112.笠間城 その2

現在、笠間城跡は車で行く人にとっても、歩いていく人にとっても便利なように整備されています。例えば、車で城跡に行った場合、山麓の駐車場に停めて長距離を歩くこともできますし、頂上に近い中腹に駐車することもできます。

特徴、見どころ

山麓からの歩きがおすすめ

現在、笠間城跡は車で行く人にとっても、歩いていく人にとっても便利なように整備されています。例えば、車で城跡に行った場合、山麓の駐車場に停めて長い距離を歩くこともできますし、頂上に近い中腹に駐車することもできます。ただ、もし現地で十分時間が確保できるのであれば、前者を選択されるのをお勧めします。この城の見どころが広範囲に広がっているからです。

城周辺の地図

したがって、この記事でも先ほど述べた通りに、山麓の駐車場から歩いて中腹にある林道を経由して頂上に至る方法で城跡に向かってみようと思います。歩く際には多くの車が通り過ぎるかもしれませんので、気を付けて下さい。城跡の周りには、いくつもの丘陵があるため、その間を曲がりくねっている道を進んでいきます。そうするうちに道は、右方向に直角に曲がりますが、ここが城跡への入口となります。ちなみに、その道を曲がらずにまっすぐ進み狭い道に入ると、城の北側の関門である「坂尾の土塁」に至ります。

山麓の駐車場
城跡に向かう林道
右に曲がると城跡、まっすぐ行くと坂尾の土塁
坂尾の土塁

不思議な巨石や外郭空堀を見学

城に向かう林道に戻ってみると、左側に道を半ば塞いでいる巨石が見えてきます。この石は「大黒石」と呼ばれていて、次のような面白い逸話が伝わっています。正福寺が徳蔵寺と争い、多勢に無勢で不利になっていたとき、山頂近くにあったこの巨石が突然転がってきたのです。そして、この細道で徳蔵寺方の僧兵たちを押しつぶし、撤退に追い込んだということです。それ以来、この石は大黒石と呼ばれるようになりますが、大黒様が担いでいる袋に似ているとか、山上にあった正福寺側に幸運をもたらしたという所から来ています(実際にはこの石は築城のはるか以前から存在しているようです)。

大黒石が見えてきました
通行には気を付けましょう

次には、左側に大きな堀切が見えます。これは全城域を囲む、外郭の空堀の一部です。つまり、ここは城の入口ということになります。そして、左側には丘陵が、右側には谷を越えたところにもう一つの丘陵がある道を進んでいきます。これらは皆、堡塁の跡であり、もし敵であったなら両側から攻撃を受けることになるでしょう。

外郭の空堀
林道の左側の丘陵には堡塁がありました
林道の右側の谷向こうにも堡塁跡があります

中腹にある千人溜と笠間百坊跡

ずっと進んでいってから右に曲がり、谷にかかる土橋を渡ると、中腹にある駐車場に到着します。ここは実際には千人溜と呼ばれる大きな曲輪(「的場丸」ともいいます)で、恐らくは駐屯地か兵舎のために使われていたと思われます。

右に曲がると千人溜、左側に百坊跡があります
百坊跡から見た千人溜
千人溜(中腹駐車場)

林道を渡った反対側には、正福寺の百坊跡があり、そこが寺が繁栄していた場所でした。しかし今では建物や構造物はなく、説明板と整地された土地に若干の墓地があるだけです。ここも城の堡塁の一つであったようにも見えます。

笠間百坊跡
僅かに墓地が残っています

大手門から本丸へ

全てのビジターは、千人溜からは食い違いの入口を通り過ぎて、中心部まで歩いていくことになります。しかし、頂上まで作業道が通じているので、大手門跡、部分的に残っている石垣などを見ながら、楽に登って行くことができます。

千人溜から先は皆歩きです
大手門跡
作業道を進めば本丸に着きます
途中に残る石垣

しかしここでも頂上に行く別の選択肢があって、荒れた小道となりますが、オリジナルの門跡を通って頂上に行く方法もあります。まず、大手門の石段を上がって、桝形を通り過ぎます。一旦は作業道に合流しますが、右側に別の石段を見つけていただくと、そこから小道に入っていけます。

城中心部の地図、赤破線はオリジナルの門跡を通るルート

大手門の階段を登ります
一旦作業道に合流します
作業道の右側に階段を見つけます

斜面に沿った道を渡っていくと、二の丸の脇を過ぎて、本丸門跡にたどり着きます。ここは大手門と同様の作りとなっています。どちらのルートを選んでも、同じ本丸に到着します。

