90.平戸城 その1

山鹿流軍学によって築かれた城

立地と歴史

松浦氏が前身の日の岳城を築城

平戸城は、九州地方の北西部に位置する平戸島にあります。この島の周辺地域は、日本と朝鮮との間にある玄界灘に面しています。このことから、この地域は古代から海外貿易を含む海上交通によって栄えていました。中世には、松浦党(まつらとう)として知られる武士団が、水軍やときには海賊まで動員して大いに活躍しました。16世紀、松浦党の一領主、松浦隆信(まつらたかのぶ)が勢力を伸ばし有力な戦国大名の一人となりました。彼はまた、天下人の豊臣秀吉を支持することで、平戸島周辺の彼の領地を維持することができたのです。

城の位置

松浦隆信肖像画、松浦史料博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆信の息子、鎮信(しげのぶ)は徳川幕府を支持することで1600年に平戸藩の創始者となりました。彼はまた1599年に平戸島の端にあった亀岡の上に、新しい城の建設を始めました。平戸城の前身にあたる日の岳(ひのだけ)城です。日の岳城の詳細の多くは不明ですが、唯一オランダの宣教師が描いた絵図が残っています。この絵図によると、この城には壮大な高層の天守が立っていました。ところが、恐らくはその完成直後の1613年に、この城は焼け落ちてしまいます。この火災の原因もはっきりしませんが、一説には鎮信自身が幕府の彼への疑惑を払拭するために火をつけたとも言われています。その疑惑とは、鎮信がいまだに幕府に反抗している豊臣氏を支持しているのではないかというものでした。

松浦鎮信肖像画、松浦史料博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日の岳城天守図、17世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

国際貿易港としての平戸の盛衰

一方、平戸藩の地域は、1550年のポルトガル船の来航以来、国際貿易港として繁栄していました。藩が設立されたときには、平戸港の傍にはオランダとイギリス両方の商館がありました。特にオランダ商人は、台湾から絹製品を持ち込み、日本産の銀と交換し、莫大な利益を得ていました。そして、平戸藩もまた城の存在がなくても、貿易によりその力を維持していました。ところが、徳川幕府は1641年に外国商人に対し、平戸の商館を廃止し、長崎に移るよう命じました。これは恐らく幕府が外国との貿易の独占を狙ったからだと思われます。また幕府は、1637年に日本のキリスト教信者によって起こされた島原の乱の後、キリスト教の拡大を恐れたとも考えられます。いずれにせよ、平戸藩の力はこの幕府の決定により衰えました。

復元された平戸オランダ商館 (licensed by Hkusano via Wikimedia Commons)
島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

5代目藩主、松浦棟が平戸城を再建

5代目の平戸藩主の松浦棟(たかし)は、日本の政界で影響力を持ちたいと思っていました。しかし、松浦氏は外様大名の一つであり、基本的に中央政界で重要な役割は与えられていませんでした。棟は、1691年に外様大名としては初めての寺社奉行となりました。これは、5代将軍の徳川綱吉と彼との強いつながりによるものでした。そして、彼が次に掲げた目標は松浦氏独自の城を再建することでした。基本的に新たな城の建設は、幕府に反抗することに結びつくため認められていませんでした。しかし、松浦氏の城の再建も恐らくは将軍との良好な関係により承認されました。

松浦棟肖像画、長寿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

棟は、1703年から1707年の期間に日の岳城と同じところに平戸城を再建しました。この城は、山鹿流として知られた最新の軍学を駆使して築かれました。この方式による城の特徴の一つは、複雑に形作られた外郭でした。この城には丘の頂上から麓部分にかけて3つの曲輪がありました。本丸、二の丸、三の丸です。それぞれの曲輪は、巧みに曲げられた石垣によって囲まれていました。こういった作りをした理由は、敵の攻撃を受けたときに守備兵から見て死角がないようにするためと考えられています。城があった場所は、北と東西の三方向が海に面していて自然の障壁となっていました。大手門は南側に向かっていて、その前にはこの方向からの攻撃に備えて深い空堀がありました。
再建された城には天守はありませんでしたが、その代わりに三階建ての乾(いぬい)櫓が城のシンボルとして二の丸にありました。松浦氏は、江戸時代末までこの城と平戸藩を統治しました。

肥前国平戸城図、1703年、松浦史料博物館蔵、城の再建の前に幕府に提出された絵図の写し、平戸城内の展示より
上記絵図の本丸部分を拡大
復元された乾櫓

「平戸城その2」に続きます。

185.唐津城 その1

寺沢氏が築いた城

立地と歴史

海上交通で栄えた地域

唐津城は、現在の佐賀県唐津市にあたる、九州の北西部にあります。唐津市の市域は、日本と朝鮮の間にある玄界灘に面しています。このため、この地域は海外貿易を含む海上交通により栄えていました。例えば、2千年近く前には末盧(まつら)國があり、その国の港には海外からの使節が到着していました(「魏志倭人伝」の記述で魏の使者が上陸した地とされます)。中世には、松浦(まつら)党と呼ばれる武士団が、水軍ときには海賊を駆使して活躍しました(その中でも「上松浦党」と呼ばれる武士団がこの地域を支配していました)。1588年、天下統一を進める豊臣秀吉が海上交通を統制するために海賊禁止令を出しました。その後、秀吉の部下、寺沢広高がこの地に派遣され統治を行いました。彼は優秀な実務官僚であり、秀吉が近くの名護屋城から大軍を朝鮮に派遣した時には兵站を担当しました(他に長崎奉行を兼務していました)。

