21.江戸城 その3

今、皇居東御苑の入口の一つ、江戸城大手門前にいます。随分たくさんの人たちが集まっています。東御苑の開門を待っている人たちなのです。江戸時代には、登城した主君の帰りを待つ家臣たちが集まっていたそうですから、今でもほうふつとさせます。私たちはこれから登城ということになります。

特徴、見どころ(江戸城登城・本丸ツアー)

Introduction

今、皇居東御苑の入口の一つ、江戸城大手門前にいます。随分たくさんの人たちが集まっています。東御苑の開門を待っている人たちなのです。江戸時代には、登城した主君の帰りを待つ家臣たちが集まっていたそうですから、今でもほうふつとさせます。私たちはこれから登城ということになります。大手門から三の丸、大手三の門跡から二の丸、そして中の門跡を経て、本丸の正門・中雀門跡と進みます。続いて、本丸の御殿跡を歩いてみましょう。富士見三重櫓、天守台、天守の模型など目に見えるものもありますが、御殿の建物は想像力で感じましょう。本丸のクライマックスは、なんといっても天守台です。本丸から出たら、外側から本丸の石垣を眺めたり、二の丸の庭園を歩きましょう。三の丸のもう一つの門、平川門を出たところをゴールとしまします。

大手門前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

大名気分で登城

開門しましたので、行きましょう。手荷物検査が終わってから、中に入ります。現在ある建物部分は、空襲で焼けた後に復元されたものだそうです。今でも立派な門と枡形で、さすが、城の正門です。枡形内にはオリジナルの鯱があります。石製の雁木や銃眼も残っています。門を防衛する仕組みです。櫓門をくぐって、三の丸に進みましょう。

大手門が開門した状態
大手門の枡形内部
オリジナルの鯱
枡形内の雁木と銃眼(石をくり抜いている)

現在の三の丸は、宮内庁などの建物がある場所になっています。次の関門は、大手三の門の跡です。大名も駕篭から降りなければならなかった場所です。ここから先が二の丸なのですが、かつては、この前に堀がありました。横を見ると、堀と櫓群が並ぶ光景が広がっていたのです。門の中には、同心番所が残っています。新しめの三つ葉葵の瓦がありますが、元は菊の御紋だったのが、この場所を公開するときに、わざわざ取り替えたそうです。。同心番所がある場所もまた、枡形になっています。

三の丸の通路
大手三の門跡
大手三の門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中の門周辺から撮った古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所
葵の紋所の瓦が見えます

ここからが、もっとすごいです。また番所の建物がありますが。今度のは、ずいぶん大きいです。これは、百人番所で、実際に百人以上の役人が詰めていました。それに、ここにいただけではなく、ここで身支度をして、各所の警備に向かった役人もいたそうです。警備センターみたいなところだったのでしょう。24時間体制で警備をしていて、さすが江戸城、現代のガードマンも顔負けです。

百人番所

百人番所の反対側へ振り返ると、すごい石垣があります。中の門跡です。古写真で見たときも大きいと思いましたが、建物がなくても十分わかります。見せる石垣です。この石垣は、明暦の大火や、元禄時代の地震の後に修復されたものです。白っぽい石も多くて、それに精密に積まれています。石は、伊豆半島からだけではなく、西日本から花こう岩が集められました。色の違いは、石の種類が多いからでしょうし、精密さは時代の進化なのでしょう。それに、石積みは町人にも依頼されたそうです。そのころには幕府も安定し、町人も力をつけていたのです。この門は枡形ではありませんが、その頃には門の目的が、防衛より権威に移っていたのでしょう。

中の門跡
中の門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
すごい石垣です

ここにも番所が残っています。大番所です。明治時代にも作業所として使われていました。それで壊されずに残ったのです。そして、本丸に到着します。登城は順調にいきました。

大番所
本丸に向かいます

本丸ツアー(御殿跡)

