116.沼田城 その1

沼田城があった地域は、地理の教科書的にも、典型的な河岸段丘の地形として知られています。沼田市街地がある台地は、北は薄根川、西は利根川、南は片品川が作った谷に囲まれ、東側に開けています。城と城下町はその台地上にありました。

立地と歴史

沼田城と天空の城下町の始まり

沼田城があった地域は、地理の教科書的にも、典型的な河岸段丘の地形として知られています。沼田市街地がある台地は、北は薄根川、西は利根川、南は片品川が作った谷に囲まれ、東側に開けています。城と城下町(現在の市街地)はその台地上にありましたが、地名の元となった「渭田郷(ぬまたごう)」は西側の利根川沿いにありました。その周辺に「荘田沼」というのがあって、それが大元なのかもしれません。室町時代には、その地名を名字とした地元領主の沼田氏が、その沼の近くの荘田城を本拠地にしていたと考えられています。やがて戦国時代にさしかかり、戦乱の世の中になってくると、沼田氏は、小沢城(1405年)、幕岩城(1519年)と、段丘上に拠点を移していきました。そして1532年(天文元年)に、当時の当主・沼田顕泰が、現在の沼田城の地に、倉内城を築いたと伝わっています。つまり、沼田氏の移転とともに「沼田」という地名の範囲が広がったようなのです。顕泰は、城下町も台地上に作りました。(「材木町」「本町」「鍛冶町」がこのとき形成されたいう記録あり)当時、城は山上、城下町は山麓というパターンが多かったので、珍しかったかもしれません。しかし、台地の端で水が不足していたため、15キロメートル以上先の台地の東側から白沢(しらさわ)用水(市街地では城堀川、じょうぼりがわ)が引かれました。これが沼田城と「天空の城下町」の始まりです。

河岸段丘のまち、天空の城下町・沼田
荘田城跡
小沢城跡
幕岩城跡
沼田城跡
沼田市街地を流れる用水。城堀川

次に関東地方という視点で見てみると、沼田は北関東において、南北と東西の街道が交わる地点でした。有力な戦国大名が台頭してくると、交通の要衝にあり、要害である沼田城は、彼らにとって是非とも手に入れたい拠点になったのです。やがて、沼田氏一族内で、関東管領・上杉氏につくか、北条氏につくかを巡って内紛が起こりました。16世紀中頃、上杉氏を関東から追い出した北条氏は、内紛に乗じて沼田城を乗っ取りました。(当主の沼田顕泰は、上杉氏とともに越後に逃れたと考えられています。)そして、一族の者を「沼田康元」として沼田城主としました。康元は、北条綱成次男・孫四郎のこととされています(下記補足1)。

(補足1)
康元ハ氏康ノ舎弟玄庵ト申人也、此山城ハ泰拠也、安越ハ綱重(綱成)事也
(年次不詳 北条康元書状写 追而書、沼田市史より)

上杉謙信と真田昌幸の登場

沼田を巡る状況は、1560年(永禄3年)に大きく変わります。越後の長尾景虎、つまり上杉謙信が、関東管領を中心とした秩序回復を掲げ「越山」と呼ばれる関東地方侵攻を開始したのです。謙信は生涯で17回も越山を行いましたが、もっとも大規模でインパクトがあったのが、この年だったのです(2回目)。国境の三国峠を越え、9月に沼田城を確保、さらに厩橋城(前橋城)を関東経営の拠点にします。その後、謙信越山時には、関東の出入口として、毎回往復していて、謙信の関東不在時にも、厩橋城などからの連絡ルートとして機能しました。そのため、城主として、謙信の信頼する・河田長親が置かれました。厩橋城が一時、北条方のものになったとき謙信は、沼田を失えば「天下の嘲り」であると言っています。

沼田顕泰は「越山」とともに「沼田衆」の筆頭として復活したと考えられますが、沼田城主にはなれませんでした。地元領主の城ではなくなっていたのです。1561年(永禄4年)伊香保温泉に湯治に行った謙信が、そのとき恐らく老齢で「万喜斎(ばんきさい)」と名乗っていた顕泰に、酒肴を受け取った礼状を送っています(下記補足2)。
これが彼に関する最後の記録です。

(補足2)
就湯治為音問檜肴給之候、賞翫無他事候、養性相当候間、近日可出湯間、恐々謹言
 四月十六日 政虎
沼田入道殿
(上杉政虎書状写 東大日本史学研究室)

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、謙信が亡くなると(1578年)跡継ぎを巡る内乱が起こり(御館の乱)、その最中に北条が再び沼田城を手にします。そのとき現れたのが、武田勝頼の家臣・真田昌幸でした。謙信の後継となった景勝が、武田と同盟し、その代償で東上野(沼田含む)を武田領と認めたのです。1579年、昌幸は城主だった藤田信吉を調略し、沼田城を占拠しました(下記補足3)。1581年には、旧領回復を狙って攻めてきた沼田顕泰の遺児・平八郎を、謀略で返り討ちにしています。

(補足3)
沼田出勢のみぎり、最前に当家に属され候の条、倉内城本意、誠に忠節比類なく候・・・
(天正8年12月9日 藤田信吉宛武田勝頼所領宛行状)

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

そして、主君の武田氏が滅亡し、滅亡させた織田信長までが本能寺の変で討たれると、独立大名を志向して動きました。その核となったのが本拠地の上田城と、沼田城でした。昌幸は、北条〜徳川〜上杉と、有利な条件を求めて、主君を何度も変えています。上杉へ鞍替えしたのは、徳川が北条に、沼田を含む上野国の領有権を認めたからでした。そのために、1585年には、徳川軍から上田城を攻められましたが、撃退に成功しました(第一次上田合戦)。それと並行して、北条軍から沼田城を攻められますが、昌幸の叔父・矢沢頼綱が防ぎました。

