163.黒井城 その1

黒井城は精強を誇った「丹波の赤鬼」荻野(赤井)直正の本拠地でした。明智光秀がこの城を包囲し落城寸前となりますが・・

立地と歴史

首都防衛のために重要だった丹波国

黒井城は、現在の兵庫県の一部に当たる丹波国西部にあった城です。丹波国は現在の人たちにはあまり馴染みがありません。国として大きくはなく、最終的には京都府と兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においては日本の首都だった京都のちょうど北西にあるという立地からとても重要視されました。特に戦国時代といった非常時には、京都を防衛したり攻撃したりするには、決定的な影響を及ぼす場所だったのです。1467年に応仁の乱が起こったときには、西軍の総大将だった山名宗全が丹波国を通過して上京しました。それ以来、丹波国の国人領主たちは中央政界を左右する政争や戦いに関与することになりました。

丹波国の範囲と城の位置

応仁の乱の様子、「真如堂縁起絵巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「丹波の赤鬼」荻野(赤井)直正の本拠地

赤井氏はそのような国人領主の一つで、細川氏のような京都を制圧した戦国大名に仕える一方で、丹波国での自らの影響力と領土の拡大に努めました。赤井直正は1529年に生まれ、幼少の頃に荻野氏に養子に出されました。赤井氏は、荻野氏の勢力を取り込むことで、より自分たちの存在を高めようとしたのです。それ以来、直正は苗字を荻野と改めましたが、生涯の間、実家の赤井家と一体となって活動しました。黒井城はもともと荻野氏の本拠地だったのですが、やがて直正のものとなりました。1554年、直正は養父の秋清(あききよ)を殺害します。これは秋清がその当時の天下人、三好長慶の支配に屈するという選択をしようとしたが、直正にとっては決して受け入れ難かったものだったためとも言われています。その後、直正は自身の通称を「悪右衛門」としています(当時の「悪」は単に「強い」という意味もありました)。しかし直正は一方で秋清を祀る寺も創設していて、これによれば彼の行動は個人的恨みに基づくものではなかったとも言えます。

荻野(赤井)直正のイラストレーション、現地説明版より

直正は政治家タイプではなく、優秀な将軍でした。たとえ時には国外の有力戦国大名のために働くことはあっても、他の国人領主と連携して一族の独立を維持したいと唯々欲していました。例えば1565年には、丹波国の守護代で三好氏を支持していた内藤宗勝を倒しました。丹波の北西隣りの但馬国の山名祐豊(すけとよ)が丹波国に攻めてきたときには、直正はこれを撃退し、逆に但馬国に攻め込みました。そして1575年には但馬の竹田城を占領するに至ったのです。この豪勇をもって、人々は彼のことを「丹波の赤鬼」と称しました。

竹田城跡

砦の集合体

黒井城は、標高海抜357mの猪ノ口(いのくち)山上に築かれました。その範囲はとても広く(全周は約8kmに及びます)、荻野氏の本拠地でした。ただ、城の形態としては当時全国的に見られた、自然の地形を生かした土造りの山城の一つでした。武士たちがきびしい戦国時代を生き抜くには、このような城に住み、自らを守る必要があったのです。広大な範囲をカバーするために、黒井城は砦の集合体として機能しました。本丸を含む城の主要部は山頂にあり、城の周囲や全ての支砦群を見渡せるようになっていました。そのため、城主はそこから各拠点の守備兵に指令を発することができたのです。それぞれの砦には明確な役割がありました。例えば、石踏(せきとう)の段や三段曲輪は、大手道上に築かれ、主要部の防衛を担っていました。東出丸は東の峰の防衛のために、西の丸は山上での居住地に使われていたという具合です。こういったやり方で、守備兵は敵からの攻撃を効率的に防げるようになっていました。唯一のこの城の弱点は、岩山であったためによい井戸がなかったことです。

黒井城跡の立体模型、春日住民センターにて展示

城周辺の起伏地図

直正の死後に明智光秀が占領

直正の精強さには、実際には自らに危機を招いてしまった面もあります。直正に攻め込まれた山名祐豊は、そのときの天下人、織田信長に助けを求めました。直正は一時は信長に臣従していたのですが、その時点ではその関係は解消されていました。信長もまた、重要な丹波国を直接統治することができる機会を狙っていました。信長は、重臣の明智光秀に命じ、1575年に丹波攻めを開始させました。最初は光秀の思い通りに事が進みました。有力な国人領主の一人、波多野秀治が光秀に味方したからです。光秀は次に直正の黒井城を包囲し、兵糧と水が尽きるのを待ちました。ところが、2ヶ月もの籠城で城が落ちるという寸前に、秀治が裏切ったのです。光秀は逆に攻められる側となり、撤退せざるをえませんでした。この結末は「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれ、直正の評判をますます高めました。

明智光秀肖像画、本徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
波多野秀治肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

黒井城は結局、直正の病死後の1579年に光秀によって占領されました。光秀は城を改修し、頂上に立派な石垣を築きました。城の強化を図るとともに、新しい支配者の権威を民衆に見せつけたのです。このやり方は、信長やその家臣たちが各地で度々行っていました。光秀は、重臣である斎藤利光を城代としました。この地は、利光の娘で後に将軍の大奥を取り仕切った春日局の出身地となります。光秀と利光は、1582年の本能寺の変で信長に反逆し殺します。しかし、次の天下人となる羽柴秀吉にすぐに討たれてしまいました。黒井城は、秀吉の何人かの家臣によって引き継がれますが、秀吉による天下統一の過程でやがて廃城となりました。領主や武士たちは、新しい時代に対処するために、必ずしも山城を必要としなくなったのです。

黒井城頂上部の石垣
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「黒井城その2」に続きます。