188.原城 その2

広大な城跡を見ることができます。

特徴、見どころ

丘陵と谷が広がっている城跡

今日、原城跡はかなりの大きさを維持しており、その外周は約4kmに及びます。本丸はその多くが公有地となっていて、観光客向けに整備されています。二の丸と三の丸を含む城跡の多くは私有地となっており、畑地として使われています。その城跡の地を歩き、見渡してみると、そこには広大な丘や谷があり、城の姿を想像することができます。通常、日本の多くの城の曲輪は緊密に連携しながら機能していました。ところが、原城の曲輪を見てみると、まるで近代的な要塞のように独立して運用されていたのではないかと感じます。このことが、反乱軍が幕府と互角に渡り合うことができた理由かもしれません。

本丸は史跡として整備されています
二の丸と三の丸は畑地となっています
広大な城跡
谷部分から城跡を見上げています

二の丸と三の丸を歩く

もし車で城跡を訪れる場合は、二の丸と三の丸の中間の海際にある駐車場に車を停めることができます。その駐車場から本丸までは、約800m歩く必要があります。歩きながら、この城の大きさを実感することができます。大手門跡を通り過ぎた後の最初の交差点で右に曲がってみると、三の丸にある板倉重昌の記念碑に至ります。彼は島原の乱の初期段階において、ここで撃たれて亡くなりました。

城周辺の地図

観光客向けの駐車場
大手門跡
駐車場から本丸に至る道路上の交差点
三の丸
板倉重昌の記念碑

本丸に向かう道に戻ってみると、左側には広大な二の丸が見え、右側には二の丸出丸が見えます。地元の人たちによると、2万人もの反乱軍の遺骨がいまだに畑地の下に埋まっているといいます。

二の丸付近の道路
二の丸
谷の右側が二の丸出丸

日本有数の本丸虎口

本丸に近づくにつれて、今も本丸を囲む立派な石垣が見えてきます。しかし、この石垣は幕府によってほとんど埋められた後、発掘により姿を現したものなのです。歴史家でさえこのような石垣が城にあったと思っていませんでした。もちろん、この石垣は破壊される前はずっと高かったはずです。

本丸周辺の地図、点線はかつての虎口内の推定進路

本丸に近づきます
発掘され姿を現した本丸石垣

虎口と呼ばれる本丸の入口も発掘され、観光客向けに整備されました。実はここは、殺された反乱軍の人たちの骨が石垣と一緒に埋められていた場所なのです。この入口は、桝形と呼ばれる四角い空間が連結され、この場所を防御するために迷路のようになっていました。歴史家によると、城があった当時は、本丸の中に入るまでに5回から10回も曲がらなければならなかったのではないかとのことです。発掘により、原城の虎口は日本でこれまで見つかったものの中で最大級と判明しました。

発掘された本丸虎口
発掘現場のレプリカ、有馬キリシタン遺産記念館にて展示
虎口の途中にあった埋(うずみ)門跡

広場になっている本丸内部

本丸の中は現在広場になっています。本丸の外周に沿って、本丸門跡、櫓台、池尻門跡があります。また、島原の乱の記念碑や天草四郎の銅像などもあります。本丸は、海沿いの急崖の上にあるため、有明海や、遥かに雲仙岳の素晴らしい眺めを楽しむことができます。

本丸門跡
本丸内部
櫓台
池尻門跡
天草四郎像
本丸からの景色(有明海)
本丸からの景色(城跡と雲仙岳)

「原城その3」に続きます。
「原城その1」に戻ります。

188.原城 その1

島原の乱決戦の地

立地と歴史

有馬氏が島原半島に築城

原城は、1638年の島原の乱終焉の地として知られています。この城は、九州地方の西部、島原半島の突端近くに築かれました。この地方の戦国大名の一つ、有馬氏が15世紀の終り頃に最初にこの城を築きました。16世紀後半の有馬氏の当主であった有馬晴信は、キリシタン大名として知られていました。島原半島には、1563年にポルトガルの宣教師が来航し布教を始めた口之津港がありました。キリスト教はこの半島周辺に急速に広まり、この地域は貿易によっても繁栄しました。晴信は、有馬氏が以前に築いた日野江城を居城としていました。彼は、17世紀初めに原城の大改修を行いました。恐らくは新しい本拠地とするためだっと思われます。ところが、彼は原城に移ろうとする前の1612年に、徳川幕府により罰せられてしまいます(岡本大八事件)。彼の息子も1614年に他の地に移されました。

