その後
明治維新後、浜田城跡はいささか複雑な歴史をたどりました。始め日本陸軍が城跡を所有したのですが、使われませんでした。そうするうちに1872年に発生した浜田地震により残っていた天守は崩壊してしまいました。結果城跡から建物はなくなりました。城跡はやがて以前の城主であった松平氏に1890年に売却され、島根県は1903年に城跡を浜田公園としました。頂上にある本丸に至る通路が開かれましたが、一方でその工事のために石垣が破壊されました。1938年には丘の中腹に浜田護国神社が設立されました。丘の麓からの参道も作られました。
第二次世界大戦後、城跡を購入した浜田市は公園を整備するとともに、それを雇用対策に充てようとしました。麓からもう一つの通路が開削され、石垣の修理も行われました。江戸時代末期の火災後、そのまま放置されていた石垣があったからです。ところがその当時は石垣のオリジナリティを考慮しないまま修繕を行ってしまったようです(例えば、石垣の積み直しの際、元の石を使っても元とは違う積み方をしている等)。1962年には城跡は島根県の史跡に指定されています。
特徴、見どころ(一般ビジター向け)
浜田護国神社の参道を通って城跡へ
現在、浜田城跡に向かう通路は基本2つありますが、いずれもオリジナルのものではありません。例えば浜田護国神社の参道を通って城跡に向かった場合、石段を登ってまっすぐ中腹にある神社に歩いて行きます。参道の途中からは、右側の下方に中ノ門跡が見えますが、実はこの門がオリジナルの通路上にありました。
城周辺の地図津和野城から移設された門
神社の奥の方には、城門のような古い建物がありますが、これも浜田城に元からあったものではありません。浜田市が浜田県(後に島根県に統合)の県都だった頃、(浜田県内にあった)津和野城の門の一つを県庁舎用として移築したのです。この門は1967年に最終的に公園の施設として再度現在地に移されました。
明治時代に作られた道を通って本丸へ
この門をくぐった辺りから城跡の中心部になりますが、通路は石垣に囲まれたオリジナルの部分に差し掛かったようです。ところが、左の方に曲がると、またも頂上の方にまっすぐ伸びる通路となります。このような道の付け方は、敵に容易に攻められることになってしまうため、城の場合には通常採用されません。実際このまっすぐの道も、明治時代に公園の整備のために、本丸のとなりの出丸の石垣を壊して作られました。そのおかげでビジターは簡単に頂上まで行けるようになった訳です。
公園の広場となっている本丸
本丸の内部は現在では広場になっていますが、そこからは浜田市街地や外ノ浦(とのうら)湾の景色が見えます。本丸の周りには、いくらか石垣も残っていますが、それ以外は1872年の地震で崩れてしまったようです。