178.能島城 その2

宮窪町漁協・能島水軍の前に来ています。ここでは、地元の魚を使った料理を味わえますし、なんといっても、ここから能島上陸ツアーが出発するのです。今回は、能島城現地レポートが中心になるのですが、その前後では、最大10ノットの海峡の潮流も体験できるのです。

イントロダクション

宮窪町漁協・能島水軍の前に来ています。ここでは、地元の魚を使った料理を味わえますし、なんといっても、ここから能島上陸ツアーが出発するのです。今回は、能島城現地レポートが中心になるのですが、その前後では、最大10ノットの海峡の潮流も体験できるのです。最後の方で、向かい側にある、村上海賊ミュージアムにも立ち寄ってみたいと思います。それでは、いよいよ上陸船に乗り込みます。席についたので出発です。

宮窪町漁協・能島水軍
能島水軍レストランの料理の一例

それでは、いよいよ上陸船に乗り込みます。席についたので、いよいよ出発です。

上陸船に乗り込みます
能島荒神丸
いよいよ出発です

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

城の堀?すごい潮流

沖に出ると、見る見る島が迫ってきます。まるで軍艦島のようです。曲輪の形がはっきりわかります。

島が見る見る迫ってきます
船から見える能島

そのとなりにある島が「鵜島」です。島の間は、すごい潮の流れです。この島には、村上海賊の軍船の造船所や、メンテナンス場(焚で場)があったそうです。

鵜島
海峡の急流や鵜島の砂浜が見えます

船は能島に急接近していきます。スリル満点です。

能島に急接近します
矢びつ出丸が大写しです

城周辺の航空写真

矢びつ出丸の周辺が、もっとも激しい潮流ポイントです。まるで、川の激流です。これが、堀と同じような役割で、お城を守っていたのでしょう。しかし、この船もこの中でよく留まっていられると思います。現代の村上海賊、といったところでしょうか。

矢びつ周辺の潮流
川の流れのようで、城にとっては堀です
ここで静止状態を保てるなんてすごいです

次は「船だまり」です。島の中では潮流が穏やかな部分なので、荷揚げや船の係留に使われたとのことです。そういう場所なので、城の岩礁ピットや武者走りがよく保存されていて、船上から見学することができます。

船だまり
武者走りに残る岩礁ピット

船だまりから、海中の岩礁を避けて、一旦沖に出ます。そして再び能島に接近です。岩礁のせいか、波が浮き立つようです。現代風のポートが見えてきました。ついに上陸です。

三の丸の沖を回り込んでいます
船着き場がある南部平坦地

城の島に上陸!

それでは、上陸しましょう!島の上ではガイドさんに付いていきます。

船着き場から上陸します
ガイドさんに引率されます(南部平坦地)

上陸した場所は、島で一番低い「南部平坦地」で、城があった時から埋め立てが進められていました。荷揚げや漁具の手入れなど、作業ヤードとして使われたと考えられます。

城周辺の地図

園路に沿って進んでいきます。登ったところが三の丸で、入口辺りに礎石建物跡があって、倉庫だったと考えられています。三の丸は思ったより広々としています。他にも住居か倉庫の跡が発見されています。物見やぐら(井楼)かもしれない跡もあるそうです。

礎石建物跡のある辺り
三の丸

伯方・大島大橋の下に見えるのが、見近島です。交易の拠点だったかもしれない島です。

向こうに伯方・大島大橋と見近島が見えます

三の丸から見まわしてみると、対岸が伊予大島です。それから四阿の先には、目一つの鼻、という突端があって、鍛冶場だったという伝承があります。船だまりも見えます。

対岸の伊予大島
目一つの鼻
船だまり

次は、二の丸です。一段高いところにあります。こちらも建物跡がたくさん発見されていて、やはり住居か倉に使われたのではないかとのことです。特に三の丸と接続するところで、高級な海外製陶磁器が見つかるそうです。お宝をしまう蔵だったのでしょうか。

二の丸
能島城で出土した高級陶磁器、村上海賊ミュージアムにて展示

二の丸は、本丸をぐるりと取り囲んでいます。本丸の脇を歩いていることになります。

本丸を取り囲んでいる二の丸

北東隅の「矢びつ」出丸が見えるところまで来ました。矢びつ(櫃)とは、矢を入れる道具の意味なので、武器庫があったと言われていますが、建物の跡ではなく、一列に並んだ杭の跡があったそうなので、弓矢の練習場ではないかとも言われます。それに、矢びつの周りは、来るときに見た、激しい潮が流れています。上から見ても、そのすさまじさがわかります。

二の丸から見た「矢びつ」出丸

本丸で当時を感じよう!