城の位置

有馬晴信像複製、福井県坂井市台雲寺蔵、有馬キリシタン遺産記念館にて展示
現在の口之津港
口之津に来航したヴァリニャーノ神父の銅像

自然の地形を生かし、本丸には豪華な石垣

原城は、有明海に沿ったいくつもの丘陵の上に築かれました。本丸、二の丸、三の丸がそれぞれ独立した丘陵に築かれたのです。これらの丘陵の海際は急な崖になっていました。また、自然の地形を生かした広大で深い空堀によって隔てられていました。そして、陸地側は沼沢地となっていました。すなわち、この城の防御力は非常に高かったのです。特に、本丸は周りを全て石垣によって囲まれていました。虎口と呼ばれる入口は大規模で、食い違いの巨石を使って、ジグザグに進むルートが設定されていました。本丸の中には、天守か大きな櫓がありました。これらの構造物は、城主の権威を表していたと考えられます。二の丸と三の丸は土造りで、恐らくは武家屋敷地として使われていました。有馬氏を引き継いだ松倉氏は、原城を使わず、本拠地として新しく島原城を築きました。原城は1615年に一時廃城となりましたが、少なくとも石垣を含む基礎部分はそのまま残っていました。

原城跡を俯瞰した写真(現地説明板より)

城周辺の起伏地図

本丸に残る石垣
島原城

松倉氏の圧政により島原の乱が発生

松倉氏は、領内の農民やキリスト教徒に圧政を加えました。1612年以降、徳川幕府はキリスト教信者になることを禁じていました。1637年、島原半島の人々は、同じような状況に陥っていた有明海を隔てた天草の人々と一緒に、松倉氏と幕府に対して反乱を起こしました。彼らは公には、カリスマ的なクリスチャンの少年、天草四郎の下に統率されていましたが、実際には有馬氏や他の大名に以前仕えていた浪人衆によって指導されていたのです。反乱軍は最初、松倉氏の本拠地である島原城を攻撃するも失敗しました。そして、自ら原城を修理し、そこに立てこもることにしたのです。その理由としては、彼らは日本の他の地域のキリスト教徒や、ポルトガルのようなカトリック国からの援軍を待っていたのだと言われています。

天草四郎想像図、島原城キリシタン資料館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より
天草四郎陣中旗、天草キリシタン館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

3ヶ月の籠城の後に壊滅

1637年の12月に、婦女子を含む3万7千人が籠城を始めました。幕府からの追討軍は、最初は城を強攻しましたが失敗します。幕府軍の指揮官である板倉重昌(しげまさ)までが、銃撃により命を落としました。城が強力であったことと、その反撃の方法が玄人レベルにあったためです。幕府軍は戦術を変え、12万人の兵力で城を包囲することにしました。この籠城戦は3ヶ月近く続きます。しかしその間、反乱軍に対する援軍はついに現れませんでした。1638年2月の終わりに、守備側の兵糧が尽きたことを見計らい、幕府軍は城に総攻撃をかけました。原城は落城し、反乱軍は壊滅しました。

板倉重昌肖像画、板倉温故会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
島原の乱のジオラマ、有馬キリシタン遺産記念館にて展示

反乱軍の生き残った人々に対する処置は過酷でした。いくらかの逃亡者以外のほとんど全ての人たちは殺されました。多くのクリスチャンたちは、殉教者として自ら処刑されることを望んだといいます。原城は、幕府により完全に破壊され、そして埋められました。処刑された人々の遺体も、城とともに埋められたのです。この地域の領主、松倉勝家は、失政のかどで処刑されました(名誉ある切腹ではなく斬首されました)。島原の乱は、日本の歴史の中の最も大きな悲劇の一つでした。この事件はまた、徳川幕府による鎖国政策の導入を加速することにもなったのです。

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

「原城その2」に続きます。