206.浦添城 その2

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。

特徴、見どころ

Introduction

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。ご紹介する順番は、ゆいレールで行ける浦添城と首里城を続けるのではなく、建国ストーリーに沿って古い方からにします。

那覇空港到着ロビー

それでは最初の浦添城に向けて出発しましょう。空港からゆいレールに乗り込めば、最寄りの浦添前田駅に到着します。

ゆいレール(那覇空港駅)
浦添前田駅

浦添城 遺跡パート

浦添城跡は「浦添大公園」の一部(歴史学習ゾーン)になっていて、南エントランスから入っていきます。

浦添城跡の現地案内板

駐車場の脇の坂を登って行くと、古そうな道になってきます。これが復元整備された、首里城と結ばれた石畳道の一部です。

復元整備された石畳道

登った先に、石垣が見えてきます。埋もれていたオリジナルの城壁の石垣が、発掘により姿を現したのです。

発掘された石垣

更に登って行くとその途中に、尚寧王が建てた、石畳道の完成記念碑(浦添城の前の碑)が復元されています。南側への展望が開けた場所で、遠くに首里城も見えます。

浦添城の前の碑
城跡南側の眺め
再建中の首里城(2024年11月下旬時点)

丘の上は、戦災や採石の影響で、遺跡はほとんど残っていません。正殿跡と思われる場所や、浦添尚家の屋敷跡と言われる石の基礎が残っています。

丘の上
正殿跡と思われる場所
浦添尚家の屋敷跡とされる場所

グスク内の祈りの場所であった「ディーグガマ(デイゴの樹があった御嶽)」の跡が残っています。沖縄戦のときは、住民の避難場所だったそうです。

ディーグガマ

丘の上からの景色を眺めてみましょう。説明パネルがあって「ハクソー・リッジ」とあります。激戦があった場所です。見晴しがいいことで、戦いの場になってしまったのです。景色を楽しむことができる世の中が続いてほしいです。

城跡南側の眺めと「ハクソー・リッジ」の説明パネル

すこし遠くの方(東側)になりますが、この場所を象徴する見どころがあります。大きな岩が立ちはだかっています。ワカリジー、通称「為朝岩」です (米軍の通称「ニードル・ロック」)。その通称は比較的新しいもの(近代)のようですが、この岩も聖地の一つでした。浦添市で一番標高が高いところ(約148m)です。

ワカリジー

遺跡見学の最後に、慰霊碑に行ってみましょう。来た方から反対側(北側)を下った所には、「前田高地平和の碑」があります。ここでの戦いで多くの犠牲者を出した部隊(第24師団32連隊)の慰霊碑です。

前田高地平和の碑

そして、ディーグガマ近くの、沖縄戦戦没者を祀った「浦和の塔」です。ここであったことを忘れないようにして、平和をお祈りしましょう。

浦和の塔

浦添城 復元パート

次は、浦添城の復元されたアイテムを見に行きましょう。西側の方に下っていくと、復元された石垣の城壁が見えてきます。こんな城壁が何百メートルも続いていたのです。その周囲を巡っていた城壁を復元することが計画されています。

復元された城壁

この城壁の下の方に復元された「浦添ようどれ」があります。「ようどれ」とは「夕凪(ゆうなぎ)」を表す言葉で、静かな場所・極楽を意味するとも言われます。ようどれに入ると、「暗しん御門(くらしんうじょう)」「二番庭(なー)」「中御門(なーかうじょう)」「一番庭」と進んで墓室の前までは見学できることになっています。(2024年11月下旬時点では「落書き事件」の影響で一時閉鎖中でした)

浦添ようどれの現地案内板
ようどれの入口付近
ようどれの一番庭(墓室前)(Wikimediaより)

