140.玄蕃尾城 その3

城跡は、400年の眠りの後、発見されました。

特徴、見どころ

本丸背後の最大曲輪

本丸の搦手口から出るには、正面口と同じように、左に曲がってもう一つの馬出郭の細い通路を通らねばなりません。城の裏側も厳重に守られていたのです。郭2は、城の中では最も後ろにあり最も大きい曲輪です(現地では「搦手郭」または「虎口郭」と表記されています)。よって、歴史家はここは駐屯地として使われたのではないかとしています。一方で、この曲輪の外側からの入口はとても単純で、防御的ではありません。よって、この部分は未完成のまま賤ヶ岳の戦いが起こったのではないかとも考えられています。

城周辺の地図

本丸の搦手口
本丸と郭2をつなぐ細い土橋
郭2の内部
郭2の外部からの入口

その後

玄蕃尾城は、1583年の勝家の敗戦の後、ほどなく廃城となりました。城跡は自然と埋もれていき、草木に覆われ、400年もの間、自然の状態に戻っていました。ところが、1980年にある郷土史家(長谷川博美氏)が記録や言い伝えに基づき調査した結果、城跡を発見したのです。城跡はその後、1999年に国の史跡に指定されました。この城跡は、現在では誰がいつ何のために築城したのかが明確である稀有な事例として認識されています。歴史家は、この城で使われていた築城技術が、賤ヶ岳の戦いが起こった時代のものとして研究ができるということです。

玄蕃尾城跡の本丸

私の感想

山の頂に、このような複雑な構造をもった城が築かれたということに驚きを覚えました。また、この城が築かれた理由についても理解できました。それと、玄蕃尾城を見ていて、同じように純粋な土造りだが非常に複雑な構造をもったもう一つの城跡を思い出しました。現在の埼玉県にあった杉山城のことです。しかし、杉山城の場合は、誰がいつ何のために築城したのか判明していません。歴史家の中には、杉山城は玄蕃尾城とよく似ており、同じ時期に築城されたという人がいます。一方、城の築き方が違うとして、それに反論する歴史家もいます。どちらに分があるかは正直わからないのですが、興味深い議論だと思います。

杉山城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。
北陸自動車道の木之本ICから約20分かかります。城跡に向かう山道の入口前に駐車場があります。
そのインターチェンジからは、国道365号線を北に進んで、分岐点で県道140号線に入り、柳ケ瀬トンネルを進んでください。このトンネルは、もともと鉄道の北陸本線用として1964年まで使われていたものを、現在の道路として転用されました。片道車線となっているので、信号を見て進行可能かどうか確認してください。トンネルから出たところで右に曲がり、駐車場まで林道を進んでください。
また、例えば福井県など北の方から来られる場合には、国道8号線を南に進み、分岐点で県道140号線に入り、柳ケ瀬トンネルの手前で左に曲がり、林道を進んでください。

山道入口前の駐車場
柳ケ瀬トンネル  (licensed by Alpsdake via Wikimedia Commons)
北側から向かう場合の県道140号線の入口

リンク、参考情報

国指定史跡 玄蕃尾城の御案内、敦賀市
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「歴史群像174号、地形から読み解く 賤ヶ岳の戦い」学研
・「歴史群像37号、戦史検証 激闘賤ヶ岳合戦」学研
・「杉山城の時代/西股総生著」角川選書

これで終わります。ありがとうございました。
「玄蕃尾城その1」に戻ります。
「玄蕃尾城その2」に戻ります。

140.玄蕃尾城 その2

山上に複雑な構造を持っていた城

特徴、見どころ

山道を通って城跡へ

現在玄蕃尾城跡は山上にあるにも関わらず、国の史跡としてよく整備されています。城の建物はなくなっていて、土造りの基礎部分のみが残っています。それでもその城がどのようであったのか理解するには十分と思います。陣城専用で築かれたものだからです。城跡に至るには、駐車場から約30分歩いて行く必要があります。その間、古い峠道である刀根峠を過ぎて、山の方に登っていきます。

駐車場から山道へ
刀根峠

山道の周りは、自然の木々や繁みに覆われているように見えます。このような所に城跡があるのだろうかと思われるかもしれません。しかし、そのうち城跡がはっきりと見渡せる場所にたどり着きます。これは、役所や地元のボランティアの人たちが定期的に草木を伐採してくれているからなのでしょう。そのおかげでビジターが城跡をよく見学できるのです。

普通の山道が続きます
段々視界が開けてきます

複雑な城中心部へのルート

山道は南から城跡に向かっており、南側が城の正面でした。今でもこの方面が強力に守られていたことがわかります。最初に見えてきた曲輪は「郭1」と呼ばれており(現地では「大手郭」または「虎口郭」と表記されています)土塁に囲まれています。この曲輪の入口は、南側の正面には開いておらず、左の西側に向かって開いています。つまり、土塁を回り込んで右に曲って曲輪に入る必要があります。

城周辺の地図

郭1の入口(虎口)
郭1の内部
郭1の入口を振り返る
郭1への攻撃ルート(赤矢印)と郭1からの反撃方向(青矢印)

虎口郭と呼ばれる次の曲輪に進むには、傍らが堀切となっている細い土橋の上を歩いて行かねばなりません。そして左に曲がって曲輪に入ります。

虎口郭に向かう細い土橋
脇には堀切があり、進路が制限されます
虎口郭の内部
虎口郭への攻撃ルート(赤矢印)と虎口郭からの反撃方向(青矢印)

本丸はその先にあるのですが、その前には馬出郭があり、本丸に直接入れないようになっています。虎口郭からは再度右に曲がって、馬出郭を回り込んで本丸の入口に入り込むことになります。もし敵であったなら、その進撃ルートは限られたものになり、何度も曲がっているうちに側面から反撃されてしまうでしょう。