次はいよいよ本丸です。本丸への階段を登ります。本丸についてみると、鵜島の向こうの海峡(船折瀬戸)を行く船までよく見えます。

本丸への階段
船折瀬戸に向かう船

本丸は、城で標高が一番高いところで、約25メートルあるのですが、自然の島の頂上を10メートルほど削って整地したそうです。建物跡が発見されていて、物見やぐらだったかもしれません。

本丸

しかし、今のままでも、周りの海峡や島々が一望できます。360度パノラマビューです。本丸からは面白いものが発見されています。大量の「かわらけ」です。かわらけとは、儀式や宴会で使われた、使い捨ての素焼きのお皿です。満天の星の下、海賊たちがここで宴会を楽しんでいたかもしれません。

本丸からの眺め(北方向)
本丸からの眺め(南方向)

次は、東南出丸です。その先に鯛崎島があって、かつては橋でつながっていたという伝承があります。ここでも、かわらけが出土しているのですが、ここで地鎮祭が行われたと考えられています。

東南出丸から見た鯛崎島
鯛崎島と橋でつながれた能島城の想像図、村上海賊ミュージアムにて展示
東南出丸から出土したかわらけ、村上海賊ミュージアムにて展示

下の方を見ると、岸が人工的に加工されています。武者走りでしょうか、岩礁ピット含め、島を囲んでいるようです。まさに島中が城だったのです。

東南出丸の下に見える武者走りか

わたしたちの上陸地点(南部平坦地)も見えてきました。そちらに向かって戻ります。その途中で、当時の城内通路の遺構を見ることができます。船が迎えにきました。

答案出丸から見た南部平坦地
帰り道
城内通路の遺構
帰りの船

また潮流を感じて帰還

能島を離れます。すごい快速で、すぐに鯛崎島まで来てしまいました。この周辺も潮流が複雑で、その流れが海の芸術のようです。

船着き場を離れます
能島(奥)と鯛崎島(手前)
鯛崎島周辺の潮流

鯛崎島にはお地蔵様がいて、そのお地蔵様が魚たちと、干潮で動けなくなったクジラを救った「クジラのお礼まいり」という民話があります。島の上には弁天様もいます。

鯛崎島の石地蔵

最後の潮流ポイントに向かいます。そこは、愛媛県有数の漁場なのだそうです。能島水軍レストランで出る魚もここでとれるのでしょうか。渦のような潮流が沸き上がる海面に、空の雲が映って、なんとも言えない絵柄です。そうこうするうちに、港に帰って来ました。

最後の潮流ポイントへ
幻想的な海面
港に帰還

関連史跡

近くにある村上海賊ミュージアムにもきてみました。外に、復元された小早船があります。海賊が使った小型船のことで、なかなかかっこいいです。中の展示も充実しています。例えば、岩礁ピットと武者走りについての展示があって、上陸ツアーと一緒に見ると、とても勉強になります。

村上海賊ミュージアム
復元された小早船
岩礁ピットと武者走りについての展示

更に、芸予諸島の要所の一つ、来島海峡に行ってみました。ここも素晴らしい景色です。ここにも村上海賊がいて、来島村上氏の本拠地がありました。それが来島城で、城があった島も一緒に眺めることができます。今でも人家があって、その代わり、史跡らしくはないようです。すぐに出動できるところに城があったことだけはわかります。

来島海峡
来島城跡

リンク、参考情報(追加分)

・「村上水軍全史/森本繁著」新人物往来社
・「村上水軍全紀行/森本繁著」新人物往来社
・「史跡能島城跡 保存活用計画/令和2年3月」今治市教育委員会

「能島城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

29.松本城 その3

天守一階の武者走りの通路沿いには多くの防御の仕組みが備わっています。石落とし、鉄砲狭間、矢狭間、武者窓などです。例えば、この天守には合計で117もの狭間が設けられています。これらは皆実戦を想定した本物なのです。

特徴、見どころ

天守を支える仕組み

天守に入場するにはまず黒門を経由して本丸に入ります。天守は不安定な地盤の上に約千トンもの重量があります。そのため、天守台石垣の中に16本の太い土台支持柱が埋め込まれて立っているのと、その上には「梯子胴木(はしごどうぎ)」と呼ばれる梯子状の木枠土台が載せられています。