浦添ようどれの全景を眺めてみると、曲線の石垣が組み合わされていて、優雅で雄大に感じます。王城というのにふさわしい場所です

浦添ようどれ全景

「浦添グスク・ようどれ館」では、普段でも入れない墓室(西室・英祖王陵)が再現されています。

浦添グスク・ようどれ館

中には3つの石棺(1号〜3号石棺)がありますが、調査の結果によれば(「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」による)、最初は、洞窟の中に建物があって、木製の棺を使っていたそうです。それが、尚巴志王統(第一尚氏)時代以前に、石棺に置き替えられたとのことです。そして1号石棺の方が古く、あとの2つはデザインが似ているので同じ時期に作られた可能性があります。

再現墓室、右側から2号石棺、3号石棺、1号石棺

それでは中に入ってみましょう。例えば、1号石棺の側面には仏像の彫刻があります。

1号石棺の仏像彫刻

2号石棺には、中世本土人の特徴(出っ歯)がある頭蓋骨が入っていました。こんなお墓に入れる本土人がやって来たのかもしれません。

2号石棺

3号石棺にはお骨まで再現されています。埋葬当初は、きれいな布にくるまれていたそうです。

3号石棺

尚巴志ゆかりの地へ

尚巴志の故郷、佐敷城(佐敷上グスク)跡に行ってみましょう。グスク一帯が神社になっています。尚巴志一族を祀るために「月代宮(つきしろのみや)」として建てられたものです。

佐敷城跡入口

中腹のグスクの遺構があるところ(二の郭)まで登ると、神社への参道があります。遺構の説明は所々にはありますが、普通の神社と言われたら、そう思ってしまうかもしれません。

二の郭
内原の殿
上グスクのカマド跡
上グスクの嶽
親井

グスクとしては土造りで、他に見られる本格的な石垣は発見されていないそうです(土留めの石組は発見された)。この辺りでは石材が採れない事情もあったようです。お宮があるところがグスクの中心部で、尚巴志が住んでいたのでしょう。

月代宮(一の郭)

木々の向こうには海が見えます。尚巴志が刀を鉄と交換したエピソードもあるので、交易をやっていたのでしょう。このグスクは、英雄の出身地としては地味かもしれませんが、尚巴志は、お金やパワーを、グスク以外のところに使っていたのではないでしょうか。

二の郭からの眺め

続いて、尚巴志の統一事業の足掛かりになった島添大里城の跡に行きましょう。高台にあって、広々としています。南山王国の本拠地だったとも言われています。

島添大里城跡(二の郭)

グスクの中心部に向かってみると、崩れた石垣が散らばっています。現在は公園になっていますが、戦中戦後に採石されてしまったとも、首里城建設のために持ち去られたとも言われています。

残存している石垣

中心部の一の郭には、かつて正殿がありました。近くの一番高い所に拝所跡(ウティンチヂ)があります。物見台にもなっていたと思われます。

一の郭
拝所跡(ウティンチヂ)からの眺め

他にグスクらしい見どころとしては、「カニマン御嶽(うたき)」があります。

カニマン御嶽

あと、おもしろいのは、グスクの外に設けられた「チチンガー」です。地下8メートルのところにある井戸です。現在も農業用で使われているそうです。井戸であっても、神聖な感じがします。

チチンガー(入口)
チチンガー(通路)
チチンガー(底にある井戸)

首里城の今

いよいよ今回最後の目的地、首里城です。龍潭の畔から眺めると、着々と再建が進んでいることがわかります。

龍潭から見た首里城

さすが沖縄屈指の観光地、再建中でも賑わっています。有名な守礼門から入っていきましょう。

守礼門

外郭の正門「歓会門」の前に来ました。首里城がこのような姿になったのは、15世紀後半の尚真王の時代です。尚巴志の頃はこの門はなかったのですが、琉球国最古の現存絵図(1453年「琉球国図」)によると、王城(首里城)には、石垣で囲まれた内郭と、柵や土塁で囲まれた外郭と思われる部分が描かれています。これは、石垣と土塁を併用した浦添城のスタイルを引き継いだとする意見があります。

