180.岡豊城 その1

城の長い歴史と長宗我部氏

立地と歴史

土佐国の特徴

岡豊城は、現在の高知県南国市にありました。高知県は、四国の4つの県のうちの一つですが、北の方にある3つの県とは四国山地によって隔たっています。その昔、高知県が土佐国と呼ばれていたころ、そこに行くのは簡単なことではありませんでした。そのため、土佐の国はしばしば、配流先または逃亡先の一つとして挙げられていました。しかしそこに住む人にとっては、暖かい気候と豊富な食料により住みやすい土地でもあったのです。

城の位置

四国の起伏地図と土佐国の範囲

長宗我部氏が土佐国に定住し築城

岡豊城は、その初めから最後まで長宗我部(ちょうそがべ)氏によって所有されていました。長宗我部氏の歴史は長く、その始祖は、古代に朝鮮から日本に、土木工事や絹織物の技術を持って渡ってきた秦氏の支族であったと言われています。秦氏は、その技術を日本の中心部(現在の近畿地方)から多くの地方へ広め、移住していきました。その中には現在の長野県も含まれ、そこに長宗我部氏の先祖が住み着いたのです。長宗我部氏の始祖である秦能俊(はたよしとし)は、12世紀に京都で戦に参加して敗れてしまいますが(保元の乱とされています)、そのとき敵から逃れるために土佐国に向かったのです。彼はついには、肥沃な香長平野にあった国府の近くに定住します。そして苗字を土地の名前を組み合わせた、長宗我部(長岡郡の宗我部)と改めました。岡豊城は、同じ時期にその平野沿いに築かれたと考えられています。

岡豊城跡全景  (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

長宗我部の強みの一つは日本の中心部とのつながりを持っていたことであり、例えば、足利幕府の重臣であった細川氏に仕えたり、高位の貴族であった一条氏を土佐国司として招いたりしました。その結果、長宗我部氏は16世紀前半には、土佐七雄(とさしちゆう)の一つに数えられるまでになりました。ところが、本山氏など土佐七雄の他の氏族たちは長宗我部氏に反抗し、1508年に岡豊城の焼き討ちを行いました。そのときの火災の跡が今でも城跡に残っています。長宗我部氏は一時滅ぼされました。

いくつかの曲輪で火災の跡(焼土や炭化物)が発見されています(写真はその内の一つ、二ノ段)

長宗我部元親がこの城を本拠地とし四国を統一

長曾我部氏の跡継ぎであった長曾我部国親は、一条氏の後押しにより1518年に岡豊城に戻ってきました。彼は、一領具足と呼ばれる家臣団を組織し、力を蓄えました。一領具足とは、普段は農民なのですが、非常時には一揃え(一領)の鎧(具足)でもって兵士となる人たちのことを指します。その後彼は、敵であった者たちを親戚として取り込んだり、あるいは一領具足と共に戦ったりして、過去の無念を晴らしました。国親の息子、長宗我部元親は、1575年に土佐国を統一することに成功しました。岡豊城は、長宗我部氏の本拠地であり続けました。この城は、典型的な山城で、山は階段状に加工されていました。しかし、長宗我部氏ならではの特徴も持っていました。礎石の上に櫓がいくつも築かれたと考えられていて、その櫓に使った瓦は、和泉国(現在の大阪府の一部)から来た職人が生産していました。三の段の土塁の内側には、石垣が積まれていました。このような城の構造は、この城があった当時としては全国的に珍しく、元親が日本の中心部につながりがあったためにできたことです。

一領具足の兵士のフィギア(高知城)
長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三ノ段の石垣

豊臣秀吉の天下統一後に廃城

元親は1585年に、ついに四国全体を統一します。ところが、同時に天下人の豊臣秀吉もまた天下統一を進めていたのです。秀吉は、同じ年に10万を超える軍勢を四国に送り込みますが、一方の元親には農民兵を含めても約4万人の兵力しかありませんでした。元親には成すすべがなく秀吉に降伏しますが、土佐一国のみを安堵されました。元親はまた、1588年に本拠地を岡豊城から大高坂山城(現在の高知城)に移し、更に1591年に浦戸湾を臨む浦戸城に移ります。この本拠地の移動は、1592年の朝鮮侵攻の準備を行うため、秀吉による指示によるものと言われています。岡豊城はその際、廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の高知城
浦戸城跡

「岡豊城その2」に続きます。