黒門
天守入口
取り替えられた土台支柱柱のうちの一本、天守一階にて展示
16本の土台支柱柱の配置図、天守一階にて展示
大天守下部の構造図、大天守一階にて展示

実戦的な内装

天守一階に入ると、天守を支える多くの柱を目にするでしょう。一階は身舎(もや)と呼ばれる中央部分と、武者走り(むしゃばしり)と呼ばれる周りを囲む通路状のスペースに分かれています。中央の部屋は倉庫として使われていて、通路からは約50cmほど高くなっています。これは、土台がこの部分だけ二重になっているからです。

天守一階(身舎)
天守一階(武者走り)、左側の身舎が一段高くなっています

武者走りの通路沿いには多くの防御の仕組みが備わっています。石落とし、鉄砲狭間、矢狭間、武者窓(格子窓)などです。例えば、この天守には合計で117もの狭間が設けられています。これらは皆実戦を想定した本物なのです。

天守一階の防御装置
石落とし
外から見た一階部分

次の階へは急な階段を登っていきます。二階は一階と似ていますが、幅広な武者窓やその他の窓によって中は明るくなっています。ここは、非常事態が発生したときの武士たちの待機場所となっていました。今は「松本城鉄砲蔵」として使われています。

天守二階の武者窓(格子窓)
二階内部
「松本城鉄砲蔵」の展示

特徴ある各階

対照的に三階は窓がない屋根裏となっているのでとても暗いです。主に倉庫として使われたと考えられています。

天守三階

四階も他のどの階とも異なっています。この階にはあまり柱がなく、天井は高く、中も明るく作られています。よって、城主の御座所として使われたとされています。四階から五階に登る階段は、高い天井のために最も急になっています。気を付けて登ってください。(恐らく安全と円滑な移動のため、天守内での階段近辺撮影は禁じられています。)

天守四階
五階への階段を離れて撮影

五階の内装は面白いもので、四方が破風の裏側によって囲まれています。この階は重臣たちの会議所として使われたと考えられています。

天守五階
破風の裏側
外から見た五階(四層目)部分

そしてついに最上階(六階)に到着します。地面から22mの高さの場所です。ここには高欄が設けられる予定でしたが変更され、その外側に壁が作られました。床面には高欄とその内側を分ける仕切りが見て取れます。よって、外の景色を見るには壁越しの金網を通してということになります。ここは戦の際の指揮所として使われたと考えられています。最上階の屋根裏を見上げると、江戸時代の大火のときにこの天守を救ったと信じられている二十六神が祀られているのが見えます。

天守最上階
高欄となるはずだった部分
金網越しの景色
屋根裏に祀られた二十六夜神

その後

明治維新後、天守を除く全ての城の建物は撤去されて、天守もついに解体され廃材となるべく売却されてしまいました。そのとき、社会運動家の市川量造(いちかわりょうぞう)が現れ、買主に天守の取り壊しを待ってもらうよう要請しました。その後、彼は博覧会を開き、買い戻しの意義を説き、資金を集めることで買い戻しに成功したのです。ところが、それだけでは十分ではありませんでした。このような巨大で古い建物を長期間保存するには継続的なメンテナンスが必要です。明治中期には、天守は柱の腐りから6度傾いてしまい、中にはコウモリが住む有様でした。ここでもう一人の救世主、学校の校長であった小林有也(こばやしうなり)が登場し、城の修復に尽力しました。そして1952年には国宝に指定されました。更には近年、主要な門であった黒門と太鼓門が再建されています。松本市は大手門も復元することを検討しています。

本丸内になる市川量造(左)と小林有也(右)の記念碑
明治時代の天守写真、松本城管理事務所蔵 (licensed under public domain via Wikimedia Commons)

私の感想

結論として、実は天守がいつどのように築かれたかは正確にはわかっていません。この記事で紹介している天守の創建は、松本市の公式見解に基づいています。他説としては、乾小天守が最初に作られ、後に大天守が追加されたときに改修されたというものがあります。より新しい形式の層塔型に似た外見を持っているからです。また、大天守は当初は今と違う姿をしていたという説もあります。そのときには最上部に高欄があり今より多くの破風があったが、後に改造されたというものです。歴史ファンにとっては、どれが本当なのかいろいろ考えてみるのも楽しみの一つです。

左側が乾小天守
乾小天守内部、丸太柱が多く使われているのが最初に作られた根拠の一つとのことです

ここに行くには

車で行く場合:長野自動車道の松本ICから約20分かかります。城周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、松本駅から歩いて約15分かかります。
東京から松本駅まで:北陸新幹線に乗って長野駅で篠ノ井線に乗り換えるか、新宿駅から特急あずさ号に乗ってください。