歓会門
「琉球国図」の首里城部分(沖縄県立博物館・美術館にて展示)

次は、内郭の正門「瑞泉門」です。ここからが、先に整備された範囲ということになります。漏刻門、広福門と進んで、グスクの中心部に入ります。ここから先は工事中で、大きな素屋根(すやね)は、風雨を防ぐために設置されています。

瑞泉門
漏刻門
広福門
グスク中心部

正面の奉神門は火災で損傷を受けましたが、修復されました。本来その先が御庭(うなー)なのですが、現在(2024年11月下旬時点)は復元工事の見学コースが設定されています。

奉神門
素屋根の建物に描かれた御庭と正殿
復元工事の見学コース通路

見学コースでは、被災した建物の残骸、木材倉庫・加工場見学エリア、素屋根見学エリアなどを見て回ることができます。復元工事は、2026年秋の正殿完成を目指して進んでいます。

被災した龍頭棟飾
被災前の龍頭棟飾
木材倉庫・加工場見学エリア
素屋根見学エリア
正殿の屋根
素屋根建物の裏側

見学コースから出たら、首里城最高地点の 「東(あがり)のアザナ」に行ってみましょう。標高約140メートルあって、物見台だったところです。昔は見張りのための場だったのでしょうが、今は景色を楽しむ場になっています。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(浦添城方面)
東のアザナからの眺め(正殿及び那覇市街方面)

リンク・参考情報

うらそえナビ
沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)
那覇市歴史博物館
らしいね南城市
首里城公園
・「県史シリーズ47 沖縄県の歴史/安里進著」山川出版社
・「日本人として知っておきたい琉球・沖縄史/原口泉著」PHP新書
・「琉球王国 -東アジアのコーナーストーン/赤嶺守著」講談社
・「琉球史を問い直す: 古琉球時代論/吉成直樹著」森話社
・「琉球王国の形成―三山統一とその前後/和田久徳著」榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編、 諸見友重訳」榕樹書林
・「尚氏と首里城(人をあるく)/上里隆史著」吉川弘文館
・「歴史群像144号 戦国の城 浦添グスク/上里隆史著」学研
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」吉川弘文館
・「史跡浦添城跡整備基本計画書(平成 30 年度改定)」浦添市教育委員会
・「浦添ようどれⅠ 石積遺構編 史跡浦添城跡復元整備事業に伴う発掘調査報告」浦添市教育委員会
・「浦添市平和ガイドブック」平成27年4月版 浦添市
・「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」高屋麻里子氏論文
・「石材と人間の民族的・歴史的関わり」神谷厚昭氏(沖縄県立博物館)論文

「浦添城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

100.首里城(Shuri Castle)

二度と火事に会わないためには、どうすればよいのでしょうか?
What should be the plan to prevent the next fire?

火災前の首里城正殿(The Main Palace of Shuri Castle before the fire)taken by 白飯愛好家 from photoAC

何が起こったか~What happend?

2019年10月31日の夜明け前、沖縄の首里城に悲劇が起こりました。火災事故により、正殿、北殿、南殿を含む少なくとも7棟の城の建物が焼失したのです。わずか2、3時間の間のことでした。これらの宮殿の復元は、30年以上の工事期間と総額約260億円(約2.4億米ドル)の費用をかけ、この2月に完成したばかりでした。せめてもの救いはけが人がいなかったことです。更には約1500点の収蔵品のうち、401点は建物と共に燃えてしまいました。
Before dawn on October 31, 2019, a tragedy happened to Shri Castle in Okinawa. At least 7 buildings of the castle including the Main, the South and the North Palaces, were burned down by an electrical fire. They were lost in only 2 to 3 hours. The restoration of the Palace had been completed last February after over 30 years of construction with a total cost of about 26 billion yen or 240 million dollars. It was a consolation that no one was injured. In addition, out of about 1,500 collected items, 401 of them were burned with the buildings.

