39.岐阜城 その1

織田信長の天下布武の城

立地と歴史

金華山と長良川に守られた城

名古屋市から岐阜県の県都である岐阜市に向かって濃尾平野を進んでいくと、最初の高い山である金華山とその頂上に天守が見えてきます。これが岐阜城です。このような目立った場所に城を築くことは武士にとって当然だったかもしれません。また、長良川が城の北と西側を流れていて、自然の地形を成すとともに、城の防衛のためにも役立っていました。

城の位置

金華山 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

織田信長が天下布武を宣言

13世紀に二階堂氏が最初にこの城を築いたと言われていますが、詳細は不明です。16世紀中頃になって斎藤氏が城を改築し、その頃までに稲葉山城と呼ばれるようになりました。1567年、織田信長が斎藤氏からこの城を奪い、本拠地を小牧山城からこの城に移しました。同時に彼は城の名前を岐阜城と変えました。この名前は、中国古代王朝の周の出身地にちなんでいます。彼はまた、文書に「天下布武」の印章を使い始めました。これは、信長が日本を統一する意思を宣言したものとみなされています。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天下布武の印 (licensed by 百楽兎 via Wikimedia Commons)

ところが、発掘を行っても、山頂がどのようであったのか、また天守があったのかどうか全くはっきりしないのです。いくらか門や石垣が築かれたのは確かですが、山の自然の地形はそれ程改変されませんでした。歴史家は、その理由としてこの山はもともと、それ自身の岩場が聖地として崇拝の対象であったからと推測しています。実際、斎藤氏が城を改変する前は、伊奈波神社が山の上にあったのです。信長は、山の頂上に家族、近親者とともに住み、通常は他人には山に登らせなかったといいます。

金華山山頂のミニチュアモデル(岐阜城天守閣)

注目される信長の居館

一方で、欅谷と呼ばれた山の西麓には、豪華な宮殿のような信長の居館が築かれました。この公居館は、階段状の地形を覆った4階建てで、金箔の瓦が載っていました。その基礎は石垣で作られ、特にその入り口は巨石により飾られていました。このような城の作り方はその後、次に来る安土城につながったと言われています。

信長の公居館の想像図(岐阜城天守閣)

信長の死後、彼の一族がこの城を治め続けました。1600年、信長の孫である織田秀信が城主だったとき、関ヶ原の戦いが起こりました。秀信は、石田三成率いる西軍に味方しましたが、徳川幕府方の東軍が岐阜城を攻撃しました。秀信は敗れ、信長が築いた建物はこのとき焼けてしまったと言われます。

織田秀信肖像画、来迎寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「岐阜城その2」に続きます。