206.浦添城 その3

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

イントロダクション

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

浦添城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(浦添→首里 尚寧王の道をゆくツアー)

浦添ようどれ見学

それでは、ようどれの入口の方に登っていきましょう。今回は大丈夫そうです。復習ですが、ここは中山王・英祖が築いたと言われる王陵で、沖縄戦で破壊されましたが、2005年に復元されています。琉球王国の尚寧王もここに眠っています。

浦添ようどれ入口
浦添ようどれ現地案内図

暗しん御門(くらしんうじょう)を通って入っていきましょう。ここは、沖縄戦の前まではトンネル状になっていて、あの世に行くかのような雰囲気があったそうです。名前の感じのとおりの場所だったのです。

暗しん御門

ここを抜けると、二番庭(にばんなー)です。ここから石垣に囲まれています。そして、中御門(なーかうじょう)の門をくぐると、墓室前の一番庭(いちばんなー)に到着です。

二番庭
中御門
一番庭

手前側の西室が、英祖王陵、奥側の東質が、尚寧王陵とされます。墓室に入ることはできませんが、その代わりに、浦添グスク·ようどれ館で、英祖王陵の再現墓室を見学できます。

英祖王陵
尚寧王陵
浦添グスク·ようどれ館
再現墓室

ようどれとは反対側の「浦添城の前の碑」に移動しました。尚寧王が、首里・浦添間の道路竣工を記念して建てたものです。振り返ると、首里方面が見えるのですが、前回のズーム画像と比較すると、首里城正殿の本物の屋根が見えて、期待できそうです。石畳道の方に行きます。向こうに海や、近くには発掘されたオリジナルの石垣も見えます。

浦添城の前の碑
首里方面の眺め
ズーム画像(首里城正殿)
ズーム画像(前回)
発掘された石垣

尚寧王の道(浦添)

ここからが尚寧王の道です。石畳の道です。発掘調査に基づき、復元されたものです。石の中にはオリジナルのものもあるそうです。石畳が終わって坂を下り、突き当たったら右に曲がります。

尚寧王の道、スタート地点
坂の途中まで石畳が続きます
突き当たりを右です

そして龍福寺跡があるのですが、薩摩軍の琉球侵攻のとき、焼かれてしまったそうです。やはりこの道を攻め上がったのでしょう。次は郵便局を過ぎたら左です。

龍福寺跡
郵便局を過ぎたら左です

車が多い通りは信号のあるところで渡っていただいて、その先が阿波茶橋(あはちゃばし)です。どんどん下って行って、石畳がまた現れます。小湾側とその支流にかけられた2つの石橋です。風情があります。こちらも沖縄戦で破壊され、その後修復されています。橋の表面の、組み合わせた石の形が面白いです。

阿波茶橋に通じる石畳
阿波茶橋
2つの石橋のうち南橋
南橋を渡ります

普通の道路に戻りますが、歴史の道として、ルートがわかるようになっています。その先には、お経を納めた経塚があって、一旦通りに合流しますが、向こうに郵便局が見えてきたところで脇道に入ります。ここも歩道が石畳風です。

「歴史の道」がわかるようになっています
経塚
ここから右側の脇道に入ります
石畳風の歩道

次の見どころに着きます。浦添御殿(うどぅん)の墓です。琉球国王の親戚、浦添家のことで、代々浦添を領地としてきました。その由緒ある家のお墓です。沖縄のお墓はみんな立派ですが、これはまたひときわすごいです。

浦添御殿の墓

尚寧王の道(那覇)

ここからは道を折り返して、那覇に向かっていきます。一路首里城を目指します。浦添御殿から下って、通りに合流したら、すぐに右折します。その先がフェーヌヒラです。南の坂という意味です。こんな坂があるあとは意外ですが、那覇は「坂の町」と言われているそうです。こういうのは歩いてみないとわかりません。

