立地と歴史
信長の橋頭保
小牧山城は、現在の愛知県西部、濃尾平野にある標高85mの小牧山の上にありました。この山には織田信長が1563年に築城するまで城はありませんでした。この築城の理由は、信長が現在の名古屋市にあった清州城からこの城に本拠地を移そうとしたことにあります。信長は現在の岐阜市にありその当時は斎藤氏がいた稲葉山城を手に入れようとしていたのです。小牧山は清州より稲葉山のずっと近くにありました。しかし、戦国大名やその家臣たちにとって、拠点を他に移すことはとても稀でした。先祖が住んでいた場所に住み続けることが普通だったのです。
城の位置
3つの特徴
信長による小牧山城は3つの際立った特徴がありました。一つ目は、頂上にある本丸は巨石を使って築かれた石垣によって囲まれていました。いくつかの巨石は他の山から運ばれてきました。当時は城に石垣を築くことは稀で、小牧山のような使い方は他にはなかったようです。権威を示すために石垣を使う最も早い事例でした。
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二つ目ですが、この城は2つの城主のための館があり、1つは山上に、もう1つは山麓にありました。2つの館を持っていたのは、他の山城を持つ戦国大名も同様でした。彼らは通常麓にある方に住み、戦が起こったときに山の上の方を使いました。ところが、信長の場合は山の上にある館に住んでいたようなのです。彼はこの山を特別な場所として意識していたのかもしれません。彼の次の本拠地となる岐阜城でも似たような事例が見られます。
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最後に、山麓から山の中腹に大手道が、安土城のようにまっすぐ伸びていたことです。他の戦国大名にとっては、山にこのような道を作るのは異常なことでした。防御に不利だからです。なせこのような作り方をしたのかは今だ不明ですが、信長の発想によることは間違いないでしょう。更には、城下町が以前なにもなかった所に先進的な方法で作られました。町は武士、商人、職人が住む場所が整然と分けられていました。このような城下町の作り方は、通常は次の世紀に見られるものです。
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家康の本陣
信長によるこの城があったのはわずか4年間でした。1567年に信長が稲葉山城を獲得できたためです。彼は再び本拠地を稲葉山城に移し、岐阜城と名を改めました。小牧山城は直ちに廃城となります。1584年、この城は徳川家康が天下人の豊臣秀吉と小牧長久手の戦いを行ったときに再利用されました。家康は、ここを本陣として犬山城にいた秀吉に対抗するために、城を取り囲む囲む土塁と空堀を作り、強化しました。この戦いは引き分けに終わり、家康は存在感を示し、後に徳川幕府の創始者となるのです。
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