新しい城の建設を始めました。それが弘前城です。

城の位置

弘前城は、岩木川と土淵川という2本の川に挟まれた平野にある丘の上に築かれました。不幸なことに為信は建設が始まってすぐに亡くなってしまいますが、彼の息子、信牧(のぶひら)が1611年に完成させました。

津軽信牧肖像画、東京大学史料編纂所データベースより(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
今は市街地を流れる土淵川

近代的と伝統的な部分の組み合わせ

城の西側の背後には岩木川が流れており、いくつもの曲輪が水堀に隔てられ、南北そして東側に広がっていました。本丸は城の中心部であり、五層の天守や城主の御殿がありました。本丸は全て石垣で囲まれていて、城の中では最も近代的な部分でした。

弘前城本丸、津軽弘前城之絵図(出展:国立公文書館)
岩木川の支流に由来する西濠
本丸の石垣

二の丸は、本丸の南と東の外側にあり、重臣たちの屋敷がありました。二の丸は土塁により囲まれていましたが、東日本ではこのやり方の方が一般的でした。また、二の丸には防衛のために2つの門と3つの三階櫓がありました。三の丸は、城では最も外側にあり、且つ最も大きな曲輪でした。ここには藩士たちの住居があり、ここもまた土塁で囲まれ、2つの門がありました。門の一つは南側にあり、追手門でした。北の郭と四の丸は、本丸に続いており、城の北側を守っていました。

津軽弘前城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)
二の丸の土塁と堀
三の丸にある追手門

天守を復興し、明治維新を乗り切る

1627年、落雷と火薬の着火により天守で爆発が起こりました。それ以来200年近く城には天守がありませんでしたが、1811年に弘前藩は三階櫓を改修し、天守の代用とする許可を幕府から得ました。これが現在われわれが見ることができる現存天守です。明治維新の1868年、新政府と幕府を支持する東北諸藩の間で戊辰戦争が起こりました。多くの藩が新政府と戦い、そして敗れていきました。しかし、津軽藩は最初から新政府を支持していました。そのため、弘前城は無傷で残ったのです。

現存天守
弘前藩最後の藩主、津軽承昭(つぐあきら) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「弘前城その2」に続きます。

30.高遠城 その2

自然の要害による城は、桜の名所となりました。

特徴、見どころ

現在、高遠城跡は高遠城址公園となっていて、桜の名所としてとても有名です。このため、公園は多くの人たちで賑わいます。桜の季節には入園料が必要で営業時間も設定されています。対照的に、桜の季節以外は静かで、入園料はなく、いつでも開いています。これは繁忙期に入園者の数をコントロールするための措置で、公園の門は北と南に2つあるだけです。よって、いつ公園を訪れるか予め決めておく方がよいでしょう。

城周辺の地図

公園北口に向かうルート

公園北口はかつては二の丸の入口でした。もし町の方から来られるのでしたら、この入口から入るのが便利でしょう。城跡への坂道を登った後、恐らくは江戸時代に築かれた大手門石垣が見えてきます。現在の道は三の丸を通って、搦手門に至っています。

坂道を登って大手門跡へ
大手門石垣

道の左手には大手門の建物が見えます。この建物は一時移築され縮小されましたが、現在の場所に戻されています。

大手門建物

三の丸には今も藩校であった進徳館の建物が残っています。

進徳館

そして、中堀の向こうにある公園北入口に到着します。内側には1936年に建てられた観光客向けの休憩所「高遠閣」があります。

公園北口
高遠閣

公園南口を通るルート

城周辺の地図

南口はかつては外堀の外側にあった法幢院(ほうどういん)曲輪の入口でした。この曲輪はもともと寺でした。高遠町歴史博物館から来られるようでしたら、この入口から入るのが便利でしょう。博物館から城跡を見上げると城が自然の地形を利用して作られたことがよくわかると思います。山の崖はかつて敵にとっては自然の障壁でしたが、現在城跡への通路はよく整備されています。

博物館周辺から城跡を見上げます
公園南口

南口から入り、法幢院曲輪を通って外堀にかかる白兎(はくと)橋を渡って行きます。

法幢院曲輪
白兎橋
外堀

堀の内側にある南曲輪からまた土橋を通って二の丸の方に歩いて行きます。

南曲輪
二の丸に向かいます
二の丸

桜が見事であろう本丸

防御を重視した縄張りのため、本丸に行くには二の丸を通って行く必要があります。本丸は城の中心部であり、今も内堀に囲まれています。この堀は今なお深いですが、ほぼ乾いた状態であるため、堀の底に行ってみることもできます。