通りに合流したらすぐ右折します
フェーヌヒラ

また通りに合流したらしばらくまっすぐですが、那覇はより市街地化が進んでいるので、わかりにくいところもあるのです。確かに道なりに左に行ってしまいそうな所もあります。

ここは道なりに左方向に行ってしまいそうですが、細い道の方をまっすぐ進みます

そうするうちに平良交差点に出て、渡ったところが太平橋(たいへいきょう)です。普通の端に見えますが、かつてはこちらも石橋で、薩摩軍侵攻のときには、ここで攻防戦がありました。しかし薩摩軍鉄砲隊の猛攻撃により、王国軍は撤退しました。

平良交差点
太平橋

橋を越えると道は細く、登りになって、儀保クビリと呼ばれ、切通しのようになっていました。王国軍としてはこの手前で薩摩軍を食い止めたかったのでしょう。

儀保クビリ

階段を下れば、首里城までは一直線のように見えます。案内標識に守礼門とあります。ゆいレールとも交差すします。首里駅は、左手の方になります。

階段を下ります
守礼門への案内標識
ゆいレールと交差します

歩道が石畳風になってきました。ここもまっすぐ行きましょう。なだらかな坂を登っていくと、アダニガー御嶽(うたき)があります。首里城が近いということでしょうか。そして坂を下ると、見覚えがある場所に出ました。

再び石畳風の歩道
アダニガー御嶽

龍潭の畔です!ここから見ても、首里城の再建が着々と進んでいるのがわかります。尚寧王の道のゴールはもうすぐです。首里城公園の入口に向かいます。ここをゴールにしましょう。すごい達成感でした。

龍潭
完成間近の正殿が見えます
前回の同じ場所からの眺め
首里城公園入口

首里城はどうなっている?

それでは、首里城がどうなっているか見に行きましょう。守礼門に来ました。薩摩軍が首里城には攻め込んだとき、そのときの王様も尚寧王で、和議の方針になっていました。ところが、一部の家臣は抵抗の姿勢を見せたため、薩摩兵は、守礼門の柱を楯にしながらグスクに迫ったそうです。

守礼門

次は歓会門ですが、工事中です。その先からが内郭で、正門の瑞泉門になります。そして、漏刻門、広福門を通れば、奉神門の前に到着です。前回は、ここから工事用の素屋根が見えましたが、中はどうなっているのでしょうか。

歓会門
内郭入口の瑞泉門へ
漏刻門
広福門
奉神門
前回の状況

まだ工事中の壁に覆われてはいますが、小窓から正殿の勇姿が見えます。2025年10月に素屋根は撤去されました(取材時点:2025年11月)。2026年秋の完成を目指して工事が進められています。

まだ工事用の壁はありますが・・
小窓から見える正殿

それから、工事用の壁での展示にも注目です。例えば、正殿の建物ができてくるプロセスを展示しています。これもグスクの歴史の一コマたちなのです。

壁面の展示(正殿建設開始時)
壁面の展示(正殿屋根完成)

裏側に行ってみましょう。こちらの方が正殿が良く見えます。これは、ますます正殿完成が楽しみです!

裏側から見る正殿

最後は恒例で、東(あがり)のアザナからの景色を楽しみましょう。ところで、尚寧王はその後どうなってしまったというと、薩摩軍との和議は成立しましたが、降伏同然だったので、尚寧王は本土に連行され、大御所・徳川家康、将軍・徳川秀忠に謁見させられたのです。徳川や島津の権力を高めるために使われてしまったのです。尚寧王が、島津の従属下になった王国の首里城に戻ったのは、二年ぶりのことでした。その後は王国の復興に努め、9年後に亡くなったのです。

尚寧王の御後絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

東のアザナに着きました。相変わらずすばらしい景色です。正殿もよく見えます。浦添城はどの辺りでしょうか。尚寧王は浦添ようどれで眠っています。きっと生まれた浦添が、安らぎの場所だったのでしょう。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(正殿方面)
東のアザナからの眺め(浦添方面)