リンク、参考情報

国宝 松本城、公式ホームページ
・「図説 国宝松本城/中川治雄著」一草舎
・「シリーズ藩物語 松本藩/田中薫著」現代書館
・「城の科学/萩原さちこ著」講談社ブルーバックス
・「よみがえる日本の城14」学研
・「日本の城改訂版第3号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「松本城その1」に戻ります。
「松本城その2」に戻ります。

105.白石城 その3

旧城下町のエリアにも、白石城に関する見どころがいくつもあります。まず挙げられるのは、城の北側の三の丸にある武家屋敷です。この武家屋敷は、1730年に建てられたことが確認されています。

特徴、見どころ

天守内部

天守の中へは、本丸の内側から覆屋におおわれた石段を登って入っていきます。実はこの石段は、本丸御殿の「御成御殿」と同じように、藩主の伊達の殿様専用でした。他の藩士は天守のとなりの附櫓(つけやぐら)にあった通用口から出入りしていました。

本丸内側から見た天守
天守模型の入口にも覆屋が付けられています
天守入口の石段

天守は三階建てで、全て木材による伝統的工法で復元されました。柱は吉野檜で、約250年持つということです。一階のレイアウトは発掘によって明らかになり、中央部分が武具の保管庫、その周りが武者走りとなっています。武者走りと壁沿いには、石落とし、狭間、格子窓などの防御システムが備えられています。

天守一階
中央には鎧兜が展示されています
格子窓(左)と石落とし(右)
狭間

上層階への階段はとても急ですが、オリジナルよりは緩やかで、補助の手すりも付いています。二階と三階のレイアウトは資料がなくて不明であるため、想定復元されていますが、オーソドックスな作りになっています。最上階(三階)は物見台になっていて、恐らくそれが正しいでしょう。現在ではビジターにとって快適な展望台となっています。

急な階段(二階部分)
最上階
最上階からの眺め
本丸と市街地の眺め

城下町の見どころ

旧城下町のエリアにも、白石城に関する見どころがいくつもあります。まず挙げられるのは、城の北側の三の丸にある武家屋敷です。この武家屋敷は、1730年に建てられたことが確認されています。片倉氏の配下で、中級クラスの武士であった小関氏が長い間住んでいました。その子孫の方も1991年まで住んだ後、白石市に寄贈したのです。市は住居をかつてあった状態に復元し、翌年一般公開しました。

旧小関屋敷

市街地周辺の航空写真

茅葺屋根の小さく簡素な屋敷で、部屋が4つあります(板間の茶の間と納戸、土間の台所、畳間の座敷)。建物が小さいのは恐らく、白石の藩士が伊達家に直接使える藩士に比べて比較的収入が少なかったからと思われます(小関家の場合は石高換算で15.5石、伊達家で中級とされたのは少なくとも30石以上だったようです)。それでも、沢端川が屋敷の2面を流れていて(屋敷の角で曲がっています)とてもよい立地です。

茶の間(居間)
座敷(現場では「なかま」と呼ばれています)
屋敷にある庭
沢端川が隣接しています

それ以外には、街の中を水路沿いに歩いてみたり、當信寺(とうしんじ)や延命寺(えんめいじ)では移築された城門を見学することができます。

當信寺にある旧東口門
延命寺にある旧厩口門(修繕中)

私の感想

振り返ってみると、白石城は2度の例外適用によって生き残ってきたことになります。一度目は江戸時代に幕府によって発布された一国一城令のときです。二度目は現代の権鞠基準法に関するものです。それに加えて、片倉氏や現在の白石の人たちの大いなる貢献がなければ、城の天守を目にすることはなかったと思うのです。

復元された天守

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の白石ICから約10分かかります。
城がある丘の東側に「城下広場」があり、駐車場として使用できます。
公共交通機関を使う場合は、JR白石駅から15分程度歩くか、東北新幹線の白石蔵王駅からタクシーで約5分かかります。
東京から白石駅まで:東北新幹線に乗って、福島駅で東北本線に乗り換えてください。

白石駅

リンク、参考情報

白石城 公式ホームページ
・「日本の城改訂版第50号」デアゴスティーニジャパン
・「よみがえる日本の城17」学研
・「よみがえる白石城」碧水社
・「仙台藩の武士身分に関する基礎的研究」堀田幸義(宮城教育大学)の論文

これで終わります。ありがとうございました。
「白石城その1」に戻ります。
「白石城その2」に戻ります。

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