その後、豊臣秀吉に臣従し、一旦は沼田城を北条氏に引き渡しますが、名胡桃城事件をきっかけとした小田原合戦(1590年)で北条氏が滅び、また真田の下に戻ってきました。

上田城跡

真田氏による沼田の発展

小田原合戦後、関東地方は徳川家康の領地となりました。沼田城には、昌幸の長男・信之が入り、家康の配下と言う形になりました。併せて、昌幸が本拠としていた上田に対しても、その支藩というような位置付けでした。この2つに区分された領地が、沼田藩・上田藩の基になります。沼田については、信之以後、5代91年の真田氏の支配が続きます。また、正之は、家康の重臣、本多忠勝の娘・小松姫を妻としていました(家康の養女であっととも言われています)。このことが、関ヶ原の戦いのときに、信之が東軍、昌幸(+信繁)が西軍に分かれたときに、混乱なく対応できたことにつながります。なお、そのとき昌幸が沼田城を乗っ取ろうとしたが、城を預かった小松姫が決して入城させなかった逸話がありますが、実際には小松姫は当時大坂にいたようです。関ヶ原後は、信之が上田藩も引き継ぎました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

信之は、沼田に入ってから、城の整備を進めました。城は当初、台地の隅の「捨曲輪」「古城」と呼ばれた場所にありましたが、拡張されていて、1586年(天正14年)には二の丸・三の丸が整備されたと伝わっています。信之時代の1596年(慶長元年)には天守の普請が始まり、翌年に完成しました(「月夜野町後閑区有文書」、時期には異説あり)。この天守の姿は、後に沼田藩が幕府に提出した絵図(「上野国沼田城絵図」)に描かれています。四階に見えますが、下に屋根があるので、五重の天守だったことが確実視されています。関東地方には、他には江戸城にしか五重の天守はありませんでした。真田氏はそれが許されるような存在だったのです。

「上野国沼田城図」部分、出展:国立公文書館
上図本丸部分の拡大

藩政としては、信之の時代は、戦乱や飢饉で荒廃していた領内を復興することを優先しました。例えば、逃散した農民が戻ってきた場合に、未納年貢を免除したり、借金を肩代わりしています(下記補足4)

(補足4)政所村(月夜野町)の百姓が欠落し、あるいは身売りしたため、田地がことごとく荒れてしまったので、借金を返済して身売り百姓を召し返すように(慶長19年7月 出浦対馬守・大熊助右衛門に対する信之指示、訳は「沼田市史」より)

信之は大坂の陣後の1616年(元和2年)、上田に移り(1622年には松代に転封)、沼田藩は長男の信吉に任せました(沼田藩2代目、~1635年・寛永11年)。信吉の時代に、沼田の城下町・用水・新田・街道・産業の開発が本格化します。例えば、城下町では坊田新町を開き(1616年、元和2年)、人口増に伴い再び水不足となったので川場用水を開削したり、新田開発者には一定期間年貢を免除したりしました。当時、城下に時刻を知らせてた時の鐘が残っています。

天桂寺にある信吉墓
信吉時代の時の鐘(城鐘)、沼田市ホームページより引用

信吉の子・熊之助(沼田藩3代目、~1638年・寛永15年)は、幼少で亡くなってしまったので、信之の次男である信政(沼田藩4代目、~1656年・明暦2年)が跡を継ぎました。信政は後に「開発狂」と称されるほど、領内の開発を促進しました。この時代に開発された代表的な用水や町が「信政の七用水」「真田の八宿」と呼ばれています。沼田藩の公式の石高(表高)は3万石でしたが、信政の時代に内輪の検地をおこなったところ(内高)、4万2千石に増加していました。

真田信政肖像画、真田宝物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

沼田藩真田氏の改易

1656年(明暦2年)、信之の隠居に伴い、信政は松代に移っていきました(松代藩2代目)。そして、沼田藩を継いだのが信吉の次男・信利でした(沼田藩5代目、~1681年・天和元年)。その後、松代の信政が亡くなると(1658年・万治元年)、真田本家の跡継ぎをめぐって、信利と、信政の子・右衛門(幸道)との間で争いとなりました。幕府の裁定にまで持ち込まれ、松代藩は右衛門、沼田藩は信利と決定しました。そして間もなく信之も亡くなり、両藩は完全に独立した藩同士になりました。

信利の治世にはこれまで、よい評判はありませんでした。松代藩への対抗心をあらわにし、石高を松代より多い14万石と称し、豪華な藩邸を建て、贅沢な暮らしをしたというものです。また、費用を捻出するために、年貢を重くし、あらゆるものから税金を取り立てたとのことです。そしてついに、義民、杉木茂左衛門の命をかけた訴えが元で、改易になったというストーリーが知られています。しかし、残念ながら茂左衛門の存在は当時の史料では確認されておらず、知られているストーリーも明治時代に広まったのです。それでは、信利の改易の実態はどうだったのでしょうか。

義人杉木茂左衛門の碑

沼田藩は、信利にとって厳しい状況でした。沼田藩は山間地であるため収穫が不安定で、以前は松代藩の援助を受けていたのです。また、かつて沼田の地を確保するため、地元領主を優遇していて、彼らは高禄の家臣になり、その領地には藩主の支配が及んでいませんでした。その合計石高は藩の表高を越えるほどでした。開発を急いでいたのは、こういう事情もあったのです。

信利はこの状況に対応するため、前代にも増して用水、新田の開発に力を注ぎました。件数では歴代最多です。また、領民の心の拠り所となりうる寺社も多く創建しました。多すぎる地元出身の高禄家臣に対しては、リストラを敢行し、支出を減らしました。そして、開発した田畑を確かめるため、藩で初めて徹底的な検地を行いました。地元領主の力が強かったときにはできなかったことです。