リンク・参考情報

尚寧王の道を訪ねる、浦添市(ルートマップ)
尚寧王の道をたどる歴史の道ぶらりルート、うらそえナビ
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

「浦添城その1」に戻ります。
「浦添城その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました

98.今帰仁城 その1

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

Introduction

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

今帰仁城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

三山時代と北山王国

グスクが築かれる前、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採集を中心とした生活を送っていたと考えられています。沖縄の時代区分では「貝塚時代」と呼ばれています。日本本土では、この地域から輸入した貝製品や、貝を加工した螺鈿細工が重宝されました。

螺鈿細工を使った中尊寺金色堂の柱、東北歴史博物館にて展示

11世紀ころからは、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。中国との貿易もさかんになり、高価な中国製陶磁器が輸入される一方、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。その結果「按司(あじ」)」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。今帰仁城を本拠地とした北山王国、浦添城の中山王国、島添大里城の南山王国です。王国の本拠地になった大型グスクの建設も、その動きに沿ったものと考えられます。

グスクの位置

浦添城跡
島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。1372年には中山王国に使節が送られました。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、南山王や北山王も明への朝貢を始めました。この時代はグスク時代の中でも、特に「三山時代」と呼ばれています。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここから北山王国と今帰仁城を、外部の記録から追ってみます。中国の史書(「明実録」)によると、北山王は1383年から1415年の間に、19回明と交易を行っています。その間の王は、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3代です。公的な場では、馬や硫黄などを献上し、冠帯衣服や貨幣などを賜っていました。きっと、他の場所でも色々なものを交易していたのでしょう。ただ、中山王国と比べると、回数はだいぶ劣りますので、それが国力の差になっていったとも考えられます。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、琉球国最古の現存地図を見てみます。真ん中には初期の首里城の姿が描かれていて、15世紀中ごろの状況と考えられています。この頃は、北山王国はなくなっているのですが、北(上)の方に、今帰仁城が「伊麻奇時利(いまきじり)城」として載っているのです。もう一つ注目は「雲見泊」として現在の運天港も記載されていることです。運天港は那覇港と並ぶ天然の良港だったのです。

「琉球國図」、沖縄県立博物館・美術館蔵

今までのストーリーは、いかがだったでしょうか。客観的なデータのおかげで、北山王国や今帰仁城の存在と繁栄が理解いただけたと思います。ただ、グスクの名前が今と全然ちがっていて、今でも漢字とその読み方が変わっているのが気になります。「新参者の統治」という意味の「いまきじり」が、「みやきせん」→「いまきじり」→「なきじん」と変化してきたと言われます。しかし他にも、最初から「みやきせん」と呼んでいたのではないかという説や、語源についても、魚が寄り付く場所という意味の「なきずみ」であるという説もあります。名前だけでも奥が深いものです。

今帰仁城の伝説と実態

次は外部からはわからない、王国とグスクの生い立ちを、沖縄内部の情報から探りましょう。地元の言い伝えや琉球王国の史書によると、はるか昔、天帝の子孫・天孫氏が首里城を築いてから、その流れをくむ者が、今帰仁城主になったとされています。これは、神話ということなのでしょう(前北山時代)。

次に出てくるのは、浦添城のときにもご紹介した源為朝で、なんと彼は運天港に上陸したというのです。ここにも為朝伝説があるのです。そして、その子が琉球王に、孫が今帰仁城主になったそうです。13世紀くらいのことになるでしょうか(中北山時代)。そしてその後、一つの王国が3つに分かれたというストーリーです(後北山時代)。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

