138.越前大野城 その3

天空の城を見ることはできるでしょうか。

その後

明治維新後、越前大野城の全ての建物は撤去されました。城があった山は亀山公園となりました。第二次世界大戦後、天守を含む城の建物がいくつか再建されました。

亀山公園にある復興天守と石垣

現在この城を所有している大野市はこの城を、竹田城のように、「天空の城」として宣伝しています。天空の城とは、山の下の方に雲が広がったとき、山の上にある城が雲に浮かんでいるようにみえることを言います。越前大野城に来ているときにその現象が起これば、城全体を見渡すことができる戌山に行けば、そこから天空の城の写真を撮ることができます。大野市の情報では、天空の城は10月と11月に一番よく現れるとのことです。しかし、これまでの実績によると、天空の城を見ることができるのは、1年に約10日間しかありません。

越前大野城で見ることができる「天空の城」  (licensed by Keisuke MAEDA via Wikimedia Commons)
竹田城で見ることができる「天空の城」 (licensed by abok via Wikimedia Commons)

私の感想

私は、11月のある日、天空の城を見るために越前大野城を訪れました。この月は、天空の城の現象が起こっているかどうか確認できるように、城は早朝から開いていました。

早朝の南登り口の入口

天守の建物の最上階から見てみましたが、城周辺の空は晴れ渡っていました。天空の城を観察できるという戌山の方がむしろ雲がかかっていました。一泊だけの滞在ではとても不十分とそのとき思いました。天空の城が現れるための気象条件が揃ったとしても、いつもそれを見れるとは限りません。何日も逗留しないといけないかもしれません。

城の周りは晴れ渡っていました
戌山にかかる雲

但し、もしこの町に一泊だけしかできないとしても、ライトアップされた美しい越前大野城の写真を撮ることはできます。

ライトアップされた越前大野城

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の福井ICから約30分かかります。
城に向かう南登り口の入口近くに駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR越前大野駅から歩いて約40分かかります。
東京から越前大野駅まで:北陸新幹線に乗り、金沢駅で北陸線の特急に乗り換え、福井駅でまた九頭竜線に乗り換えてください。
大阪から:特急サンダーバード号に乗り、福井駅で九頭竜線に乗り換えて下さい。

リンク、参考情報

天空の城 越前大野城
・「歴史群像165号、戦国の城 越前大野城」学研
・「よみがえる日本の城8」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「越前大野城その1」に戻ります。
「越前大野城その2」に戻ります。

138.越前大野城 その1

金森長近が独特の天守と城下町を作りました。

立地と歴史

織田信長の家臣、金森長近が築城

越前大野城は、現在の福井県にあたる越前国の東部にある大野盆地にありました。1573年に織田信長によって滅ぼされるまでは、朝倉氏がこの国を支配していました。その後、一向宗が一旦この国を(信長に降伏した朝倉氏の重臣から)奪ったのですが、信長は再び一向宗を1575年に倒したのです。信長は大野盆地周辺の地域を、家臣でありそれまでの戦いに功績のあった金森長近に与えました。この地域は、越前国西部の海岸地帯と、内陸の飛騨国をつないでいて、戦国大名にとっては、越前国を治めるのに重要な地域だっだのです。

城の位置

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
金森長近肖像画、龍源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長近は最初は、もともと朝倉氏が使っていた、盆地の傍らにあった山城、戌山(いぬやま)城に住んでいました。しかし、長近は1576年に、盆地の中に新しく城と城下町を建設することを決めました。地域の支配を安定化させるためです。彼はその建設に先進的な方法を用いました。そのやり方は、彼の主君の織田信長によって作られた、それまで本拠地であった小牧山城岐阜城でのやり方に似ていたようです。例えば、その新しく築かれた越前大野城には、盆地にあった亀山という丘の上に、石垣と天守が築かれました。

小牧山城跡
現在の岐阜城
現在の越前大野城

独特な天守、先進的な城下町

天守は通常、城の中心にある、高層の塔のことを指します。ところが、越前大野城の天守は、そのような高層の塔の姿をしていませんでした。その代わりに、その天守は3つの館を組み合わせたような形をしていました。これは、越前大野城の建設が、信長の最後の本拠地となる安土城の1579年の完成より前に始まったからなのです。安土城には、日本で初めて高層の塔としての天守が作られたのです(当初は「天主」と表記されていました)。それ以前には、天守とは単に城の中心にある建物を意味していました。越前大野城は1580年に完成し、その天守の建物は長い間残っていました。ところが、その天守は残念ながら1795年の火災により焼けてしまい、再建されませんでした。もし今に残っていたとしたら、極めて独特な日本の歴史遺産となっていたことでしょう。

越前大野城の天守絵図(大野市の展示会パンフレットより引用)
安土城天主のミニチュアモデル(安土城郭資料館)

長近は、城下町も先進的な方法で建設しました。その城下町は、整然と区画され、武士・商人・職人が住む所や寺地に分けられました。このような町の作り方は、通常は次世紀に見られるものです。彼の主君である織田信長は、小牧山の城下町を一から建設しました。長近は、主君のやり方を見習ったのかもしれません。しかし、小牧山城の城下町は信長によって廃止されてしまいます。町の人々は、信長とともに次の本拠地である岐阜城に移住させられたのです。対照的に、越前大野城の城下町は大野市の市街地として現在まで残っています。長近はまた、1586年に飛騨国に移されてから、高山城とその城下町を建設しました。その伝統的な街並みは現在、世界的な観光地となっています。

小牧山城跡にある城下町の町割り模型
今に残る越前大野城の城下町
高山の街並み  (licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

土井氏が二の丸御殿から統治

長近の後は、城主は何回も変わりました。1692年以降は、土井氏が城とその地域を大野藩として江戸時代を通じて統治しました。平和な時代になると、城主は山麓にある二の丸の御殿に住んでいました。二の丸は、百閒堀と呼ばれる長大な水堀に囲まれていました。城主は、場所的に不便である天守を含む山上の施設を滅多に使いませんでした。統治を行うにも効率的ではなかったからでしょう。それが、火災の後天守を再建しなかった理由かもしれません。

二の丸御殿の内観模型(越前大野城天守内で展示)
越前大野城の絵図(越前大野城天守内で展示)

「越前大野城その2」に続きます。