それでは、本丸の正門だった、中雀門跡に入っていきます。こちらも堂々としています。この門跡の注目点は、焦げている石垣です。最後の本丸御殿が火災に遭ったときの痕跡とのことです。ただ、明暦の大火で焼けた天守台の石を持ってきたのでは、という意見もあるそうです。これは歴史の生き証人なのです。

中雀門跡
中雀門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
火災で焦げた石垣

門の内側が本丸御殿の跡なのですが、今は広場になっています。想像力が必要な場面です。思うに、広場に出たところは、「虎の間」あたりだったのではないでしょうか。大名が将軍に謁見するのを待っていた部屋です。それなので、左の方に行けば、大広間があったところだと思うのです。

本丸御殿跡の広場
天守台にある本丸御殿平面図で照合してみましょう

ここからちょっと寄り道をします。現存する富士見三重櫓です。ひっそりとしたところにあります。御苑の中では端っこですし、櫓としても裏側なのです。皇居の方から見ると、かなり見栄えがするらしいです。

富士見三重櫓
富士見三重櫓の表側(photoACより)

推定・大広間跡に戻って先に進みましょう。次はと言えば・・松の大廊下です。有名どころとあって、説明パネルがあります。次はどこでしょうか。その先にある分岐点は、白書院のあたりでしょうか。ここから左手の方にも、現存建物があります。そこに行く途中の土地が盛り上がっているのですが、家康時代の天守の名残りではないかという説があります。。

松の大廊下跡
松の大廊下跡の先にある分岐点、右側がかつての白書院辺り、左側の高まりが天守の名残りか

その現存建物は、富士見多聞です。本丸の西側を守る櫓の一つで、中に入ることもできます。別名は「御休息所前多聞」といいます。「御休息の間」というのが中奥にありましたので、富士見多聞より少し内側の場所は、黒書院や中奥の辺りのようです。

富士見多聞
富士見多聞内部
富士見多聞から内側に入った所、かつての黒書院と中奥辺りか

ちょっと遠い寄り道をしてみましょう。富士見多聞と反対側の方に行きます。本丸休憩所に新しめの建物があるのですが、そこに寛永天守の模型があるのです。それから、休憩所の裏手の石垣を登ったところに、台所前三重櫓があったのですが、そこが現在は展望台になっています。昔の景色とは全然違うのでしょうが、城から見るビル群の景色もおもしろいと感じます。

本丸休憩所の天守模型がある建物
寛永天守模型
かつて台所前三重櫓があった展望台からの景色

本丸ツアー(天守台)

富士見多聞まで戻って、先に進みます。天守台に行く前に、もう一つ現存アイテムをご紹介します。「石室」です。御金蔵だったという説もありますが、非常時に大奥の調度品を避難させる場所だったようです。つまり大奥が近くにあったということです。石室から少し離れた辺りに、将軍が大奥に渡った御鈴廊下がありました。

石室
御鈴廊下があったと思われる場所から石室を見ています

元大奥だったところを通って、天守台に向かいましょう。時期によって異なりますが、天守台への途中に大奥の「御主殿」や「対面所」があったようです。かつては建物がひしめいていたのです。いよいよ天守台です。これまたすごい石垣です。

天守台に向かいます、この辺に大奥の建物がありました
天守台

この天守台は、明暦の大火の後、前田綱紀が築いたものです。前田家といえば、本拠地の金沢城は石垣の博物館と言われています。現場では、わずか2ヶ月で石を積み終えたそうです。石は、瀬戸内海沿岸から御影石が調達されました。それで、全体が白い色になっています。大きさは、四方が40メートル以上もあります。高さは約12メートルですが、前の寛永天守より2メートルほど低いそうです。

