30.高遠城 その1

「高遠城の戦い」の舞台

立地と歴史

伊那郡を支配する城

高遠城は信濃国(現在の長野県)にありました。この国はとても大きく、そのため度々郡の集合体と見なされました。伊那郡は信濃国南部にあり、山々に挟まれた南北に長く伸びる谷の地形を伴っていました。これにより、この郡はまた、伊那谷とも呼ばれました。この谷は、諏訪郡など信濃国の中心部と、南側の三河国など他の国とをつないでいました。伊那郡は交通や統治を行うにあたってとても重要だったのです。高遠城は谷の東側にある山の端に位置しており、この郡を支配するにはよい立地でした。

信濃国の範囲と伊那郡の位置(ハイライト部分)

城周辺の起伏地図

武田氏による改修

地元領主であった高遠氏が戦国時代の16世紀に最初に高遠城を拠点としていました。1545年に東方の甲斐国から武田氏が、信濃国に侵攻する過程でこの城を手に入れました。それ以来武田氏は、後に武田最後の領主となった武田勝頼など、親族をこの城の城主として送り込みました。その統治の間、城は改修されました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この城の基礎部分は土だけで作られていました。この城があった山の端部分は、南北と西方向を、三峰(みぶ)川と藤沢川により囲まれていました。山の東側は、搦手門を通して地続きになっていました。大手門は城の西側にあり、急坂に面していました。更に、この城は三重の堀により守られていました。本丸は内堀の内側に、二の丸は中堀の内側に、三の丸は外堀の内側にありました。

信州高遠城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

「高遠城の戦い」起こる

1582年、武田氏と織田氏との間で高遠城の戦いが起こりました。天下統一を進めていた織田信長が、息子の織田信忠に約5万の軍勢を預け、武田領に攻めこんだのです。一方、この城にいた勝頼の弟である仁科盛信方にはわずか3千の守備兵しかいませんでした。高遠城の約70km東の新府城にいた勝頼は、弟を助けようとしましたが、叶いませんでした。ほとんどの家臣が、武田氏滅亡の前に裏切るか逃亡してしまったからです。盛信は降伏せず、援護なしで織田と戦うしかありませんでした。信忠は自ら兵を率いて城の両方の門に突撃しましたが、女性子どもを含む守備方は、必死の反撃を試みました。しかしながら、多勢に無勢でついに城は一日で落ちてしまいました。この戦いは、織田の武田領への侵攻の間、唯一の抵抗とされています。

織田信忠肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
仁科盛信肖像画、伊那市立高遠町歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高遠藩により維持される

信長の突然の死の後、混乱状態が訪れます。武田の遺臣であった保科氏は高遠城を確保し、江戸時代には高遠藩の初代藩主となります。この城もまた藩庁となりました。藩時代の城は、武田時代の構造をそのまま引き継いでいましたが、近世の城としていくつか櫓や塀が築かれました。保科氏は、跡継ぎとして2代将軍の息子、正之を受け入れます。彼はまた徳川幕府の重臣にもなり、政治の安定に貢献します。ついには、会津藩の若松城城主として栄転することになりました。高遠城と高遠藩はその後、鳥居氏、そして最終的には内藤氏に引き継がれます。内藤氏は1691年から1871年までの長い間、この地を治めました。

保科正之肖像画、狩野探幽筆、土津神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「高遠城その2」に続きます。