125.小机城 その2

横浜市の別世界

特徴、見どころ

竹林に覆われた城跡

今日、小机城跡は横浜市によって、小机城址市民の森という公園として保存されています。横浜市は、東京23区を除くと、日本で最も人口が大きい都市で、約380万人の市民が暮らしています。城跡の周りの丘陵地帯でさえ、近代的施設、ビル、住居がひしめいています。ところが、城跡に一歩踏み入れると、そこはまるで別世界のようです。城跡がある丘陵はおおむね、美しく且つよく整備された竹林に覆われています。城の基礎部分は、この竹林の下に残っているのです。

城跡の竹林
公園の案内図

城周辺の地図

根古谷と呼ばれる丘の麓からよく整備された通路を登って行くことができます。

丘の麓部分「根古谷」
通路を登っていきます

広大な空堀

やがて、外郭の土塁の頂上に着くと、曲輪群の手前にある大規模な空堀が見えてきます。この空堀は、今でも約13mの幅と12mの深さがあります。かつてはもっと深かったに違いありません。発掘調査のチームがこの城の他の空堀の底を2m以上掘っても、元々の堀の底には到達しなかったそうです。

大空堀
空堀の底を見下ろす

通路は、空堀の最も高い位置にあたる外郭土塁の上を進んでいますが、堀の傾斜が緩やかになっているところがいくつかあり、そこから堀の底に降りていくこともできます。堀の底に立って上を見上げてみると、この城の新たな一面が見えてくるようです。

土塁の上を進む通路
空堀の底に降りていける場所
空堀の底

発掘中の東ノ曲輪

城跡の正面から見て外郭土塁を右側の方に歩いて行くと、東ノ曲輪に着きます。この曲輪は現地では「二の丸」と表記しています。この曲輪の中央部分では発掘調査が続けられていて、かつてはいくつか建物がありました。

東ノ曲輪の中心部
発掘現場

この曲輪の端で高くなっている土造りの櫓台に登ってみると、そこから曲輪の周りの空堀を見下ろすことができます。

櫓台に登っていきます
櫓台から見える曲輪の周りの空堀

この曲輪周辺の通路は、その空堀の底を通っていて、そこを歩いてみると、この曲輪の周りも美しい竹林によって覆われていることがわかるでしょう。

空堀の底を通る通路
素晴らしい竹林

スポーツ広場となっている西ノ曲輪

正面から外郭土塁を左側に回っていくか、東ノ曲輪からつなぎの曲輪を超えていくと、西ノ曲輪に至ります。この曲輪も現地では「本丸」と称されています。この曲輪の中は広場になっていて、現在では野球などスポーツをするために使われています。この曲輪の入口には、本丸らしく見えるように、模擬的に冠木門が建てられています。しかし実は、歴史家たちは150年以上もこの曲輪が本当に本丸なのか議論しているのです。一部の歴史家は、東ノ曲輪こそが本丸であると主張しています。将来、発掘が進めば、本当のことがわかるかもしれません。

最初に登った通路を左に曲がるか
東ノ曲輪からつなぎの曲輪を超えていきます
西ノ曲輪
模擬的に建てられた冠木門

「小机城その3」に続きます。
「小机城その1」に戻ります。

125.小机城 その1

かつてはよく知られていた小机領の中心地

立地と歴史

鎌倉街道沿いにあった城

小机城は、現在の神奈川県横浜市の北部の丘陵地帯にありました。現代の日本においては、関東地方を含む日本の中心地は東京です。このため、多くの主要道路は東京に集まり、東京から広がっています。そのうちのいくつかは、横浜市東部の海岸地帯を通っています。しかし、17世紀に始まった江戸時代以前には、関東地方の中心地は、武士の都と呼ばれた鎌倉でした。鎌倉街道と呼ばれた多くの主要道路は、その当時は鎌倉に集まり鎌倉から広がっていました。小机城の近くには鎌倉街道の一つが通っており、かつ鶴見川が流れていました。つまり、城がある地は交通の要衝だったのです。

城の位置

東京を中心とした関東地方の道路網(出展:国土交通省)
鎌倉を中心とした鎌倉街道(出展;多摩市、小机城の位置を追記)

「小机領」と「小机衆」

小机城が最初にいつ築かれたかは定かではありません。この城が最初に記録されたのは、1478年に長尾景春が、主家の上杉氏に対して反乱を起こした後です。景春に味方した豊島氏がこの城にいて、上杉氏の重臣であった太田道灌がこれを討伐したのです。それからしばらくして、戦国時代の16世紀に、有力な戦国大名であった北条氏が、関東地方に侵攻するためこの城を橋頭保としました。北条氏は関東地方を制覇しましたが、その後でもこの城の周辺地域を重視しました。彼らはこの地域を、私たちが現在そこを横浜市と言っているように、「小机領」と称しました。また、この地域に住んでいた武士の集団は「小机衆」と呼ばれました。小机城は、この地域と小机衆の中心地であり、北条氏の支城の一つとなりました。現在私たちが想像するよりもずっとよく知られていたはずです。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関東地方に侵攻した時の当主、北条氏綱肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

シンプルな縄張り

小机城は、南側から鶴見川へ向かって北に向かって突き出ている丘陵地帯の端に築かれました。城の縄張りはシンプルで、大きな西ノ曲輪と東ノ曲輪が、細長いつなぎの曲輪により隔てられていました。これらの曲輪は全て土造りでしたが、周りを深い空堀に囲まれていました。曲輪の中にどのような建物があったのかはっきりしませんが、土台の上にいくつか櫓が立っていたと考えられています。更に城の主要部の周りには、丘陵の地形に沿って出丸が築かれていました。

城周辺の起伏地図

小机城の想像図(現地説明板より)

城の強化と廃城

1590年に、天下人の豊臣秀吉が天下統一を果たすため北条の領土に侵攻してきました。北条は各地の支城に対して、本拠地の小田原城に武士たちを集めるように命じました。小机城を含む支城においては、より少ない人数で城を守らなければならなくなったのです。小机城の城主(北条氏光といわれています)は、城を守るため農民を徴兵することにしました。このときに、城の空堀はより大きく、よく深くなるよう拡張されたと考えられています。少ない武士や未熟な守備兵でも城を守れるようにするためです。これが、現在私たちが見ることができる城跡となったのです。しかし、実際には戦いは起こりませんでした。北条が秀吉に対して降伏すると、城は明け渡され、ついには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小机城の空堀

「小机城その2」に続きます。