88.吉野ヶ里遺跡 その2

まるでテーマパークのような遺跡です。

特徴、見どころ

歴史公園となった遺跡

現在、吉野ヶ里遺跡は吉野ヶ里歴史公園として、よく整備されています。この遺跡はまた、日本の弥生時代の遺跡として最も大きなものの一つであり、その面積は100ヘクタールを超えます。この公園には東西南北全ての方角に観光客用の入口があります。一番大きな入口である東口の前に立ってみると、公園はまるでテーマパークのように見えます。実際、公園の中では多くのイベントが開催されていて、家族連れや団体を含むビジターを惹きつけています。また、吉野ヶ里集落の多くの建物や構造物が、発掘作業が行われた後復元されています。発掘された遺物の現物は、埋め戻されるか別の場所で保管されています。

吉野ヶ里歴史公園の東口

城周辺の航空写真

環濠入口広場

東口から入り、公園の中心の方に歩いて行くと、最初に環濠入口広場に着きます。神社の鳥居のような姿をした木の門の周辺には、環濠が復元されています。この濠は、U字形に掘られ(もとはV字形でした)その前には柵が立てられた土塁があり、背後には逆茂木があります。ここは、かつては実際に集落の入口だったのです。

環濠入口広場
復元された環濠と周りの土塁・柵・逆茂木
展示室にある環濠の剥ぎ取り土層

人々が暮らしていた南内郭

次に進んでいくと、人々が暮らしていた南内郭に着きます。ここにも、櫓門、見張り台、煮炊き屋、集会所、そして住居が再現されており、柵と濠に囲まれています。門や見張り台の足場に登ってみると、周りの景色を見たり、どのようにこの郭が守られているのか理解できます。

南内郭
南内郭の櫓門
南内郭の内部

南内郭の傍らには、展示室があり、掘り出された遺物や集落の歴史を展示しています。埋葬に使われた多くの甕棺は必見です。二つの甕が1セットになって墓の中で使われていて、両方の口縁を付け合せることで、亡骸を収めました。ここではこれまでに約3千の墓が発見されていて、総数は約1万5千くらいと推定されています。この埋葬方法は、弥生時代の集落の一つの特徴でした。

展示されている甕棺
発掘された墓の中の甕棺

集落の中心部、北内郭

この遺跡の一番の見どころは、集落の中枢部であった北内郭でしょう。この郭は、原初的な城のようにも見え、二重の濠や隙間のない柵に囲まれています。また、門は互い違いになっています。もちろんこれらは全て、元そうだったであろう姿に復元されています。ここには、祭殿、高床住居、見張り台などが内部に再現されています。一目でここが集落の中で特別な場所だったとわかるでしょう。

北内郭
北内郭を囲む濠と柵
北内郭の門
復元された高床住居

主祭殿は高柱の上が二階建てとなっている構造です。一階部分は、集落のリーダーだちの集会所であったとされています。二階部分は、祈祷を行っていた場所のようです。両方の階には、フィギアが置かれていて、ビジターがそれらの部屋がどのように使われていたのかわかるようになっています。祈祷をおこなっているフィギアは恐らく、卑弥呼の印象を基に作られたものなのでしょう。

主祭殿
主祭殿の一階部分
主祭殿の二階部分

「吉野ヶ里遺跡その3」に続きます。
「吉野ヶ里遺跡その1」に戻ります。

88.吉野ヶ里遺跡 その1

弥生時代に存在した初期のクニの一つ

立地と歴史

城の要素を持った遺跡

吉野ケ里遺跡は、九州地方の大規模な環濠集落でした。この集落は、弥生時代のおおよそ紀元前4世紀から紀元3世紀までの間繁栄しました。通常吉野ヶ里遺跡は「城」とは呼ばれませんが、後の日本の城に見られる特徴を既にいくつか持っていました。そのため、日本城郭協会はこの遺跡を日本100名城の一つとして指定しています。