首里城火災の映像(A picture of the fire of Shiri Castle)NHK news web より引用

火災現場は現在事故検証中であり、一般の立ち入りは禁止されています。火災の原因はいまだ解明されていませんが、わかっていることは火災は正殿の1階から発生したこと、建物にある配電盤にショートした痕跡があることです。専門家は電気トラブルが火災を引き起こしたのではないかと言っています。更には城の赤い色のための特別な伝統的塗料についても指摘しています。その塗料には「桐油」と呼ばれる油分の多い成分が含まれており、それが火災を加速させたのではということです。
The site of the fire is under investigation and visitors are prohibited from entering. The real cause of the fire is still uncertain. The fact is that the fire came out of the first floor of the Main Palace, and there is evidence of short-circuit in a power distribution panel at the building. Specialists suggest that an electric problem might have caused the fire. They also point out the possibility of special traditional paint for the castle’s red color being a factor. It contains more oil called “china wood oil” than usual which might also boost the fire.

歓会門、2019年11月時点ではここから先には行けない(The Kankai Gate, Visitors can’t go inside in November 2019)

他からの指摘として、首里城は火災への備えが十分でなかったこともあります。スプリンクラーの設置が推奨されていましたが、実行されていませんでした。消防士が現場で放水銃を使いましたが、首里城は閉じられた空間のためうまく機能しませんでした。
Others argue that the castle didn’t have enough equipment for fires. Setting sprinklers were recommended, but it wasn’t done. Firemen used water guns, but they didn’t work well because of the castle’s closed area.

屋根と柱だけが残っている北殿(The North Palace whose only roof and pillers survive)

いずれにしろ、この出来事は沖縄社会に負の影響を及ぼしています。今のところ沖縄行きツアーのキャンセルは少ないものの、城の周りの店舗の売上は急減しています。沖縄の人々は経済的な面だけでなく、メンタル面での将来の影響をも危惧しています。
Anyway, the event is having a negative impact on Okinawan society. Though few tours to Okinawa have been canceled so far, shops around the castle have suffered a significant drop in sales. People in Okinawa are worried about their future of industry as well as mentality.

守礼門は無事で、現在も見学可能(The Shurei Gate is intact, and visitors still can see it)
王家の陵墓で世界遺産の「玉陵」も見学可能(You can also see “Tama-udun” which is the imperial mausoleums and a cultural site on the World Heritage List)

立地と歴史~Location and History

首里城がいつ最初に築かれたかは定かではありません。15世紀に最初の琉球(沖縄の前の名前)王となった尚巴志が宮殿をここに置いてから重要な存在となりました。首里は周辺からは小高い位置にあり、更に国際港となった那覇が近くにありました。王朝の首都としてふさわしい位置にあったのです。
It is uncertain when Shuri Castle was first built. It became important when Sho Hashi, the first king of Ryukyu (the former name of Okinawa), placed his imperial palace in the castle in the 15th century. Shri is a hilly area around and near Naha port that also became international. Its location deserves the capital of the dynasty.

首里城と那覇港の位置関係(The location of Shuri Castle and Naha Port)

ところが、築城以来この城は事故や戦争による火災に何度も見舞われます。そしてその度に再建されました。しかし、1945年の第二次世界大戦時の米軍からの攻撃による4回目の火災の後はしばらく放置されていました。米軍の軍政下であった1950年からは、城跡は琉球大学として使われていました。沖縄の日本復帰後、1984年までには大学は他の土地に移っていきます。そして、日本政府は1986年から首里城の直近の再建を開始したのです。1992年から首里城公園として一般に公開されています。
However, since it was founded, the castle has suffered fires several times from accidents and wars. It has also been restored each time. But the castle was abandoned for a while after the fourth fire caused by the attack from the US Army in World War II, 1945. The ruins of the castle have been used by the Ryukyu University since 1950 under the governance of the US Army. After Okinawa’s reversion to Japan, the university was moved to another location until 1984. Then, the Japanese government launched the last reconstruction of Shri Castle in 1986. The Shurijo Castle Park has been open to the public since 1992.