しかし、この検地の結果は、開発が進んだとはいえ、総石高が14万4千石という驚くべきものでした。実は単位あたりの田畑収穫高を実態より過剰に見積っていたのです。よって、農民は重税に苦しむことになりました。また、1680年(延宝8年)には大雨と洪水の被害が発生し更に困窮しました。そして、この大雨により江戸の両国橋まで破損したことが(下記補足5)、信利の命取りにつながるのです(両国橋用材請負失敗)。

(補足5)昨夜大雨風やまず、昼より黄蝶数知らず群がり飛んで、夜に及んで散ぜず。また南風激しく、城中諸門の瓦を落とし壁を落とす。まして武家、商屋傾覆すること数知らず。地が震え海が鳴ること甚し。芝浦のあたりより高潮押し上げ、深川永代、両国辺り水涯の邸宅、民屋ことごとく破損し、溺死の者多し(徳川実紀 延宝8年閏8月6日条)

「両国橋大川ばた」、歌川広重作、出展:国立国会図書館

この両国橋再建の幕府入札で、江戸の材木商(大和屋久右衛門)が格安で落札しました(相場1万5千~2万両のところ、9500両)。その商人は、沼田の近場の山から簡単に調達できると考え、沼田藩に話を持ち掛けました。信利は安易にその話に乗ってしまったのです。財政の足しになると思ったのでしょうか。用材は近場どころか山奥でも調達できず、納期の翌年10月に間に合いませんでした。その調達のために、領民が大量動員され(延べ約17万人)、更に困窮しました。その結果、信利は1681年、天和元年11月、幕府から改易を言い渡されたのです。

幕府の公式記録(徳川実紀)によると、信利改易の理由は以下の通りです(下記補足6)。
・両国橋の用材の遅延
・日ごろの身の行いが正しくないこと
・家人・領民を苦役したこと
2、3番目は、処分の場合の常套句だそうですが、信利の場合は、リストラされた家臣や、酷使された農民たちからの影響があったかもしれません。当時の将軍は徳川綱吉で、将軍独裁の風がまだ残っていて、その治世で40人以上が改易・減封になっています(赤穂事件などもその一つ)。信利は、改革を急ぎすぎて失敗し、幕府にその隙を突かれることになったのかもしれません。沼田は幕府領となり、そのとき関東で唯一だった五重天守を含め、沼田城は、翌年1月、わずか10日間で破壊され、埋められてしまいました。

(補足6)上野国沼田城主・真田伊賀守信利の所領三万石没入せられ、出羽山形に配流し、奥平小次郎昌章に召し預けらる。これは、両国橋構架を助役し、おのが封地より橋材を採りけるが、ことのほか遅緩せしのみならず、日頃身の行い正しからず、家人、領民を苦使する聞えあるをもてなり(徳川実紀 天和元年11月22日条)

徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
沼田城天守、街なかのディスプレイより

その後

沼田地域は、幕府代官の努力で復興に向かい、再び沼田藩として、本多氏、黒田氏、土岐氏に受け継がれました。ただ、城としては小規模に再興されただけでした。現在は、本丸周辺が沼田公園として整備されています。

沼田公園

「沼田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

27.上田城 その2

今回は、上田駅からスタートします。ここは新幹線駅でもあるので、賑わっています。上田城には、現在「上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)」になっている中心部分以外にも見どころがありますので、駅から公園に向かう間に見学したいと思います。公園に着いたら、櫓が残る本丸を見てから、自然の要害だった「尼ヶ淵」なども回ってみましょう。最後の方では、上田合戦のときに出てきた「砥石城」「神川」にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、上田駅からスタートします。ここは新幹線駅でもあるので、賑わっています。上田城には、現在「上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)」になっている中心部分以外にも見どころがありますので、駅から公園に向かう間に見学したいと思います。公園に着いたら、櫓が残る本丸を見てから、自然の要害だった「尼ヶ淵」なども回ってみましょう。最後の方では、上田合戦のときに出てきた「砥石城」「神川」にも行ってみましょう。

上田駅

街なかの見どころ

まず、上田駅から駅前通りを歩いていきましょう。

駅前通り

「中央2丁目」交差点を左に曲がると「大手通り」です。

中央2丁目交差点
大手通り

道がくねっているところがありますが、ここが大手門の跡です。上田合戦での激戦地とされているのと、江戸時代には石垣と堀があって、枡形が形成されていました。仙石忠政による復興が中断されたためか、城門の建物は作られなかったと言われています。

大手門跡
大手門があった「三の丸」のディスプレイ

この近くに、真田信之以来の藩主屋敷跡があります。現在は高校の敷地として使われています。江戸時代に建てられ、現存している屋敷門です。土塁と堀も残っていますが、隅の部分がちょっと欠けています。これについては、後でご説明します。

藩主屋敷跡
藩主屋敷の土塁と堀

城跡公園に向けて進んでいくと、また屋敷跡があります。ここも学校になっていますが、そう言われてみないとわからない感じです。この屋敷は当初は「中屋敷」、時代が下ると「作事場」または「古屋敷」と呼ばれたそうです。築城時には真田昌幸の屋敷だった可能性も指摘されています(「信濃上田城」)。

中屋敷・作事場跡

公園に近づくと、藩校「明倫堂」跡もあります。

明倫堂跡

二の丸・本丸を攻略!

