156.鎌刃城 その1

先進的なシステムを持った山城

立地と歴史

近江国南北の境目の城

鎌刃城は、近江国(現在の滋賀県に当たります)にあった戦国時代の山城です。この城はこの国の中央部分にありましたが、当時この国は北部と南部に分けられていました。その結果、二つの戦国大名、南側は六角氏が、北側は浅井氏がこの国を治めていて、この城は双方から奪ったり奪われたりしていました。鎌刃城は、霊仙(りょうぜん)山の峰の一つ(標高384m)に築かれました。城の名の「鎌刃」は、両側が急崖になっているその峰の形から由来しています。この城は主要街道の一つ、中山道の近くにあり、戦の際にも移動する際にも便利な位置にありました。

近江国の範囲と鎌刃城の位置

城周辺の起伏地図

戦国時代の16世紀中盤、堀氏がこの城の城主でした。堀氏は、状況に応じてその主君を度々変えていました。一例として1553年に六角氏が鎌刃城を攻めたとき、堀氏は一旦逃亡して、結局は六角氏に降伏しその配下となりました。ところが、浅井氏が勢力を広げていると見ると浅井氏と同盟を結ぶことにしたのです。そして1570年に浅井氏が織田信長と戦ったときには、その当時の当主であった堀秀村は、信長の部下でその後天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉の説得により、今度は信長の味方となりました。これは、境目の城の城主としての運命だったのかもしれません。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城主、堀秀村の過酷な運命

秀村が秀吉との共闘を始めてから、浅井氏は最後には滅亡しました。それだけでなく、1571年に鎌刃城が浅井氏に攻められたときには、秀吉は城を守る秀村を助けたりしました。そして、1573年には信長、秀吉、秀村は小谷城(浅井氏の本拠地)を攻め落としたのです。ところが、その成功のわずか1年後の1574年、秀村は家臣の落ち度により、信長から改易されてしまいます。改易の本当の理由については、今でもわかっていません。しかし、信長の苛烈な性格から来ていることは想像できます。歴史家の中には、パワーバランスの不均衡を指摘する人もいます。すなわち、秀村は信長との同盟により増々力をつけていました。そして、当時信長の重要な部下であった秀吉よりも領土を広げていました。信長は秀村による反乱を恐れたかもしれず、単に秀村から領地を取り上げたかったのかもしれません。中国のことわざ「狡兎(こうと)死 しして走狗(そうく)烹(に)らる」に言われているような、秀村にとっては過酷な運命でした。歴史家によれば、最後には秀村は秀吉や秀吉の弟、秀長に仕えたようです。

小谷城跡
豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

独自に発展した鎌刃城のシステム

鎌刃城は、1575年についに廃城となりました。歴史家は、この城は土造りで(後の時代の)他の城より劣っているのではないかと考えていました。早い時期に廃城となったからです。ところが、最新の発掘の成果によると、鎌刃城は実際には、他の山城に比べてずっと進んだシステムを備えていたことが判明したのです。鎌刃城の北の曲輪群のところには、天守のような、少なくとも三重の大櫓があったのです。この櫓は、守備兵が攻撃してくる兵に対して矢を放つために使われたと考えられています。また、その前面には大堀切があり、攻撃兵がそこに釘付けになれば、櫓の守備兵からはちょうど標的になるようになっていました。多くの曲輪は石垣によって囲まれていました。更に、城の中心部分の主郭には「虎口」と呼ばれる、石垣や石段に囲まれた四角いスペースがある入口がありました。このような形式のシステムに似たものとして、1579年に信長が築いた安土城などが挙げられます。これらの発見を目の当たりにすると、鎌刃城は安土城よりかなり先駆けていたのではないかと思ってしまいます。