天守台に登ります、白い御影石が目立ちます
上まで登ります

ご存じの通り、この天守台に天守は築かれませんでした。再度の再建計画もありましたが、実現しませんでした。現代も再建運動がありますが、どうなるのでしょうか。上は展望スペースになっています。石蔵になっていた所が埋められているようです。つまり、この石垣の内側が地下室になっていました。寛永天守のときには、武器や金銀を蓄えてありました。明暦の大火が起こると、金銀が溶けて、塊になっていたそうです。

展望スペース
石垣の内側は石蔵になっていました

天守台の外側を歩きましょう。改めてその大きさを感じます。天守台の脇には、大奥の長局、つまり奥女中の住居がありました。こんなところにまで建物があったのです。この石垣にも火災の痕があります。こちらは、安政時代の火災によるものだそうです。これからも大事にしたい遺産です。

天守台側面

本丸下も見どころが沢山

ここは本丸の出入口の一つで、太田道灌が梅を植えたことにちなむと言われる、梅林坂です。江戸城の中でも、特に歴史が古い所です。ここから下って、本丸の周りを歩きましょう。

梅林坂

下った所にある梅林坂と汐見坂の間にある石垣は、随分精密に積まれています。この辺の石垣は、江戸時代以来、地震などで何度も修復されているので、「切り込みハギ」「すだれはつり」など新しい技法が使われています。

梅林坂~汐見坂の石垣

かつては海が見えたという「汐見坂」の下にきました。今はどんな景色なのか登ってみましょう。坂の右と左の石垣ってだいぶ違います。右の石垣は先ほど見た石垣です。左側の白鳥濠にある石垣は、家康時代に築かれ、技法も粗い加工の石を使った打ち込みハギなのですが、関東大震災のときも大丈夫だったそうです。古い石垣だから、弱いということではないようです。坂の上あたりまで来ました。やっぱりビルの景色です。でも、名前を残してもらえば、昔はこうだったとわかります。

汐見坂
汐見坂の左側にある白鳥濠とその石垣
汐見坂からの景色

白鳥濠の石垣を下から眺めましょう。上のところは、先ほど行った展望台です。石垣のラインもきれいです。何だか熊本城の武者返しの石垣を思い出します。

白鳥濠の石垣

二の丸は、簡単なご紹介になってしまいますが、開発されてしまった武蔵野から移された雑木林、84品種もの花菖蒲がある菖蒲田、そして、9代将軍・徳川家重時代を復元したという庭園などが見どころです。

雑木林
菖蒲田(6月下旬撮影)
庭園

最後は、梅林坂の下に戻って、平川門に向かいます。下梅林坂門跡を通るのですが、堀に挟まれた細長い枡形になっています。枡形を出てからも更に回り込んで、やっと平川門に到着です。この門は残っています。

下梅林坂門跡と細長い枡形
枡形から出てまた左に回り込みます、右側はわずかに残る二の丸の堀「天神濠」
平川門が見えてきました

城の通用門の位置づけなのですが、北東にある鬼門ということで、城内で亡くなった人や罪人が出たときは、門の枡形の中にある小さな門(山里門、不浄門)から外に出されたそうです。浅野内匠頭も江島もここを通ったと言われます。私たちは、普通に門を出ていきましょう。

平川門(櫓門)
枡形内の山里門(不浄門)
ビジターは枡形から高麗門経由で外に出ます
平川門の外側にある平川橋

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その4」に続きます。

85.福岡城 その3

今、福岡地下鉄・大濠公園駅の出口前にいます。なんでも、ここからすぐお城見学ができるということです。ここから少し歩くと、このたび復元整備された福岡城・潮見櫓を見学できるのです。さっそく行ってみましょう。堀の向こうに櫓が建っています。それも、まるで新築されたように見えます。

特徴、見どころ(大濠公園コース)

Introduction

今、福岡地下鉄・大濠公園駅の出口前にいます。なんでも、ここからすぐお城見学ができるということです。ここから少し歩くと、このたび復元整備された福岡城・潮見櫓を見学できるのです。さっそく行ってみましょう。堀の向こうに櫓が建っています。それも、まるで新築されたように見えます。