では、堀にかかった橋を渡って、二の丸東虎口から公園に入っていきましょう。

橋(二の丸橋)渡っていきます

虎口にから見ると、左の方に本丸の櫓が見えて、まっすぐ行けるようになっているのですが、実は城の現役時代にはここも枡形になっていて、まっすぐ進めなかったのです。武者溜り、三十間堀というのがあって、右側に回り込む必要がありました。現在は、武者溜りの復元に向けた調査を行っています。

二の丸東虎口
武者溜りの調査現場
武者溜りなどの復元についてのディスプレイ

本丸の入口である東虎口櫓門は、現存する南櫓・北櫓に挟まれて、上田城のビュースポットと言えるでしょう。

左から南櫓、本丸東虎口櫓門、北櫓

門の右脇にあるのが有名な「真田石」です。真田信之が松代に移るとき、巨大すぎて持っていけなかったという言い伝えありますが、歴史家によると、仙石忠政が築いたようです。

真田石

門に入ると、正面に見えるのが真田神社です。仙石氏も松平氏も祀られています。

真田神社

奥の方に行くと、西櫓を見学できます。廃城になっても最後まで残っていた櫓です。今でも崖の上でがんばっている感じです。ここに来ると景色が急に開けて、どんな所にお城を作ったのかがわかります。

西櫓
西櫓からの眺め

今度は、本丸の中心部に行ってみましょう。本丸の中には、もともと建物はありませんでした。

本丸中心部(上段)
上田城は桜の名所ですが、紅葉もきれいです

過去に櫓があった場所に行ってみましょう。実は、本丸の北東隅には櫓が2つ並んでいました。こんなに近くに櫓が並んでいると、防衛上の効果はなかっただろうとのことです。ちなみに、この2つの櫓の当時の名前はわからないそうです。

北東隅の一つ目の櫓があった場所
北東隅の二つ目の櫓があった場所

次は、北西隅櫓跡に行ってみます。ここの櫓は一つでした。こちらについては、西側の本丸堀から金箔瓦が見つかっています。つまり、真田時代にはこの辺に天守があったかもしれないのです。

北西隅櫓跡
この辺りの堀から金箔瓦が見つかりました

それでは、さっきの北東隅の謎解きに、本丸の周りを歩きましょう。本丸西虎口から外に出ます。ここも枡形になっていました。堀の周りを歩くと、本丸が一番高い所にあることがよくわかります。

本丸西虎口
本丸堀、向こうが本丸(北西隅)

堀の北東隅に着きました。本丸の北東隅が欠けているのがわかります。これは「隅欠(すみおとし)」といって、鬼門である北東からの災厄を除けるための仕組みとされています。上田城の特徴の一つです。先ほどの藩主屋敷もそうでした。江戸時代の絵図では、二の丸や中屋敷(絵図では「古屋敷」)も同じようになっています。

本丸北東部の隅欠
「信州上田城絵図」、真ん中の本丸だけでなく、周りの二の丸、その右側の古屋敷も北東隅(右上)が欠けています、出展:国立公文書館

今も残る自然の要害

今度は、上田城が自然の要害に築かれたことがわかるスポットに行ってみましょう。最初に入った公園入口の橋(二の丸橋)の脇から、堀の底に下りましょう。堀の底とは言っても、気持ちのいい歩道になっていて、昭和時代には電車の軌道(上田温泉電軌北東線)だったのです。堀の端を曲がると、城の南側の要害だった尼ヶ淵です。崖地帯になってきます。尼ヶ淵に面する崖は、高さが約12メートルあって、火山活動や川の流れに由来する3つの層によって構成されています。異なる性質の層が重なっているので崩れやすいとのことです。

二の丸橋下のトンネル
二の丸堀底の歩道
城の南側の崖

広場になっているところに出ると、全体をよく見渡すことができます。この場所を千曲川の支流(尼ヶ淵)が流れていたのです。しかも1732年(享保17年)の洪水に伴い「大川」が流れるようになり、それは千曲川の本流だったとも言われています。洪水で崩れた崖への対処と、川の護岸のために、今見られる石垣が築かれました(流れが来なくなったのは大正時代以後)。

尼ヶ淵の全景

例えば、本丸南櫓下を見てみると、石垣が3段に積まれています。上段が櫓台の石垣で一番早く築かれ、下段が洪水の後に築かれた護岸用です。中段はその後、崩落を防ぐために何回も石垣が築かれ、修繕された部分だそうです。崖のままになっているところは、突出していて石垣が築けなかったようです(一部現代にモルタル補修)。

本丸南櫓下の石垣

西櫓の方に向かって歩きましょう。崖下から見ても、西櫓のがんばりがよくわかります。

西櫓の方に続く石垣
西櫓

城跡の周りをたどることになりますが、大きな堀の跡を紹介したいと思います。まずは西側で、二の丸西虎口(現在は跡のみ)を出たところが「広堀」でした。今は野球場になっています。

広堀跡

それから北側、二の丸北虎口の外にもあります。この虎口は、残っている石垣を使って復元整備されています。

二の丸北虎口

その外にあるのが百間堀(ひゃっけんぼり)跡です。この大きなグラウンドが、丸々お堀でした。元は自然の川だったのを利用して、こんなに大きなお堀を作ったのです。

百間堀跡

上田合戦ゆかりの地

ここからは、少しですが上田合戦ゆかりの地をご紹介します。一つ目は、砥石城です。上田城からは約7kmの道のりなので、行かれる場合は車を使った方がいいかもしれません。上田合戦では真田信之も(第一次・二次)、信繁(第二次)もこの城を使いました。それにそれ以前からこの城は重要な拠点で、武田信玄と村上義清がこの城を巡って争い、信玄が敗れたことでも有名です(砥石崩れ)。真田昌幸の父、幸隆がこの城を乗っ取り、出世のきっかけにもなりました。

砥石城跡遠景

この城の規模も大きく、実は山の上にある4つの城(拠点)の集合体なのです。今日は4つのうち、標高が高くて上田城が見えそうな「砥石城」に行ってみましょう。

4つの城、現地説明パネルより

櫓門から山道に入ります。

櫓門(現代のアトラクションか)

登っていくと分岐点があります。今回は右に行きます。

砥石城と米山城の分岐点

急な坂が続きます。重要だった城だけのことはあります。

砥石城に続く急坂

山道の途中が入口みたいになっています。山城の虎口でしょうか。

虎口か?

