立地と歴史
瀬戸内海航路の案内役、村上水軍
能島城は、瀬戸内海の芸予諸島のうち、宮窪瀬戸と呼ばれる狭い海峡の真ん中に位置する能島にあった城です。この城は、芸予諸島で活躍した3つの村上水軍の一つ、能島村上氏によって築かれ使われていました。近代以前において、沿岸航海は主要な交通手段の一つでした。瀬戸内海は、最も重要な航路の一つであり、畿内と西日本をつないでいました。しかし、芸予諸島には数多くの島があり、その間の狭い海峡により、海流は急速かつ複雑となっています。例えば来島海峡では、海流の向きとスピードは、主に月の引力により頻繁に変わります。ここを通る船は今でも海上交通センターの指示や信号に従って航行する必要があります。
城の位置中世において瀬戸内海のような海を航行する際には、優秀な水夫や水先案内人が必要とされました。更には、当時は単独で航行すること自体が危険な行為になりかねませんでした。中央政権の警察力がまだ貧弱だったからです。それぞれの地方は、その地の領主か、場合によっては海賊ような者によって治められていたのです。また、当時の人たちは、他人の領地を通り過ぎる時には通行料を払うべきという感覚も持っていました。村上水軍もその地方領主の一部であったのですが、瀬戸内海を航行する船の安全を保証する存在として台頭しました。彼らについての最も早い記録として、1349年に能島村上氏が弓削島周辺の警備を行ったというものがあります。彼らの警備システムは次のようなものでした。警護料(基本的には積荷の10%だったと言われています)を支払った船に対しては安全な航路を案内する一方、支払わない船に対しては小早船(こばやぶね)と呼ばれる高速艇で追いかけ、海賊行為を働くというものでした。
能島村上氏の本拠地として築城
村上水軍はやがて、3つの氏族に分かれていきました。因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏です。彼らの勢力圏はそれぞれ、芸予諸島の北側、中間、南側に当たりました。能島は宮窪瀬戸にある小さな島で、北方の鵜島、南方の大島に挟まれた場所にありました。宮窪瀬戸は、瀬戸内海を通る最も最短のルートの一つの途中にあったのです。ところが、その地点の海流のスピードは最大で10ノットに及び、絶えず変化しています。また、能島周辺の海は浅瀬で渦を巻いていて、不慣れな船は制御不能に陥ってしまいます。水軍のメンバーにとっては能島は、彼らが普段暮らしていた大島から約300m沖合にあって、大声で連絡が取りあえる範囲内でした。緊急事態が発生したときにも、お互いに助け合う態勢が取りやすくなっていたのです。能島の頂部からは海峡の全体を見渡すことができ、大島にある山の上で焚かれた烽火や、大島の山あいを超えて四国までも見通すことができました。能島村上氏の本拠地としてうってつけの場所だったのです。
能島城は、14世紀から16世紀の間に存在していました。島は整地され、その上にはいくつもの曲輪や建物が築かれました。水軍の兵士はそこに住むか、あるいは駐屯していて、海峡を防御していただけでなく、交易や漁業にも従事していました。城を防衛する仕組みは少なく、島の側面に人工的に切岸が設けられた程度でした。島を囲む海そのものが障壁となっていたからです。代わりに、島の海岸には船着き場、荷上場、メンテナンス場などが設けられました。一方で、島には水、食料、その他必要な資材は一切なかったため、他の島から運び込む必要がありました。
「日本最大の海賊」となる
村上水軍はまた、他の戦国大名を支援して戦いに参加することもありました。能島村上氏の場合は、近くの中国地方で最大の戦国大名であった毛利氏の支族、小早川氏と友好関係を築いていました。シビアな戦国時代を生き残るためには、強力な村上水軍の力が必要とされたのです。大友氏などの他の戦国大名も、能島村上氏に味方になるよう働きかけました。そして能島村上氏が一時、大友氏側に乗り換えたことがあったのですが、小早川氏は自身の水軍によって能島城を攻撃、包囲して、城への補給を断つ作戦に出ました。そのことで能島村上氏は、小早川氏側に再び戻ってきたという事件もありました。
能島村上氏の力は16世紀後半、村上武吉(むらかみたけよし)が当主のときにピークに達しました。彼の水軍が参加した中で最も有名な戦いといえば、1576年に毛利氏と織田氏との間で起きた第一次木津川口の戦いでしょう。この戦いでは、武吉の水軍(武吉の弟によって率いられていました)も加わった毛利水軍が、石山本願寺(現在の大坂城)に兵糧を運び込もうとしますが、織田水軍に妨害されていました。村上水軍は、焙烙(ほうろく)と呼ばれた爆弾を織田軍の船に投げ入れ、爆発させ沈めたのです。水軍による補給作戦は成功しました。1586年、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは瀬戸内海を航行中に能島城に立ち寄りました。フロイスは著書「日本史」の中で「彼らは日本最大の海賊である」と述べています。フロイス一行は過所船旗(かしょせんき)と呼ばれる通行許可証をもらい受け、それによって広範囲の安全な航海を保証されたのです。
水軍と城の突然の終焉
3つの村上水軍家は、基本的にはお互いに協調していましたが、やがて違う道を歩むことになります。来島村上氏は、後に天下人となる羽柴秀吉の勧誘により、織田氏側に付きました。これにより、武吉は来島村上氏の領土を占領しました。ところが、これが彼にとっての不幸につながります。やがて秀吉による天下統一が進んでいくと、武吉は秀吉から来島村上氏への領土返還を要求されました。武吉は村上一族の独立維持ということを願っていたようなのですが、それも叶わなくなります。能島村上氏のその時の主君であった小早川氏が秀吉によって九州地方に転封となったとき、武吉も能島城を含む、全て領地から離れなければならなくなったのです。