103.浪岡城 その1

「浪岡御所」の城

立地と歴史

東北地方で権威があった北畠氏が築城

浪岡城は、現在の青森県中部、青森市にありました。15世紀後半に北畠氏が築いたと言われています。北畠氏はもともと南北朝時代の14世紀に、南朝を支えていた貴族でした。南朝は北畠顕家を東北地方に、北朝と対抗してその地を治めるために送り込みました。顕家はやがて中央の方に戻っていきますが、彼の親族は東北地方に残り、南朝を支持していた南部氏の庇護を受けました。

北畠顕家肖像画、霊山神社蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

足利幕府が君臨していた室町時代の15世紀前半、南部氏と安東氏は、現在青森県である北東北地方を巡って度々争いました。しかし、彼らはついに妥協を図り、15世紀後半に講和を結びました。そのとき、北畠氏が講和の調停者として注目されるようになったと考えられています。浪岡城の周辺は、東の南部氏と西の安東氏の領地の中間地点に当たっていたのです。

城の位置

そこはまた交通の要地であり、城は交易で栄えました。北畠氏の権威は、朝廷が北畠氏に高い官位を与えていた16世紀前半にピークを迎えます。東北地方の他の大名たちは北畠氏を尊敬し、その当主を「浪岡御所」と呼びならわしていました。

浪岡城の想像図(青森市中世の館で展示)

特徴ある舘の集合体

浪岡城は、浪岡川沿いの丘陵の上にあり、防御のためにも比較的適していました。城は、南部氏の本拠地であった根城のように、「館(だて)」と呼ばれる曲輪の集合体でした。曲輪は、内館、北館など8つありました。内館は恐らく、この中でも一番古く、城主の御殿として使われました。その御殿には、「九間(ここのま)」と呼ばれる高い格式の対面所があり、城主と客との会見が行われていました。北館は、城では最も大きい曲輪で、城主に仕える武士や職人たちが住んでいました。そして、二重もしくは三重の水堀が曲輪を隔てていました。水堀には中土塁があり、それにより堀が二重になるとともに、非常時には防衛のため、平時には通路として使われていました。

浪岡城の8つの曲輪(現地案内板より)
復元された九間の内部(青森市中世の館で展示)
北館の模型(青森市中世の館で展示)

大浦為信に滅ぼされる

1562年、川原御所の乱と呼ばれる北畠氏の内紛が起こりました。川原御所と呼ばれた当主の一族が、当主であった北畠具運(ともかず)を殺害したのです。川原御所もまた滅ぼされました。結果として、北畠氏の勢力は衰えました。南部氏の親族であった大浦為信は、南部氏からの独立を目論んでいました。この乱に乗じて、彼は1578年に北畠氏を滅ぼし、浪岡城を占拠しました。浪岡城にはしばらく城代が派遣されていましたが、17世紀前半に弘前城が築かれたときに廃城となりました。

大浦為信、後の津軽為信肖像画、弘前城史料館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浪岡城落城の想像図(青森市中世の館で展示)

「浪岡城その2」に続きます。

132.高田城 その1

土塁と水堀によって守られた城

立地と歴史

松平忠輝が短期間で築城

高田城は越後国(現在の新潟県)にありました。戦国時代の16世紀には、春日山城にいた上杉氏がこの国を領有していました。上杉氏が他の国に転封となった後、17世紀初めにはこの国はいくつかの大名により分割されました。その内の一つが堀氏で、越後国西部を領有し、福島城に住んでいました。しかし、堀氏は1610年に徳川幕府により改易となってしまいます。その代わりに徳川幕府の創始者である徳川家康の息子、松平忠輝が福島城に送られてきました。彼と幕府はもっと強力な城を必要としていました。幕府と豊臣氏との間の緊張が高まっており、豊臣氏に味方するかもしれない外様大名を監視する必要がありました。その新しい城が高田城だったのです。