もう少しです。

砥石城の頂近く

砥石城跡に着きました。

砥石城跡

さて、上田城は見えるのでしょうか?

砥石城跡からの眺め

清掃工場の煙突の手前の、木が茂っている辺りが上田城だと思います。

砥石城跡から見える上田城

最後になりますが、第一次上田合戦の激戦地だった神川周辺に行きましょう。近くには信濃国分寺があって、第二次合戦のときに、東軍の信之と西軍の昌幸が会見した場所だと言われています。

信濃国分寺
「真田徳川会見之地」の石碑

もう遅くなってきましたが、神川に着きました。砥石城の方から流れてきて、千曲川に合流しています。何気ない川に見えますが、当時はここが重要な防衛ラインでした。

神川

リンク、参考情報

上田市 上田城総合サイト
上田市立博物館
「真田氏時代の上田城考」コイワイド
長野県立歴史館/信濃史料
・「シリーズ・城郭研究の新展開5 信濃上田城/利根崎剛編」戒光祥出版
・「真田氏三代/笹本正治著」ミネルヴァ書房
・「歴史群像41号 戦国の堅城 上田城」学研
・「歴史群像136号 戦略分析 第一次上田合戦/三島正之著」学研
・「歴史群像137号 第一次上田合戦の歩き方」学研
・「歴史群像139号 戦国の城 第二次上田合戦/樋口隆晴著」学研
・「シリーズ藩物語 上田藩/青木蔵幸著」現代書館
・「日本を開国させた男、松平忠固/関良基著」作品社
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著、小林賢章訳」ちくま学芸文庫
・「信州上田軍紀/堀内泰訳」ほおずき書籍
・「史跡上田城跡保存活用計画(案)」上田市・上田市教育委員会
・「国史跡上田城跡石垣解体修復工事報告書」2009年3月 上田市・上田市教育委員会

「上田城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

27.上田城 その1

上田城を築いた真田昌幸は、真田幸隆の三男として生まれました。昌幸は、当初信玄に近臣として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たちが討たれると、真田家を継ぎました。

立地と歴史

上田城築城と第一次上田合戦

上田城を築いた真田昌幸(生年:1547年〜没年:1611年)は、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれました。父親の幸隆は、信濃国真田郷の小豪族でしたが、武田信玄に仕え、重臣の一人となりました。特に調略を得意とし、後半生は武田氏の西上野での領土拡大に貢献しました(岩櫃城など)。昌幸は、当初信玄に近臣(武藤喜兵衛と名乗っていた)として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たち(信綱・昌輝)が討たれると、真田家を継ぎました。昌幸は、西上野の攻略を進め、1579年(天正7年)には沼田城を落としました。この城が、後の真田氏による領土経営のキースポットになります。彼は武田氏の一部将でしたが、一定程度の領土経営権を与えられていたと言われています。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

やがて主君の武田氏が滅亡し、武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺の変で討たれると、旧武田領(甲斐・信濃・西上野)は空白地帯となり、周辺有力大名(徳川・北条・上杉)による争奪戦が起こります(1982年(天正10年)の天正壬午の乱)。上田周辺から沼田までの一帯を勢力圏としていた昌幸は、有利な条件(領土維持)を求め、上杉→北条→徳川と、次々に傘下となる大名を変えていきます。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時、昌幸は山城の砥石城(またはその周辺の館)を本拠にしていたと考えられますが、徳川傘下にいたときに築いたのが上田城でした。上田の地は、徳川・上杉勢力圏の境目にあたり、街道(上州街道・北国街道)と千曲川が交わる地点で、徳川方として確保が必要な場所でした。つまりこの城は、徳川方が上杉方に対抗するために築かれたのです。従って、築城にあたっては、徳川方の全面支援があったと考えられています。平地での築城なので、上杉方からの妨害も受けやすく、築城時の安全確保の必要もありました(下記補足1)。

(補足1)海津よりの注進の如くんば、真田、海士淵(あまがふち)取り立つるの由に候条、追い払ふべきの由、何れへも申し遣はし候(天正十一年四月十三日島津左京亮宛上杉景勝書状「上杉年譜」)

戸石城跡

平地の城であっても、自然の要害を生かして築かれました。城の南側は、千曲川の支流が流れ「尼ヶ淵」と呼ばれていて、切り立った崖になっていました。北や西から攻めてくる上杉方に対して、後ろ堅固の城であったと言えます。その北側と西側は、川(矢出沢川・蛭沢川)の流路を変え、元の流路を堀に活用し、新流路を惣堀として、備えとしました。城の中心部分は、かつて他の豪族(小泉氏)の城館として使われていた微高地を利用し、西から小泉曲輪・本丸・二の丸を並べました(梯郭式)。更に東側は沼沢地でしたが、その合間に昌幸や一族の屋敷地(中屋敷、常田屋敷、玄三屋敷)が作られました。築城は、1583年(天正11年)に始まり、2年後に完成したとされています。その頃の城の姿を表すとされる絵図(「天正年間上田古図」)が残されています。

城の南側の崖部分(かつての尼ヶ淵)
惣堀として使われた現在の矢出沢川
堀の一つ、百間堀跡
「天正年間上田古図」、上田市立博物館にて展示

ところが、昌幸は城が完成した時期に、徳川方から上杉方に鞍替えをします。これは、徳川家康が北条氏との和睦の条件として、上野国を北条の領国として認めたことによります。これは真田が沼田を失うことを意味していました。替地も明確でなかったようです(諸説あり)。昌幸はこれを拒否しました(下記補足2)。並みの地方領主だったら飲んだのでしょうが、昌幸は自分が切り取った領土にこだわったのです。上杉の支援があるとはいえ、北条(沼田への攻撃)・徳川双方を敵に回す決断でした。(ただし、上杉のバックにいた豊臣秀吉の存在を考慮したという指摘もあります)家康は激怒し、真田討伐を命じました(下記補足3)。これが第一次上田合戦です(天正13年7月〜11月)。