大濠公園駅出入口前
堀の向こうに見える潮見櫓

今回はまず、その潮見櫓を中まで見学します。そして、福岡城の入口の一つ、下之橋御門を通って入城しましょう。城を築いた一人、黒田如水の屋敷跡も見学します。そこは三の丸になります。それから、二の丸の松木坂御門跡を通って、再び本丸の天守台にアクセスしましょう。そして最後は、前回あまりご紹介できなかった中・小天守台や武具櫓の石垣などをご紹介したいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

潮見櫓を見学

潮見櫓は、三の丸の北西角の部分に築かれました。当時はそこから博多湾が見渡せたので、海を監視するということで「潮見」櫓と名付けられたと言われています。明治になって、花見櫓とともに、崇福寺に移され、仏殿として使われていましたが、そのときは別の櫓(月見櫓)と伝えられていました。ところが、福岡市が買い取り、内部を調査したところ(1991年)、潮見櫓を移したことが記された棟札が見つかり、真実が判明したのです。1つの櫓だけをとっても、数奇な運命をたどったのいるのです。そして、2025年3月、元の位置に復元、公開されました。

崇福寺時代の潮見櫓(右)、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より
櫓に近づいていきます

買い取ってからでも、長い時間がかかったのです。仏殿として使われ、だいぶ改造されていたので、元通りにするのが大変だったのでしょう。それでも、4割は元の部材を活用しているそうです。例えば、南側(内側)の瓦の多くはオリジナルとのことです。その中で面白いのが、三つ葉葵の軒瓦、徳川の家紋です。藤巴(黒田家の家紋)と三つ巴(火除けの意味)と一緒に使われていますが、理由はよくわからないそうです。こんなところにも謎があるのです。

葵の御紋の軒瓦
一つだけ違っています

内側から見ると、角地にある櫓だとよくわかります。隅に二階建ての櫓があって、東と南に付櫓が付いています。中に入ってみましょう。最新の復元櫓だけあって、入口スロープがしっかり作られています。

内側から見た潮見櫓

中も真新しく見えます。付櫓がある分、一階は広くなっています。見上げると、古い木材があって、色がちがうのではっきりそれとわかります。仏殿のときには吹き抜けの構造だったので、一階部分はオリジナルの部材の割合が少ないのでしょう。

一階の内部
オリジナルの部材は色で分かります

訪問した時は特別公開の時期だったので、二階まで上がることができました(直近では2025年5月11日まででした)。昔の櫓なので階段が急です。二階部分は狭くなっていますが、オリジナルの部材がたくさんあります。屋根裏には、新旧の棟札も見えます。古い方が「潮見櫓」の証拠になっているはずです。

二階の内部
二階はオリジナルの部材が多いです
こちらが古い棟札のようです

二階から、かつて海だった方(北側)を眺めてみましょう。スタート地点の駅の方向です。それから、こちら側の屋根瓦は新しいのですが、内側(南側)の瓦はオリジナルのものが間近に見えます。なにか文字が刻んであるものがあります。「今宿又市」という刻印だそうです。瓦師の名前で、城の他の場所(多聞櫓など)でも同様の瓦があります。、職人の誇りと心意気をこうやって残しているのです。

二階からの眺め(北側)
北側の新しい瓦
南側のオリジナルの瓦
「今宿又市」がある瓦

下之橋御門から入城

それでは、堀の前に戻って、下之橋御門から改めて入城しましょう。この門も、上之橋御門と同様に、堀を橋で渡って行きます。下之橋御門の方が、普段の通用口としてよく使われたそうです。建物がちゃんと残っていて、唯一同じ場所に残っている門になります。門の向こうに櫓もありますが、実はあれも「潮見櫓」なのです。

