118.忍城 その3

忍城周辺のお勧めスポット

特徴、見どころ

石田堤

石田堤周辺の地図

城の近くにある、忍城の戦いに関する歴史スポットにも行かれてはいかがでしょうか。一つは石田堤跡で、忍城跡から南東に約4km離れたところにあります。その戦いのときに石田三成が築いた28kmあったとも言われる堤のうち、一部分の300m近くが残っています。

堤沿いにある「石田堤歴史の広場」
江戸時代末に建てられた石田堤碑

その堤は、北側を川に南側を道に沿っています。そして、上には松の木が植えられていて、古い街道であることを示しています。江戸時代には日光街道の脇街道として使われ、それ以前には中山道そのものであったとも言われています。

堤の北側にある川
南側の街道と堤上にある松並木

現存する堤の端にあって、川にかかっている堀切橋は、忍城の守備兵が三成に対抗するため、堤を切って中の水を溢れさせた場所とも伝わっています。

堀切橋

さきたま古墳群

もう一つのお勧めのスポットは、忍城よりずっと早い5世紀から7世紀にかけて築かれた「さきたま古墳群」です。しかし、忍城と関係しているものがあります。丸墓山古墳は古墳群の一つで、円墳としては日本最大であり、高さ17m、直径は105mあります。忍城の戦いが起こったとき、三成はここに本陣を置き、堤の工事を指揮しました。実際、この古墳の頂上からは再建された忍城の三階櫓の上層部分を遠くに眺めることができます。三成にとっては、水攻めの状況を見て取るのに格好の場所であったでしょう。古墳への参道もまた、石田堤の一部であったと言われています。

さきたま古墳群周辺の航空写真

丸墓山古墳
丸墓山古墳の頂上部分
丸墓山古墳から忍城方面の景色
忍城三階櫓をズームアップ
石田堤の一部と言われる丸墓山古墳への参道

更には、鉄砲山古墳は江戸時代末期の忍藩の歴史に関わっています。藩士たちは、この古墳の側面を加工して鉄砲の砲術訓練をしていました(「角場(かくば)と呼ばれていました)。江戸湾にある品川台場などでの防衛任務の準備をしていたと思われます。

鉄砲山古墳
鉄砲山古墳の平面図、現地説明版より、濃紺部分が角場

その後

明治維新後、忍城は廃城となり、水城であった部分は埋められて、近代的公園や建物がある場所に変わっていきました。これはこの都市を近代化するのに必要なことだったのでしょう。市の名前は、日本の伝統的な靴下である「足袋」を生産して栄えた地区の名前から、「行田」となりました。

行田足袋  (licensed by katorisi via Wikimedia Commons)
足袋の製造現場を再現した展示(行田市郷土博物館)
行田市に残る足袋倉

公園には一時球場がありましたが、城にかつてあった三階櫓のような外観を持つ行田市郷土博物館に置き替えられました。市の観光施設として、博物館周辺には鐘楼、門、塀なども復元されています。

1970年代の本丸周辺の航空写真

現在の本丸
行田市郷土博物館の入口

私の感想

忍城の戦いの結果は、1590年に秀吉が天下統一のために関東地方に侵攻したときの唯一の失敗と言われてきました。そしてそれは石田三成が愚かな武将だったからともされています。しかしその評価は、1600年の関ヶ原の戦いで三成が徳川家康に敗れたという結果から後付けされたものであって、正当とは言えません。三成は忍城の戦いにおける秀吉の命令の忠実な実行者であり、少なくとも城を包囲することには成功しているのです。仮に城の守備兵が成田長親ではなく、北条氏から派遣された代官に指揮されていたらどうだったでしょうか。三成にすぐに降伏していたかもしれません。忍城の戦いは、長親と三成ががっぷり四つに渡り合った名勝負だったのではないでしょうか。

成田氏の家紋、丸に三つ引き、行田市郷土博物館にて展示
堀切橋から見た石田堤

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の加須ICか羽生ICから約30分かかります。城跡周辺にいくつか駐車場があります。もし石田堤跡やさきたま古墳群にも行かれるのでしたら、車を使った方がよいでしょう。
公共交通機関を使う場合は、東武線の行田市駅から歩いて約15分かかります。
東京から行田市駅まで:上越新幹線に乗って、熊谷駅で東武線に乗り換えてください。

本丸跡の石碑がある行田市郷土博物館の駐車場

リンク、参考情報

忍城跡、行田市
・「よみがえる日本の城15」学研
・「天正十八年~関東の戦国から近世~」行田市郷土博物館
・「描かれた忍城」行田市郷土博物館

これで終わります。ありがとうございました。
「忍城その1」に戻ります。
「忍城その2」に戻ります。

118.忍城 その2

「忍城今昔地図」を使って本丸まで歩いてみましょう。

特徴、見どころ

ほとんどが市街地となっている城跡

現在、オリジナルの忍城に関するものはあまりありません。ほとんどの城の用地や堀は、市街地になっているからです。本丸を囲む土塁と堀の一部が残るか復元されていて、そこには天守のように見える三階櫓が再建されています。また、外堀の一部が本丸から少し離れた南の方に水城公園として残っています。他の堀は埋められ、他の曲輪は崩されて、近代的建物や交通の便をよくするための道路が建設されました。しかし、行田市が発行している「忍城今昔地図」を使えば、城の中心部分へ向かうオリジナルの道を辿っていくことができます。その途上には城の建物があったことを示す石碑がいくつもあって、過去であったらどこにいるのかわかるようになっています。

城周辺の航空写真

本丸にある土塁と水堀
水城公園
「忍城今昔地図」、水色部分がかつて水堀だった場所、現地説明版より
大手門があった場所
大手門があった場所を示す石碑
行田市郷土博物館にある城模型の大手門部分

大手門跡からスタート

例えば、大手門跡から本丸へオリジナルの道を通って行きたいとすると、城があった時代には堀を越えるとても細い通路を通って、島のような曲輪を5つも通り過ぎなければなりませんでした。そのオリジナルに近い現代の道を歩くことができますが、今では住宅地の中を通っていきます。

城周辺の地図、赤破線が大手門から本丸までのオリジナルに近いルート

一例を挙げると、忍城バスターミナルの歩道はその細い通路の痕跡の一つなのですが、周りの様子は信じられない程変わっています。

かつては堀を渡った細い道であったバスターミルの歩道
その先にある沼橋門跡の石碑
上記城模型の沼橋門の部分

また、道の途中にはオリジナルの三重櫓の石碑があるのですが、それによって三重櫓は元は、本丸に再建されたものとは別の場所にあったのだということがわかります。

三階櫓跡の石碑
上記城模型で、青丸内がオリジナルの三階櫓の場所、赤丸内が再建した三階櫓の場所

本丸と二の丸の過去と現在

実は本丸には、徳川幕府の創始者である徳川家康が、城の周りの沼沢地で狩りをした際に泊った御殿がありました。その後本丸は、江戸時代の間であっても土塁と内堀に囲まれているだけの空き地になっていました(中には木が茂っていたそうです)。本丸は今は、その再建された櫓を含む行田郷土博物館となっていて、城と市の歴史を展示しているのと、市のランドマークにもなっています。

上記模型の本丸部分
再建された三階櫓がある本丸

忍藩の藩主の御殿は本丸からひとつ隔たった二の丸にありました。そこは今では行田中学校になっています。

上記模型の二の丸部分
二の丸は中学校になっています

「忍城その3」に続きます。
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