(補足2)
三河物語
ぬまた(沼田)を小田原(北条)へ渡せと仰せになったところ、さなだ(真田昌幸)は、ぬまたの城は上様よりいただいたものではなく、我らの手柄で取り立取った城なので筋違いの話です(訳:代替案のための弁証法的空間)

(補足3)敵幸ひの所へ引き出し候はば、この度根切り緊要に候(八月二十日徳川家康書状、「宮下家文書」)

沼田城跡

鳥居元忠、大久保忠世らに率いられた約7千の徳川勢に対し、真田勢はわずか約2000人でした。しかも、上田城は対上杉用に築かれた城なので、東側(甲斐)から攻めてくる敵(徳川勢)は想定外でした。そのとき昌幸がとった戦術は、少ない兵を更に分散させて配置することでした。昌幸本人は上田城に、長男の信之(当時は「信幸」)は砥石城に、残りを他の城や伏兵として布陣したのです。そして、敵の正面(東側)に対する防御(神川・染谷城)を事実上放棄し、わざと攻めやすくさせたのです。徳川勢は、数は多いが寄せ集めで、真田勢を見下していたとも言われています。城の東側の神川を越え、中間の沼沢地や障害物(千鳥掛け柵)を通り、一気に二の丸まで攻め寄せました。勢いで敵の統制が緩む隙をついて、真田勢は反撃に移り、砥石城の部隊も加わりました。徳川勢は退却しますが、真田勢の追撃を受け、神川付近で多くの兵士を失いました(1300人、下記補足4)。その後、徳川勢は攻め口を変えますが、戦線が膠着し、ついには撤退しました。この戦いは、真田の独立大名として道を開くとともに、その名を天下に知らしめました。昌幸だからこそできた離れ業と言えるでしょう。

(補足4)
沼田城重臣宛信幸返書
芳札披見、仍従遠州出張候間、去二日於国分寺遂一戦
千三百余討捕備存分に候、然者南衆(北条方)其表可相働候、
於然堅固之備憑入候 恐々謹言
閏八月十二日    真田源三郎  信幸 判
 下豊(下沼田豊前守)、恩伊(恩田伊賀守)、木甚、恩越、發参
去る二日国分寺において一戦を遂げ、千三百余り討ち取り、備へ存分に任せ候
芳しい書状を拝見した 遠州より徳川勢が攻めて来たが、去る2日国分寺に於いて一戦し、1300人余り討ち取り備えは十分である。そこで、北条方がそちらに攻めて来るに違いないので、堅固の備えを頼み入る(「恩田家文書」、訳:おぎはらの洋ラン日記)

上田城二の丸
神川

豊臣大名の城に、そして第二次上田合戦

その後、昌幸が選んだ道は、豊臣秀吉への服従でした。秀吉は昌幸を「表裏比興の者(表と裏を使い分けるくせもの)」と呼び、一時討伐を決意しましたが許しました(下記補足5)。昌幸は、家康の与力大名となりますが、家康もまた、信幸を重臣の本多忠勝の娘(小松姫、形式上は家康の養女)の婿としたのです。こうして真田は豊臣政権下の大名となったのです。秀吉の天下統一の過程で、一時沼田城は北条のものとなりますが、小田原合戦の結果、真田の下に戻ってきました。

(補足5)
真田の事、先度この方において仰せ出し候如く、表裏比興の者に候間、成敗を加へらるべき旨仰せ出され候間、定めて家康人数相動くべく候条、その方より一切に見続等これあるまじきの由に候。(八月三日上杉景勝宛増田長盛・石田三成書状「上杉家記」)

天正十四年(一五八六)十一月二十一日付 真田昌幸宛羽柴秀吉書状(真田宝物館蔵)其の方事、家康存分これ有りと雖(いえど)も、此方(こなた)に於いて直(じき)に仰せ聞けられ候。殿下も曲事に思し召し候と雖も、此の度の儀は相免ぜられ候条、其の意を成し、早々罷り上るべく候。猶、様子仰せ含めらるべく候。委細尾藤左衛門尉申すべく候也。
   十一月二十一日(朱印)(羽柴秀吉)
     真田安房守とのへ
家康がお前を恨んでいる件については、自分から直接言い聞かせてやった、自分もけしからぬことだとは思うが、今度だけは許してやるので上洛するように(訳:秀吉と真田)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田城は豊臣大名の城として、改修が進められました。第一次上田合戦のときには「殿守(天守)も無き小城」であったとされていますが、この改修で天守が建てられたのではないかとも言われています。現在の本丸堀などから、金箔瓦や鯱瓦が発掘されています。近隣で同様のものが使われた松本城高島城小諸城には天守がありました。また、江戸時代に作られた城の絵図(「上田城構之図」)には「御天守跡」という記載があります。一方で、金箔瓦は本丸以外(二の丸や小泉曲輪)でも発見されているので、天守以外で使われていたともいえます。また、天守があった可能性がある本丸北西隅には、天守台石垣の痕跡がないことから、否定する向きもあります。天守があったとしても、三層程度だったであろうという意見もあります。いずれにせよ、初期とは全く違う豪華な櫓や門を備えた城になっていたとは言えるでしょう。

発掘された金箔瓦の一つ、上田市立博物館にて展示
松本城
高島城
小諸城跡の天守台石垣
「御天守跡」の記載がある古地図「上田城構之図」部分、協力:上田市マルチメディア情報センター