堀の向こうに見える下之橋御門
下之橋御門

門の方から順番に説明しますと、元は二階建てだったのが明治以降に一階建てに改装されていました。2008年に不審火による火事があったのですが、その復旧の際に二階建てに再改装されました。

現在の下之橋御門
一階建てに改装されていた頃の下之橋御門、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

次に櫓の方ですが、黒田家別邸に移され、潮見櫓と伝えられていました。1956年に元の位置に戻そうとしましたが、米軍の施設があったため、現在の位置に移築されたそうです。しかし、先ほど訪問し建物が本物の潮見櫓と判明したため、現在では(伝)潮見櫓と呼ばれています。元の太鼓櫓ではないかという説もありますが、確定していません。

(伝)潮見櫓

三の丸(西側)には、城の創業者の一人・黒田如水の隠居屋敷跡(御鷹屋敷)がぼたん・しゃくやく園になっていますので見学しましょう。丘に登って行く感じです。元は小山だったのを、二の丸と同じくらいにならして使ったそうです。高すぎると占領されたとき危ないということでしょうか。訪問したときは、ちょうどしゃくやくが咲き始めている時期でした(取材時期:4月末)。

屋敷跡の入口
屋敷跡の内部
しゃくやくだと思いますが咲き始めていました

三の丸には、他の場所から移築された建物もあります。まず、旧母里太兵衛邸長屋門です。母里太兵衛は重臣で、現在の市街地(天神2丁目)に屋敷地がありました。そこから移築されたのです。それから名島門です。福岡城の前身、名島城にあった門の一つが、別の重臣(林氏)の屋敷門として使われていましたが、同じような事情で今ここにあるのです。生き残った建物たちの集合場所になっているのです。

旧母里太兵衛邸長屋門
名島門

再び天守台へ!

(前回に続き)再び天守台に行くのに、松木坂御門跡を通って、二の丸に入りましょう。門の脇には2つの櫓(大組櫓・向櫓)もありました。石垣はあるけれど、門の跡という感じはあまりしません。ただ、福岡市によれば、櫓とともに「復元の可能性がある」建物に分類されています。門の古写真も残っています。

松木坂御門跡に向かいます
松木坂御門跡
松木坂御門の古写真、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

本丸には、裏御門跡から入っていきます。左側が、太鼓櫓跡になります。さっきの伝・潮見櫓があったかもしれない場所です。裏御門跡に入って折り返すと、天守台が見えてきます。近づいていくと、天守台の大きさを感じます。

裏御門跡
裏御門跡の古写真、左側が太鼓櫓、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
天守台に近づきます

鉄御門跡から入っていきましょう。その先に進むと、大天守台です。果たして、ここに天守はあったのでしょうか。ここで初の本格的発掘調査が2025年6月30日から始まりました(取材時期:その前の4月末)。どんなことがわかるのか、楽しみです。展望台からの景色を見ておきましょう。展望台の景色をよく見ておきましょう。今日は天気がいいので、期待できます。市街地から、城跡・公園まで一望でき、すばらしいです。反対側の景色も見ておきましょう。武具櫓曲輪です。天守を守る位置にあったことがわかります。

鉄御門跡
大天守台
大天守台からの眺め(東側、市街地)
大天守台からの眺め(西側、大濠公園)
大天守台からの眺め(南側、武具櫓曲輪)

隠れた見どころも見学

今度は、中・小天守台にも登ってみましょう。ここは、江戸時代の絵図に「矢蔵跡」とあるため、櫓があったことは確実です。問題は、それが天守に相当する建物だったかどうかです。先ほどの大天守台での調査でわかるのでしょうか。説明パネルには、結構かっこいい想像図が載っています。小天守台からの景色もいいし、案外ここが城の顔だったかもしれません。

