立地と歴史
城の要素を持った遺跡
吉野ケ里遺跡は、九州地方の大規模な環濠集落でした。この集落は、弥生時代のおおよそ紀元前4世紀から紀元3世紀までの間繁栄しました。通常吉野ヶ里遺跡は「城」とは呼ばれませんが、後の日本の城に見られる特徴を既にいくつか持っていました。そのため、日本城郭協会はこの遺跡を日本100名城の一つとして指定しています。
遺跡の位置
気候変動と弥生時代の始まり
約3千年前まで続いた縄文時代の間、日本は現代よりも温暖な気候と、豊富な食料に恵まれていました。当時の人々は、同じところに長期間集住し、基本的には狩猟と採集により生活することができました。ところが、縄文時代の後半になると寒冷化が始まり、人々が生活の資を得ることが難しくなってきました。人々は十分な食料を求めて移動を繰り返さざるを得なくなり、一方海岸線はもと沖だった場所に広がりました。これらの変化が、新しく現れた沖積平野において人々が農業を始めるきっかけとなったと言われています。
この状況は海外でも同様であり、この気候変動は特に、春秋戦国時代を含む中国の歴史の中で大きな影響を与えたと言われています。この時代に中国の社会構造や技術が大きく進化したのです。これらの新技術のうちいくつかは紀元前10世紀から紀元前5世紀の間の時期に、朝鮮半島を経由して九州地方に伝わりました。その中に、3つの特徴的な事物(稲作、武器の使用、環濠)がありました。多くの歴史家は、これらの伝来をもって弥生時代の始まりとしています。
これら3つの事物はお互いに関連していました。農業には社会化が必要であり、人々を一ヶ所の集落に定住させます。その人たちが農地をもっと広げたいと思った場合、その領域が他の集落の領域とぶつかり合うことが考えられます。このことはまた、軋轢や戦いを起こすことにもなり、武器の使用につながります。そうすると、他者の攻撃から身を守ることも、自分たちの財産が奪われたり盗まれたりすることを防ぐことも必要になってきます。その結果、彼らの集落は柵を伴う円形の堀により囲まれることになりました。歴史家は、これを環濠集落と呼んでおり、弥生時代の典型的な特徴の一つとしています。
初期のクニが出現
社会化と戦いを切り抜けることは、強いリーダーシップを必要とします。時が過ぎるにつれて、何人かの優れたリーダーが現れ、彼らの集落と領地はどんどん大きくなっていきました。彼らのことを、最初の王と呼んでよいのかもしれず、彼らの領地も最初のクニとしてもよいのでしょう。紀元1世紀頃の北九州地方には、奴国(なこく)のようないくつかの大きなクニがあり、中国に使節を派遣していました。吉野ケ里はこの地方の大きなクニの一つだったのです。
中国の歴史書、魏志倭人伝に書かれた3世紀ごろの日本の歴史についての記述によると、女王によって統治された邪馬台国という国がありました。その国は、多くの分立していた国が互いに戦い争った後、講和し団結することにより設立されました。卑弥呼と呼ばれた女王は、シャーマンのように祈祷することにより物事を決断し、その統合された国を治めました。彼女は都にある宮殿に住み、そこには楼観や城柵があり、兵士によって守られていました。
大規模な環濠集落
その一方で、吉野ヶ里集落も同じ3世紀に最盛期を迎え、その人口は推定で約5千人に達しました。集落を囲む環濠は二重に築かれ、その外周は2.5kmに及びました。実は、吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国のような宮殿・楼観・城柵の跡がセットになって見つかった日本で唯一の場所なのです。しかしながら、邪馬台国がどこにあったのかは全く不確かです。余りにもその候補地が多いからです。現在確かに言えることは、吉野ヶ里遺跡を見ると、弥生時代のクニがどのようなものであったかよくわかるということです。
「吉野ヶ里遺跡その2」に続きます。