108.鶴ヶ岡城 その3

一部残っている藩校致道館の建物にも行ってみて下さい。東北地方では唯一現存している藩校の建物です。二つの門、聖廟、講堂、そして藩主の訪問時に使われた「御入りの間」が残っています。

特徴、見どころ

藩校致道館

また、致道博物館とは反対側の三の丸にある、一部残っている藩校致道館の建物にも行ってみて下さい。東北地方では唯一現存している藩校の建物です。二つの門、聖廟、講堂、そして藩主の訪問時に使われた「御入りの間」が残っています。

城周辺の航空写真

致道館の表御門
聖廟
講堂
御入りの間

建物の中は、藩校や藩の歴史についての展示も行っています。今はなくなってしまった他の建物跡は、屋外に平面展示されています。明治維新のときの、庄内藩の新政府軍への降伏式はここで行われました。また、この藩校があった範囲は、1951年以来、国の史跡に指定されています。

講堂内の展示
藩主のための御居間
屋外にある平面展示

その後

庄内藩は戦いに敗れましたが、その領地を維持することを認められました。一方、同盟を結んでいた会津藩は、狭く貧しい土地に移動させられていました。この大きな差は、新政府のリーダー、西郷隆盛が庄内藩に対して寛容を示したからだとされています。しかし、庄内藩はその代償として新政府に対し、主には本間家から用立てされた莫大な献金をしなければならなかった一面もあります。それでもそれ以来、庄内の人たちは西郷を大いに尊敬し、前藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)など藩の首脳たちは西郷の許を訪れ、交流を重ねました。1878年に西郷が政府に反乱を起こしたとき(西南戦争)、庄内の2人の士族が西郷とともに戦い、命を落としました(もっと多くの庄内人も加わろうとしましたが、周りに引き留められたそうです)。西郷が敗れた後も、庄内の人たちは彼を敬愛し続け、1890年には西郷の教えをまとめた「南洲翁遺訓」を出版しました。

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
酒井忠篤 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鶴ヶ岡城に関しては、1871年に廃城となり、1876年には城の全ての建物が撤去され鶴岡公園となりました。しかし、地元の人たちは、現在見られるようなそれぞれの時代に応じたやり方で、城跡の維持に最善を尽くしています。

鶴岡公園

私の感想

鶴ヶ岡城跡を訪れたとき、現地にある3つの博物館でその歴史を学ぶことができました。そして、それぞれの博物館には特徴があったように思います。致道博物館では、隠居所に城についての展示が多くありました。大宝館では郷土の偉人についての展示が、藩校の致道館では藩の歴史についての展示がありました。短時間で多くのことを学ぶことができましたし、地元の人たちの文化や歴史を次世代に伝えていこうとする熱意も感じることができました。また、鶴岡市と鶴ヶ岡城と両輪の関係にあった酒田市や亀ヶ岡城跡にも行ってみたいと思っています。

致道博物館の隠居所入口
大宝館入口
致道館講堂入口

ここに行くには

車で行く場合:山形自動車道の鶴岡ICから約10分かかります。公園の周りに駐車場がいくつもあります。
公共交通機関を使う場合は、鶴岡駅から湯野浜温泉行の庄内交通バスに乗って、市役所前バス停で降りてください。
東京から鶴岡駅まで:上越新幹線に乗って、新潟駅で特急いなほ号に乗り替えてください。

公園東入口にある駐車場

リンク、参考情報

鶴岡公園(鶴ヶ岡城址)の紹介、鶴岡市
・「シリーズ藩物語 庄内藩/本間勝善著」現代書館
・「藩祖・酒井忠勝 展示解説書」致道博物館
・「よみがえる日本の城17」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「鶴ヶ岡城その1」に戻ります。
「鶴ヶ岡城その2」に戻ります。

108.鶴ヶ岡城 その1

庄内藩藩祖の酒井忠勝は、鶴ヶ岡城と亀ヶ岡城のどちらが本拠地として相応しいか思案しました。彼の決断は鶴ヶ岡城でした。鶴ヶ岡は政治の中心地であり、亀ヶ岡は酒田港と町を擁する商業地であると考えたのです。

立地と歴史

政治の鶴ヶ岡、商業の酒田を擁した庄内藩

山形県の庄内地域は、庄内平野の穀倉地帯にあり、そこで産するコメは庄内米として知られています。そこには鶴岡市と酒田市という2つの中核都市があります。江戸時代にこの地域が庄内藩によって治められていた時には、その役目を分かち合っていました。鶴岡は政治都市であり、酒田市は商業都市であったのです。鶴ヶ岡城は現在の鶴岡市にあって、藩の本拠地であり、藩主は酒井氏でした。

鶴岡市・酒田市の範囲と城の位置

この城はもともと大宝寺城と呼ばれていて、中世初期に地元領主の武藤氏によって最初に築かれたとされています。ただし、武藤氏が築いたいくつもの城の一つであり、まだ小規模な城でした。時が過ぎ戦国時代の16世紀後半になってくると、庄内地域は、上杉氏や最上氏のような地域外の有力戦国大名によって狙われるようになります。これらの大名がこの地域を巡って争う一方、武藤氏の勢力は衰えました。大宝寺城と、現在の酒田市にあった東禅寺城は、戦国大名たちによって度々改修されます。17世紀の初頭、徳川家康によって江戸幕府が設立されたとき、庄内地域は山形城を本拠とする最上義光の領地となっていました。彼は、大宝寺城を鶴ヶ岡城と、東禅寺城を亀ヶ岡城と改名しました。鶴と亀(と松)は日本人にとっておめでたい言葉であり、人間よりもずっと長生きすると信じられていました。義光は、東禅寺城近くの海岸で大亀が見つかったことを聞き、城の改名を行ったのです。しかし義光が亡くなった後、最上家ではお家騒動が起こり、1622年に幕府により改易となってしまいました。