中・小天守台に向かいます
中天守台
小天守台
中・小天守台の想像図、現地説明パネルより

続いて、中・小天守台からも見える、武具櫓曲輪の石垣に行きましょう。この石垣は、福岡城では最も高い石垣で、高さが約13メートルあります。その上にあった武具櫓は、二階建ての多聞櫓が、両端の三階櫓に挟まれていて、長さが約63メートルもありました。そして、三階櫓の高さが12メートル以上あったので、石垣と合わせると、約25メートルになります。まさに本丸の守護神だったのです。

武具櫓曲輪の石垣
石垣がずっと続いています
武具櫓曲輪の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

最後は、追廻御門だった辺りに来てみました。福岡城の3つの入口の一つでした。現在は、花菖蒲園になっています。多聞櫓が上の方に見えます。まるで、この場所を上から守っているようです。実際、そういう役割もあったのでしょう。

追廻御門跡

道を渡って、反対側を見てみましょう。この辺りに、花見櫓があったようです。潮見櫓と一緒にお寺に行っていたのが、福岡市が買い取って、部材が保管されています。そのため「復元の可能性が高い」建物に分類されています(復元予定は未定のようですが)。福岡城には天守以外にも、いろんな可能性があるのです。

花見櫓跡
崇福寺時代の花見櫓(左)、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

関連史跡

前のセクションで、大濠公園コースと銘打っていますので、大濠公園をご紹介します。すばらしい公園です。元は海の入り江だったのが、城の堀に使われたのです。大きな池の真ん中に島が3つあって、橋を渡って行けるそうです。もう一回りしていくのもいいと思います。

大濠公園
橋を通って島に渡ります

「福岡城その1」に戻ります。
「福岡城その2」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

85.福岡城 その2

これから、かつて福岡城の正門だった上之橋御門の跡から、話題の天守台までご案内します。それに加えて、福岡市が出している城建物の復元可能性を示した表を見ながら、途中のスポット毎にチェックしていきます。福岡城跡が将来、どのような姿になるのか想像するためです。

特徴、見どころ

Introduction

これから、かつて福岡城の正門だった上之橋御門の跡から、話題の天守台までご案内します。それに加えて、福岡市が出している城建物の復元可能性を示した表を見ながら、途中のスポット毎にチェックしていきます。福岡城跡が将来、どのような姿になるのか想像するためです。

福岡城建物の復元可能性を示した表、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

出発前にちょっと面白い所を見学しましょう。上之橋近くの歩道の地下に、堀の北側の石垣が保存されているのです(堀石垣保存施設、年末年始除く土日に見学可)。今の歩道の辺りもお堀だったのですが、埋められたのです。その石垣が、地下鉄工事を行ったときに見つかったのだそうです。

堀石垣保存施設
堀石垣保存施設の入口
地下で保存されている石垣

整備が進む三の丸

こちらが現代の上之橋です。今でも舞鶴公園のメインの入口になっているので、立派な感じがします。すごい石垣が奥の方に見ます。上之橋御門の跡です。この門は、先ほどの表によると「復元の可能性が高い」建物に分類されています。最近石垣が修復整備されて、ビジターが通れるようになりました(2023年)。一緒に調査がされ、古写真もあるので、復元の条件が整ってきたのでしょう。石垣だけでも立派な門だったと想像できます。門を入ったところにかつては、黒田騒動の当事者、栗山大膳の屋敷がありました。

上之橋(手前)と上之橋御門跡(奥)
上之橋御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
福岡城模型の上之橋御門周辺。福岡城むかし探訪館にて展示

三の丸の中に進んでいくと、広大な重臣屋敷地だったところ(東部)は、今は広場として憩いの場になっています。戦後には平和台球場がありました。古代にさかのぼると、海外使節の迎賓館などとして使われた「鴻臚館」がありました。この場所に、鴻臚館を復元整備する事業が始まっていますが、現在は「鴻臚館跡展示館」で、発掘調査の成果を、発掘現場の一部や復元イメージとともに、見学することができます。