続いて、今帰仁城の発掘成果をご紹介します。これまでに中心部の主郭などが発掘され、グスクには、4つの時代区分があることがわかりました。主郭の様子を時代順にご説明します。まず第1期です(13世紀末~14世紀前期)。時期は、先ほどの伝承では2番目の終わり頃でしょうか。発掘した結果では、その頃にグスクができたことになります。館は掘立柱で、防御のための柵で囲われていて、周りも本格的石垣ではなく、石積や版築による土塁でした。使っていた土器も、地元産が多かったとのことです。

第1期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第1期の出土土器(沖縄産)、現地説明パネルより

次が第2期です(14世紀中期)。時期は、三山時代に入った頃です。大発展した感じです。中にはグスクらしい礎石建ての正殿が建てられ、規模が大きくなって、周りに石垣も築かれました。中国産の陶磁器の使用も増えてきました。

第2期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第2期出土の青磁環耳瓶(中国産、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして最盛期の第3期です(14世紀後半~15世紀前期)。北山王国が明と交易をおこなっていた時期と一致しています。規模も最大になったのですが、なによりも、出土した当時の交易品が、その繁栄を表しています。

第3期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
主郭で発掘された中国銭、今帰仁村歴史文化センターにて展示

特にびっくりするが、以下の出土品です。これら6つの中国産青磁碗は、土の中からそのまま出てきたのです。意図的に埋められていたようです。重要な祈りの儀式が行われたのかもしれません。

中国産青磁一括出土品、今帰仁村歴史文化センターにて展示

グスク全体の規模としても、このときまでに並行して拡張され、10の曲輪を持つとされる、沖縄屈指の大型グスクになったと考えられます。

今帰仁城模型、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして、優美な石垣も築かれたのです。本土の城と違って、当時はこの石垣の上を直接、兵士が走り回っていたそうです。塀とか櫓はなかったとのことです。

大隅(うーしみ)の石垣

王国と今帰仁城の生い立ちストーリー、いかがだったでしょうか。為朝伝説にも夢があっておもしろいのですが、発掘の成果などから考えると、やはり小さな按司が、貿易などで成長して、王国を築いたと思えます。現在のところ、この見解が定説になっています。

北山王国の滅亡

いよいよ、クライマックスです。実は北山王国滅亡のストーリーも、尚巴志の琉球統一のプロセスとともに、2つの説があるのです。定説の方からご説明します。こちらのプロセスは、琉球国史書のうち、新しい方の記載をもとにしています(「中山世譜」など)。古い史書の記載を、中国の記録などと照合し、改めているとのことです。こちらは、尚巴志が北山王国(1416年)、南山王国(1429年)の順に攻略しています。

定説での北山王・攀安知(はんあんち)は、武勇に優れていましたが、淫逆無道であったとされます。彼は、重臣の本部平原(もとぶていばら)とともに、中山王国を攻めることを計画します。北山配下の按司たちは、そのことを中山王・思昭に告げたのです。思昭の子・尚巴志が、按司たちと今帰仁城を攻めることになりました。尚巴志軍は優勢でしたが、堅固な城を攻めあぐね、計略を用います。重臣の本部平原を買収したのです。平原は、攀安知を城外で戦うように仕向け、城に火を放ちました。異変に気付いた攀安知は、平原を伝家の宝剣「千代金丸」で成敗しますが、時すでに遅し・・・。悲運を嘆き、グスクを守護する霊石を切りつけ、自害しようとしてもなぜか切れなかったので、宝剣を川に投げ捨て、別の刀で自害しました。これが定説による今帰仁落城のストーリーです。悪人は滅ぶべくして滅ぶ、みたいな筋書です。

グスクの守護岩があったといわれる御嶽・テンチジアマチジ

次は「異説」として、古い史書(「中山世鑑」)による統一プロセスをご紹介します。この説では、北山攻略をもって琉球統一(1422年)としていますが、事実としてその後も南山王国が明と交易をしています(1429年まで)。だから定説では修正されたのですが、この時期の南山は、尚巴志の傀儡だったという意見もあるのです。こちらも捨てたものではないように思います。それに城攻めの内容は、中国の史書とは関係ないのに、全然ニュアンスが違うのです。