城の位置

寺沢広高が築城

広高はやがて徳川幕府を支持するようになり、唐津藩の初代藩主となりました。彼はまた、1602年から1608年の間に、新しい本拠地として唐津城を築きました。この城の中心地は、松浦(まつうら)川河口沿いにある満島(みつしま)山の上に作られました。広高はその川の流路を変え、この山と他の曲輪が半島のような陸地に一直線に並ぶようにしました。これにより、この山が海に向かって一番向こう側に配置されることで、敵が簡単に陸地を伝って城の中心部に攻められないようにしたのです。中心部はまた、海に沿った石垣に囲まれ、その石垣の上には櫓がいくつも築かれました。海上を監視するために使われたのでしょう。舟入門などの海港設備も河口の傍らに作られました。山の頂上には天守台石垣が築かれましたが、天守は建てられなかったと考えられています。天守があったことを示す証拠が見つかっていないからです。

肥前国唐津城廻絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)
唐津城の現存天守台石垣

寺沢氏は島原の乱後に改易される

広高は(関ヶ原の戦いの)戦功により、九州西部の天草に飛び地の領地を幕府から与えられました。ところが、これが寺沢氏に大きな不運を呼び込んでしまったのです。そこには、幕府により改易となった小西氏の元家臣であった浪人衆がたくさん住んでいました。またそこには、幕府が禁じていたキリシタンの人たちも多くいました。広高は、幕府の方針に従って双方を弾圧しました。その結果、天草の人たちも参加した島原の乱が1637年、広高の息子、堅高(かたたか)の代に発生します。その乱が終息した後、幕府は寺沢氏から天草の地を取り上げました。堅高はそれを恥辱に感じ、1647年にはついに自殺してしまいます。寺沢氏は、跡継ぎがいないという理由で幕府により改易されました。

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

水野氏、小笠原氏などが引き継ぐ

その後、5つの大名家が唐津城と唐津藩を江戸時代末まで統治しました。そのうちの何人かは日本史の中でも有名です。例えば、水野忠邦は老中首座として、中央政府で天保の改革を進めました(そのときは浜松城に移っていました)。また、小笠原長行(ながみち)は老中の一人でしたが、徳川幕府が倒れるそのときまで忠節を尽くしました(奥羽越列藩同盟にも参画)。

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小笠原長行肖像画、国立国会図書館デジタルコレクションより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「唐津城その2」に続きます。

180.岡豊城 その3

一領具足の再来

特徴、見どころ

城跡を歩き回る

城の主要部分とは少し離れた場所に、伝厩跡曲輪があります。ここも物見台として使われていました。

城周辺の地図

伝厩跡曲輪

この城にはまた、敵の攻撃を防ぐために、多くの空堀が山の垂直方向と水平方向の両方に掘られました。今もそのうちのいくつかが残されています。

竪堀
横堀

この城跡には現在、多くの通路がネットワークのように巡らされていて、多くの曲輪ではくつろいだり休憩することができます。歴史を学ぶだけでなく、散歩を楽しんだり、リラックスすることができる場所です。

城跡を巡る通路
伝厩跡曲輪からの景色

その後

岡豊城が廃城となった後、長宗我部氏は、徳川幕府により不幸にも改易となってしまいました。山内氏が掛川城より、土佐国を治めるためにやってきて、高知城を居城としました。残された一領具足の人たちは江戸時代の間、山内の上級武士(上士)から下級武士(郷士)として虐げられました。しかし、彼らは反骨精神を持ち続け、明治維新のときにはこの中から坂本龍馬や中岡慎太郎といったヒーローが現れ、後の日本を変えていくことになります。

坂本龍馬肖像画、「近世名士写真 其二」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中岡慎太郎写真、「維新土佐勤王史」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城跡に関しては、最初は桜の木が植えられ、通常の公園として整備されました。1985年から1990年の間には発掘が行われました。それ以来、城跡は岡豊山歴史公園として整備されています。2008年にはついに国の史跡に指定されました。更には、1991年には高知県歴史民俗資料館が公園の傍で開館しました。そこでは、城や長宗我部氏のことをより学ぶことができます。

城跡にある記念碑

私の感想

長宗我部氏の本拠地となった3つの城を一度に見て回ることをお勧めします。それぞれが近い位置にあるからです。高知城は、基本的には山内氏の遺産として残っていますが、この城の丘陵部分には岡豊城のようにいくつもの段があり、これは長宗我部氏の時代に由来するのではないでしょうか。浦戸城跡は、現代の施設建設により大半が破壊されてしまっていますが、桂浜では雄大な太平洋を、その近くでは有名な坂本龍馬像を見ることができます。

高知城
高知城にも多くの段があります
浦戸城跡
桂浜
坂本龍馬像   (taken by 末っ子魂 from photoAC)

ここに行くには

この城跡へは、車で行かれることをお勧めします。
高知自動車道の南国ICから約10分かかります。
公園に駐車場があります。
東京や大阪からは、飛行機来られることをお勧めします。空港からはレンタカーを借りるのがよいでしょう。この周辺地域はバスの便数が少ないですので。

公園の駐車場

リンク、参考情報

国史跡 岡豊城跡、高知県立歴史民俗資料館
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「長宗我部氏/長宗我部友親著」文春文庫
・「よみがえる日本の城13」学研
・「日本の城改訂版第26、42号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
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「岡豊城その2」に戻ります。