戦前の正殿(The Main Palace before the war)licensed under Public Domain via Wikipedia Commons
1960年代の城跡にあった琉球大学(Ryukyu University on the ruins in the 1960’s)licensed under Public Domain via Wikipedia Commons
首里城での祭り(A festival at Shuri Castle)taken by 栄典 from photoAC

これからどうなる?~What will happen?

火災の後直ちに安倍晋三首相は、政府は責任をもって首里城を復元すること、地元の人たちの声を聞きながら財政面でも支援するとの声明を発表しました。政府は既に復元の原案を作成しており、新しい建物は原則として以前と同じもので、スプリンクラーや地下倉庫などの安全装備が加わっている内容です。また、建物が完成するまでは城の仮想映像を映し出すとのことです。一方で世界中から多くの寄付が集まっており、その総額は10億円を超えています。
Immediately after the fire, Prime Minister Shinzo Abe stated that the government has a responsibility to restore the castle, and will support the locals with consulting as well as funding. It already shows the basic plan of the restoration which indicates that the new castle will basically be the same as the old one, with the addition of security equipment such as sprinklers and underground warehouses. The plan also says a virtual image of the castle will be projected until the completion of the buildings. On the other hand, a large donation has been gathered with a total of over 1 billion yen from all around the world.

火災前の首里城遠景(A distant view of Shuri Castle before the fire)taken by あばさー from photoAC
火災後の首里城遠景(A distant view of Shuri Castle after the fire)

私の意見~My Opinion

私は、以下の理由で城の再建を急ぐべきでないと思います。城の主要な建物は伝統的な木造建築により建てられています。それには多量の木材が必要であり、沖縄では小さく狭い島域のため、自己調達はできません。前回の再建では台湾から調達できました。しかしながら今回仮に台湾の了解を得られたとしても、環境問題となりかねません。更には、伝統的建造物は基本的に電気設備を前提に作られていません。材料の一部は現在の技術を使い、耐久性があり、入手が容易で、かつ外観はオリジナルに近いものに変えられるべきでしょう。再びの火災を防ぐためには、これらの問題を解決するための時間が必要です。
I think we should not hurry to rebuild the castle for the following reasons. Primary buildings of the castle were built in traditional wooden style. It requires a lot of wood lumbers that Okinawa can’t produce by themselves because the island is small and narrow. In the last reconstruction, Taiwan offered these materials. However, this time, even if Taiwan agrees to offer it again, it can cause environmental problems. In addition, traditional buildings are essentially not compatible with electric equipment. Some of them should be changed to new materials which are durable, accessible, and similar to the original appearance with current technology. We need enough time to solve those issues to prevent the next fire.

ライトアップされた火災前の首里城(The illuminated Shuri Castle before the fire)taken by せいじん from photoAC

ここに行くには~How to get There

那覇空港から:
車を使うときは、現地まで40分から1時間かかります。公園に地下駐車場もあります。
電車を使うときは、那覇空港駅から首里駅までゆいレールに乗ります。30分近くかかります。その後、首里駅から首里城まで歩いて15分くらいです。首里駅前バス停から首里城前バス停までバス(1、4、346番)で行くこともできます。
From the Naha Airpot:
When using car, it takes 40 minutes to 1 hour to get there. The park offers an underground parking lot.
When using train, take the Yui Rail train from Naha Airport station to Shuri station. It takes nearly 30 minutes. Then, the castle is about 15 minute walk from Shuri station, or take a bus (No.1, 14, or 346) from the Shuri-Eki-Mae bus stop to the Shuri-Jo-Mae bus stop.

リンク、参考情報~Links and References

首里城公園(Shurijo Castle Park)
NHK NEWS WEB(Only Japanese)
・「尚氏と首里城/上里隆史」吉川弘文館(Japanese Book)