斜面に沿った小道を進みます
前方が本丸、右側が二の丸
本丸門跡に着きます
大手門より桝形がはっきり残っています
井筒屋の模型では、赤丸が大手門、青丸が本丸門だと思います

「笠間城その3」に続きます。
「笠間城その1」に戻ります。

112.笠間城 その1

笠間市は、関東地方の北東部、茨城県の中央部に位置する地方都市です。この市は、笠間稲荷神社や笠間焼があることで知られていますが、これらが有名になる以前から笠間城によって栄えていた地域でした。

立地と歴史

謎多き武将、笠間時朝が築城

笠間市は、関東地方の北東部、茨城県の中央部に位置する地方都市です。この市は、笠間稲荷神社や笠間焼があることで知られていますが、これらが有名になる以前から笠間城によって栄えていた地域でした。

笠間市の範囲と城の位置

この城が最初はいつ誰によって築かれたのかは定かではありません。それに関して唯一残っている記録は、後の江戸時代に書かれた「笠間城紀」です。この書物によると、この城は関東地方の有力氏族、宇都宮氏の親族である笠間時朝(かさまときとも)によって鎌倉時代の1219年に築かれました。笠間城が築かれることになる佐白山(さしろやま)には、当初正福寺(しょうふくじ)がありました。この寺はこの山に「笠間百坊」と言われた伽藍を築くほど栄えていて、寺を守るために多くの僧兵も抱えていました。そうするうちに、徳蔵寺(とくぞうじ)という別の有力な寺と争いになり、劣勢に立たされました。そこで、正福寺側は宇都宮氏に助けを求めたのです。時朝がそのとき派遣され、徳蔵寺側を打ち破りました。ところが彼は、山から正福寺までも追い出し、笠間城を築いたというのです。

笠間つつじ公園から見た佐白山
山麓にある現在の正福寺
笠間百坊跡の標柱

しかし歴史家が他の断片的な記録を集めて検証したところ、時朝はそんなに過激な行動には出ていないのではないかということです。彼は単なる武士であっただけでなく、他の武士が滅多になれない中級貴族の位(従五位上)も持っていました。加えてかなりの教養人であり、歌人としても有名でした。そして、いくつもの仏像や経典を作って寺に寄進しています。これは、相当裕福で且つ宗教心がなければできないことです。総じて言うと、時朝は記録に残るよりもっと穏やかなやり方で城を築き、統治したのかもしれないのです。その結果、笠間氏は戦国時代までの300年以上もの間、城と周辺の地域を治めていました。そのときの城は、単純な山城で、土造りであったと考えられています。

時朝が地元の石寺に寄進した弥勒如来立像、笠間市ホームページより引用
時朝が仏像を寄進した京都の蓮華王院(三十三間堂) (licensed by Akonnchiroll via Wikimedia Commons)

蒲生郷成が城を大改修

そうした状況は、16世紀終わり頃の豊臣秀吉による天下統一のときに変わりました。笠間氏の勢力が衰え、宇都宮氏もまた、秀吉によって改易となってしまいます。笠間城は1598年に、蒲生氏の重臣である蒲生郷成(がもうさとなり)に引き継がれました。蒲生氏は、秀吉に長い間仕え、日本でも有数の大名となっていました。蒲生氏はまた、松坂城若松城などの城を築いたり、改修したりしていました。その際には、高石垣や天守など最新のアイテムを使っていました。当時の当主、蒲生秀行(ひでゆき)は宇都宮城を居城とし、笠間城は支城の一つという位置づけでした。郷成は、蒲生氏が使ってきた技術とリソースを用いて笠間城を改修しました。天守曲輪と呼ばれた、三段の石垣を伴う山頂部分には天守が築かれました。本丸と二の丸は山頂下に作られ、大手門からこれらの曲輪を経由し山頂に至る通路も整備されました。石垣はこの通路沿いにも築かれ、それぞれの門や曲輪は食い違いの虎口か、四角い防御空間を持つ桝形によって防御されていました。城主は、本丸にある御殿に住み、本丸にはいくつもの櫓も建てられました。