三の丸の鴻臚館跡
平和台球場のレリーフ
鴻臚館跡展示館
鴻臚館発掘現場の一部
鴻臚館建物の復元イメージ

お城のことを勉強されたいときは、「福岡城むかし探訪館」に行ってみましょう。ここには、素晴らしい福岡城の模型があります。

福岡城むかし探訪館
福岡城の模型。福岡城むかし探訪館にて展示

先に進むと、また立派な石垣が見えてきます。二の丸の入口、東御門跡です。

三の丸から見える東御門跡

二の丸から本丸へ

東御門跡の前にやってきました。この門の脇には、革櫓、炭櫓(高櫓)がありました。この門と両脇の櫓は「復元の可能性がある」建物に分類されています。ただ、門の正面から取った写真がないそうです。

東御門跡
東御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

次の関門は、扇坂御門跡です。門の建物は、復元可能性が示されていないので、詳細がわからないのかもしれません。しかし、この門の特徴は、内側の階段にあります。見た感じ公園風の階段なのですが、実は城があった当時からこの形だったのです。「扇坂」という名前もこの形から来たようです。門の通路は通常狭くしますので、大変珍しいケースです。現在の階段も、最近部分的に復元されたものです(2024年)。

扇坂御門跡
部分復元された扇坂

次は本丸です。表御門跡から入っていきましょう。この門も「復元の可能性が高い」建物に分類されているのですが、現物が、黒田家の菩提寺・崇福寺に移されて、山門として使われています。今の場所になじんでいるようにも見えますが、こういう場合にはどうするのか悩ましいところです。

本丸表御門跡
表御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
崇福寺山門、「福岡市の文化財」HPから引用

本丸の中には、本丸御殿がありました。ぱっと見、なにがあったか分かりませんが、「復元の可能性がある」とされています。本丸御殿は、明治時代に改造されて、病院として使われたので、ある程度分かるのでしょう。

本丸御殿跡

本丸北側の他の建物もチェックしておきましょう。そのうち、時櫓と月見櫓は「復元が困難」とされています。一方、太鼓櫓と裏御門は隣り合っていましたが、太鼓櫓の方が復元可能性が高くなっています(太鼓櫓が「復元の可能性が高い」、裏御門が「復元の可能性がある」)。これは、以前「伝・潮見櫓」として保存されていた櫓が、実は太鼓櫓ではないかと言われていることによるようです。

太鼓櫓(左)と裏御門(右)跡
太鼓櫓(左)と裏御門(右)の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
伝・潮見櫓

最後は、祈念櫓です。この櫓は、寺に払い下げられていたのを、元の場所に移築復元していたのですが、建物が立つ石垣の修復のため、現在は解体・保管されています。なるべく早く元の姿を見てみたいですが、現在の建物はかなりオリジナルから改変されていて、実は月見櫓だったのではないかという説もあるそうです。

祈念櫓周辺
解体・保管前の祈念櫓

いよいよ天守台めぐり

いよいよ天守台に向かいます。天守台への入口は、鉄御門(くろがねごもん)跡です。かつては、石垣の上に巨石を置き、またその上に、櫓がありました(通称「切腹櫓」)。門は文字通り鉄製で、固く閉じられ、普段から人が寄り付かない場所だったそうです。

鉄御門跡

門から入ったところの区画は、天守台に建物がなくなった後、「天守曲輪」と呼ばれていました。その角には「天守櫓」がありました。

天守曲輪
天守櫓があった場所

そして天守台(大天守台)です。かなりの大きさです。底には建物の柱を立てる礎石がたくさん並んでいます。天守のものと思えるのですが、一時期この辺りに蔵(「天守蔵」)があって、その礎石だったかもしれないそうです。残念ながら天守は「復元が極めて困難」な建物に分類されていますが、これから実施される発掘調査に期待しましょう。