長谷堂合戦図屏風に描かれた最上義光 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
山形城跡

最上氏の領地はいくつかの大名に宛がわれ、その一部であった庄内地域は酒井忠勝に与えられ、忠勝は庄内藩初代藩主となりました。彼は、徳川四天王の一人として知られる酒井忠次の孫でした。そのため酒井氏は代々将軍家の重臣となり、幕府に対する忠誠心も高かったのです。忠勝は、鶴ヶ岡城と亀ヶ岡城のどちらが本拠地として相応しいか思案しました。防御力の観点からは、亀ヶ岡城が優れていました。しかし、彼の決断は鶴ヶ岡城でした。鶴ヶ岡は政治の中心地であり、亀ヶ岡は酒田港と町を擁する商業地であると考えたのです。

酒井忠勝肖像画、致道博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もともと鶴ヶ岡城には、本丸と二の丸しかなく、土造りで簡素な館があるだけでした。そして平地にあって二重の水堀によって囲まれていました。それでは酒井氏の本拠地としては手狭であり、戦いが起こったときの防御も不足していました。よって、忠勝は城の改修を始め、外側に大きな三の丸を築いたり、城下町を整備しました。本丸には藩主のための御殿も建設されました。本丸と二の丸には都合5つの出入り口があり、徳川氏やその家臣たちがよく築いていた桝形や馬出しによって防御されていました。桝形とは門の中に設けられた四角い防御のためのスペースのことで、馬出しとは門から突き出た丸い形の小曲輪のことです。一方、城にはほとんど石垣は用いられずほぼ土造りのままであり、天守も築かれなかったので、徳川関係の他の城とは違う面もありました。本丸の角に二階建ての櫓が建てられ、天守の代用とされました。総じていうと、この城は、この地域の遺産と徳川方式の折衷のようなものと言えるでしょう。

現地説明板にある城の復元図(丸部分を付加)、赤丸内は馬出し、青丸内は桝形
同じ方角(東)から見た城の模型、致道博物館にて展示
西方向から見た上記模型の本丸部分、赤丸内は天守代用の角櫓

藩政の停滞と改革

庄内藩の初期の統治は、実は不安定でした。忠勝の年貢の取り立て方針は厳しいものでした。より多くの収益を得て、幕府に貢献しようと考えたからです。ところが、庄内地域を含む東北地方は度々冷害、干ばつ、洪水による不作に見舞われました。このような変動が起こる状況にも関わらず、藩は農民に対し、毎年同じ年貢量を納めるよう要求しました(いわゆる定免法)。その結果、多くの農民たちが逃亡したり、多額の借金を背負ったり、身売りする者も出る有り様で、地域は荒廃しました。そうした状況が18世紀後半になって、酒田の豪商、本間光丘(ほんまみつおか)によって救われました。当時は幕府の鎖国方針により、遠洋航海が禁止されていました。よって、沿岸航海が交通の主要な手段となっていたのです。酒田港は、その航路の主要な寄港地となっていて、酒田の町と商人は豊かになっていました。そのため、藩は光丘に藩の財政問題の解決を依頼したのです。光丘は莫大な運上金を納めるだけでなく、藩の財政改革の責任者にもなりました。藩も農民に対する対応を柔軟に行うようになりました。藩はまた、藩士の教育のために1805年に致道館(ちどうかん)という藩校を設立しました。状況は徐々に改善し、藩内も結束していきました。

当時の交易に使われた弁才船(千石船)の模型、致道博物館にて展示
江戸時代に使われていた「致道館」の額、致道館講堂にて展示

幕末に現れた改革の成果

改革の成果は、1840年に幕府が庄内藩に領地替えを命じ、川越藩から松平氏が転封することになった時に現れました。農民たちを含む庄内藩の人々は、幕府の決定に対する反対運動を起こしました。彼らは、酒井の殿様と一緒にいたいと幕府に訴えたのです。実際にはこの運動は、移動したくない一部の武士たちが、次に来る殿様は非常にきびしいぞとけしかけたことで始まったとも言われています。その結果、その決定は反故にされました(その代償として本間氏頼みで幕府に多額の献金を行ったという一面もあります)。江戸時代を通じても大変稀な事例です。

領地替えが撤回され民衆が祝賀のために大手門に押し寄せた場面、致道館講堂にて展示

1868年に明治維新となり、幕府が崩壊し新政府が樹立されたとき、庄内藩を含ふ東北諸藩は、新政府に対抗して同盟を結びました(奥羽越列藩同盟)。庄内藩では、重臣の酒井玄蕃(さかいげんば)によって、武士・農民・商人までをも含む強力な軍隊が組織されました。また、本間家が最新の外国製武器を輸入し、提供していました。玄蕃の軍勢は、新政府軍を撃退し、新政府側についた他の藩(新庄藩、秋田藩)にまで攻め込むほどでした。ところが、同盟していた藩は全て新政府にやられるか降伏してしまい、庄内藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)もまた降伏を決断せざると得ませんでした。藩の軍勢と鶴ヶ岡城は健在でした。

酒井玄蕃、明治初め頃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「鶴ヶ岡城その2」に続きます。