異説では、北山王国が存在するうちに琉球統一が進んでいて、配下の按司も中山王国に服属していきました。劣勢となった攀安知は、一族郎党を集め、彼らを鼓舞し、中山と最後の決戦をすべく、城の防備を固めました(下記補足1)。それを周りの按司たちから聞いた尚巴志は、今帰仁城に大軍で攻め寄せます。しかし堅固な城は、いくら攻めてもなかなか落ちません。そこで尚巴志軍は一計を案じます。その地を知る按司が、夜裏側(グスクの南西側)から忍び寄り、グスクに火を放ったのです。それを合図に総攻撃が始まりました。最期を悟った攀安知は、尚巴志軍に突撃、ついには宝剣で切腹し、引き抜いた剣でグスクを守護するイベの岩を切り刻み、剣を川に投げました(下記補足2)。定説と比べると潔い最期と感じます。

(補足1)「今の人々の多くは心変わりして、我が方は小勢となったが、多数を恐れて一戦もせずに降参するのは、如何にも口惜しいことだ。そして、山北国をうち建てた祖先に恥をさらすことにもなる。さあ、中山の軍は攻め寄せて来るがよい。これを一蹴して手柄を見せようではないか。攻め寄せる中山軍がたとえ数万騎あろうと、これを打ち破ることは雑作もないことだ。もし命運尽きて、この戦に敗れることがあれば、そのときは潔く自害して、名を後世に残そうぞ。さあ者共、仕度をせよ。怖気づいて世の笑いものになるな」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

(補足2)「さあ、イベも、そしてイベにおわす神も供に冥土に旅立ちましょう」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

城の裏側(南側)を守っていた志慶真門(しじまじょう)跡

その剣はその後、中山王に献上され、現在国宝になっています。2つのストーリー、いかがだったでしょうか。もちろん定説の重みは感じますが、どちらも沖縄の伝承がもとであれば、古い方が事実を伝えているかもしれないし、異説の方が真に迫っているようにも思えます。皆さんはどうお感じでしょうか。

宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

その後

北山王国を滅ぼした尚巴志は、次男の尚忠を、北山監守として今帰仁城に置きました。尚忠は、尚巴志が亡くなると、琉球国王を継いだ人物です。今帰仁城は、琉球統一後も、重要な拠点であり続けたのです。この監守制度は、王統が第二尚氏になっても続き、第二監守時代と呼ばれています。一世から十四世まで続き、「山北今帰仁城監守来歴碑記」にその由来が刻まれています。

「山北今帰仁城監守来歴碑記」今帰仁村歴史文化センターにて保管

発掘調査による時代区分だと第4期に当たります。この時代にも監守の住居と思われる建物がありました。面白いのは、この時代のものとして、ベトナム製・タイ製の陶磁器や、本土の備前焼も出土していることです。

第4期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
ベトナム製陶磁器
備前焼

ところが、第二監守五世・向克祉(しょうかくし)の時代に大事件が起こるのです。1609年、薩摩藩の島津氏による琉球侵攻があったのです。慶長14年3月7日、約3千名の薩摩軍は、80艘以上の船に乗り出航しました。7日に奄美大島に到着、まず奄美諸島を制圧します。ここは、琉球王国の支配下にありましたが、この侵攻をきっかけに薩摩藩の直轄地になりました。薩摩軍が次に向かったのが、運天港でした。3月25日のことです。そして薩摩軍が滞在した数日間のうちに、今帰仁城や城下が放火されたととれる記録があります(下記補足3)。更にその間に、北山監守の向克祉が謎の最期を遂げるのです。29日、薩摩軍は浦添、那覇方面に向かいました。今帰仁城は廃城になり、北山監守は城下、そして首里に移っていきました。

