19.川越城 その2

現在、川越城跡は市街地に埋もれてしまっているような感じです。本丸御殿が部分的に残っているのと、関連する遺跡、遺物がいくつか周辺にあるか、復元されているくらいです。この記事では、中心部の御殿に行く前に、市街地に残る城の痕跡をいくつか探してみようと思います。

特徴、見どころ

現在、川越城跡は市街地に埋もれてしまっているような感じです。本丸御殿が部分的に残っているのと、関連する遺跡、遺物が周辺にいくつかあるか、復元されているくらいです。例えば、かつては沼沢地であった城の東側から城跡に向かって車に乗ったり歩いたりしても、道路がわずかに登っていると気付く程度でしょう。その辺りが城の内と外を隔てる境界でしたが、今では完全に市街地になっています。したがってこの記事では、中心部の御殿に行く前に、市街地に残る城の痕跡をいくつか探してみようと思います。

かつての城東側の境界の辺り

城の古い痕跡

出発点は、本丸の北側にあり今は川越市立博物館になっている二の丸です。この場所は、城の初期段階では城の東端に当たりました。ここから東方を流れる新河岸川に向かって下ってみましょう。新河岸川は江戸時代になって開削されました。周辺の住宅地は当時新しい曲輪として築かれた場所でした。また、その間を走る道路は堀でした。

城周辺の航空写真

川越市立博物館
新河岸川
この辺りはかつて堀でした

次に新河岸川に沿って歩いてみましょう。このルートは、武蔵野台地の際(きわ)をなぞっています。そのうちに川に設置された田谷堰(たやせき)に至りますが、ここは元は田谷川の河口でした。つまり、ここから上流は、下流部分より古いということになります。

新河岸川に沿って進みます
田谷堰

更に進んでいくと、道灌橋(どうかんばし)が見えてきます。この名前は、城を築いた太田道灌の屋敷がこの近くにあったことに由来します。次に東明寺橋(とうみょうじばし)がありますが、この辺りは1546年の川越城の戦いで、上杉軍が押し寄せてきた場所(東明寺口)と思われます。東明寺はこの近くにあって、ここで激戦(川越夜戦)があったと伝わります。

道灌橋
市役所前にある太田道灌像
東明寺橋
東明寺にある川越夜戦の碑

西大手門跡から本丸へ

そこから南の方に移動して、かつては西大手門があった川越市役所周辺に行ってみましょう。門を通る通路は、馬出しと呼ばれる門の前に突き出した丸い小曲輪によって防御されていました。しかし、今では完全に取り除かれ、多くの観光客で賑わう交差点になっています。現在の道路は東方の城の中心部に向かってまっすぐ伸びていますが、以前の道は違っていました。

城周辺の地図

川越市役所前の交差点
西大手門跡
かつての西大手門(赤丸内)、川越市立博物館展示の模型より

その道は右にカーブして中の門の堀に突き当たっていたのです。そこから進むには、左に曲がって門の中に入っていきました。この堀は部分的に復元され、一般公開されています。

北の方角から見た城の模型、赤丸内が西大手門、青丸内が中の門堀、緑丸内がもう一つのカーブポイント
中の門堀は現在の道の右側にあります
部分的に復元された中の門堀

堀を通り過ぎて進んでいくと、右側に植栽された丸い形の広場が見えてきます。これは、左側から突き出した別の堀の痕跡です。つまり、かつてはここもまっすぐ通れなかったことになります。以前の道はその後、一旦二の丸を通ってから本丸に到着するようになっていました。

もう一つの堀の痕跡
本丸に到着です

南大手門跡から本丸へ

今度は、南大手門から城の中心部に至るオリジナルの道を辿ってみましょう。この門も東大手門と似たような外観でしたが、こちらも完全に撤去されました。現在は川越第一小学校になっているその場所には何の痕跡もありません。

城周辺の地図

南の方角から見た城の模型、赤丸内が南大手門、青丸内が富士見櫓
南大手門跡周辺

学校沿いの道を北に向かって歩き、最初の交差点で右に曲がります。この道はオリジナルのルートに沿っています。現在の道は舗装され、周りは住宅地となっていますが、かつては土塁や水堀に囲まれていました。そうするうちに、左側に丘が見えますが、これは富士見櫓跡です。この櫓は三階建てで、天守の代用とされていました。見張り台及び城の防衛拠点として使われていました。

城のオリジナルルート
富士見櫓跡

手前の干上がっている堀跡を超えて櫓跡の上まで登っていくことができます。かつては城の中心部から行き来していましたが、今は高校の敷地があるためにできなくなっています。よって中心部の本丸に行くには、道に戻ってから左に折れていきます。

手前の堀跡を渡っていきます
階段を登っていきます
櫓があった頂上部分
周辺の景色
背後は学校用地になっています
本丸に行くには元の道に戻ります

「川越城その3」に続きます。
「川越城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

19.川越城 その1

川越城は、関東地方の中央部、現在の埼玉県川越市にあった城でした。旧城下町は蔵造りの街並みとしてよく知られ、「小江戸」とも呼ばれて、多くの観光客を引きつけています。城と城下町は、将軍の都・江戸(現在の東京)と深い関わりを持ちながら発展してきました。

立地と歴史

川越城は、関東地方の中央部、現在の埼玉県川越市にあった城でした。川越市は蔵造りの街並みとしてよく知られ、「小江戸」とも呼ばれて、多くの観光客を引きつけています。実は蔵造りのほとんどは、江戸時代ではなく、明治時代の1893年の川越大火の後に再建されたものです。しかし、市街地そのものは川越城の城下町に由来しています。また、城と城下町は、将軍の都・江戸(現在の東京)と深い関わりを持ちながら発展してきました。