また、弱点だった東側については、三の丸や大手門が整備され、城下町に寺町を作り、防御を固めたと考えられています。

三の丸の大手門跡
集められた寺の一つ、月窓寺

そして秀吉が亡くなると、運命の天下分け目の戦い(1600年(慶長5年))を迎えます。真田勢は当初、家康の上杉征伐に加わるべく行動していましたが、西軍奉行からの家康弾劾の書状(下記補足6)を受け取り、昌幸・次男の信繁(幸村)は西軍に、信幸は東軍に味方(下記補足7)することにしたのです(犬伏の別れ)。これは、個々の立場に基づくものとも言えますが、昌幸がこれまで見てきた大名家の存亡から、真田家を残すための決断であったと思われます。

(補足6)
慶長五年(一六〇〇)七月十七日付 真田昌幸宛長束正家等連署状
 急度(きっと)申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出馬候間、各(おのおの)申し談じ、楯鉾(たてほこ)に及び候。内府公(家康)御違ひの条々別紙に相見え候。此の旨尤もと思し召し、大閤様御恩賞を相忘られず候はば、秀頼様へ御忠節有るべく候。恐々謹言。
   七月十七日 長大(長束大蔵大輔)正家(花押)
         増右(増田右衛門尉)長盛(花押)
         徳善(前田徳善院) 玄以(黒印)
     真田安房守殿 御宿所

(補足7)
慶長五年(一六〇〇)七月二十四日 真田信幸宛徳川家康書状(真田宝物館蔵)
今度安房守(あわのかみ)(昌幸)罷り帰られ候処、日比(ひごろ)の儀を相違(たが)へず、立たれ候事寄特千万に候。猶本多佐渡守(正信)申すべく候間、具(つぶさ)にする能はず候。恐々謹言。
   七月二十四日 家康(花押)
     真田伊豆守殿

「犬伏密談図」、協力:上田市立博物館

石田三成らの西軍決起を知った家康以下東軍は、上杉征伐から引き返し、西に向かいました。その内、家康の跡継ぎ・秀忠率いる3万8千の徳川本体は、中山道を進みました(下記補足8)。その途上で、昌幸のこもる上田城を攻略することにしました。周辺で唯一西軍に組している有力大名だったからです。3千名程度といわれる上田勢は、今度は時間稼ぎの戦術に出ました。

(補足8)いよいよ真田安房守敵対申す由、中納言(秀忠)追々進発せしめ候。その方落ち度無き様、取り合ひの儀頼み入り候。もし大敵に及び候はば、この方へ注進これあるべく候。出馬、即時に踏みつぶし申すべく候(八月十三日仙石久秀宛徳川家康書状、「改撰仙石家譜」)

(慶長5年)
9月2日:秀忠、小諸城に到着(「但馬出石仙石家譜」)
9月3日:昌幸、信幸を通して秀忠に助命を嘆願(「佐竹家文書」)
9月4日:昌幸が降参しないので、秀忠が染屋台に本陣を進め、信幸の軍が、信繁が籠る砥石城に攻撃に向かう
9月5日:信繁が上田城に撤収、昌幸は降伏勧告に応じず
9月6日:徳川軍が稲の刈り取りをしようとしたところ、阻止する城兵と戦闘となり、大手門まで追うが、命令により撤収
     (「寛永諸家家系図伝」など徳川方史料)
9月8日:秀忠に、家康からの上洛命令が届く(下記補足9)
9月11日:秀忠、小諸城から出発(下記補足10)

(補足9)
わざわざ使者を以って申し入れ候、よって内府より急ぎ上洛せしむべき由申し越され候間、先ず先ず明日小諸まで罷り越し候。
その表万事油断なきの様、いよいよ仰せ付けられるべきの儀、肝要に存じ候。
なほ口上に申し含め候の条、詳にする能わず候。
恐々謹言。
         江戸中納言 秀忠御判
九月八日 羽柴右近殿 御陣所
(森家先代実録、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

(補足10)一書令啓上候、然者、黄門様(秀忠)十一日ニ小諸を御出、
九月廿三日 青常陸介 内修理亮 酒右京太夫
石田様
(堀文書、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

9月6日に戦闘がありましたが、小競り合いだったという説や、徳川方がまた大損害を受けたという説もあり、はっきりしません。
明確に言えるのは、
・秀忠軍は約10日間を費やしたが、上田城を攻略できなかった。
・総攻撃を行わず、家康の指示により関ヶ原に向かった。
・結果的に9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

昌幸は、秀忠軍の足止めに成功したのです。しかし、関ヶ原ではわずか一日の戦いで東軍が西軍に勝利し、まもなく上田城は接収されました。信幸などによる助命嘆願の結果、昌幸・信繁は、一命を取り留め、紀伊国九度山に配流となります。昌幸は、いつか罪を許されることを期待していましたが、11年後に亡くなりました。信繁がその後、大坂の陣で活躍することは余りにも有名です。

真田信繫肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田は信幸の領地となりましたが、城は破却され、中心部は埋められました。信幸は、三の丸の屋敷で政務を執っていたのです。大坂の陣後の1622年(元和8年)には、松代城へ加増転封になりました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
松代譲
「元和年間上田城図」、上田市立博物館にて展示

仙石忠政による上田城復興

廃城同然となっていた上田城を復興したのは、真田信之に代わって藩主となった、仙石忠政(生年:1578年〜没年:1628年)でした。彼はそれまで小諸藩主で、第二次上田合戦のときには父親の仙石久秀とともに参陣していました。久秀は、信長・秀吉に仕えた武将で、家紋は信長より拝領したものと言われています。忠政は久秀の三男でしたが、長男(久忠)は検校(盲目)、次男(久範)は関ヶ原で西軍に加わったため、跡継ぎとなりました。忠政は1622年(元和8年)に藩主となり、1626年(寛永3年)から幕府の許可を得て、上田城の復興に取りかかります。このときの将軍は家光でしたが、秀忠も大御所として健在でした。忠政を移したときに将軍だった秀忠は、修理料として銀子を与えたと言われています(補足11)。自らを含め二度も徳川軍を退けた上田城を、どのように見ていたのでしょうか。