(補足3)今きじんの城は無人であるらしい。不意に掃討を開始し、方々へ放火などした。(「琉球渡海日々記」、現代語訳は「広報なきじん」より)

現在の運天港
主郭にある火神の祠

グスク跡には火神(ひのかん)の祠が建てられ、祈りの場所になりました。ようやく静かな時を迎えたと言えるでしょう。監守の石碑が建てられたのもこの時代のことです。文化財として注目されるようになったのは、戦後のことでした。1972年には国の史跡に指定され、2000年には世界文化遺産に登録されました。並行して現存する石垣の修復、失われた石垣の復元など、史跡整備も進められました。それで私たちが今、すばらしいグスクを見学できるのです。

「今帰仁城 その2」に続きます。

206.浦添城 その2

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。

特徴、見どころ

Introduction

今回のスタート地点は、那覇空港です。ここから、琉球王国建国ストーリーに関わるグスクを見学していきます。「ゆいレール」が延伸したので、浦添城も首里城も気軽に行けるようになったのですが、尚巴志ゆかりの地は、沿線から離れた場所にあるので、レンタカーなどを使って訪れます。ご紹介する順番は、ゆいレールで行ける浦添城と首里城を続けるのではなく、建国ストーリーに沿って古い方からにします。

那覇空港到着ロビー

それでは最初の浦添城に向けて出発しましょう。空港からゆいレールに乗り込めば、最寄りの浦添前田駅に到着します。

ゆいレール(那覇空港駅)
浦添前田駅

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

浦添城 遺跡パート

浦添城跡は「浦添大公園」の一部(歴史学習ゾーン)になっていて、南エントランスから入っていきます。

浦添城跡の現地案内板

駐車場の脇の坂を登って行くと、古そうな道になってきます。これが復元整備された、首里城と結ばれた石畳道の一部です。

復元整備された石畳道

登った先に、石垣が見えてきます。埋もれていたオリジナルの城壁の石垣が、発掘により姿を現したのです。

発掘された石垣

更に登って行くとその途中に、尚寧王が建てた、石畳道の完成記念碑(浦添城の前の碑)が復元されています。南側への展望が開けた場所で、遠くに首里城も見えます。

浦添城の前の碑
城跡南側の眺め
再建中の首里城(2024年11月下旬時点)

丘の上は、戦災や採石の影響で、遺跡はほとんど残っていません。正殿跡と思われる場所や、浦添尚家の屋敷跡と言われる石の基礎が残っています。

丘の上
正殿跡と思われる場所
浦添尚家の屋敷跡とされる場所

グスク内の祈りの場所であった「ディーグガマ(デイゴの樹があった御嶽)」の跡が残っています。沖縄戦のときは、住民の避難場所だったそうです。

ディーグガマ

丘の上からの景色を眺めてみましょう。説明パネルがあって「ハクソー・リッジ」とあります。激戦があった場所です。見晴しがいいことで、戦いの場になってしまったのです。景色を楽しむことができる世の中が続いてほしいです。

城跡南側の眺めと「ハクソー・リッジ」の説明パネル

すこし遠くの方(東側)になりますが、この場所を象徴する見どころがあります。大きな岩が立ちはだかっています。ワカリジー、通称「為朝岩」です (米軍の通称「ニードル・ロック」)。その通称は比較的新しいもの(近代)のようですが、この岩も聖地の一つでした。浦添市で一番標高が高いところ(約148m)です。

ワカリジー

遺跡見学の最後に、慰霊碑に行ってみましょう。来た方から反対側(北側)を下った所には、「前田高地平和の碑」があります。ここでの戦いで多くの犠牲者を出した部隊(第24師団32連隊)の慰霊碑です。