松坂城跡
若松城
笠間城の模型、かさま歴史交流館井筒屋にて展示

郷成は、日本中の大名が東軍と西軍に分かれて戦った1600年の天下分け目の戦いのときに、笠間城を更に改修しました。彼は東軍に加わったのですが、笠間城の東隣の水戸城にいた佐竹氏は西軍に属していました。そのため、郷成は佐竹氏からの侵攻を防ぐ必要があったのです。この状況下で郷成は、佐白山の周辺の3つの丘陵に堡塁を築き、更には城とそれらの堡塁全体を囲む深い空堀を築いたと考えられています。結果的には、後に徳川幕府となる東軍が勝利したため、笠間城には何事も起こりませんでした。

水戸城跡
上記模型にも全体を囲む空堀が表現されています
現地に残る空堀

浅野氏、牧野氏などが城を継承

幕府は1601年に、蒲生氏を他所に移しますが、それ以来、笠間城とその周辺地域は笠間藩となりました。しかし、その笠間藩主の家は8回も変わりました。城にとって重要な出来事が、1622年から1645年までの浅野氏が統治した期間に起こりました。浅野家の2代目当主、浅野長直(あさのながなお)が統治の利便を図るため山麓部分に下屋敷、その実態は新しい御殿を建設したのです。そのことに関するエピソードとして、この屋敷は広大で土塀が備わる土塁によって囲まれていました。そのことが幕府が禁じていた新城の建設のように見えたのです。幕府がそのことを聞きつけ調査に乗り出す前に、長直は城には見えないよう、土塀を生垣に取り換えさせたとのことです。彼は1645年に赤穂城に転封となりますが、そこでも城の大改修を行いました。城の建設が好きだったようです。その孫が、日本の歴史の中でも最も著名な出来事の一つ、赤穂事件を引き起こした浅野長矩(ながのり)です。

浅野長直肖像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
長直が築いた下屋敷跡
赤穂城跡

笠間藩を最後に統治したのは牧野氏で、1747年から1871年までの歴代の中では最も長く、最も安定した時代でした。笠間焼の産業は、この期間に藩の保護を受けて始まり、発展しました。更には、笠間稲荷神社も江戸時代に人気を博し、藩主が何度もここを参詣しました。

常陸国笠間之城絵図部分(正保城絵図の一つ)、出典:国立公文書館
笠間焼(笠間焼窯元共販センター内)
笠間稲荷神社拝殿 (licensed by On-chan via Wikimedia Commons)

「笠間城その2」に続きます。

60.赤穂城 その1

赤穂城は瀬戸内海に面した播磨国の西端、現在の兵庫県赤穂市にあった城でした。この城は、日本の最も有名な歴史イベントの一つ、赤穂事件の舞台の一つとなった場所です。また、赤穂は雨が少ない地域であり、塩田が開発されて以来、製塩業が盛んであることでも知られています。

立地と歴史

浅野長直が城を大改修

赤穂城は瀬戸内海に面した播磨国の西端、現在の兵庫県赤穂市にあった城でした。この城は、日本の最も有名な歴史イベントの一つ、赤穂事件の舞台の一つとなった場所です。また、赤穂は雨が少ない地域であり、塩田が開発されて以来、製塩業が盛んであることでも知られています。

播磨国の範囲と城の位置

1600年に赤穂城を最初に築いたのは、姫路城主であった池田輝政の弟、長政であり、彼らの支城という扱いでした。その後、1615年に池田氏の分家が独立し、赤穂藩が成立し赤穂城を居城としました。ところが、2代目の藩主が錯乱し殺人を犯した罪で、1645年に徳川幕府によって改易となってしまいました。初期の赤穂城の詳細はわかっていません。同年に城と藩を継いだ浅野長直(あさのながなお)が城の大改修を行い、今見られるような姿になったからです。彼は、広島城にいた浅野氏の分家の当主で、笠間城から転封となったのです。1615年に幕府が大坂城の豊臣氏を滅ぼし政権が安定してからは、城の大改修が認められるのは大変稀なことでした。

浅野長直肖像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
笠間城跡

その大改修は1648年から1661年までかかりました。城の縄張りは、軍学者の近藤正純と山鹿素行によって行われました。城の石垣のラインは巧みに曲げられて、どの方角にも射撃ができるようになっていました。本丸とそれを囲む二の丸が城の主要部で、背後の南方には海を控えていました。大手門があった三の丸が、主要部の北方に加えられました。これらの曲輪群は平地上にあり、水堀によって区切られていました。よって、この城は平城または海城に分類されています。本丸には、領主のための御殿と天守台石垣がありました。しかし、実際には天守台の上には天守は築かれませんでした。