城の位置

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の建設は1614年の3月に始まり、その年の10月に幕府と豊臣氏との戦いが起こる前に、わずか4ヶ月間でほぼ完成しました。幕府はこの建設のために、忠輝の義理の父親である伊達政宗を含む13家の大名を動員しました。この短い工事期間のためか、高田城にはいくつかの特徴がありました。城の基礎部分は、その当時の築城で通常使われていた石垣ではなく、完全に土だけで作られました。同じく他の城でよく見られた天守も築かれませんでした。その代わりに三階櫓が建てられました。

本丸に残る土塁
復興された三階櫓

広大な堀と高い土塁で防御

しかしながら、工事に手抜きがあった訳ではありません。いくつもの川の流れを利用して広大な水堀が作られました。その結果、城は内堀、外堀、そして流れを変えられた川によって囲まれることになりました。三の丸は外堀の中に、二の丸は外堀の内側に、本丸は内堀の内側に配置されました。三の丸の外側にある大手道から城に入ろうとすると、本丸に着くまでに3つの橋を渡らねばなりませんでした。また、土塁であっても10mもの高さがあり、そのためこの城は十分な防御力を備えていたのです。

高田城の模型(上越市立歴史博物館)
今も土塁に囲まれている本丸

領主が次々に交替

忠輝はその当時の日本では10人の大大名の内の一人でした。ところが、1615年に幕府が豊臣氏を滅亡させた後、1616年に忠輝は幕府から不確かな理由で改易されてしまいます。彼が父親に対して不遜な態度をとったとか、幕府内で内紛があったなどと言われています。忠輝は高島城に幽閉され、1683年に92歳で亡くなるまでそこで過ごしました。

高島城

それから何年か後、松平光長が57年に渡って城を治めました。彼は農業や商業を振興し、城下町や交通網の整備を行いました。城下町は現在の上越市の市街地となっています。ところが、跡継ぎをめぐるお家騒動により、彼もまた1681年に改易となってしまいます。

高田城下絵図、1737年作成、上越市立高田図書館蔵(上越市埋蔵文化財センター)

現在の城と市街地の航空写真

その後、いくつかの大名がこの城と高田藩の地域を支配しました。この地域は大雪が降る都市として知られており、他の地域から来た人にとっては、生活や付き合いに苦労があったようです。この城の最後の城主は榊原氏で、18世紀中盤から19世紀後半の明治維新まで城を所有していました。

雪に覆われた現在の市街地 (taken by v-pro from photoAC)
榊原氏の藩祖、榊原康政を祀る榊神社

「高田城その2」に続きます。

145.興国寺城 その3

沼津市おすすめの観光地

その後

興国寺城が廃城となった後、この区域は畑になりました。1857年、大きな地震と飢饉の後、人々は降伏を願い城跡に穂見神社を建てました。沼津市は1982年以来、城跡の調査と発掘を続けてきました。1995年には城跡は国の史跡に指定されます。沼津市はこの城跡に水堀を復元し、歴史公園として整備しようと考えています。

穂見神社
空堀
沼津市の整備計画を示す説明板

私の感想

私は、興国寺城は単に北条早雲が旗揚げをした城だと思っていました。しかし、この城は早雲の後、100年以上の歴史を持っているのです。この城はとても重要な位置にあり、立地にも恵まれているからです。興国寺城跡は、沼津市のおすすめの観光地だと思います。天気が良ければ、城跡から富士山の頂を望むこともできます。

現存している石垣
土塁に囲まれた本丸
富士山の頂も見えます

ここに行くには

車で行く場合:
東名自動車道路の沼津ICから約20分かかります。
城跡の中に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、原駅から歩いて30分かかります。または沼津駅から富士急シティバスの東平沼行きか富士駅行きに乗り、東根古屋バス停で降りてください。
東京から原駅または沼津駅まで:
東海道新幹線に乗り、三島駅で東海道線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

興国寺城跡、沼津市公式ウェブサイト
・「城の政治戦略/大石泰史」角川選書
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書
・「興国寺城跡」沼津市教育委員会

これで終わります。
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