前田高地平和の碑

そして、ディーグガマ近くの、沖縄戦戦没者を祀った「浦和の塔」です。ここであったことを忘れないようにして、平和をお祈りしましょう。

浦和の塔

浦添城 復元パート

次は、浦添城の復元されたアイテムを見に行きましょう。西側の方に下っていくと、復元された石垣の城壁が見えてきます。こんな城壁が何百メートルも続いていたのです。その周囲を巡っていた城壁を復元することが計画されています。

復元された城壁

この城壁の下の方に復元された「浦添ようどれ」があります。「ようどれ」とは「夕凪(ゆうなぎ)」を表す言葉で、静かな場所・極楽を意味するとも言われます。ようどれに入ると、「暗しん御門(くらしんうじょう)」「二番庭(なー)」「中御門(なーかうじょう)」「一番庭」と進んで墓室の前までは見学できることになっています。(2024年11月下旬時点では「落書き事件」の影響で一時閉鎖中でした)

浦添ようどれの現地案内板
ようどれの入口付近
ようどれの一番庭(墓室前)(Wikimediaより)

浦添ようどれの全景を眺めてみると、曲線の石垣が組み合わされていて、優雅で雄大に感じます。王城というのにふさわしい場所です

浦添ようどれ全景

「浦添グスク・ようどれ館」では、普段でも入れない墓室(西室・英祖王陵)が再現されています。

浦添グスク・ようどれ館

中には3つの石棺(1号〜3号石棺)がありますが、調査の結果によれば(「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」による)、最初は、洞窟の中に建物があって、木製の棺を使っていたそうです。それが、尚巴志王統(第一尚氏)時代以前に、石棺に置き替えられたとのことです。そして1号石棺の方が古く、あとの2つはデザインが似ているので同じ時期に作られた可能性があります。

再現墓室、右側から2号石棺、3号石棺、1号石棺

それでは中に入ってみましょう。例えば、1号石棺の側面には仏像の彫刻があります。

1号石棺の仏像彫刻

2号石棺には、中世本土人の特徴(出っ歯)がある頭蓋骨が入っていました。こんなお墓に入れる本土人がやって来たのかもしれません。

2号石棺

3号石棺にはお骨まで再現されています。埋葬当初は、きれいな布にくるまれていたそうです。

3号石棺

尚巴志ゆかりの地へ

尚巴志の故郷、佐敷城(佐敷上グスク)跡に行ってみましょう。グスク一帯が神社になっています。尚巴志一族を祀るために「月代宮(つきしろのみや)」として建てられたものです。

佐敷城跡入口

中腹のグスクの遺構があるところ(二の郭)まで登ると、神社への参道があります。遺構の説明は所々にはありますが、普通の神社と言われたら、そう思ってしまうかもしれません。

二の郭
内原の殿
上グスクのカマド跡
上グスクの嶽
親井

グスクとしては土造りで、他に見られる本格的な石垣は発見されていないそうです(土留めの石組は発見された)。この辺りでは石材が採れない事情もあったようです。お宮があるところがグスクの中心部で、尚巴志が住んでいたのでしょう。

月代宮(一の郭)

木々の向こうには海が見えます。尚巴志が刀を鉄と交換したエピソードもあるので、交易をやっていたのでしょう。このグスクは、英雄の出身地としては地味かもしれませんが、尚巴志は、お金やパワーを、グスク以外のところに使っていたのではないでしょうか。

二の郭からの眺め

続いて、尚巴志の統一事業の足掛かりになった島添大里城の跡に行きましょう。高台にあって、広々としています。南山王国の本拠地だったとも言われています。

島添大里城跡(二の郭)

グスクの中心部に向かってみると、崩れた石垣が散らばっています。現在は公園になっていますが、戦中戦後に採石されてしまったとも、首里城建設のために持ち去られたとも言われています。