川越市の範囲と城の位置

蔵造りの元祖、大沢家の住宅(重要文化財)、川越大火で焼け残り蔵造りの街の先駆けとなりました
街のシンボル、時の鐘

太田道灌が築城

川越地域は、北と東西の三方を、蛇行した入間川に囲まれています。そのため、川越の名前の由来は、「川」を「越」えて行かなければならない場所である、とされています。最初にこの地域を治めたのは、12世紀から14世紀まで入間川西岸(蛇行した川の外側)に住み着いた河越氏であると言われています。河越氏の館があった場所は、後の川越城のところではありませんでした。川越城を最初に築いたのは、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏の重臣であった太田道灌で、1457年のことでした。親族の山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏とともに、1455年から足利氏と戦っている最中でした。両軍は、関東地方最大の大河・利根川をはさんで対峙していました。上杉側は利根川の西岸に陣取っていたため、川の後方に新しい城をいくつも築く必要があったのです。川越城は、そのための主要な3つの城の一つで、他は江戸城と岩槻城でした。

城周辺の地図

河越氏館跡
太田道灌座像(複製)、川越市立博物館にて展示
「江戸図屏風」左隻部分、17世紀、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

川越夜戦の舞台

川越城はやがて扇谷上杉氏の本拠地となりました。16世紀の初め頃、山内上杉氏との間で内部抗争が起こったとき、この城は戦いの最前線となりました。山内上杉氏が、入間川を隔てた、河越氏の元館だったところを陣屋として再利用していたからです。この内部抗争の間、北条氏が関東地方に侵攻し、ついには1537年に川越城を占領します。両上杉氏はようやく危機に気づき、講和を結んで城を取り返そうとしました。1545年10月になって、北条綱成(ほうじょうつななり)が守る川越城を、大軍をもって包囲しました。

山内上杉氏が河越氏館に堀を築いた跡

その当時は城の規模は小さく、土造りの曲輪がいくつか、武蔵野台地の端に築かれているだけでした。しかし城は、自然の要害として入間川周辺の沼沢地に三方(南北と東)を囲まれていました。残りの一方(西)と城の周辺には、人工の堀切や堀が築かれていたと考えられています。1546年の4月、北条氏の当主、北条氏康(ほうじょううじやす)が城を救援にやってきました。彼は上杉軍に対し、城はもうすぐ降伏するから城兵を助けてやってほしいと懇願し、油断させました。4月20日、氏康は上杉軍に夜襲をかけ、これが川越夜戦と呼ばれた戦いです。城の中心部からわずか800mのところ、東明寺(とうみょうじ)の辺りで激戦が繰り広げられました。この戦いにより、関東地方での北条氏の覇権が確立し、上杉氏は没落しました。

城周辺の起伏地図、新河岸川に囲まれた微高地が武蔵野台地

城跡東方にある伊佐沼、城の周りもこのようであったと思われます
現在の東明寺
北条氏康肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳川将軍家の逗留地

関東地方は16世紀の終わりには徳川氏の領地となり、1603年には徳川幕府が設立されました。その際、江戸城が将軍の本拠地となったため、川越城は江戸城の北の守りを固める存在となりました。そして、将軍の信頼が厚い酒井氏が城主となったのです。それ以外にも、初代将軍・家康や3代将軍・家光は、狩りに出たときには度々川越城に逗留しました。将軍と川越の関係を表わす興味深いエピソードがあります。同じく将軍に信頼された天海僧正が、1599年に川越の喜多院を再興しました。ところが、1638年の大火により焼失してしまいます。それを聞いた時の将軍・家光は、直ちに喜多院を復興するよう命じたのです。それだけではなく、彼自身が江戸城の建物を提供し、その中には家光誕生の間や、乳母の春日局の化粧の間が含まれていました。この建物は喜多院に現存しています。

「江戸図屏風」に描かれた川越城本丸、中にある建物が将軍が泊った宿泊所とされています、出典:国立歴史民俗博物館
徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
喜多院(多宝塔)
喜多院に残る旧江戸城御殿の建物

江戸の防衛拠点、衛星都市として繁栄

川越城と周辺地域は、川越藩として何人もの譜代大名によって引き継がれました。その中には老中として政権中枢で活躍する人もいました。そのうちの一人が松平信綱で、彼は城の拡充も行いました。新しい曲輪や櫓・門を築くことで城の範囲を倍にしました。しかし城は従来と同じように基本的には土造りで、天守もありませんでした。館の集合体のような姿をしていたようです。敵の侵入を防ぐ手段としては、他の城のような高石垣や櫓を使う代わりに、土塁・土塀・水堀によって複雑な通路を形作りました。また、川越街道や水路の新河岸川とともに、農地が開発され、城下町も整備されました。産業が発展し、素麺、絹織物、そして今でも有名な川越芋などの名産品が、その頃既に世界有数の都市となっていた江戸に提供されました。その結果、城下町は大いに栄えました。

拡張された後の川越城の模型、向こう側に見えるのが喜多院、川越市立博物館にて展示
現代も名産品である川越いも

城の中心は、二の丸にあった御殿でした。本丸には将軍の宿泊所があったからです。しかし将軍が来なくなると、いつしかなくなっていました。1846年に二の丸御殿が燃えてしまうと、川越藩は本丸に御殿を再建することを決めました。その当時は西洋船が日本近海に出没していて、川越藩はその脅威から江戸湾を守るための警備を担当していました。そのため藩財政は大いに逼迫していたのですが、御殿は領民による増税負担や寄付もあって1848年に完成しました。

「江戸図屛風」に描かれた川越城二の丸、出典:国立歴史民俗博物館
現存する本丸御殿

「川越城その2」に続きます。

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