(補足11)上田城は先年破却せしままなれば、修理の料として銀子二百貫目を賜うべし、心のままに修理すべき旨、懇の命(「改撰仙石家譜」)

仙石忠政肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

忠政は、家臣に復興工事に関する細かい指示書を出していて、復興への熱意を感じさせます。それによると、真田時代の城の姿の復元を目指していたことが伺えます(下記補足12)。埋められた堀を、掘り返していることから、少なくともレイアウトは真田時代を踏襲したと考えられます。現在、門や櫓のところに残る石垣は、そのときに築かれましたが、一部の古い形式の石垣は、真田時代のものか、その時代の石を転用した可能性があります。

(補足12)なわばりの時、古城の堀にゆがみがあるときには堀の両側を掘って直にせよ(「寛永三年仙石忠政築城覚書」、訳は「信濃上田城」による)

忠政が築造した二の丸北虎口石垣
真田時代に遡る可能性がある本丸西虎口土橋下南石垣

そして本丸には、天守はないものの、七つの櫓と、二つの櫓門を建設しました(内部の御殿はなし)。二の丸などにも建物を建てる計画でしたが、工事開始から2年後に忠政が亡くなり中断されました。以後、基本的な城の構造は、忠政が復興したものが引き継がれました。復興後の姿が、信州上田城絵図(正保城絵図)として残されています。現在の残る城跡の基にもなっています。中断したとはいえ、わずか2年で城を復興した忠政にとって、上田城はどういう存在だったのでしょうか。

「信濃国上田城絵図」部分、出展:国立公文書館

仙石氏は3代84年間、上田を統治しました。

藤井松平氏による統治

1706年(宝永3年)但馬出石藩主の松平忠周(ただちか)が、仙石氏と交代で上田藩主になりました。この家系は藤井松平氏と呼ばれていて、家康以前からの松平一族でした(いわゆる「十八松平」の一つ)。忠周は当時、将軍徳川綱吉に側用人として仕えていました。幕府中枢にいたため、より江戸に近い領地に転封になったと見られています。彼は、徳川吉宗政権でも老中を務めました。藤井松平氏は基本的に、仙石氏が復興した上田城や藩の仕組みを維持しました。

松平忠周所用具足、上田市立博物館にて展示

しかし、この時代の上田城の敵は天災(洪水、地震、大火)でした。特に、忠周の子の忠愛(ただざね)の代には、1732年(享保17年)の千曲川洪水により、城の南の崖が大きく崩壊しました。その後4年をかけて、石垣の修築・造成が行われました。主にこの時に築かれた崖を覆う石垣は、現在目にすることができます。以降、経年劣化や大雨により破損した石垣の修理が幕末まで6回行われました(幕府への届出記録による)。

尼ヶ淵に面する石垣

藤井松平家の藩主の中から、幕末に活躍した松平忠固(ただかた)を紹介したいと思います(生年:1812年~没年:1859年)。幕末の政治家の中では有名な方ではありませんが、日本の開国に尽くした人物の一人です。藩主になったとき(1830年)上田で凶作が続き、対策として養蚕を奨励したのが後の開国政策につながったのかもしれません。ペリーが来航した時老中になっていた忠固は、当初より開国だけでなく、通商開始も主張し、徳川斉昭と渡り合いました。また、アメリカの総領事ハリスと通商条約の交渉を行ったときに、忠固は、堀田正睦に次ぐ次席の老中でした(正睦が首相兼外務大臣とすれば、忠固は財務大臣)。条約調印のときも、勅許が必要とする正睦や井伊直弼に対し、必要なしと主張していました。彼には開国・通商が日本の国益になると確信していたのです(補足13)。条約が調印されると、直弼により、正睦とともに罷免されてしまいますが(1858年)、翌年に亡くなるまで上田の物産(生糸など)輸出の準備のために働いていました。

(補足13)交易は世界の通道なり、決して忌むべきの事にあらず、寧ろ之を盛んにするを要す、即ち皇国の前途亦宜しく交易に依りて大に隆盛を図るべきなり。(忠固の言葉とされるもの、「日本を開国させた男、松平忠固」より)

松平忠固所用具足、上田市立博物館にて展示

その後

明治維新後、上田城は廃城となり、城の建物と土地は競売にかけられました。その結果、城地の多くは桑園や麦畑になったそうです。そこに現れたのが地元の豪商・丸山平八郎でした。彼は材木・生糸などで富を築いていて、本丸部分を買い上げ、最後の城主だった松平氏を祀る松平神社の用地として寄付しました。その後この神社には、真田氏や仙石氏も合祀され、現在の真田神社になっています。また二の丸部分には、刑務所や伝染病院があった時期がありましたが、上田市が買い上げ、城跡全体が公園として活用され、国史跡にも指定されました(1934年、昭和9年)。建物については、城に唯一残っていたが西櫓でした。他の櫓のうち、北櫓・南櫓は遊郭で使われていましたが、転売されそうになり、それを憂えた地元の人たちが買い戻し、原位置に移築復元しました(1949年、昭和24年)。両櫓をつなぐ本丸東虎口櫓門は1994年(平成6「年)に復元されました。現在上田市では、本丸にあった7つの櫓全てを元通りに再建することを目指して活動しています。

真田神社
現存する西櫓
現存する南櫓・北櫓と、その間の復元された本丸東虎口櫓門
7つの櫓が揃った上田城本丸の模型、上田市立博物館にて展示

「上田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。