鎌刃城大櫓の想像図、鎌刃城公式サイトより引用
安土城想像図、岐阜城展示室より

一方で、鎌刃城と安土城の間には、いくつか違うところもあります。鎌刃城の大櫓は土塁の上に据えられていて、石垣の上には建っていません。ここの石垣は、崩壊を防ぐために土塁を支えているだけです。安土城の場合は、その天守は石垣の上に直接乗っていました。鎌刃城の虎口は、御殿の門として作られていて防御のためではありません。安土城以後の虎口は、複雑な通路と組み合わされて、防衛のための能力を持っていました。歴史家は、鎌刃城で使われたシステムは独自に発展したが、そのうちに安土城から始まる別のシステムに置き換えられたしまったと考えています。それでも、鎌刃城の大櫓のデザインは、その後他の城に築かれる天守に影響したかもしれません。それは、後に天守を含む大坂城を築くことになる秀吉が、鎌刃城の秀村と一緒に働いたときに、きっとこの大櫓を見ていたはずだからです。

鎌刃城の石垣
安土城の天守台石垣
鎌刃城の虎口
安土城黒金門の虎口

「鎌刃城その2」に続きます。

137.福井城 その1

越前国の中心地

立地と歴史

北ノ庄城としてスタート

福井城は、福井県の県庁所在地である現在の福井市にありました。この都市の名前は、この城に由来しているのです。しかし、この城はもとは北ノ庄城と名付けられていました(北ノ庄とは、北にある荘園といった意味でしょうか)。有力な戦国大名、織田信長の部将であった柴田勝家が1575年に最初にこの城を築きました。現在の福井県の一部にあたる越前国を征服したときでした。

城の位置

柴田勝家像(現地説明板より)

後に天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉が1583年にこの城を攻撃したとき、彼は書状にこの城には九層の天守があると記しました。しかし、本当に九層の天守だったかどうかは全く分かりません。当時の日本語では、九層という言葉は単に「多層である」ことを意味していたからです。勝家は不幸にも秀吉により倒されてしまい、北ノ庄城は燃やされ、破壊されてしまいました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初期北ノ庄城の想像図(現地説明板より)

結城秀康が大藩の藩主として再建

1601年、最終的に天下人となった徳川家康の息子、結城秀康が北ノ庄藩の創始者として北ノ庄城を再建しました。秀康は、家康の後継者となった徳川秀忠の兄でした。ところが、彼は秀吉の元に(実質的には人質として)送られ、後には結城氏の跡継ぎ養子となりました。この理由は、彼が父親である家康から愛されていなかったからとも言われています。それでも秀康は、その父親が徳川幕府の創始者となる契機となった、1600年に起こった関ヶ原の戦いで大いに貢献したのです。家康はついに秀康を受け入れ、幕府における重要な役割を任せたのです。秀康は、幕府そのものを除いて、日本で2番目に大きな領地を治めることとなり、その石高は75万石に及びました。彼はまた、将軍の親戚であることを表す「松平」という姓を使うことも許されました。越前国は幕府にとってとても重要な地点であり、日本の首都である京都に近く、最大の領地を持つ前田氏に隣接していました。

福井城跡にある結城秀康の彫像
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀康の父親、家康が北ノ庄城の一部の縄張りを行ったと言われています。本丸は城の中心部であり4層の天守と御殿があり、石垣と内堀に囲まれていました。二の丸、三の丸、外郭がその中心から同心円状に築かれました。これらの曲輪群は水堀によって隔てられていました。その結果、この城は4重場所によっては5重の水堀に囲まれることになったのです。この城には10基の櫓、40基の門が備わっていました。城の大きさは、約2km四方に達しました。

福井城本丸の想像図(現地説明板より)
現代の地図上に示した江戸時代の城の範囲(現地説明板より)

繁栄した越前松平氏

1604年に秀康が亡くなった後の1606年に城は完成しました。結城氏から改めた松平氏は、城と藩を江戸時代の終わりまで統治しました。その間、城と藩の名前は、第3代藩主の忠昌(ただまさ)によって「北ノ庄」から「福井」に改められました。天守は不幸にも1669年の火災により焼け落ちてしまいましたが、再建はされませんでした。第14代藩主の松平春嶽は、幕末と明治維新の頃、中央政府で活躍しました(幕府の政事総裁職、新政府の議定などを歴任)。

