137.福井城 その3

この城跡は、今も福井県の中心地であり続けています。

特徴、見どころ

初期の北ノ庄城跡

福井城から約300m南の方にある、柴田勝家が築いた北ノ庄城跡も訪れてみることをお勧めします。その城に関しては石垣の基礎部分(根石)しか見ることはできません。福井城がその北ノ庄城跡地の上に築かれたからです。

越前北ノ庄城址
こちらは福井城の石垣
初期北ノ庄城石垣の根石

しかし、他にも勝家、彼の妻(お市の方)、三人の娘(茶々、初、江)の銅像を見ることができます。この女性たちは日本の歴史で大変よく知られているのです。三姉妹の一人(茶々、後の淀殿)は天下人、豊臣秀吉の側室となりました。もう一人(江)は、福井城の創始者の結城秀康の弟、徳川秀忠の正妻となりました。

柴田勝家の銅像
勝家の妻(お市の方)の銅像
三姉妹(左から茶々、江、初)の銅像

その後

明治維新後、福井城は廃城となりました。城の全ての建物は撤去され、城の中心部を除く区域は市街地となっていきました。1873年、元城主であった松平氏は城の中心部に松平試農場を開設し、1921年に他に移動するまでそこに存在していました。1923年には、代わりに福井県庁が本丸に移ってきました。それ以来、城跡はかつて福井城がそうだったように、地方政府の中枢となっているのです。

松平試農城、福井県文書館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本丸にある県庁(右側)と県警本部(左側)の建物

私の感想

本丸は通常城の中心でした。そして江戸時代にはその周辺地を支配するために、そこには福井城のようにだいたい天守及び(または)御殿がありました。現存している本丸の多くは現在、歴史公園、神社、博物館のような施設のために使われています。ところが福井城の本丸は、今でも地方政府(県)によって使われているのです。私が思うに、本丸が県庁として使われている唯一の事例です。ある人は、このことを「日本で最強の県庁」と言ったりしています。

福岡城本丸(歴史公園となっている例)
高岡城本丸(神社となっている例)
大坂城本丸天守(博物館となっている例)
最強に見える福井県県庁

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の福井ICから約15分かかります。
城跡周辺にいくつか駐車場があります。
平日には県庁の地下駐車場を使うこともできます。
(県庁受付で駐車券にスタンプを押してもらうことが必要です。)
公共交通機関を使う場合は、JR福井駅から歩いて10分以内で着きます。
東京から福井駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線の特急に乗り換えてください。
大阪からは:特急サンダーバード号に乗ってください。

福井駅

リンク、参考情報

福井城址、福井県公式観光サイト
・「結城秀康/志木沢郁著」学研M文庫
・「よみがえる日本の城8」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「福井城その1」に戻ります。
「福井城その2」に戻ります。

137.福井城 その1

越前国の中心地

立地と歴史

北ノ庄城としてスタート

福井城は、福井県の県庁所在地である現在の福井市にありました。この都市の名前は、この城に由来しているのです。しかし、この城はもとは北ノ庄城と名付けられていました(北ノ庄とは、北にある荘園といった意味でしょうか)。有力な戦国大名、織田信長の部将であった柴田勝家が1575年に最初にこの城を築きました。現在の福井県の一部にあたる越前国を征服したときでした。

城の位置

柴田勝家像(現地説明板より)

後に天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉が1583年にこの城を攻撃したとき、彼は書状にこの城には九層の天守があると記しました。しかし、本当に九層の天守だったかどうかは全く分かりません。当時の日本語では、九層という言葉は単に「多層である」ことを意味していたからです。勝家は不幸にも秀吉により倒されてしまい、北ノ庄城は燃やされ、破壊されてしまいました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初期北ノ庄城の想像図(現地説明板より)

結城秀康が大藩の藩主として再建

1601年、最終的に天下人となった徳川家康の息子、結城秀康が北ノ庄藩の創始者として北ノ庄城を再建しました。秀康は、家康の後継者となった徳川秀忠の兄でした。ところが、彼は秀吉の元に(実質的には人質として)送られ、後には結城氏の跡継ぎ養子となりました。この理由は、彼が父親である家康から愛されていなかったからとも言われています。それでも秀康は、その父親が徳川幕府の創始者となる契機となった、1600年に起こった関ヶ原の戦いで大いに貢献したのです。家康はついに秀康を受け入れ、幕府における重要な役割を任せたのです。秀康は、幕府そのものを除いて、日本で2番目に大きな領地を治めることとなり、その石高は75万石に及びました。彼はまた、将軍の親戚であることを表す「松平」という姓を使うことも許されました。越前国は幕府にとってとても重要な地点であり、日本の首都である京都に近く、最大の領地を持つ前田氏に隣接していました。

福井城跡にある結城秀康の彫像
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀康の父親、家康が北ノ庄城の一部の縄張りを行ったと言われています。本丸は城の中心部であり4層の天守と御殿があり、石垣と内堀に囲まれていました。二の丸、三の丸、外郭がその中心から同心円状に築かれました。これらの曲輪群は水堀によって隔てられていました。その結果、この城は4重場所によっては5重の水堀に囲まれることになったのです。この城には10基の櫓、40基の門が備わっていました。城の大きさは、約2km四方に達しました。

福井城本丸の想像図(現地説明板より)
現代の地図上に示した江戸時代の城の範囲(現地説明板より)

繁栄した越前松平氏

1604年に秀康が亡くなった後の1606年に城は完成しました。結城氏から改めた松平氏は、城と藩を江戸時代の終わりまで統治しました。その間、城と藩の名前は、第3代藩主の忠昌(ただまさ)によって「北ノ庄」から「福井」に改められました。天守は不幸にも1669年の火災により焼け落ちてしまいましたが、再建はされませんでした。第14代藩主の松平春嶽は、幕末と明治維新の頃、中央政府で活躍しました(幕府の政事総裁職、新政府の議定などを歴任)。

松平忠昌肖像画、福井市立郷土歴史博物館による展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平春嶽写真、福井市立郷土歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、秀康の子孫は大いに繁栄しました。秀康の息子たちから始まる分家の当主は江戸時代末までに、津山城松江城、前橋城、明石城の城主となりました。これらの分家は、福井城の城主を含めて、しばしば越前松平氏と呼ばれています。秀康の努力は、十分報われたと言えるのではないでしょうか。

津山城
松江城
明石城

「福井城その2」に続きます。