190.八代城 その2

石灰岩でできた珍しい白色の石垣と、緑色の堀水とのコントラストを楽しめます。

特徴、見どころ

白と緑のコントラスト

現在、八代城跡は主に本丸にある八代神社として残っています。本丸には城の建物は存在していませんが、石垣や内堀がよい状態で残っています。この城はもともと海の近くに建てられたのですが、干拓が行われたため今では周辺に海は全く見えなくなっています。

城周辺の航空写真

八代宮

市街地の方から城跡の方に近づいていくと、他の城や城跡とは異なる雰囲気があることに気がつかれるでしょう。八代城の石垣は、主に石灰岩を使って築かれているので、部分的に白い色をしているのです。日本の城では珍しい例です。もっとも築城から時を経て退色し、他の石と同じようになってしまっているので、きっと新築時点ではもっと白かったに違いありません。内堀の水は球磨川から引かれていますが、川の中に藻が繁茂しているため緑色に見えます。白と緑のコントラストは独特で且つ美しいです。

城跡に近づいていきます
石垣に石灰岩(白い石)を使っています
内堀の水は球磨川から引いています

本丸の張り出し桝形

本丸には入口が3つありますが、その内の2つが城があった時代からのもので、もう一つは神社が設立されてときに追加されました。正面(大手口)は東側で、裏門(搦手口)は北側となります。正面入口から入ろうとする場合、欄干橋を渡っていきます。この橋の擬宝珠の一つは当初からのもので、城が完成したときの年月(元和八年二月)が記されています。

正面入口にある欄干橋
完成年月が記された擬宝珠、八代市ホームページより引用

張り出している桝形の形も明瞭に残っていて、素晴らしい石垣に囲まれています。桝形の左側には磨(みがき)櫓の石垣台があり、背後と右側には食い違いの石垣が立っています。よって本丸に入るには真っすぐ入った後、右に曲がっていく必要があります。とても防御に優れた仕組みになっています。

磨櫓石垣台から見た欄干橋、桝形の先端が橋の方に張り出しています
正面入口の桝形
本丸内部への食い違い石垣による通路

裏門の方も似たようなデザインになっています。

裏門(搦手口)

際立っている天守台石垣

八代城跡のハイライトは、本丸北西隅にある天守台石垣でしょう。この天守台は2段造りで、それぞれ大天守用と小天守用となっています。両天守は、1672年の落雷により焼け落ちてしまいました。その後、小天守のみが再建されました。現在では天守台のみが残っています。内堀の外側から眺めてみると、なかなか壮観です。大天守の天守台は本丸の裏門をその右側から守る役目も担っていて、敵が簡単に攻め入れないようになっていました。

左側が大天守台、右側が小天守台
本丸北西隅にある大天守台
左側の裏門の防衛にも一役買っています

2022年12月時点の情報となりますが、天守台の一部が崩れていて、残念ながら本丸の内側から天守台に登ってみることはできません。その代わりに、他の石垣の上に登って、そこで座ってゆっくりくつろぐことができます。そこから城の周りの様子もわかるので、城がどのように守られたのか理解できるでしょう。

本丸内側から大天守台を見上げる
2022年12月時点で天守台には登れませんでした
他の石垣の上には登ってみることができます

「八代城その3」に続きます。
「八代城その1」に戻ります。

190.八代城 その1

3つの八代城がありました。

立地と歴史

奪い合いの対象となった初代八代城

八代市は、九州地方の西部にあって、農業と工業が盛んなことで知られています。これらの産業は江戸時代以来、耕地及び工場の敷地を拡大させることで発展してきました。八代の人たちは八代海を干拓し、八代平野の面積を3倍にしたのです。干拓を行う前、八代は水陸交通の結節点として栄えていました。八代城は元来、海の近くにあり交通をコントロールできる位置にあったのです。