内堀の底

入口の前の内堀には桜雲橋がかけられていて、桜の季節にはこの辺りが一番の写真スポットと言われています。

桜雲橋

本丸入口には、問屋門という古い門がありますが、町の方から移築されたものです。

問屋門

本丸の中からは、この周辺地域の景色をよく見渡すことができます。

本丸
本丸からの景色

本丸には太鼓櫓がありますが、もともと搦手門脇にあり人々に時を知らせていました。1877年に現在地に移築され、更には1912年に立て直されたのです。

太鼓櫓

「高遠城その3」に続きます。
「高遠城その1」に戻ります。

30.高遠城 その1

「高遠城の戦い」の舞台

立地と歴史

伊那郡を支配する城

高遠城は信濃国(現在の長野県)にありました。この国はとても大きく、そのため度々郡の集合体と見なされました。伊那郡は信濃国南部にあり、山々に挟まれた南北に長く伸びる谷の地形を伴っていました。これにより、この郡はまた、伊那谷とも呼ばれました。この谷は、諏訪郡など信濃国の中心部と、南側の三河国など他の国とをつないでいました。伊那郡は交通や統治を行うにあたってとても重要だったのです。高遠城は谷の東側にある山の端に位置しており、この郡を支配するにはよい立地でした。

信濃国の範囲と伊那郡の位置(ハイライト部分)

城周辺の起伏地図

武田氏による改修

地元領主であった高遠氏が戦国時代の16世紀に最初に高遠城を拠点としていました。1545年に東方の甲斐国から武田氏が、信濃国に侵攻する過程でこの城を手に入れました。それ以来武田氏は、後に武田最後の領主となった武田勝頼など、親族をこの城の城主として送り込みました。その統治の間、城は改修されました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この城の基礎部分は土だけで作られていました。この城があった山の端部分は、南北と西方向を、三峰(みぶ)川と藤沢川により囲まれていました。山の東側は、搦手門を通して地続きになっていました。大手門は城の西側にあり、急坂に面していました。更に、この城は三重の堀により守られていました。本丸は内堀の内側に、二の丸は中堀の内側に、三の丸は外堀の内側にありました。

信州高遠城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

「高遠城の戦い」起こる

1582年、武田氏と織田氏との間で高遠城の戦いが起こりました。天下統一を進めていた織田信長が、息子の織田信忠に約5万の軍勢を預け、武田領に攻めこんだのです。一方、この城にいた勝頼の弟である仁科盛信方にはわずか3千の守備兵しかいませんでした。高遠城の約70km東の新府城にいた勝頼は、弟を助けようとしましたが、叶いませんでした。ほとんどの家臣が、武田氏滅亡の前に裏切るか逃亡してしまったからです。盛信は降伏せず、援護なしで織田と戦うしかありませんでした。信忠は自ら兵を率いて城の両方の門に突撃しましたが、女性子どもを含む守備方は、必死の反撃を試みました。しかしながら、多勢に無勢でついに城は一日で落ちてしまいました。この戦いは、織田の武田領への侵攻の間、唯一の抵抗とされています。

織田信忠肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
仁科盛信肖像画、伊那市立高遠町歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高遠藩により維持される

信長の突然の死の後、混乱状態が訪れます。武田の遺臣であった保科氏は高遠城を確保し、江戸時代には高遠藩の初代藩主となります。この城もまた藩庁となりました。藩時代の城は、武田時代の構造をそのまま引き継いでいましたが、近世の城としていくつか櫓や塀が築かれました。保科氏は、跡継ぎとして2代将軍の息子、正之を受け入れます。彼はまた徳川幕府の重臣にもなり、政治の安定に貢献します。ついには、会津藩の若松城城主として栄転することになりました。高遠城と高遠藩はその後、鳥居氏、そして最終的には内藤氏に引き継がれます。内藤氏は1691年から1871年までの長い間、この地を治めました。

保科正之肖像画、狩野探幽筆、土津神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「高遠城その2」に続きます。