松平忠昌肖像画、福井市立郷土歴史博物館による展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平春嶽写真、福井市立郷土歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、秀康の子孫は大いに繁栄しました。秀康の息子たちから始まる分家の当主は江戸時代末までに、津山城松江城、前橋城、明石城の城主となりました。これらの分家は、福井城の城主を含めて、しばしば越前松平氏と呼ばれています。秀康の努力は、十分報われたと言えるのではないでしょうか。

津山城
松江城
明石城

「福井城その2」に続きます。

175.勝瑞城 その1

中世阿波国の中心地

立地と歴史

細川氏の守護所としてスタート

勝瑞城は、四国の阿波国(現在の徳島県)の中心地として14世紀中頃から16世紀後半まで栄えました。この城は、最初は足利幕府の重臣であった細川氏によって、この国の守護の公邸(守護所)として立ち上げられました。阿波国は肥沃な土地であり、日本の中心地であった京都にも近かったのです。また、この城は四国で一番の大河である吉野川沿いにあり、水上交通の便が良く、交易にも適していました。その結果、この城は細川氏の重要な拠点となったのです。

城の位置

三好氏の本拠地として発展

16世紀中頃、細川氏の配下であった三好長慶が細川氏に代わって権力を握りました。長慶は日本の中心地を支配するために京都の近くにあった飯盛城を居城とし、一方彼の弟である三好実休(じっきゅう)は勝瑞城に住んでいました。三好氏はもともとは阿波国出身でした。三好氏は、細川氏がそうだったように、勢力を保つためには、京都と阿波との間で緊密な連携を必要としました。例えば、兄の長慶が危機に陥ったときには、実休は阿波から大軍を率いて京都がある近畿地方で戦いました。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飯盛城跡
三好実休肖像画、妙國寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実休はまた、勝瑞城を拡張しました。この城は規模を拡大し、水堀に隔てられた幾つもの曲輪を持ち、そこには御殿(主殿、会所など)や枯山水の庭園がありました。発掘の結果、高価な中国製陶磁器が取り引きされ、宴会や闘鶏などの行事が頻繁に行われていたことがわかっています。この城は、自然の障壁として吉野川などに囲まれてはいましたが、城そのものには土塁などの防御のために必要な特別の構造物はありませんでした。それは、阿波国の政治が大変安定していたため、防御の必要がそれ程なかったからとも考えられます。城の水堀は、水位の調節や、貯水池としての役割があったものと思われます。このときまでは、この城は「勝瑞館」と呼ぶべきものだったかもしれません。恐らく城としての特徴的なものがなかったからです。

「勝瑞館」跡

長宗我部氏に攻略される

ところが、16世紀後半に長慶と実休が亡くなった後は、状況が変わりました。勝瑞城は、三好氏の力が弱まってくるにつれ、内輪もめや戦さに巻き込まれていきます。更には、土佐国(現在の高知県)の有力な戦国大名である長宗我部元親が、阿波国を手に入れようとしました。そこで三好氏は、そのとき日本の中心地を領有していた天下人の織田信長に助けを求めました。信長の部下で、後に信長の後継として天下人となる羽柴秀吉は、書状を送り、勝瑞はもっと防御を強化すべきだと述べています。三好氏は、勝瑞城を拡張し、高い土塁や深い水堀に囲まれた、戦さの際立てこもることができる詰めの部分を付け加えました。ここにおいて、ついに「勝瑞城」と呼べるべきものとなりました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「勝瑞城」跡

1582年に信長が突然本能寺の変で殺された後、三好氏は単独で長宗我部氏と戦わなければならなくなりました。同じ年、勝瑞城の南で、両者による中富川の戦いが起こりました。三好氏は残念ながら敗れてしまい、勝瑞城に一月近く籠城しました。しかし、三好氏は城から撤退し、長宗我部氏はついに勝瑞城を獲得したのです。城はただちに廃城となってしまいますが、それは恐らく戦いを乗り切るのは不十分とみなされたからでしょう。その後は、阿波国では一宮城のような山城が主流となりました。

一宮城跡

「勝瑞城その2」に続きます。