赤穂城跡にある山鹿素行坐像
赤穂城本丸の石垣
赤穂城の縄張り図、現地説明板より
赤穂城の天守台石垣

浅野長矩が赤穂事件を起こし改易

赤穂事件は1701年に、長直の孫、浅野長矩(あさのながのり、官職名の内匠頭(たくみのかみ)としても知られています)が藩主だったときに起こりました。彼は、江戸城の御殿で将軍である徳川綱吉が勅使を接待する際の饗応役となっていて、吉良義央(きらよしひさ、上野介(こうずけのすけ))の指導を受けていました。3月14日、最も重要な儀式が行われようとしていた日に浅野は突然吉良の背後から切りかかり、殺そうとしましたが失敗しました。浅野は捕えられ、その日のうちに将軍に切腹を命じられました。御殿内での刃傷沙汰は厳しく禁止されていたからです。浅野家は約3百名の藩士ともっと多くの家族とともに改易となりました。一方、吉良はお構いなしとされました。浅野により傷つけられただけで、刀を抜かなかったからです。

浅野長矩像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

浅野が吉良に切りつけた理由はわかっていません。いくつかの記録によると、浅野は吉良に遺恨があったと話したということです。しかし、その死の前にそれが何なのかは話しませんでした。最近の研究によると、以下のように推測されます。そのとき、浅野は2度目の勅使饗応役を務めていました。浅野は地元の塩産業により豊かでしたが、吉良からの指導に対してそれ程の報酬は払わなくてよいと考えていた節があります。吉良は職務を果たすために多くの金銭が必要でしたが、手元不如意となっていました。彼は高家として身分は高かったのですが、領地の石高はそれ程でもなかったからです。これらのことが重なって、吉良が浅野に対して十分な指導を行わなかったり、公衆の面前で浅野を批判したことが考えられます。これが本当だとしても、このような深刻な事件を起こす動機となるのでしょうか。当時を含め、浅野は乱心したためにこの事件を起こしたのだと考えた人もいました。

刃傷事件があった江戸城本丸御殿跡
事件の現場、松の廊下の模型、江戸東京博物館にて展示  (licensed by Gryffindor via Wikimedia Commons)

お家再興の望みがなくなり討入を実行

赤穂藩の藩士たちは、事件の報せと幕府による赤穂城明け渡しの命令に接し、大変困惑しました。そして幕府の命令に従い開城するか、それとも反抗するか議論に明け暮れました。浅野に親しく仕えていた近臣たちにとっては幕府の決定は受け入れがたく、主君はそれなりの理由があって事を起こしたのだと信じていました。しかし、筆頭家老の大石良雄(おおいしよしお、内蔵助(くらのすけ))の決断により、4月12日に城は明け渡されます。彼は、藩が素直に命令に従えば、幕府が長矩の弟、大学に藩を継がせるのではないかと考えたのです。

大石良雄肖像画、赤穂大石神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

残念ながら、大石の希望はかないませんでした。幕府は大学を、広島城の浅野本家預かりとしたのです。大石は結局、強硬派の勢いに押される形で四十七士のリーダーとなり、旧暦1702年の12月14日に吉良の屋敷に討ち入り、吉良の首級を挙げたのでした。大石は現場に口上書を残していて、そこには「亡主の意趣を継」ぐと書かれています。四十七士は全員捕らわれの身となりましたが、その処分を巡っては幕府の首脳部の間で相当な議論となりました。ある者は彼ら浪人は法を犯して吉良の屋敷に押し入り、「無実」の吉良を殺したのだから厳罰に処すべしと主張しました。一方、彼らは真の忠臣であり、武士の鑑であると反論する者もいました。将軍綱吉の裁定は両者を折半するもので、四十七士に切腹を命じました。これは彼らの主君と同じでしたが、地位とその行為にしては寛大なものでした。

広島城
「忠臣蔵十一段目夜討之図」歌川国芳作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藩と城は森氏などが継承

赤穂城と赤穂藩はその後、永井氏と森氏に引き継がれました。とりわけ森氏は、1706年から1871年の廃藩置県までの長い間、その地を支配しました。赤穂の製塩業は繁栄を続け、塩田はまるで城を囲むような形で広がりました。一方で、森氏による赤穂藩は財政難に苦しみます。領地が浅野氏当時よりずっと少なかったからです。例えば、三の丸にあった旧大石家の屋敷が1729年に火災に遭ったのですが、再建されませんでした。それは恐らく、藩士の数が以前よりずっと少なかったためにその屋敷を再び使う必要がなかったためと思われます。

赤穂城跡

「赤穂城その2」に続きます。