遺跡の位置

気候変動と弥生時代の始まり

約3千年前まで続いた縄文時代の間、日本は現代よりも温暖な気候と、豊富な食料に恵まれていました。当時の人々は、同じところに長期間集住し、基本的には狩猟と採集により生活することができました。ところが、縄文時代の後半になると寒冷化が始まり、人々が生活の資を得ることが難しくなってきました。人々は十分な食料を求めて移動を繰り返さざるを得なくなり、一方海岸線はもと沖だった場所に広がりました。これらの変化が、新しく現れた沖積平野において人々が農業を始めるきっかけとなったと言われています。

縄文時代の代表的な遺跡、青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡

この状況は海外でも同様であり、この気候変動は特に、春秋戦国時代を含む中国の歴史の中で大きな影響を与えたと言われています。この時代に中国の社会構造や技術が大きく進化したのです。これらの新技術のうちいくつかは紀元前10世紀から紀元前5世紀の間の時期に、朝鮮半島を経由して九州地方に伝わりました。その中に、3つの特徴的な事物(稲作、武器の使用、環濠)がありました。多くの歴史家は、これらの伝来をもって弥生時代の始まりとしています。

復元された弥生時代の水田と竪穴住居、静岡県登呂遺跡 (licensed by Halowand via Wikimedia Commons)
発掘された銅剣、東京国立博物館に展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉野ヶ里遺跡で復元された環濠

これら3つの事物はお互いに関連していました。農業には社会化が必要であり、人々を一ヶ所の集落に定住させます。その人たちが農地をもっと広げたいと思った場合、その領域が他の集落の領域とぶつかり合うことが考えられます。このことはまた、軋轢や戦いを起こすことにもなり、武器の使用につながります。そうすると、他者の攻撃から身を守ることも、自分たちの財産が奪われたり盗まれたりすることを防ぐことも必要になってきます。その結果、彼らの集落は柵を伴う円形の堀により囲まれることになりました。歴史家は、これを環濠集落と呼んでおり、弥生時代の典型的な特徴の一つとしています。

吉野ヶ里遺跡で復元された環濠集落

初期のクニが出現

社会化と戦いを切り抜けることは、強いリーダーシップを必要とします。時が過ぎるにつれて、何人かの優れたリーダーが現れ、彼らの集落と領地はどんどん大きくなっていきました。彼らのことを、最初の王と呼んでよいのかもしれず、彼らの領地も最初のクニとしてもよいのでしょう。紀元1世紀頃の北九州地方には、奴国(なこく)のようないくつかの大きなクニがあり、中国に使節を派遣していました。吉野ケ里はこの地方の大きなクニの一つだったのです。

漢王朝が奴国王に下賜したとされる金印 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中国の歴史書、魏志倭人伝に書かれた3世紀ごろの日本の歴史についての記述によると、女王によって統治された邪馬台国という国がありました。その国は、多くの分立していた国が互いに戦い争った後、講和し団結することにより設立されました。卑弥呼と呼ばれた女王は、シャーマンのように祈祷することにより物事を決断し、その統合された国を治めました。彼女は都にある宮殿に住み、そこには楼観や城柵があり、兵士によって守られていました。

「魏志倭人伝」の原文の一部 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大規模な環濠集落

その一方で、吉野ヶ里集落も同じ3世紀に最盛期を迎え、その人口は推定で約5千人に達しました。集落を囲む環濠は二重に築かれ、その外周は2.5kmに及びました。実は、吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国のような宮殿・楼観・城柵の跡がセットになって見つかった日本で唯一の場所なのです。しかしながら、邪馬台国がどこにあったのかは全く不確かです。余りにもその候補地が多いからです。現在確かに言えることは、吉野ヶ里遺跡を見ると、弥生時代のクニがどのようなものであったかよくわかるということです。

吉野ヶ里遺跡で復元された宮殿(そこでは主祭殿と呼んでいます)と城柵
吉野ヶ里遺跡で復元された楼観(櫓)

「吉野ヶ里遺跡その2」に続きます。