八代市の範囲と城の位置

実は、歴史的には八代城は3つあったのです。それらの元々の名前はそれぞれ、古麓(ふるふもと)、麦島(むぎしま)、松江(まつえ)といいました。これらの城は同時には存在しておらず、それぞれの時代で地域を代表する城を「八代城」と呼んだのです。その3つの城の歴史を調べてみると、八代市の多くを学んだということになるでしょう。最初の八代城である古麓城は、14世紀から16世紀に丘の上に築かれた典型的な山城でした。地方領主の名和氏が居城としていましたが、内陸の人吉城にいた相良氏が八代城の立地の良さに目を付け、侵攻しようとしました。相良氏は何度も八代城を攻め、ついには1504年に占領しました。しかし天下統一事業が進んだ16世紀後半には、八代城は島津氏、そして豊臣秀吉の手に渡りました。

城周辺の起伏地図

古麓城跡、八代市ホームページより引用

水上交通の要となった2番目の八代城

秀吉は配下の小西行長を、南肥後の国主として送り込みました(肥後はほぼ現在の熊本県に相当します)。行長は古麓城を廃城とし、代わりに麦島城を築きます。これが2番目の八代城となります。この城は球磨川の河口に築かれ、八代海に面しており、水上交通の要衝となりました。この場所に城が築かれた理由の一つは、秀吉がかねてから計画していた朝鮮侵攻の準備のためでもありました。行長は実際、1592年に侵攻が行われたとき、その先鋒を務めたのです。その立地に加え、この城は総石垣造りで築かれました。それが私たちが現在目にする、最後の八代城の雛形になったと言われています。1600年の関ヶ原の戦いで行長は敗軍の将となり、肥後国は加藤氏に引き継がれます。加藤氏の本拠地は熊本城でしたので、麦島城は支城として、その重臣の加藤正方(まさかた)が入りました。

麦島城跡の発掘現場  (licensed by Emeraldgreen at Japanese Wikipedia via Wikimedia Commons)
加藤正方肖像画、浄信寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年、徳川幕府は一国一城令を発しました。肥後国にあった支城群は破壊されましたが、麦島城はなぜか例外とされました。その理由はこれまでいろいろと議論されていますが、結論は定まっていません。一説には、加藤家の当主、加藤忠広がまだ幼少だったので、幕府はその後見として麦島城にいる重臣の正方が支えるべきと考えたからとされています。その後1619年に麦島城は地震により倒壊してしまいます。ところがまたも例外として別の場所での城の再建が認められたのです。または公式には、別の場所に城を移しただけだとも言われます。いずれにせよ、正方は実際には近くに新しい城を築いたわけで、松江城と呼ばれ、現在では(3代目の)八代城ということになっています。

加藤忠広肖像画、本妙寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
肥後国八代城廻絵図(部分)、出典:国立公文書館、この城も河口・海の近くにありました

例外として築かれ生き延びた3代目八代城

この新しい城は部分的に麦島城の設計を、またその一部の部材をも使って築城されました。例えば、4層の天守が本丸の角部分に築かれましたが、これは豊臣時代の古いスタイルでした。一方で、この城は「桝形」とよばれる先進的な防御システムも使われていました。桝形とは、城の入口において石垣によって囲まれた四角い空間のことを指します。この城の桝形は、本丸の外郭のラインから少しはみ出して作られていて、敵の側面を攻撃できるようになっていました。この形態は、桝形の最終形とも言われています。城は1622年に完成しました。

八代城主要部の模型写真、現地説明板より
隅に配置された天守、現地説明板より
はみ出している八代城の桝形

加藤氏は1632年に残念ながら幕府によって改易になってしまいますが、その後の肥後国は細川氏が治めました。細川氏も本拠地を熊本城とし、八代城は当主の父親である細川三斎(さんさい)の隠居所として使われました。彼は、戦国時代の生き残りであり、かなり気ままな性格だったようです。それが、幕府が八代城を廃城とすることを強制できなかった理由の一つのようです。三斎は亡くなる前、八代城をもって独立した藩にしようと考えたほどでした。結果的に八代城は江戸時代を通して存続しました。最終的には細川氏の熊本藩の重臣、松井氏が城主となっていました。

細川三斎(忠興)肖像画、永青文庫蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
熊本城
八代城跡

「八代城その2」に続きます。