馬出郭を回り込むために右に曲がります
本丸前の土橋も細くなっています
背後から見た馬出郭
本丸への攻撃ルート(赤矢印)と馬出郭からの反撃方向(青矢印)

全方向に備えていた本丸

本丸の内部は広場となっていて、ここもまた土塁に囲まれています。北東の隅には土盛りがあり、天守か大櫓が建っていました。

本丸内部
本丸北東部の櫓台

本丸を見回してみると、全ての方角に対してよく牽制が効いていることがわかります。北側の裏手口にはもう一つの馬出郭があります。東側にも、本丸の手前に張出郭という小曲輪が配置されています。本丸の東側は山の斜面となっていますが、専門家は城の築城者はこの方面からも敵が攻めてくることを想定していたのではないかと言っています。西側はとても深い谷になっていて、これでは敵が攻撃するのは無理でしょう。ところが、この方角に対しても土塁の手前に巧みに堀切が作られました。

本丸の案内図
北側の馬出郭
東側の張出郭
西側の急斜面

「玄蕃尾城その3」に続きます。
「玄蕃尾城その1」に戻ります。

140.玄蕃尾城 その1

賤ヶ岳の戦いにおける柴田勝家の本陣

立地と歴史

羽柴秀吉に対抗して築城

玄蕃尾城は、越前国と近江国の国境にあった城で、現在では福井県と滋賀県の県境にあたります。この城は、1583年に起こった賤ヶ岳の戦いの当時、越前国を領有していた柴田勝家によって築かれました。1582年の本能寺の変により天下人の織田信長が亡くなった後、重臣であった勝家と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、主導権を巡って互いに争いました。秀吉は、勝家が併せて領有していた北近江に侵攻し、勝家の本拠地であった越前国との国境近くに多くの陣城を築きました。勝家も秀吉に対抗して、その国境周辺に陣城を構築しました。玄蕃尾城は、これらの陣城の中心であり、勝家の本陣だったのです。この城の名前の一部「玄蕃」は朝廷の官職の一つであり、高い地位にある武士に与えられました(もしくは自称していたことも考えられます)。しかし、誰に与えられた官職名から由来していたのかは不明です(佐久間「玄蕃」盛政からとも言われますが、朝倉氏の家臣である朝倉「玄蕃」助景連が築城し、名前の元になったという説もあります)。

城の位置

柴田勝家像(北ノ庄城跡現地説明板より)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

山上に築かれた曲輪群

この城は、標高445mで国境にも位置していた中内尾山の頂上に築かれました。またこの城からは、城の近くにある両国の境を通っていた刀根(とね)峠を押さえることができました。城の曲輪群は山の峰の北側から南側に沿って築かれました。城の正面口は南側に開いており、刀根峠と秀吉が侵攻した近江国の方角に向いていました。そのため、城の南面は2つの直列した曲輪群によって厳重に守られていました。一方城の北側には、城では最も大きな曲輪があり、駐屯地として使われていました。本丸は城の中心部にあり、恐らく勝家がいたと思われます。そこには天守か大櫓があり、防御のための馬出しまたは張出と呼ばれる3つの小さな突出した曲輪が付随していました。

城周辺の起伏地図

玄蕃尾城の縄張り図(現地説明板より)

佐久間盛政の攻勢と秀吉の反撃

1583年の4月16日、勝家の同盟者、美濃国の岐阜城にいた織田信孝が秀吉に対して兵を挙げました。秀吉は、4月17日にこれを鎮圧するために美濃国に向かいました。このとき勝家は、秀吉側に攻撃を仕掛ける絶好の機会だと思ったのです。勝家配下の佐久間盛政は、4月19日に秀吉の陣城を占領するために前進してきました。ところが、それは秀吉の罠だったのです。盛政は陣城を一つ攻略し(中川清秀が守っていた大岩山砦)、もう一つの陣城、賤ケ岳砦をも手に入れようとしました。それから秀吉は直ちに元の陣地に引き返し、4月20日には盛政に対し反撃を開始したのです。勝家と盛政は、ついには秀吉により倒されました。1626年に出版された小瀬甫庵による、比較的古い秀吉の伝記である「甫庵太閤記」は、勝家は盛政に対して最初の攻撃の後引き返すよう忠告したにも関わらず、盛政の不用意な行動が彼らの滅亡を招いたと記述しています。多くの日本人は長い間、これを定説として受け入れてきました。

佐久間盛政を描いた錦絵、楊斎延一作、1893年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

前田利家の撤退が勝敗を決したか

最近の研究によれば、盛政の行動は致命的ではなかったとのことです。勝家のもう一人の同盟者で、秀吉が天下人となった後大大名となった前田利家は、秀吉の反撃と同時に勝家の承諾なしに自陣から撤退したのです。これこそ秀吉の勝利と勝家の敗退へ導いた決定的な要因だったのです。甫庵はどうしてこの最も重要な事実を述べなかったのでしょうか。それは、甫庵は前田家から扶持をもらっていたからなのです。前田家の始祖である前田利家の行動は、恐らく秀吉と約束されていたのでしょう。しかし後の人々はそれを勝家への裏切りと取るかもしれません。甫庵は、前田家の恥になるかもしれないこの事実を記録できなかったと考えられるのです。よって、彼は敗戦の責任を他の誰かに押し付ける必要がありました。玄蕃尾城は強力でしたが、あくまで他の陣城と連携して力を発揮するようになっていました。勝家は、同盟者が責務を果たせない以上、この城から撤退せざるをえなかったのです。

前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「玄蕃尾城その2」に続きます。