残存している石垣

中心部の一の郭には、かつて正殿がありました。近くの一番高い所に拝所跡(ウティンチヂ)があります。物見台にもなっていたと思われます。

一の郭
拝所跡(ウティンチヂ)からの眺め

他にグスクらしい見どころとしては、「カニマン御嶽(うたき)」があります。

カニマン御嶽

あと、おもしろいのは、グスクの外に設けられた「チチンガー」です。地下8メートルのところにある井戸です。現在も農業用で使われているそうです。井戸であっても、神聖な感じがします。

チチンガー(入口)
チチンガー(通路)
チチンガー(底にある井戸)

首里城の今

いよいよ今回最後の目的地、首里城です。龍潭の畔から眺めると、着々と再建が進んでいることがわかります。

龍潭から見た首里城

さすが沖縄屈指の観光地、再建中でも賑わっています。有名な守礼門から入っていきましょう。

守礼門

外郭の正門「歓会門」の前に来ました。首里城がこのような姿になったのは、15世紀後半の尚真王の時代です。尚巴志の頃はこの門はなかったのですが、琉球国最古の現存絵図(1453年「琉球国図」)によると、王城(首里城)には、石垣で囲まれた内郭と、柵や土塁で囲まれた外郭と思われる部分が描かれています。これは、石垣と土塁を併用した浦添城のスタイルを引き継いだとする意見があります。

歓会門
「琉球国図」の首里城部分(沖縄県立博物館・美術館にて展示)

次は、内郭の正門「瑞泉門」です。ここからが、先に整備された範囲ということになります。漏刻門、広福門と進んで、グスクの中心部に入ります。ここから先は工事中で、大きな素屋根(すやね)は、風雨を防ぐために設置されています。

瑞泉門
漏刻門
広福門
グスク中心部

正面の奉神門は火災で損傷を受けましたが、修復されました。本来その先が御庭(うなー)なのですが、現在(2024年11月下旬時点)は復元工事の見学コースが設定されています。

奉神門
素屋根の建物に描かれた御庭と正殿
復元工事の見学コース通路

見学コースでは、被災した建物の残骸、木材倉庫・加工場見学エリア、素屋根見学エリアなどを見て回ることができます。復元工事は、2026年秋の正殿完成を目指して進んでいます。

被災した龍頭棟飾
被災前の龍頭棟飾
木材倉庫・加工場見学エリア
素屋根見学エリア
正殿の屋根
素屋根建物の裏側

見学コースから出たら、首里城最高地点の 「東(あがり)のアザナ」に行ってみましょう。標高約140メートルあって、物見台だったところです。昔は見張りのための場だったのでしょうが、今は景色を楽しむ場になっています。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(浦添城方面)
東のアザナからの眺め(正殿及び那覇市街方面)

リンク・参考情報

うらそえナビ
沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)
那覇市歴史博物館
らしいね南城市
首里城公園
・「県史シリーズ47 沖縄県の歴史/安里進著」山川出版社
・「日本人として知っておきたい琉球・沖縄史/原口泉著」PHP新書
・「琉球王国 -東アジアのコーナーストーン/赤嶺守著」講談社
・「琉球史を問い直す: 古琉球時代論/吉成直樹著」森話社
・「琉球王国の形成―三山統一とその前後/和田久徳著」榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編、 諸見友重訳」榕樹書林
・「尚氏と首里城(人をあるく)/上里隆史著」吉川弘文館
・「歴史群像144号 戦国の城 浦添グスク/上里隆史著」学研
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」吉川弘文館
・「史跡浦添城跡整備基本計画書(平成 30 年度改定)」浦添市教育委員会
・「浦添ようどれⅠ 石積遺構編 史跡浦添城跡復元整備事業に伴う発掘調査報告」浦添市教育委員会
・「浦添市平和ガイドブック」平成27年4月版 浦添市
・「浦添ようどれの石棺にみられる建築表現 と王陵の変遷」高屋麻里子氏論文
・「石材と人間の民族的・歴史的関わり」神谷厚昭氏(沖縄県立博物館)論文

「浦添城その1」に戻ります。
「浦添城その3」に続きます。

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