天守曲輪から見た天守台
天守台に入っていきます
天守台の底にある礎石群

石垣の上は展望台になっています。ここが城で一番高い場所で(標高約36m)、一帯を見渡すことができます。

天守台からの眺め

天守台手前の、天守曲輪の中に戻ってきました。天守台周りは他にも見どころがありますので、行ってみましょう。天守曲輪のもう一つの入口「埋門(うずみもん)」跡を通っていきます。この門も狭くて、名前の通り、いざというときは石などで埋めてしまうのでしょう。

埋門跡

埋門を抜けると、本丸南側の武具櫓曲輪です。ここには、長さ60m以上もの武具櫓がありました。黒田長政が築城時に、この櫓と思われる内容を書状に記しています(天守を守る長さ30間の櫓を建てるという主旨)。この櫓は「復元の可能性がある」という分類ですが、その中でも「復元の可能性が高い」とされています(B+という表記)。明治維新後、黒田家の別邸に移築されましたが、戦争中の空襲で焼けてしまいました。

天守台から見た武具櫓曲輪
武具櫓の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
黒田邸に移築された武具櫓、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

それでは、中小天守台の方に行きましょう。武具櫓曲輪から、中天守台の脇を通って、小天守台に至ります。小天守台も展望台になっているのだ。ここから見る景色もなかなかです。

中天守台(左)と小天守台(奥)
小天守台からの眺め

現存する多聞櫓

天守台の後は、現存する南丸多聞櫓を見学しましょう(国の重要文化財)。まずは外側から見学したいのですが、櫓は二の丸にあるので、一旦二の丸の桐木坂御門(きりのきざかごもん)跡から外に出ます。この櫓は、両隅の二重櫓2つが、長さ約54メートル(30間)の平櫓を挟む格好になっています。防御のための仕掛けが見えます。鉄砲狭間、格子窓、そして石落としの3点セットです。

桐木坂御門跡
南丸多聞櫓(外側)
石落とし、鉄砲狭間、格子窓が見えます

二の丸に戻って、その一部の南の丸に入ってみましょう。多聞櫓がある場所です。普段は倉庫として使われていたそうです。現在の建物は江戸末期(1854年)に大改修されました。

二の丸の一部、南の丸に入ります
多聞櫓(内側)

訪問した日は、偶然櫓内部の特別公開日でした。さっそく入ってみましょう。中が細かく仕切られています。これがこの櫓(平櫓部分)の大きな特徴で、16の区画に分かれています。しかも番号が振られています。後に兵舎や学校寮として使われたときの名残なのでしょう。

櫓内部見学のための入口
櫓の内部

外から見えた、格子窓、石落とし、鉄砲狭間を内側からも確認できます。

格子窓
石落とし
鉄砲狭間

上を見ると、なんだか天井が透けている感じです。この天井は、細い竹を組んで作られています。火縄銃の煙を上に逃がすためとか、竹を矢の材料として、その場で使えるようにしたためとか言われています。まさに実戦に備えた櫓だったのです。

多聞櫓の屋根

リンク、参考情報

国史跡 福岡城・鴻臚館 公式ホームページ
福岡市の文化財
・「福岡城 築城から現代まで(新修福岡市史特別編)」福岡市
・「シリーズ藩物語 福岡藩/林洋海著」現代書館
・「福岡城天守を復原する/佐藤正彦著」石風社
・「福岡城天守の復元的整備について―報告と提言(概要)-」福岡城天守の復元的整備を考える懇談会
・「福岡城の天守に関する新たな資料の発見について 令和6年12月10日」福岡市 経済観光文化局 博物館
・「歴史を読み解く:さまざまな史料と視角/服部英雄著」九州大学学術情報リポジトリ
・「国史跡福岡城跡整備基本計画 平成26年6月」福岡市
・「史跡福岡城跡環境整備報告書 昭和55年度」福岡市教育委員会

「福岡城その1」に戻ります。

「福岡城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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